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過去の礼拝説教

「御言葉と祈りをもって戦おう」

2016年06月19日 聖書:エフェソの信徒への手紙 6:10~24

以前、『魔女の宅急便』という、長編アニメが、ヒットしたことがありました。今でも、テレビで、時々、放映されています。そのアニメの主人公は、大変可愛い、良い子の、魔女でした。

今朝の御言葉には、魔女ではなく、悪魔が出てきます。しかし、ここに出てくる悪魔は、可愛い、良い子ではなく、恐ろしい存在です。

パウロは、エフェソの信徒への手紙の最後で、この悪魔と、戦うことを勧めています。

皆さんは、悪魔に対して、どのようなイメージを、持っておられるでしょうか。

昔からあるのは、黒いマントを覆って、赤いタイツをはき、とがった帽子をかぶり、長い尻尾を持っている。そんなイメージです。

でも、現代では、そんな悪魔のイメージを、現実のものとして、捉えている人は、ほとんどいないと思います。では、悪魔とは、どのような存在なのでしょうか。

一言で言えば、悪魔というのは、私たちを、神様から、引き離そうとする「力」です。

聖書では、悪魔のことを、サタンとも、言っています。

主イエスの御心を、理解することができない、ペトロに対して、主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは、神のことを思わず、人のことを思っている」、と言われました。

この主イエスの、お言葉を借りるなら、悪魔とは、私たちに、「神のことを思わせず、人のことを思わせようとする力」です。この力は、私たちの想像を、遥かに超える、激しい力です。

「信仰者は、罪と戦う」、というのであれば、よく分かります。けれども、「悪魔と戦う」と聞くと、如何にも古臭い、何か神話の世界のような、感じを持ちます。

しかし、私たちが、本当に、罪と戦った時。血を流すまでして、罪と戦った時。私たちは、この罪の力のしぶとさに、底知れない恐れを、覚えると思います。

その時、この罪の力は、一体どこから来たのか。とても、この世のものとは思えない。

そのような思いに、捕らわれるのではないでしょうか。

悪魔から来た、としか思えない。そのように、感じるのではないかと思います。

私たちの信仰の戦いは、そのような、恐ろしい力との、戦いなのです。

「悪魔の策略」、と書かれていますが、この策略という言葉は、原語では、複数形となっています。悪魔の策略は、一つではないのです。色々な形で攻めてくるのです。

ある英語の聖書は、この「策略」という言葉を、「トリック」と訳しています。手品のトリックのように、手を変え、品を変えて、私たちに挑んでくるのです。

ペトロの手紙一の5章8節はこう言っています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。

ここでは悪魔は、獲物を食い尽くそうとする、獅子のように、襲ってくる、と書かれています。

見るからに、恐ろしい存在としての、悪魔の姿が、示されています。

ところが、コリントの信徒への手紙二の11章14節には、全く違った、悪魔の姿が書かれています。「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。」

一方で、吠えたける獅子のように、襲いかかって来る悪魔ですが、また、時には、光の天使を、装ってくることもある、というのです。

優しくて、如何にも相手のことを、心配している。そんな風を装って、近づいてくることもあるのです。こういう悪魔の方が、手ごわいと思います。

「それ位しても大丈夫だよ。皆しているよ。あなた一人が、馬鹿正直な生き方をすることはないよ」。このように、悪魔は、優しく、語りかけて来ることが、多いのです。

C.S.ルイスという人が書いた、「悪魔の手紙」という本があります。この本の中で、悪魔の親分が、手下の小悪魔たちに、どうしたら人間を堕落させて、神様から引き離すことができるか、ということについて、色々と教えています。

