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過去の礼拝説教

「不思議な磁石に引き寄せられて」

2016年09月11日 聖書:ヨハネによる福音書 12:27~43

今朝の御言葉の、冒頭の言葉、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」

皆さん、この御言葉、どこかで、聞いたことが、あるような、気がしませんか。

既に気付かれた方も、おられるかもしれませんが、この御言葉は、「ゲツセマネの祈り」に、似ています。

ゲツセマネで、主イエスは、「私は死ぬばかりに悲しい。父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いではなく、御心が行われますように」、と祈られました。

ヨハネによる福音書は、ゲツセマネの祈りを、伝えていません。しかし、それと同じ内容の祈りが、ここに記されています。

十字架に向かって、歩み出された、主イエスは、「今、わたしは心騒ぐ」、と言われました。

これは、ゲツセマネの祈りの、「私は死ぬばかりに悲しい」、という言葉と、重なります。

ここでも、そして、ゲツセマネでも、主イエスは、心の内を、注ぎ出して、祈っておられます。

「父よ、わたしをこの時から救ってください」。「出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」。主イエスは、十字架の苦難から、救い出してください、と祈っておられます。

でも、皆さん、主イエスの祈りは、ここで終わっては、いないのです。

主イエスは、更に、続けて、祈られています。「しかし、父よ、御名の栄光を現してください。なぜなら、私はまさに、この時のために、来たのですから。」

主イエスの祈りは、この「しかし」、に続くのです。十字架の苦難から、私を救ってください。

「しかし」と、続くのです。しかし、私は、それを担うために来た。それから、逃れるためではない。主イエスは、はっきりと、そう言われています。

「父よ、御名の栄光を現してください」。「これが私の、究極の願いです。そのために、私は、ここにいるのです」。

この主イエスの祈りに、父なる神様は、応えてくださいました。28節後半の御言葉です。

「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」

主イエスの、これまでの御業の、すべては、父なる神様の、栄光を現すものでした。

目の見えない者の、目を開けてくださった、主イエスの、愛の御業。

飢えた者に、パンを与えられた、主イエスの、憐れみの御業。

心の渇きを覚えていた、サマリアの女に、命の水を注がれた、主イエスの、恵みの御業。

そして、ラザロを、甦らせた、主イエスの、力の御業。

それら、すべてが、父なる神様の、栄光を現すものでした。

しかし、父なる神様は、これから、更なる、栄光を現そう、と言われています。この後、十字架において、父なる神様の栄光が、完全な形で現れる、と言われているのです。

「我が、最愛の独り子、イエスよ。あなたは、今まで、数々の業を通して、私の栄光を、現してくれた。そのすべてを、私は、心から喜んでいる。

しかし、これから、その総仕上げの業が、始まるのだ。十字架の上で、すべての人間の罪を、負って死ぬこと。それによって、人間を救うこと。

これこそが、私に栄光を帰す、最後の業なのだ。そこに、恵みのすべてが、凝縮した形で、現れる。どうか、その使命を、貫いて欲しい。そして、私の栄光を、現して欲しい」。

この天からの声は、聞く耳の、ある人にしか、聞き取ることが、出来ませんでした。

聞く耳を、持たない人は、雷が鳴ったとしか、思わなかったのです。

しかし、御言葉を、待ち望んでいた、人たちには、天使の声として、聞こえたのです。

こういうことは、私たちの、日常においても、しばしば起こります。

この後、讃美歌226番を、ご一緒に歌います。多くの人によって、愛されている、この讃美歌は、こう歌っています。

「輝く日を仰ぐとき/月星ながむるとき/いかずち鳴り渡るとき/まことの御神を思う 」。

「森にて鳥の音を聞き/そびゆる山に登り/谷間の清き流れに/まことの御神を思う」。

この讃美歌は、神様を慕う、純粋な心をもって、見るならば、至る所で、神様の御業を、見ることができる。また、神様の御声を、聞くことができる、と歌っています。

朝日の光にも、月や星にも、雷の音にも、鳥のさえずりにも、川の流れにも、神様の御業を、見ることができる。神様の御声を、聞くことができる。神様がおられることが、分かる。

