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過去の礼拝説教

「弱い私を助けてくださる聖霊」

2016年05月15日 聖書:ローマの信徒への手紙 8:26~28

今朝は、ご一緒に、ペンテコステ礼拝を、献げています。

主イエスは、十字架にかかられ、三日目に復活されました。

復活された主イエスは、40日に亘って、何度も、弟子たちに現われて、神の国について教えられ、そして、天の父なる神様のもとに、昇って行かれました。

それから10日目に、すなわち、復活されてから50日目に、弟子たちに、聖霊が注がれて、教会が誕生しました。それが、ペンテコステと言われている出来事です。

ペンテコステとは、「50番目」という意味のギリシア語です。その日は、ユダヤ教の三大祭の一つ、五旬祭の日でもありました。それが、今年の教会暦では、今日に当たるのです。

今朝は、そのペンテコステの日に、弟子たちに注がれた、聖霊について、ご一緒に、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

「聖霊」は、「御霊」、或いは「神の霊」とも言われます。また、先ほど、読んでいただきました御言葉では、クォーテーションマーク(“ ”)で囲われた“霊”、という言葉で表されています。

私たちが、信じている神様は、三位一体の神様です。父なる神様、御子なる神様、つまりイエス・キリスト、そして聖霊なる神様。この三位一体の神様です。

先ほども、使徒信条において、三位一体の神様についての、信仰を告白しました。

「我は、聖霊を信じる」、と告白しました。聖霊は、神様です。信じる対象です。

ただ、何となく感じたり、頭で思い描いたりするような、お方ではありません。

しかし、この、聖霊なる神様を、的確に説明することは、簡単なことではありません。

「聖霊とは何ですか」とか、「聖霊なる神様とは、どのようなお方ですか」、と問われると、容易く答えることはできません。

主イエスは、この聖霊を説明されて、「風は、思いのままに吹く」、と言われました。

これは、聖霊は、風のように、どこから来て、どこに行くのか、分からない、ということを、言われたのです。実は、ギリシア語において、「風」と、「霊」とは、全く同じ言葉なのです。

ですから、主イエスは、聖霊とは、風のように、捕らえ難いものだ、と言われたのです。

そのようなお方を、的確に語るのは、困難です。いや、むしろ、人間の言葉で、捕らえることが、出来ないところに、聖霊の特質がある、と言っても良いと思います。

聖霊は、理解する対象ではなく、信じる対象なのです。

主イエスは、復活された後、天の父なる神様のもとに、昇って行かれました。

弟子たちは、この世に、取り残されました。しかし、主イエスは、言われました。

「私は、あなた方を、見捨てて、孤児にはしない。あなた方のために、私に代わる神が送られる。この方が、あなた方の助け主、また慰め主となってくださる。

このお方は、あなた方の心に働かれて、私のことを、すべて分からせてくださる。

私が語った福音の真理。私が成し遂げた救いの業。あなた方は、自分の力や、自分の知識では、それらを分かることができない。しかし、助け主なる聖霊が与えられた時に、初めて、それが分かるようになる。」

聖霊なる神様とは、私たち一人一人の、心に働かれて、主イエスのことや、主イエスが語られた福音の真理を、分からせてくださるお方だ、と言われたのです。

パウロは、コリントの信徒への手紙一で、「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです」、と語っています。

私たちは、信仰の旅路において、様々な困難や、試練に出会います。そんな時、私たちは、「イエス様は、本当に、救い主として、共にいてくださるのか」、と呟くことがあります。

