MENU

過去の礼拝説教

「愛に満ちた家庭に生きる幸い」

2016年06月05日 聖書:エフェソの信徒への手紙 5:21~6:4

「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。今朝の御言葉は、このように語り出しています。この言葉は、教会生活において、基本中の基本となる言葉です。

この御言葉に続いて、この後、夫と妻、親と子、主人と奴隷の関係について、それぞれの、あるべき姿が、語られています。

それらすべての関係において、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」、ということが、その基本となるのです。

では、仕えるとは、そもそも、どういうことなのでしょうか。

ある人が、仕えるということは、自分の思いや考えを、捨て去ることである、と言っています。自分の考えで、相手のために、何かをしてあげる、ということではない。本当に仕えるということは、自分の考えを、捨てることである。自分を放棄することなのだ、と言っています。

25節に、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために、御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」、と書かれています。

「御自分をお与えになった」、と書かれていますが、ここで「与えた」、と訳された言葉の、元々の意味は、「放棄した」とか、「引き渡した」という意味です。

キリストは、教会のために、神としてのご自分を、放棄されて、僕となられたのです。それが仕えるということです。

仕えるということは、自分を放棄して、相手の人の益になることを、行うということです。

そうであれば、仕えるということと、愛するということとは、重なってきます。

相手の人のために、何一つ捨てずに、その人を、愛することは、できません。

その人のために、大切なものを手放す。それが、愛するということであり、また、仕えるということなのです。

愛することなくして、仕えることはなく、仕えることなくして、愛することはないのです。

ところで、皆さん、「I love you」 を訳しなさい、と言われたなら、どのように訳されるでしょうか。有名な逸話では、夏目漱石が、これを「月がきれいですね」、と訳したと言われています。

もう一つあります。同じく、明治の文豪、二葉亭四迷は、この言葉を、「死んでもいい」、と訳したそうです。これも、名訳だと思います。

この人のためなら、死んでもいい。命を捨ててもいい。そう思えるほどの愛は、素晴らしいと思います。しかし、同時に、私たちが思うことは、そんなに簡単に、捨てることはできない、ということです。自分を捨てて、愛する。それは、そんなに簡単な事ではありません。

愛そうとする時に、相手の中に、どうしても愛することの、出来ないものがあります。また、自分を捨てて、仕えようとする時にも、どうしても、捨てることが、出来ないものがあります。

それを乗り越えなければ、愛することも、仕えることも、出来ません。

それを乗り越える力。それは、私たち自身の中にはありません。ですから、それは、外から与えられなければならないのです。その力こそが、主イエスの愛です。

主イエスが、先ず、私たちを愛してくださり、命を捨ててくださいました。十字架にかかるために、ご自身を放棄され、引き渡されたのです。

私たちが愛そうとする時、或いは、仕えようとする時、その背後には、いつも、この主イエスの、愛の出来事があるのです。

そうであれば、「キリストの愛をもって、互いに仕え合いなさい」、と勧められるのが自然です。ところが、21節では、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」、と書かれています。

「キリストに対する畏れ」、という言葉は、新約聖書の中では、ここにしか出てきません。

「キリストの愛をもって、互いに仕え合う」、というのなら良く分かります。しかし、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合う」、という言葉は、少し分かりづらいと思います。

しかし、皆さん、私たちは、ここで自分自身を、見つめ直してみましょう。

このように汚れた者を、キリストが、命を犠牲にして、愛してくださった。その愛の深さを思う時に、私たちの心には、感謝を超えて、畏れが生じるのではないでしょうか。

果たして、私のような者が、このような大きな愛を、受けて良いのだろうか。

私は、このような大きな愛を受けるに、値する者なのだろうか。そういう畏れが、生じるのではないでしょうか。

パウロは、キリストの愛の、大きさを思いつつ、その愛に対する、聖なる畏れをもって、互いに仕え合うことを、勧めているのです。

互いに仕え合うのです。一方だけではなく、両方が仕え合うのです。

しかし、ここには、「妻は、夫に仕えなさい」、と書いてありますが、夫も妻に仕えなさい、とは書いてありません。そして、夫は妻の頭だ、と書いてあります。

この箇所は、よく結婚式の時に、読まれますが、最近は、あまり評判が良くありません。

なぜ評判が悪いかと言いますと、妻には、「夫に仕えろ」と勧めているのに、夫にはそう勧めていない。それは不公平だ、というのです。皆さんは、どう思われるでしょうか。

しかし、続いて、御言葉は、夫は妻を、自分のように、愛さなければならない、と言っています。良く考えてみれば、それは、仕えること以上ではないでしょうか。

しかも、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」、と勧められているのです。

キリストが、ご自分のすべてを放棄され、命を引き渡してまで、教会を愛されたように、夫は妻を愛しなさい、と言っているのです。妻のために、命を捨てなさい、と言っているのです。

ここで言われている、夫の妻に対する愛とは、そういう愛。アガペーの愛なのです。

ですから、夫が妻に仕える必要はない、などとは、一言も言っていないのです。

夫も妻に仕えるのです。キリストが、教会に仕えてくださったように、仕えるのです。

先ほど、仕えるということは、愛することと重なる。この二つは、同じことだ、と申しました。

そうであれば、妻に対して、夫に仕えなさい、と言っていることと、夫に対して、妻を愛しなさい、と言っていることは、同じことを言っているのです。どちらが高いも、低いもないのです。

