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過去の礼拝説教

「この世にあるキリスト者の生き方」

2016年06月12日 聖書:エフェソの信徒への手紙 6:5~9

私の友人に、平穏無事な、サラリ―マン生活を終えて、引退した人がいます。

彼は、大手の生命保険会社に入社しました。入社当時は、自分のキャリアにおける、将来の夢や、出世に対する野心も、人並みに持っていました。

幸運にも、彼は、多くの人が憧れていた、営業の仕事に回され、夢を実現するためには、最高のスタートを切りました。

しかし、営業の現場では、毎晩のように、お酒の席での接待がありました。そして、日曜日にも、接待のゴルフや、様々な接客の仕事が、入ることもありました。

入社前から、既に、クリスチャンであった彼は、悩みました。そして、教会の牧師に相談しました。相談を受けた牧師は、こう言いました。

「お酒の接待や、日曜日のゴルフを、しなくても済む、仕事があるのではありませんか。」

彼は、この言葉を聞いて、深く考え、真剣に祈った後、営業の仕事から、内部の管理部門の仕事への、配置換えを願い出ました。

当然、周りの人たちは、驚きました。エリートコースの営業から、地味な管理部門への、配置換えを望む人など、いなかったからです。

彼は、総務や経理といった、地味な仕事を、まじめに務め上げ、定年退職しました。

周囲から見れば、彼は、出世から外れた、平凡なサラリーマン人生を歩んだ人、としか評価されないでしょう。

しかし、私は、彼の生き方の中に、とても尊いものを、見ています。与えられた地味な仕事を、まじめに務め、家族を愛し、教会を愛し、聖書の御言葉を大切にして、生きた人生。

私は、彼の、その生き方から、爽やかで、自由な生き方を、教えられたのです。

キリスト者は、社会にあって、どのように生きるべきか。これは、昔も今も、教会にとって、大きな課題です。

この世における、人の生き方には、大きく分けて、三通りあると思います。

第一は、この世にあって、この世に従う、生き方です。

つまり、この世の尺度に、合わせた生き方です。これは、殆どの人が、している生き方です。

しかし、これは、聖書が求めている、キリスト者の生き方ではないことは、直ぐ分かります。

第二は、この世から離れて、この世に従わない、という生き方です。

これは、修道院的な生き方です。このような生き方も、時としては、必要だと思います。

修養会などに、参加した場合が、そうです。世の雑踏から離れて、静かな環境で、祈りと御言葉に専念する。そのことを通して、薄れていた、信仰の原点に立ち返る。

たとえ一時的であっても、そのような時を持つことは、信仰をリフレッシュする上で、有益なことです。

しかし、この世から、ずっと離れっぱなしで、修道院で一生を過ごす、というような生き方は、プロテスタント信仰が、勧めている生き方ではありません

クリスチャンは、しばしば、この世の仕事を止めて、霊的な世界に逃げ込みたい、という誘惑に駆られます。

しかし、聖書は、キリスト者は、この世から、逃げてしまうのではなく、罪や汚れの渦巻く、この世の只中にあって、主を証しする、光りとして、輝くことを勧めています。

また、地の塩として、この世に奉仕していくことを、勧めています。

さて、第三の生き方は、この世にあって、主に従う生き方です。

これが、聖書が勧める、キリスト者の生き方です。この世にあって、この世に迎合せずに、主に従う生き方です。この世にあって、主のために生きる、生き方です。

その生き方を、今朝の御言葉は、奴隷と主人との関係を用いて、語っています。

それは、当時の社会で、最も一般的な人間関係が、奴隷と主人の関係だったからです。

当時、ローマ帝国全体で、6千万人もの、奴隷がいた、と伝えられています。

そして、殆どの仕事が、奴隷によってなされていました。奴隷は、決して、過酷な肉体労働だけに、従事していた訳ではありません。

高い技能や、知識を必要とする、重要な仕事も、奴隷に任されていたのです。医師や教師などの専門職や、文書の記録とか、財務を取り扱う仕事なども、奴隷が担当していました。

しかし、そうであっても、やはり、奴隷は奴隷でした。

法的には、奴隷は人間ではなくて、物でした。人格が、認められていなかったのです。

偉大な哲学者の、アリストテレスでさえ、「奴隷は、生きた道具である」、と言っています。

ですから、当然、奴隷には、自由はありませんでした。

しかし、聖書は、信仰を与えられた者は、自由になる、と言っています。

福音の恵みは、信じる者に、自由を与える、と宣言しています。

そのことを語っている、代表的な御言葉は、ガラテヤの信徒への手紙の5章1節です。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。

だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。

恐らく、この御言葉を、最も深く、心に留めていたのは、奴隷の信徒であったと思います。

当時、教会の中には、たくさんの奴隷の信徒がいました。

しかし、この人たちは、信仰を持ったからと言って、奴隷の身分から、解放された訳ではありません。相変わらず、奴隷のままでした。

それでは、どのような自由を、与えられたのでしょうか。

先ほどの、ガラテヤの信徒への手紙は、キリストによって救われた者は、既にもう、自由の身にされている、と言っています。

ということは、この御言葉は、社会的な身分のことを、言っているのではない、ということが分かります。

この御言葉が言っていること。それは、キリスト者の自由とは、「自ら進んで、服従することを、選び取ることが出来る自由」である、ということです。

宗教改革者のマルティン・ルターは、『キリスト者の自由』、という本の冒頭で、有名な、二つの命題を、掲げています。

その一つは、「キリスト者は、すべてのものの上に立つ、自由な君主であって、何人にも従属しない」、という言葉です。

もう一つは、「キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」、という言葉です。この二つの言葉は、本当の自由とは、どういうことかを、言い表しています。

聖書の御言葉が語り、そして、ルターが的確に要約した、キリスト者の自由。

それは、ここぞという時には、社会的な立場や身分に、縛られることなく、為すべきことを、しっかりとなしていく自由です。

この世の様々な圧力に、屈することなく、必要な時には、信じる所に従って、発言し、行動する自由です。この点においては、何人にも従属せず、まことの主人である、キリストのみに従属する、自由です。

しかし、それと同時に、必要であれば、自ら進んで、すべての人の僕となって、仕えることを、選び取ることができる。そういう自由です。

他者のために、喜んで自分の自由を、ささげることのできる自由です。

この自由は、主イエスが、十字架において、私たちに、示してくださった愛への、感謝と応答として、生まれてくるものです。

罪の縄目に、がんじがらめに、縛られていた者が、主イエスによって、救われ、解放された。この私を、罪から解放するために、主イエスは、十字架に、命を献げてくださった。

その主イエスは、この主人のためにも、十字架で死なれたのだ。この主人も、主イエスの、限りない愛の対象なのだ。主イエスは、この主人をも愛しておられる。そして、私に、どうか、この主人を、愛して欲しい、と願っておられる。

そのような思いに導かれた時、従うということは、それまでとは、違ったものになる筈です。服従といっても、ひたすら辛抱して、従うのではなくて、自分の自由な意志で、従うように、導かれていく筈です。

そして、その根底には、愛があります。愛を持って仕えるなら、それは、強制された服従ではなく、愛から生まれる、自発的な行為です。

自分の愛する者に従うのは、喜びであって、苦しみではない筈です。

服従ということとは、ちょっと違いますが、赤ちゃんに対する、お母さんの愛を、考えてみてください。赤ちゃんのために、お母さんは、本当によく尽くします。

ある意味では、赤ちゃんは、お母さんにとって、小さなご主人である、とも言えます。しかし、お母さんは、喜んで、赤ちゃんの、世話をしています。自ら進んで、世話をしています。

赤ちゃんの体重が増えれば、抱くのも大変になります。でもそのことを、喜んでいます。

重くなると、抱くのが大変だから、体重が増えないで欲しい。

そんなことを言う、お母さんはいません。こんなに重くなったのよ、と喜んで抱いています。

三浦綾子さんが、「愛とは重荷を感じないことだ」、と言いましたが、まさにその通りです。

奴隷も、主人を心から愛する時に、自発的に、その主人に服従することが、出来るようになる筈だ、と御言葉は言っているのです。

聖書が語っている、まことの自由とは、愛に基づく行為なのです。それは、主イエスから頂いた、恵みへの応答として、生まれてくるものなのです。

主が、この私を愛してくださり、受け入れてくださり、生かしてくださっている。だから、私も、他者を愛し、他者に仕え、他者と共に生きる。そういう生き方を、選び取っていく。

それが、キリスト者の、自由です。愛に基づく、自由な生き方なのです。

しかし、そのように、自由な心で、自発的に従う、ということは、それほど簡単なことではありません。それが出来る様になるためには、主人に従うことを通して、キリストに従っている、ということを、心から受け入れる必要があります。

パウロは、「キリストに従うように、肉による主人に従いなさい」、と言っています。

これは、奴隷だけではなく、私たちすべてについて、言えることです。

キリスト者とは、神様によって、この世から召し出され、新しく造り変えられて、改めて、この世へと遣わされていく者です。

私たちは、その神様の召しに応えて、それぞれ与えられた場において、与えられた務めを果たしていくのです。その務めが何であれ、召してくださったのは、主なのですから、最終的には、召してくださった、主に対して、責任を負っていくのです。

置かれた場所が、職場であれ、家庭であれ、どこであれ、最終的には、召してくださった、主に対して、責任があるのです。

ですから、表面的には、肉による主人に、仕えているようであっても、最終的には、その人を通して、主に仕えているのです。

奴隷も、主人に仕えることを通して、キリストに仕えるのです。

ですから、キリストに従うように、「恐れおののき、真心を込めて」、主人に従いなさい、とパウロは言っているのです。

更に、キリストに仕えているのであれば、私たちは、へつらう必要はありません。

また、うわべだけで仕えることも、出来なくなる筈です。

主は、すべてを知っておられるからです。そして、主が、すべてを益としてくださるからです。

すべてを益としてくださるお方には、私たちは、へつらいません。へつらう必要はありません。また、すべてをご存知である、主に仕えるなら、うわべだけで仕えても、無意味です。