しかし、聖霊は、どんな時でも、「イエスは主である」、と指し示すのです。

先ほど、讃美歌346番を、ご一緒に賛美いたしました。1節の歌詞は、こう歌っています。

「来たれ聖霊よ、信じる群れに、絶えず働きて 命をたまえ。主イエスのこころを こころとなして ゆたかなみ恵み、たたえよ、つねに」。

聖霊は、「信じる群れに、絶えず働いている」、とあります。そして、「主イエスのこころを こころとなして」、とあります。

聖霊が働かれるとき、主イエスの心を、私の心とすることが出来る。つまり、聖霊が働かれる時、主イエスの心が分かる、と歌っているのです。

聖霊は、絶えず、私たちの心の内に、働いてくださって、主イエスのことを、そして、その救いの御業を、分からせてくださるお方なのです。

ある人が、三位一体の神様について、こう言っています。「父、子、聖霊なる神。それは、上なる神、共なる神、内なる神、と言い表せるのではないか」。

父なる神様は、上なる神。御子イエス・キリストは、共なる神。そして聖霊は、内なる神、であるというのです。味わい深い言葉だと思います。

聖霊は、絶えず、私たちの内に働かれて、主イエスの御心を、分からせてくださる、助け主なる神なのです。

先程、ローマの信徒への手紙8章26~28節を、読んで頂きました。この短い御言葉は、聖霊の働きとは、どのようなものであるかを語っています。

26節は、こう言っています。「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」。

「私たちは弱い。しかし、その弱い私たちに、聖霊の助けがある」、というのです。

これがペンテコステの経験です。ペンテコステとは、弱かった弟子たちが、聖霊によって強められ、立ち上がった出来事なのです。

「弱いわたしたち」とあるのは、原文の通りに言いますと、「私たちの弱さ」です。

この「私たちの弱さ」は、私たちの信仰生活の中にも、入り込んでいます。

今朝の御言葉は、その弱さは、「どう祈るべきか知らない」、という仕方で、現われている、というのです。

皆さん、私たちは どう祈るべきかを、知っているでしょうか。

確かに、何ごともなく、平穏に過ごしている時には、祈っているかもしれません。

しかし、本当に悩んでいる時に、祈りを失っている、ということは、ないでしょうか。

大きな苦しみや、悩みの中で、祈りが挫けてしまう。そういうことがあると思います。

苦しみや悩みが、あまりにも大きい時、私たちの祈りは、言葉にならないのです。

ある人が、「苦しみや、悩みが、大きければ大きいほど、私たちの祈りは、短くなる」、と言っていますが、その通りだと思います。

世界中で祈られてきた、最も短い祈り。それは、「主よ、憐れみたまえ。キリエ・エレーソン」。この祈りではないでしょうか。苦しみや悩みが、あまりに大きい時、私たちは、「主よ、憐れみたまえ」としか、祈ることができません。いえ、この言葉さえも、祈れない時もあります。

16歳になった、最愛の一人娘が、交通事故に遭い、生死の境にあった時、母親は、手術室の前の廊下にうずくまり、必死になって祈りました。しかし、言葉が出てこないのです。

どう祈ったら良いか、分からないのです。ただひたすら、「主よ、助けてください。憐れみたまえ」、と叫び続けました。その内、その短い祈りさえも、出て来なくなり、声にならない声で、涙を流しつつ叫び続けました。

何時間もの、長い沈黙の祈りの末に、彼女の口から出てきたのは、「主よ、あんなに素晴らしい娘と、16年間も暮らせたことを、感謝します」、という祈りでした。素晴らしい祈りです。

しかし、このお母さんは、どうして、このような祈りが、発せられたのでしょうか。

手術室の前の廊下に、一人うずくまっていたのです。ですから、人に聞かせるため、祈った祈りではありません。

どう祈ったら良いか分からない。そのお母さんを、聖霊が、助けてくださったのです。

26節の、「助けてくださる」、という言葉は、聖書の他の箇所には、ほとんど出てこない、珍しい言葉です。小さな三つの言葉が、組み合わされて、造られた言葉です。

三つの言葉の最初は、「共に」という言葉です。二番目は、「代わって」という言葉。三番目は、「受け取る」という意味の言葉です。この三つの言葉の、合成語なのです。

26節には、続いて、「聖霊」が、「言葉にあらわせないうめき」をもって、「執り成してくださる」、と語られています。

聖霊が助けてくださる、というのは、聖霊が、私たちと「共にうめき」、私たちに「代わってうめき」、そして、私たちの苦しみを、受け取ってくださった、ということなのです。