では、なぜ、「愛しなさい」、と言われるなら、納得できるけれども、「仕えなさい」、と言われると、抵抗を感じるのでしょうか。

それは、「愛する」ということは、主体的な行為であるのに対し、「仕える」というのは、受け身の行為、強いられた行為である。そういう印象を、持ってしまうからだと思います。

しかし、ここで聖書が言っている、「仕える」ということは、とても主体的な行為なのです。

人に言われて、仕方なく仕える。或いは、いやいや仕える、というのではないのです。

主イエスが、自ら進んで、人に仕えられたのに倣って、その模範に従うのです。

ですから、それは、主体的な行為なのです。主イエスのように、自ら進んで、仕えるのです。

作家の三浦綾子さんが、懸賞小説に入選して、1千万円を頂いた時のことです。

三浦さんは、テレビを買いたかったそうですが、ご主人の光世さんの、同意を得られなかったので、買わなかったそうです。

普通なら、自分が書いた小説で得た賞金ですから、自分が欲しいものを買っても良いではないか、と思いますが、三浦さんはそうしなかったのです。

三浦さんは、他者依存型の女性ではなく、しっかりとした自己主張をもっておられた方です。

しかし、ご主人が、快く賛成してくれないなら、買わない。そう決めたのです。そういう生き方を、ご自分で、主体的に選び取ったのです。

御言葉が勧めているのは、このような生き方ではないかと思います。

「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」というのは、そういう、主体的に仕える生き方なのです。

主イエスが、自分のために、何をしてくださったか。主イエスが、この私を救うために、どんなに大きな犠牲を、払ってくださったか。そのことを思う時に、私たちは、主体的に、自ら進んで、主に仕えよう、という思いに導かれます。

同じような、主体的な思いをもって、夫に仕えなさい、と御言葉は言っているのです。

しかし、皆さんの中には、主に仕えることと、夫に仕えることとは、違うと思われる方も、おられると思います。

自分の夫は、主のように素晴らしい人ではない。主のような愛を持っていない。

主に対してなら、進んで仕えたい、と思うけれども、あの夫に、主体的に仕えることは難しい。そう思われている方も、おられるでしょう。

確かに、夫の欠点だけを見ているなら、そう思われるでしょう。しかし、そこで、自分自身を振り返ってみてください。欠点があるのは、夫だけでしょうか。

自分にも、様々な、欠点があるのではないでしょうか。しかし、主は、そんな、欠点だらけの私たちのために、命を捨てて、仕えてくださったのです。その主に倣うのです。

主は、欠けに満ちた教会を、そして私たちを、そのまま、ありのままに、愛してくださり、命懸けで、仕えてくださったのです。

その主が、多くの人の中から、選び出して、与えてくださった、夫なのです。主が、「あなたは、この人と一緒に、生きていきなさい」、と言って、与えてくださった夫なのです。

そのことを、感謝をもって、受け止めていく時に、主体的に仕える道が、開かれて行くのではないでしょうか。

夫が、どんなに素晴らしいか、或いは、どんなにダメ夫か。それが問題なのではないのです。夫に、仕えることを通して、その夫を、与えてくださった、主に仕えていくのです。

主が、この私に、してくださったことを思って、その主に倣って、主に仕えるように、夫に仕えるのです。

そうでなければ、主イエスのように、立派な夫が、いる筈はないのですから、この「主に仕えるように」、という勧めは、自分には無関係な言葉になってしまいます。

今朝の箇所で、パウロは、夫婦の関係を、キリストと教会の関係に、当てはめています。

夫婦の問題は、キリストと教会の関係から、考えてみるべきだ、と言っているのです。

キリストと教会が、まさに神秘とも呼ぶべき、分かち難い交わりの中で、一つとされている。

そのように、夫と妻は、一つでなければならない、と言っているのです。

「二人は一体となる」、とあります。一つとされて、一緒に生きる、ということです。

それが、結婚の目的です。「何のために結婚するのか」、と聞かれると、たいていの人は、「好きだから」、と答えます。戦前であれば、「子孫繁栄のため」、と答えた人が、多かったと思います。しかし、それらの答は、結婚の、本当の目的を、言い表してはいません。

結婚は、二人が、一つとされて、一緒に生きるためにするのです。

たとえ、結婚当初に抱いていた、夢や期待が、崩れてしまったとしても、神様が与えてくださった、パートナーとして、愛し合い、敬い合って、一緒に生きていくこと。

それが結婚の目的です。

教会も、この世の、様々な試練の中を歩みます。しかし、主と一つとされて、主と一緒に歩んでいるのであれば、どのような苦難をも、乗り越えられます。

夫婦生活も、同じです。一緒に生きていくことによって、苦難を乗り越えていくのです。

今朝の箇所の最後の御言葉、6章4節も、心に留めておきたい言葉です。

「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」。

この言葉は、子供が反発するようなことを、親がしたり、言ったりしてはいけない、ということを言っているのではありません。

現代の社会は、子供が反発するということを、非常に恐れています。直ぐに切れる、子供たちがいるからです。

ですから、子供の怒りを、呼び起こさないように、過度にビクビクしているところがあります。

しかし、6章4節の御言葉は、そういうことを、勧めているのではありません。

子供を怒らせてはいけない、というのは、子供を甘やかしても良い、ということではありません。また、子供を叱ってはいけない、ということでもありません。叱るべき時には、正しく、叱らなければなりません。