その最も良い方法は、人間に甘い言葉を語りかけて、如何にもそれが、その人のためになるかのように思わせて、堕落の道に引きずり込むことである、と語られています。

作家の三浦綾子さんの夫の、三浦光世さんは、かつて綾子さんに、こう言ったそうです。

「綾子、気をつけなさい。悪魔は、悪魔の顔をしては来ないよ」。

もし悪魔が、初めから、悪魔の顔をして、近づいて来たら、人間はきっと警戒して、身構えるでしょう。そして、悪魔の誘いに、少しは抵抗すると思います。

しかし、蛇が、エバを誘惑したように、悪魔は、如何にも優しそうにやって来るのです。

聖書は、天地創造の出来事の直ぐ後の、人間の一番初めの行為として、この物語を記しています。このことは、悪魔による、罪への誘惑は、世界の初めから、今の今まで、ずっと続いている、ということを示しています。

12節にあるように、私たちの戦いは、血肉を相手にするものではありません。

血肉という言葉は、人間と言い換えても、良いと思います。目に見える人間が、相手ではないのです。裏で糸をひいている、黒幕と戦わなければならないのです。

この、悪魔という、黒幕との戦いは、そんなに、容易いものではありません。

私たちの力では、とても、太刀打ちできません。ですから、私たちは、神様の力を、求めていかなければ、ならないのです。10節の御言葉は、そのことを教えています。

「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」。

原文では、「強くなりなさい」、とは言っていません。「強くされなさい」、と言っているのです。受身で書かれているのです。強いのは、主であって、私たちではないのです。

信仰の戦いは、確かに、私たち自身の戦いです。しかし、実際には、私たちの力で、戦うのではなくて、私たちを通して、主が戦ってくださるのです。なぜなら、自分の力で勝てるような、戦いではないからです。

宗教改革者のマルティン・ルターは、ある時、幻の内に、サタンの試みを受けました。

サタンは、白い壁一面に、ルターが犯した罪を、洗いざらい、書き上げたそうです。

そこには、自分が忘れていた罪も、記されていました。ルターは驚き、恐れました。

しかし、ルターは、サタンに対して、こう言ったそうです。

「お前が示した罪は正しい。まったく私はそういう者だ。しかし、お前が見逃していることがある。それは、イエス・キリストの血によって、私の罪がすべて赦されたことだ。サタンよ、引き下がれ」。そう言って、インクを壁に投げつけたそうです。

信仰の戦いとは、ルターのように、主の恵みを、前面に押し立てて、戦う戦いなのです。

悪魔の目的は、ただ一つ。私たちを、神様から、引き離そうとすることです。

その力の強さを、誰よりも分かっておられたのは、主イエスです。

ですから、「私たちを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」、と毎日祈りなさい、と教えられたのです。

ここで、「試み」と訳された言葉は、「誘惑」とも訳せる言葉です。ですから、「私たちを誘惑に遭わせず、悪より救い出したまえ」、と祈っても、間違いではありません。

私は、この「主の祈り」を祈る時、いつも思うことがあります。それは、今、私は、自分一人で、祈っているのではない。主イエスが、共に祈ってくださっている、ということです。