祈ることさえできない、私たちと「共に」、私たちに「代って」、私たちの苦しみを、「受け取ってくださる」。それが、御霊の助けなのです。

このお母さんは、言葉にならない祈りの中で、この聖霊の助けを、頂いたのです。

娘さんは、長い手術の結果、助かりました。それは本当に、大きな喜びでした。

しかし、お母さんは、それと同時に、自分と「共に」、自分に「代って」、苦しみを「受け取ってくださった」、聖霊の助けも与えられたのです。その喜びをも、味わうことができたのです。

聖霊は、そのように、私たちの心に働きかけて、助けてくださる、内なる神様なのです。

続いて、パウロは、聖霊のもう一つの働きである、「執り成し」について語っています。

26節で、「執り成す」と訳された、ギリシア語は、とても珍しい言葉だそうです。

しかし、日本語の、「執り成す」という言葉も、なかなか味わい深い言葉です。

この言葉は、「取る」という言葉と、「見做す」という言葉から、なっているそうです。手に取ったものを、あたかも、他のものであるかのように、見做して扱う、という意味だそうです。

本当は、悪い者であるのに、悪くない者と見做して、赦してあげる。そういう意味が含まれているのです。

私たちは、本来、神様の前に、立つことすら、許されないような、罪深い者です。

その私たちが、聖霊の執り成しによって、神様の前に出ることを、許される。

汚れた者が、赦されて、義なる者と見做される。愛なき者が、愛に生きる者と見做される。

罪の子が、神の子と見做されるのです。それが、聖霊による「執り成し」です。

少し先の、34節には、キリスト・イエスが、神の右にあって、執り成してくださる、とあります。

共なる神である、主イエスが、内なる神である、聖霊と、一つとなって、力を合わせて、私たちのために、執り成しをしてくださるのです。

そのような執り成しを、幻の内に、体験した人がいます。女性牧師の小野寺その枝先生です。先生の説教から、引用させて頂きます。

『ある集会で、一人の人の、救いの証を聞いていた時、不思議な体験をしました。

ある場面が、頭の中にイメージされ、それが、まるで、目の前に見えるかのように、活き活きと示されたのです。

そこには、天の父なる神様と、私がいて、その間に、イエス様がおられました。

そして、イエス様が、父なる神様に、「この人の、すべての罪のために、私が十字架にかかりました。どうかお赦し下さい」と言って、頭を下げてくださっているのです。

そして、父なる神様が、「赦す」とおっしゃってくださった。洗礼を受けた時の感動が、よみがえってきました。

ところが、その次の瞬間、なぜか場面が変わって、イエス様の向こう側に、私が、かつて傷つけた人たちが立っているのです。そして、その人たちに、イエス様が、「私が、この人に代わって十字架にかかりましたから、この人が、あなたにしたことを、赦してください」と言って、頭を下げておられるのです。

私は驚きました。あぁ、イエス様が、私に代わって、謝ってくださっている。もう、イエス様の十字架によって、解決されているんだ。そう思うと、ホッとして、嬉しくて、肩の荷がすべて降りたような安心を得て、喜びがこみ上げてきました。

その時、今度は、十字架のイエス様が、私の方を向かれたのです。そして、イエス様の背後に、かつて私のことを傷つけ、私が赦せないと思っている人たちが、立っているのです。

そして、イエス様が、私に向かって、「あなたを傷つけた人たちに代わって、謝ります。辛かったでしょう。私が、十字架にかかりましたから、赦してください」、とおっしゃったのです。

