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過去の礼拝説教

「あなたはこれを信じるか」

2016年07月31日 聖書:ヨハネによる福音書 11:17~27

エルサレムの南西、僅か3キロ足らずのところにある、ベタニアという村に、マルタとマリアという姉妹と、弟のラザロが住んでいました。

そのラザロが、重い病気に罹かりました。マルタとマリアは、ヨルダン川の、向こう側におられた、主イエスに、使いを送って、ラザロが病気であることを、知らせました。

一刻も早く、主イエスに、来ていただきたい、という思いを込めて、使いを送ったのです。

ベタニアから、主イエスがおられた所までは、歩いて一日位の、距離であったようです。

しかし、主イエスは、この知らせを聞いた後も、なお二日間、そこに滞在され、その後、漸くベタニアに行かれました。

今日の箇所は、主イエスが、そのベタニアに着かれた時の、出来事を記しています。

福音書の中には、主イエスが、死んだ人を、甦らせたという記事が、このラザロの復活を含めて、3箇所あります。

ヨハネによる福音書以外の、他の三つの福音書には、ヤイロという人の、12歳になる娘を、主イエスが甦らせた、という話が記されています。

また、ルカによる福音書には、ナインという町に住む、やもめの一人息子を、主イエスが甦らせた、という出来事が、記されています。

これらの三つの話が、初代教会の人たちによって、語り伝えられていったのです。

人から人へ、世代から世代へと、本当に嬉しい話として、語り伝えられていったのです。

当時、教会は、激しい迫害を受けていました。迫害によって、殉教した人も、大勢いました。

そして、そういう人たちは、ラザロのように、甦ることなく、死んでいったのです。

それにも拘らず、教会の人たちは、この話を、心から愛して、喜んで、語り伝えたのです。

ラザロは甦った。でも、私の愛する家族は、殉教したのに、甦ることはなかった。

そんなことは、不公平だ。理不尽だ。ラザロの復活など、信じられない。

そう言って、語り伝えるのを、止めてしまったのでないのです。喜んで、語り伝えたのです。

それは、この話の中に、自分たちの希望を、見出したからです。この出来事の中に、自分たちの、本当の希望がある、と信じたからです。初代教会の人たち、だけではありません。

今、ここにいる、私たちをも含めて、後に続く、すべての人たちにとっても、「この出来事の中に、あなたの希望がありますよ」と、御言葉は言っているのです。

死んだ人が生き返る、ということだけが、私たちの希望であるなら、殉教者を次々に出すような、激しい迫害に、教会は耐えることは、出来なかったでしょう。

殉教していった人を前にして、なお希望に生きることは、出来なかったでしょう。

教会は、この出来事から、単に、一人の人が、生き返った、ということ以上の、メッセージを聞き取っていったのです。それが、私たちの希望であると、受け取っていったのです。

私たちも、そのような思いをもって、この御言葉から、聴いていきたいと思います。

17節は、こう語っています。「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」。

4日も経って、ラザロの死が、動かし難い事実となっていた。そんな時、主イエスは、ベタニアに到着されました。それを聞いて、マルタが、出迎えに来ます。そこは、村の外でした。

19節にはこうあります。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。これは、まだ葬儀が続いていた、という意味です。

当時の、ユダヤ人の葬儀は、大変長くて、7日間も、続いたそうです。

人々は、マルタとマリアを訪れ、悲しみを共にして、涙を流しました。しかし、死という現実を前にして、人間には何もできません。

誰もが、経験していると思いますが、家族を失った人を、慰めるということは、不可能です。

どんなに慰めの言葉を語っても、それが、空しい言葉に、過ぎないように思えます。

この時ほど、人間の言葉の無力さを、感じることはありません。ただ一緒にいて、悲しみを共にすることしか出来ません。それ程、死の現実というのは、厳しいのです。

そこに、主イエスが、足を踏み入れてくださいました。

その主イエスの前に、マルタは、独り立ちました。そして、信仰の対話が、始まります。

マルタは、真っ先に、こう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。

このマルタの言葉を、どのように解釈するか、について、色々な議論があります。

例えば、マルタは、ここで、主イエスを、非難しているのではないか、という見方があります。何故、もっと早く、来てくれなかったのですか。一体、何をしておられたのですか。

そう言って、主イエスを、非難している。そのように、採る人がいます。

それに対して、いやそんなことはない。マルタはただ、深い悲しみを、主イエスに、ぶつけているだけだ、という人もいます。

皆さんは、どのように、この言葉を、解釈されるでしょうか。

「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。

素直に、この言葉を読む時に、マルタの心の中に、「残念だ」、という気持ちがあることは、否定できないと思います。

もし、主イエスが、知らせを聞いて、直ぐに旅立ったとしても、時間的には、間に合わなかったと思います。ですから、事態は、変わらなかったのです。

ラザロは、既に、死んでしまっています。今となっては、何も出来ません。

でも、あなたさえ、いてくださったならば。もし、ラザロが死ぬ前に、あなたが、そこに、いてくださったならば。そのことを思うと、残念で仕方がなかったのです。

マルタは、主イエスのことを、非難しているのでは、ありません。ただ、「残念だ」、という思いが、溢れ出ているのです。一体この時、マルタは、何を求めていたのでしょうか。