しかし、そのような心を、持たない人には、それらは、ただの風景でしかないのです。

私たちも、日常の生活の中で、様々な機会を通して、私たちに、語り掛けてくださる、神様の御声を、聞き洩らすことが、無いようにしたいと思います。

さて、この朝、皆様の心に、しっかりと、捕らえていただきたい、御言葉は、32節です。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。

この御言葉です。聖書は、この御言葉の意味を、自ら解説しています。33節です。

「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」

「わたしは地上から上げられる」、という言葉は、主イエスご自身の、死に方を、示した言葉である。聖書は、そのように、解説しているのです。

ここでは、「上げられる」、という言葉が、二重の意味で、用いられています。

一つは、主イエスが、十字架の上に、上げられる、という意味です。確かに、主イエスは、十字架に、上げられて、殺されました。

もう一つの意味は、主イエスが、死人の中から、引き上げられて、天に上られる、ということです。主イエスの、復活と昇天とを、示しています。

「地上から上げられる」、という言葉は、これら二つの意味を含めて、語られています。

主イエスは、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」、と言われました。

主イエスが、十字架に上げられて、殺される。そして、復活されて、天に上られるとき、すべての人が、主イエスのもとに、引き寄せられる、というのです。

すべての人が、十字架の恵みのもとに、引き寄せられる。

この恵みに、引き寄せられない人は、誰もいない。どんな人も、十字架の救いの、対象とされている。だから、この恵みから、漏れる人は、誰もいない。

主イエスの十字架とは、それほど大きな、それほど力強い、恵みなのだ、というのです。

19世紀の英国に、スポルジョンという、名説教者がいました。多い時には、二万人を越える人が、その説教を聞きに、集まって来た、と伝えられています。

その説教は、しばしば、二時間にも、及んだそうです。

座席がなくて、立ったまま、二時間の説教を、聞いた人々も、大勢いました。

礼拝が終わると、速記された説教が、すぐにアメリカに電送され、アメリカでも、毎週、それが印刷されて、全米に配られた、と伝えられています。

このスポルジョンが、32節の御言葉から語った、説教があります。

その説教には、「マーベラス・マグネット」、という題が、付けられています。

「マーベラス」とは、「不思議な」とか、「素晴らしい」、という意味の、言葉です。

「マグネット」とは、磁石のことです。ですから、「マーベラス・マグネット」とは、「不思議な磁石」、或いは、「素晴らしい磁石」、という意味です。

スポルジョンは、主イエスの、十字架の恵みは、「不思議な磁石」のような、素晴らしい力を持っている、と語っています。

そして、この磁石の力が、どんなに多くの人々の、慰めになっただろうかと、繰り返して、語っています。

十字架の恵みの、大きさを、本当に知ったなら、人はその恵みに、引き寄せられます。

十字架の救いの尊さを、本当に知ったなら、人はその尊さに、引き寄せられます。

復活された主イエスの、命の力を、本当に知ったなら、人はその力に、引き寄せられます。

この福音の、素晴らしさを、本当に知ったなら、人はその素晴らしさに、引き寄せられます。

それほど、この磁石の力は、強いのです。

私たちは、その磁石に、引き寄せられる、釘の一本一本なのです。

この磁石は、すべての釘を、引き寄せないでは、おかない力を、持っています。

もし、引き寄せられない、としたなら、それは、磁石の力が、弱いのではなくて、釘に、覆いが掛けられて、いるからです。

釘が、プラスティックや、ゴムなどによって、覆われているなら、磁石の力は、届きません。

この世の、様々な思いが、私たちの心を、覆っているなら、どんなに強い磁石でも、その力は、届きません。

しかし、そのような覆いを、すべて捨て去って、純粋な心で、十字架を見上げるなら、この磁石は、すべての人を引き寄せる、偉大な力を持っているのです。

十字架の恵みは、すべての人を、引き寄せる、「マーベラス・マグネット」なのです。

私たちは、この世にあって、様々なものに、引き寄せられます。お金や、権力や、名誉や、健康に、引き寄せられます。

しかし、それらの磁石は、いつしか、効力を無くすことがあります。特に、病気や、死などに直面した時、この磁石は、もはや、私たちを、引き寄せる力を、持ちません。

しかし、十字架の救い、という磁石は、どんな時も、私たちを、引き付けて、決して離すことはありません。いつまでも、効力を、失うことがないのです。

このマーベラス・マグネットに、引き寄せられている幸いを、心から感謝したいと思います。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