私は、全身を貫かれたような、ショックを覚えて、「赦します。赦します。赦せない自分を赦してください」、と思わず叫びました。

「赦します」と言った時、それまで長い間、自分を縛っていたものから、解き放たれ、言いようのない平安の中に、自分が覆い包まれていくのを感じました。』

小野寺その枝先生だけではありません。私たちは、誰もが、このような執り成しを、受けているのです。私たちは、このような、執り成しによって、生かされているのです。

どう祈るべきかも知らず、救われたことを、十分に感謝することもない。そんな私たちのために、執り成すことは、容易いことではありません。

まして、聖霊は、一切を、知っておられます。私たち自身でさえ、気が付かないような、心の奥底にある、醜さ、汚れを、全てご存知です。

ですから、その執り成しは、うめきになるのです。言葉に言い表せない、切なるうめきにならざるを得ないのです。言葉になり得ないのです。

主イエスは、罪人の私たちを、執り成すために、十字架にかかってくださいました。それによって、私たちは、罪と死から、贖い出されました。

そうであるのに、私たちは、尚も、御心に背き、御心を悲しませています。そんな私たちのために、聖霊が、言葉に表せない、切なるうめきをもって、執り成してくださっているのです。

十字架の主イエスの、命懸けの執り成しと、私たちの内におられる、聖霊の、うめきの執り成しとがあるのです。この二つの執り成しによって、私たちは生かされているのです。

この恵みを言い換えて、28節はこう言っています。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

原文では、「わたしたちは知っています」、という言葉が、一番初めに書かれています。

「わたしたちは知っています」。この言葉は、26節の、「どう祈るべきか、知りません」、という言葉と、対比されています。

どう祈るべきかも知らない、弱い私たちなのです。そんな私たちに、万事が益となるように共に働く。そのことを、私たちは知っている、というのです。

私たちの人生に起こる、すべてのことが、結局は、善い意味を持つことになる。

御言葉は、そう言っています。これは、一つ一つの出来事について、今は、不幸な出来事に思えるけれども、いずれ、これこれ、こうなる筈だから、善いことなのだ。

そう言って、いちいち、根拠づけて、納得することではありません。

そうではなくて、これは、すべて、神様がなさることなのだから、善い意味を持っているのだ、と捉えることなのです。

私たちを、命懸けで愛していてくださる、神様のなさることなのだから、自分にとって、益になるのだ、と確信することなのです。

今、直ぐに、どのような益になるのか、確認できる訳ではありません。

ですから、これは、望みに関わることなのです。24節に、「わたしたちは、このような希望によって、救われているのです」、と書かれていました。

私たちは、すべてが益となることを、望み、確信するのです。それが、私たちの救いなのです。しかし、望むだけでは、何とも、心もとない、と思われる方も、おられるでしょう。

御言葉は、その希望の根拠を、この先の、31節、32節で示しています。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

ここに、私たちの、望みの根拠が、語られています。私たちの信じる神様とは、どのようなお方か、ということが、はっきりと語られています。

私たちのために、独り子をも、惜しまずに、十字架にかけられたお方。そのお方が、私たちの神様なのです。

このお方が、御子と一緒に、すべてのものを、私たちにくださる、というのです。

このお方が、私たちの味方として、共に働いてくださるのです。そして、私たちに、益をもたらせてくださるのです。苦しみや、悩みを、貫いて、万事を益としてくださるのです。

祈ることもできないような現実が、やがて善き実をもたらすことを、見させてくださるのです。

万事を益とする。それは、私たちが考えているような、益ではありません。

私たちが、救われる、ということです。私たちの救いにとって、益となるということです。

私たちの人生を、本当に、意味あるものとする。それが本当の益です。

私たちは、それを望み、確信するのです。最愛の独り子さえも、与えてくださった、神様の愛の故に、確信するのです。

教会は、この確信を、共にする者の群れです。皆が、この望みに生き、共に喜び合って生きる群れです。そのような群れに加えられていることを、心から感謝したいと思います。