荒野において、サタンの誘惑に、完全に勝利された、主イエスが、誘惑に陥らないようにと、私たちのために、祈ってくださっているのです。

主が、私たちのために、戦ってくださっているのです。

そうであれば、私たちは、戦ってくださる、主の道具、主の器に、成り切れば、良いのです。

ですから、「しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」、と書かれているのです。

11節から14節までに、「立つ」とか、「立って」という言葉が、3回も繰り返されています。

戦う時に、立つということは、当然のことです。座ったままでは、戦うことはできません。

しかし、ここで、わざわざ「立って」、と言っているのは、戦うための姿勢を、整えることの、大切さを、言っているのです。

樋口輝夫兄弟の、愛唱讃美歌は、以前の讃美歌一編の380番、『立てよ、いざ立て』です。

この讃美歌の3節は、こう歌っています。「立てよ、我が主の力により、神のよろいをかたくまとい、御霊の剣打ちかざして、おのが持ち場に勇み進め」。

この讃美歌のように、しっかりと姿勢を整えた上で、神の武具を、身に着けるのです。

14節以下に、六つの、神の武具が、書かれています。その内、五つが防御用の武具です。そして、一つが攻撃用です。

初めに、「真理を帯として腰に締め」なさい、と命じられています。

帯は、着物を、引き締めるものです。そのように、真理は、信仰生活を引き締め、まとめ上げるものです。この真理とは、一言で言えば、主イエスの、十字架と復活の福音です。

悪魔は、この真理を、何とか崩そうとして、教会に挑戦してきます。

ですから、教会は、いつの時代にも、この福音の真理を守るために、戦って来ました。

もし、この真理が崩されるなら、帯を失った信仰生活は、バラバラになってしまいます。

ですから、この福音の真理の帯を、しっかりと、身につけていることが、大切なのです。

二番目の武具は、正義の胸当てです。

この義は、人間の中にある、義ではありません。神様によって、与えられる義です。

主イエスの十字架の贖い、という恵みによって、一方的に与えられる義です。

尊い十字架の犠牲によって、罪あるままに、義とされたのだから、二度と悪魔の手先にはならない。この決意を、胸に秘めて、悪魔と戦うのです。

腰と胸が守られたら、次は足です。しかし、何のために、足を武装するのでしょうか。

一つには、もちろん、しっかりと立つためです。でも、それだけではありません。

福音を宣べ伝えて歩く。そのための足を、守るのです。

ローマの信徒への手紙10章15節に、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてある通りです。平和の福音を、告げるために、履物を履いて、準備するのです。

真理と、正義と、平和の福音と、揃いました。胸から足までの、守りは出来ました。

しかし、16節では、「なおその上に、信仰を盾として取りなさい」、と命じられています。

この当時、盾には、2種類ありました。一つは、小さくて、片手で振りかざすことができるような盾です。もう一つは、全身がすっぽり隠れるような、大きな盾です。

ここに出ている盾は、この大盾です。腰、胸、足に武具を付けましたが、その全部を覆うようなものとして、大きな、信仰の盾を、取りなさい、と言っているのです。

その、信仰の盾をもって、悪い者の放つ火の矢を、ことごとく消すことができる、とあります。

次々に、解き放たれる、悪魔の火の矢から、身を守るためには、全身がすっぽりと覆い包まれるような、大きな盾でなければならないのです。

信仰の盾、と言いますが、私たちの信仰そのものに、大きな力があるのではありません。

そうではなくて、その信仰を与えてくださった、神様に力があるのです。私たちを守ってくれる盾とは、まさに、神様ご自身のことであるのです。

ですから、神様の、慈しみの御翼に、すっぽりと、覆い包まれて、身を守っていくのです。

さて、五番目の武具として、「救いの兜」が出てきます。身を守る武具の最後に、兜が出てきたのは、最も大切な頭、つまり脳を、守るからです。

御言葉は、その兜とは、救いである、と言っています。私たちにとって、最も大切な頭脳、つまり、私たちの、すべての思いや考えが、主イエスの救いによって、覆われている。

それが、私たちの、生き方を、決定するのです。その救いの兜に守られて、信仰の戦いを、戦い抜くのです。

そして、最後に挙げられているのが、「霊の剣、すなわち神の言葉」です。

これだけが、攻撃用の武具です。悪魔に立ち向かい、悪魔を撃退するのに、最も有効な、そして、唯一の武具は、御霊の剣です。つまり、神の言葉です。

主イエスご自身も、荒れ野において、悪魔の試みに会われたとき、聖書の御言葉をもって、悪魔を退けられました。そのように、私たちも、神の言葉を持って、悪魔に反撃するのです。ルターは、「たった一つの御言葉が、悪魔を押し倒すことができる」、と言っています。