旧約聖書サムエル記上の御言葉にあるように、「人はうわべを見るが、主は心を見られる」のです。心の奥底まで、見られるお方に対して、うわべを取り繕うのは、愚かなことです。

むしろ、「キリストの奴隷として、心から神の御心を行う」ことを、心掛けていかなければならないのです。

この世の主人に、仕えることを通して、神様の御心を行う。これは、「言うは易し」ですが、行うことは、まことに困難です。

この御言葉は、この世で、実際に働く人にとっては、大変厳しい、チャレンジの言葉です。

自分が仕えている上司、或いは、自分が属する組織が、明らかに、主の御心に、反することをしようしている。その時、キリスト者は、どうすべきか。

上司や、会社の命令に、従うのではなく、主の御心に従うように、恐れず、誠意を持って、働きかけていく。そうすべきことは、分かっています。しかし、これが、本当に難しいのです。

しかし、御言葉は、たとえ、そのために、自分が不利益を、こうむるようなことがあっても、主の御心に従うべきである、と教えています。

主は、必ず最善をなしてくださるから、結果は主に委ねて、御心を行いなさい。

建前ではなく、本音で、この言葉を実行することは、大変、難しいことです。

この御言葉に、どう応えていくか。それは、実社会で働いている、すべてのキリスト者に共通する、大きな課題であり、また悩みでもあると思います。

私も、36年間、実社会で働いてきましたが、この問題は、常に、私を悩ましてきました。

実際に、この御言葉に従おうとしたために、二度も解雇された、辛い経験をしています。

こんなことを言うと、いかにもカッコいいですが、実際には、いつも、そんなにカッコよかった訳ではありません。こうすべきだと、分かっていても、出来なくて、打ちひしがれたことの方が、ずっと多かったのです。

自分一人が、主に従おうと思っても、実社会では、なかなかそれが難しいのです。

なぜなら、この世は、全体として、神様の御心に逆らう歩みを、しているからです。

この世の人々は、自分の利益を、最優先して、それを必死に求めています。

クリスチャンの仕事も、そのような、社会全体の流れに、組み込まれている限り、汚れと空しさを、免れることができないのです。

組織が、自分に要求している務めが、主の御心から、大きく逸れている。そのことを自覚する時、クリスチャンは激しく悩みます。

しかし、悩んでも、良い解決の道は、なかなか開かれません。それで、悩んでも仕方がないと諦めて、その内に、悩むこともしなくなる。そういうことが、多いのではないかと思います。

しかし、私は、どこまでも、悩むべきだと思うのです。

そして、その悩みの中で、私たちは、人間の罪の深さを、本当に知らされ、主の救いを、もっと切に、願い求めるように、なると思うのです。

私たちの弱さと、罪の只中に、自らを投げ打って、来てくださった主イエスと、その悩みの中で、出会うことが、出来るのだと思うのです。

私も、主の御心を知りつつ、それに沿うことができず、挫折したことが、何度もありました。

しかし、その時、私はいつも、主の眼差しを、感じました。

それは、三度も主イエスを、知らないと言った、弱いペトロを、振り向いて見詰められた、あの主イエスの眼差しでした。

弱い私を、赦しと、慈しみの目で、見詰めてくださる、主イエスの眼差し。それを、見させていただきました。そして、「そんな弱いお前のために、私は十字架にかかるのだよ」、と言われる、主の御声を、聞かせていただきました。

私は、それによって、何度も、挫折から、立ち上がらせて頂きました。ですから、悩むことを、止めてはいけない、と心から思うのです。

さて、奴隷と主人との関係は、究極的には、奴隷とキリストの関係である、と御言葉は言っています。そして、それは、主人についても、同じことなのです。

ですから、御言葉は、「主人たち、同じように、奴隷を扱いなさい」、と語っています。

奴隷と主人は、この点においては、全く同じなのです。

主人も、キリスト者であるなら、奴隷と同様に、キリストに仕えているのです。

キリスト者であるなら、身分がどうであれ、究極的な主人は、皆、同じです。

ですから、主人も、同じ主を仰ぐ、一人のキリスト者として、奴隷と接するのです。

奴隷が、主人に、真心を込めて、仕える一方で、主人もまた、奴隷に優しくすることで、主に仕えていくのです。

どちらも同じように、罪赦された、一人の人間として、まことの主人である、主の前に、立つのです。その時には、地上での立場の違いなどは、問題ではなくなります。

ただ一つ問題となるのは、主の前で、一人一人が、どう生きているか。それだけなのです。

それは、私たちの、教会生活においても、同じです。私たち、一人一人は、皆、違っています。生まれも、育った環境も、現在、置かれている立場も、皆、違っています。

しかし、私たちは、皆、同じように、罪赦された者として、主の前に、立っています。

そして、私たちのために、すべてを献げてくださった、主のために、生きたいと願っています。主の御心を、喜ばせるために、生きていきたいと願っています。その点については、皆、同じです。その共通の願いに向かって、お互いが、主に仕えるように、仕え合う。

そのような群れを目指して、共に、祈りつつ、歩んでまいりたいと思います。