ここでは、子供を怒らせない、ということよりも、むしろ、「主がしつけ諭されるように、育てなさい」という、積極的な教えの方が、大切なのです。

最近、「しつけ」のために、北海道の山の中に、7歳の男の子を、置き去りにした事件が発生し、正しい「しつけ」についての議論が、俄かに高まりました。

「しつける」というのは、大切なことを、身に付けさせる、ということです。

では、その大切なこととは、何でしょうか。ここでは、「主がしつけるように」、と言っています。ですから、これもまた、信仰の問題なのです。主を信じることを、身に付けさせるのです。

それが、聖書が語っている、しつけの目的です。

子は親を敬い、親は子を怒らせない。なぜ、このことが、勧められているのでしょうか。

それは、ただ、このことが、親子の関係を良くするだけでなく、信仰を伝えるのに、必要なことだからです。

親と子の関係を通して、神様の御心が、伝えられていくこと。それが、御言葉が言う、しつけの目的なのです。

親が子に与えることが出来る、最も善いものは、福音です。そのことを、伝えていく場として、家庭が用いられることの、大切さが、ここで語られているのです。

「北国に駆ける愛」、という本を書いた、三橋萬利さんという牧師が、札幌におられました。

12年ほど前に、既に天に帰られた方です。三橋牧師は、3歳の時に、小児麻痺に罹り、両足と右手の機能を、全く失ってしまいます。

前途に、希望を見いだせない暗闇の中で、萬利青年は、聖書に出会い、信仰に導かれます。そして、クリスチャン看護師の幸子さんと出会い、周囲の猛反対を押し切って、二人は結婚します。学校に行けなかった三橋さんは、独学で大学入試の資格を取り、神学校で勉強します。そして、幸子夫人と共に、全くのゼロから、札幌で開拓伝道を始めたのです。

萬利先生が、リヤカーに乗り、幸子夫人が、自転車でそれを引いて、トラクトを配り、路傍伝道に励みました。

そうやってスタートした、小さな教会が、お二人の祈りと、主の御恵みによって、大きく育てられ、やがて300人以上の人が礼拝に集う、「札幌キリスト福音館」、となっていったのです。

お二人は、本当に、いつも一緒でした。どこに行くにも、萬利先生を、幸子夫人が背負っていきました。外出先でも、家の中でも、幸子夫人が、萬利先生を、背負って行ったのです。

そうやって、いつもお二人で伝道され、国内だけでなく、海外でも36ヶ国で伝道されました。

私も、香港にいた時、三橋先生のお話を、聞く機会に恵まれました。

講演が終わると、幸子夫人が、すっと椅子の下にしゃがみ込みました。その背中に、萬利先生が、ごく自然におぶさり、麻痺していない左手で、幸子夫人の上着の右の襟を摑みます。

お二人が、まるで一人の人のようになって、立ち上がり、歩いて行かれる。そのお姿は、まさに、「二人は一体となる」、という御言葉を、見える形で表したかのようでした。

萬利先生のご葬儀で、幸子夫人は、こう語られました。「よく私は、『先生を背負われて、大変でしょう』、と言われることがありますが、いつも夫は私を愛し、守ってくれました。ですから、実は私が、夫に背負われて、歩んできたのです・・・」。

このお二人には、恵理哉さんと与志哉さんという、息子さんがおられます。お二人とも牧師となられて、それぞれ素晴らしい働きをされています。

ご長男の三橋恵理哉牧師は、こう語っています。

「父は、『私と私の家とは、主に仕える』、といつも子供達に語っていました。

そして幸いにも、現在二人は、牧師という、主に仕える働きを、することが出来ていることを、感謝しています。しかし、こう言いますと、恐らく父は、『おい、それは違うぞ。我々が主に仕えたのではなくて、主に仕えさせて頂いたのだよ』、と言うことでしょう」。

主に仕えるとは、どういうことか。そのことを、恵理哉牧師は、萬利先生の生き方から、学ばれたのです。

三橋先生ご夫妻が、キリストを中心とした、ご家庭を築かれ、お互いに、主に仕えるように、仕え合い、助け合って、生きて来られた。その生き様を見て、二人の息子さんたちは、自然に学んだのです。主に仕えるとはどういうことか。人生で最も大切なものは何か。

それを、身に付けていったのです。これが、主が、教えてくださっている、「しつけ」ではないでしょうか。家庭において、両親が、主の模範に倣って、愛し合い、仕え合って生きていく。

その姿を示すことこそが、何物にもまさる、「しつけ」ではないでしょうか。

そのような家庭を、築いていきたいと、心から願わされます。