たった一つの御言葉でも、サタンの誘惑を退けることができる。それが御霊の剣の力です。

この、たった一つの御言葉の力を、私も、体験したことがあります。

私が、高校生の頃でした。子供の頃から教えられてきた、素朴な信仰に行き詰まり、もう信仰を、持ち続けられない、という思いに襲われました。今まで、疑問を持たずに、守ってきた信仰。それが、揺らぎ始め、果たして、自分に信仰があるのか、と疑うようになったのです。

その時、私を救ってくれたのが、マルコによる福音書9章24節の、この御言葉でした。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。これは、「どうか、息子の病気を、癒してください」と、主イエスに、お願いに来た父親が、追い詰められて、叫んだ言葉です。

「主よ、もしできますなら、助けてください」、と言った父親に対して、主イエスは、「もしできればと言うのか。信じる者には、何でもできる」、と答えられました。

あなたは、本当に、私を信じているのか、どうなのか。主イエスに、厳しく問い詰められた父親は、思わず、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」、と叫んだのです。

信じます、と言いながら、不信仰な私、と言っています。これは、矛盾した信仰告白です。

でも主イエスは、こんな矛盾した信仰を、受け入れてくださり、息子を癒してくださいました。

私の信仰も、この父親のように、矛盾した信仰なのだ。そして、主は、こんな信仰をも、受け入れてくださるのだ。そのことを示された私は、信仰に留まることができたのです。

「お前には、信仰などないのだから、さっさと捨てておしまい」、というサタンの誘惑を、退けることができたのです。そして、その後もずっと、この御言葉は、私を守り続けてくれました。

皆さんの中にも、そのような、一つの御言葉を、御霊の剣として用いて、サタンの誘惑を、退けられた方が、おられると思います。

さて、パウロは、14節~17節において、六つの神の武具について語りました。

これで、神の武具のすべてなのでしょうか。

実は、18節、19節で、パウロは、もう一つの、極めて強力な武具について語っています。

それは、祈りです。パウロは、こう言っています。

「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください」。

信仰の戦いに、勝利するように、すべての教会員のために、祈ってください。

そして、私にためにも、祈ってください、とパウロは言っています。

「祈り」こそ、サタンが、最も嫌がる、武器です。ですから、最近、「私はお祈りをしなくなった・・・」、ということがあったとしたら、それこそ、まさに、サタンの思う壺なのです。

教会は、お互いに、祈り合う者の群れです。パウロは、牢にあって、鎖に繋がれていました。しかし、同時に、多くの人々と、祈りの鎖によっても、結ばれていました。

多くの人々が、私のために祈ってくれている。その人たちと、一緒に戦っている。

これが、キリスト者の強みです。キリスト者の戦いは、決して孤独な戦いではないのです。

祈りによって結ばれ、共同戦線を張っているのです。

シマウマは弱い動物ですが、いつも集団で暮しています。そして、ライオンなどの強い動物が襲ってきた時には、円陣を組んで、頭を内側にし、足を外側に向けて、地面を蹴り上げ、砂埃を上げます。そうしますと、ライオンも、襲うことが出来ません。

しかし、怖じ気づいて、その円陣から、飛び出してしまったら、たちまち、ライオンの餌食になってしまいます。群れから離れてしまうと、強い敵に襲われてしまうのです。

教会も、そのような群れです。皆で、祈りの円陣を組んで、共に支え合って戦う時に、悪魔という、強い敵に、勝つことが出来るのです。

教会から離れて、一人だけで戦っても、勝利することは、出来ません。

皆が、主イエスの方に、頭を向け、悪魔に背を向けて、円陣を組んで、戦うのです。

一人として、群れから、離れてしまわないように、しっかりとスクラムを組み、祈り合い、支え合って、いくのです。愛によって、結ばれ、御言葉と、祈りをもって、戦う群れ。

茅ヶ崎恵泉教会が、そのような群れとなることを目指して、ご一緒に、歩んでまいりましょう。