無から有を生み出す、主イエスの、全能のカでしょうか。私は、そうではないと思います。

まだ、この時、マルタは、主イエスが、ラザロを、死者の中から、生き返らせてくださる、などということは、夢にも思っていません。

マルタは、ラザロの復活を、求めていたのでは、ないのです。

この時、マルタが、求めていたもの。それは、主イエスの愛、だったのではないでしょうか。

愛する弟を、失ったマルタ。深い悲しみの中にいるマルタ。彼女は、ただ、主イエスの、愛の中にいたかったのです。

主イエスの愛の中で、愛する者を失うという、悲しみと、恐れに、向き合いたかったのです。

そのマルタに対して、主イエスが、力強く、語り掛けられます。

「あなたの兄弟は復活する」。

繰り返しますが、この時マルタは、主イエスが、今、ここで、ラザロを、復活させてくださる、とは思っていません。ですから、マルタは、こう言ったのです。

「それは知っています。終わりの日の復活の時に、神様が正しい人たちを復活させてくださる。そのことなら、私も知っています」。

この当時、ファリサイ派の人々は、終わりの日、つまり終末に、正しく生きた人たちは、復活する、と説いていました。そして、多くの人が、そのことを信じていました。

マルタも、そのことを、信じていました。ですから、「主よ、そのことは、私も既に、信じています。そのことは、将来の望みとして、持っています」、と応えたのです。

しかし、マルタは、終わりの日の復活を、今の、この悲しみを、乗り越える、希望であるとは、捉えていません。それは、希望であるには、違いありません。

でもそれは、愛するラザロを失った、今の私の、本当の慰めとはならない。

そういう思いが、彼女の中にあったのです。

しかし、それに対して、主イエスは、直ぐにお答えになりました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。

口語訳では、「たとえ死んでも生きる」、と訳されていました。その方が良い訳だと思います。

「たとえ死んでも生きる」。そして、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じるか」。

これは、主イエスが、全身全霊を込めて、マルタに、語りかけておられる言葉です。

「わたしは復活であり、命である」。不思議な言葉です。

一体、「主イエスが復活である」とか、「主イエスが命である」、というのは、どういうことなのでしょうか。その鍵となる言葉が、27節のマルタの言葉です。

このマルタの言葉は、原文では、「はい、主よ、わたしは信じます。あなたがキリスト・神の子・この世に来られた方であることを」、となっています。

ここで、特に大事なことは、「この世に来られた」、ということです。主イエスが、人となられたということです。そして、「人となられたということは」、主イエスも、死ぬということです。

主イエスは言われています。私は、十字架にかけられて死ぬ。しかし、その死を超えて、甦るのだ。私は、死の力を、完全に打ち破ってしまう。

だから、私を信じる者は、たとえ死んでも生きる。あなた方は、皆、死を経験することになる。でも、その死は、あなた方を、絶望させるものでは、なくなるのだ。

死によって、すべてが終わりでは、なくなるのだ。だから、生きていて、私を信じる者は、絶望の内に、死ぬことはないのだ。主イエスは、そう言われているのです。

永遠の命とは、いつまでも、生きながらえる、ということではありません。不老・不死、ということではないのです。それは、この世にあって、死を絶望とせずに、生きるということです。

主イエスは、確かに、復活されました。そして今も生きて、私たちと、共にいてくださいます。

どんな時にも、共にいてくださいます。どのようなものも、私たちを、主イエスから、引き離すことはできません。たとえ、死であっても、私たちを、主イエスから、引き離すことはできないのです。主イエスは、死の先までも、共にいてくださるのです。

これが、私たちの希望です。この希望に生きることが、永遠の命です。

弟子たちは、その復活の主イエスを、確かに見たのです。実際に、復活の主イエスに、出会ったのです。そして、その事実が、弟子たちの生き方を、全く変えてしまいました。

そして、それはまた、私たちの生き方をも、根本から揺り動かす、とてつもなく大きな、出来事でもあるのです。

私たちが、人生の終わりは死である、と思っている限り、どのように、自分を納得させようとしても、結局は、人生は空しいものに、なってしまいます。

もし復活の望みがなかったら、私たちの人生は、一幕の芝居のようなものです。どんなに立派に演じても、幕が引かれたら、芝居は終ります。

そして、後には、思い出だけが残ります。その思い出も、やがて消え去ってしまいます。

それが、私たちの人生であるなら、私たちは、どうしようもなく、切ない思いに襲われます。

しかし、主イエスは、「私は、復活であり、命である。だから、あなたは、もう死を恐れなくてもよい。私が、既に、死に打ち勝っているのだから」、と言われています。

この主イエスの御言葉を、真正面から信じていく時、私たちの人生は、真実に、意味を持つものとなります。

復活を信じ、死が終わりではないことを、信じるからこそ、今という時を、どのように生きるかが、決まって来るのです。復活の希望は、将来のことではなくて、現在のことなのです。今の自分を、生かす力なのです。

先ほど、主イエスが、死者を復活させたという話が、福音書に三回出てくると申しました。

ラザロも含めて、主イエスに、復活させていただいた三人は、その後、永遠に生きた訳ではありません。この人たちも、やがて死を迎えたのです。

そして、二回目の死の時は、復活しなかったのです。しかし、その人たちは、二回目の死を迎えた時に、慌てふためいて、主イエスを探す、というようなことは、しなかったと思います。

平安のうちに、死を迎えたと思います。大丈夫だ、と思ったからです。主イエスが、死の力を、打ち破ってくださった。だから、私は、たとえ、ここで死んだとしても、大丈夫なのだ。

そういう思いで、死を迎えたに、違いないと思います。

それは、その人たちが、既に、永遠の命を生きていた、ということを示しています。

死ぬ人が、絶望することなく、尚も、希望を失わなかったとしたら、それは永遠の命です。

ですから、「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」、と主イエスは、言われるのです。

「あなたはこれを信じるか」と、主イエスが問われた時に、私たちも、「はい、主よ、信じます。あなたこそキリスト・神の子です。死をくぐり抜けて、私たちに甦りの命をもたらすお方です」、と答えたいと思います。私たちにとって、それ以外の答えはありません。

そして、そこにこそ、私たちの、揺るがない希望があるのです。

ドストエフスキーの小説、『罪と罰』に、このラザロの復活の物語が出てきます。

才能豊かな大学生の、ラスコーリニコフは、貧しくて、学業を続けることが、困難になります。

彼は、ナポレオンは、多くの人を、戦死させても、裁かれるどころか、英雄と崇められている。それは、彼が、天才であるためだ、と考えます。

そうであれば、自分のような、才能豊かな者が、成功するために、有害無益な、金貸しの老婆を殺して、金を奪ってもよいのだ、という勝手な理屈をつけて、殺人を犯してしまいます。

しかし、罪を犯してしまうと、思いがけず、良心に責められて、悶々とした日々を、過ごすことになります。

彼は、ふとしたはずみで、ソーニャという、女性を知ります。彼女は、貧しいために、身を落として、売春婦になっています。しかし、心清らかで、真実の愛を宿して、生きています。

なぜ、あのような生き方が可能なのか、不思議で仕方がない。その内に、ふと、これは彼女の信仰と、関係があるのではないか、と思い当たり、ある夜、彼女の部屋を訪ねます。

初めの内、ラスコーリニコフは、ソーニャの職業を、意地悪く批判していましたが、突然、彼女の前に、ひざまずいて、その足に接吻します。

そして、机の上にある聖書を見て、「ラザロの復活はどこかね。さがして読んでくれ」、と頼みます。燃え残りのロウソクの光が、永遠の書を読んでいる、殺人者と、売春婦を、ぼんやりと照らします。この場面は、小説の中でも、圧巻です。

彼女が、おどおどと読む、ラザロの復活の御言葉。それを聞く、ラスコーリニコフは、奈落の底に、沈んでいるように見える、ソーニャが、実は、主イエスの、愛と命を受けて、生まれたばかりの、みどり児のように、生きていることを、知るのです。

一方、自分の考えを絶対化し、自分勝手な理屈を、振りかざして、殺人を犯した、この自分はどうか。罪の意識にさいなまれて、奈落の底に沈んで、死んだように、なっている。

活き活きとした希望に、生きることができないでいる。何とか、そこから救い出されたい。

主イエスが、ラザロを、復活させられたように、自分も、新しく生き返らせて、貰いたい。

そのような思いへと、導かれて行くのです。

ソーニャに、励まされて、ラスコーリニコフは自首し、シベリアに送られます。

約束した通り、ソーニャは、そこまでも、ついて行きます。

二人は、シベリアに行きながら、新しい人生を歩き始めます。

この小説の最後は、こう語っています。

「二人の上には、新生活に向かう、完全な復活の、曙の光が輝き、その心の中には、絶えざる命の泉があった。愛が、二人を、復活させたのである。」

主イエスの愛が、ラザロを、復活させました。そして、その同じ愛が、マルタに、永遠の命の希望を、与えました。

そして、ラスコーリニコフとソーニャを、新しい生活への、復活の歩みへと、導きました。

その同じ愛が、今も、私たちを生かし、私たちに、絶望なき人生を、歩ませてくれているのです。永遠の命の希望に生きる人生を、歩ませてくれているのです。

ゴッホが描いた、「ラザロの復活」の絵では、墓の入り口で、マルタが、死の眠りから覚めた、ラザロに向かって、驚いて両手を広げています。

そして、その背後に、大きな太陽が輝いて、この墓を照らしています。ゴッホは、死者を照らして、起き上がらせる、主イエスを、太陽として描きました。

私たちも、この太陽に照らされて、与えられた道を、歩んで行きたいと思います。