この主イエスの御言葉を聞いたとき、群衆は、主イエスに、問い掛けました。

「人の子」とは、だれのことですか。あなたが言う、人の子、つまり、救い主とは、一体誰のことなのですか。」

主イエスは、その質問に対して、直接には、お答えにならずに、こう言われました。

「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。

「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」。光である私は、まだ暫くの間、あなた方の間にいる。しかし、その光が、消えてしまったのではないか、と思う時が来る。

私が、この地上に、存在する時間は、もう少ししか、残されていない。暗闇になる時が来る。その闇が来ないうちに、光である私を信じて、光の子となりなさい。

主イエスは、そう言われたのです。

私が、今、ここにいるのだから、光の中を、歩むように、なりなさい。

間もなく、闇が来る。しかし、その闇の中に、十字架が、光を放って、立つことになる。

その時、その十字架に、打ち付けられている、私を、しっかりと、見て欲しい。

私は、そこから、光の手を、差し伸べて、あなた方を、招こう。

だから、その私に、引き寄せられて、光の中に来て、光に生きるように、なりなさい。

主イエスは、そう言われたのです。

これは、主イエスの、群衆に対する、最後の訴えです。最後の決断を迫られたのです。

しかし、彼らは、主イエスを、光として受け入れず、光に来ようとは、しませんでした。

そこで、主イエスは、「立ち去って彼らから身を隠された」、と御言葉は語っています。

ヨハネによる福音書では、これ以後、主イエスは、人々の前に、姿を現わしておられません。この後は、弟子たちに対してしか、お言葉を、語っていません。

主イエスが、群衆の前に、再び姿を現されたのは、十字架につけられる時でした。

37節から43節までには、主イエスを拒んだ、ユダヤ人たちの不信仰が、要約されています。

その最後に、「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」、と書かれています。「好んだ」、と訳されている言葉は、もともとは、「愛した」という言葉です。

また、「神からの誉れ」、と訳されている言葉は、原語では、「神の栄光」、という言葉です。

神の栄光か、人間の栄光か、あなたは、どちらを愛するか、と問われた時に、群衆は、人間の栄光、自分たちの栄光を、愛したのです。そして、神様の栄光を、消し去ったのです。

群衆の選択。それは、神の栄光よりも、自分の栄光を愛する、という選択でした。

それに対して、主イエスの選択は、どうだったでしょうか。

主イエスは、「父よ、私の思いではなく、御名の栄光を現してください」、と祈られました。

主イエスは、十字架の苦しみを、前にして、尚も、父なる神様の栄光を、求められたのです。

私は、自分の栄光ではなく、父なる神様の栄光を、愛する。父なる神様の栄光が、現れますように、と祈る。これが、主イエスの、選択であったのです。

主イエスは、この祈りの通りに、十字架の重荷を、引き受けられて、歩んで行かれました。

そして、その十字架の上から、御手を差し伸べられて、すべての人を招いておられます。

すべての人を、引き寄せようと、招いておられます。

私たちは、この「マーベラス・マグネット」に、喜んで、引き寄せられて、いきたいと思います。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。

この32節の御言葉と、こだまするように、響き合っている、詩編の言葉があります。

詩編27編10節の御言葉です。旧約聖書991ページ、または858ページです。

「父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」

この御言葉は、私の愛唱聖句の一つです。

「父母はわたしを見捨てようとも」、とありました。親が、子を、見捨てる、というのは、余程のことです。しかし、もし、そんなことが、起こったとしても、主は、必ず私を引き寄せてくださる。神様は、決して、突き放したりされない。必ず引き寄せてくださる、と詩人は詠っています。

皆さん、今朝、私たちは、80歳以上の、信仰の先輩方を覚えて、礼拝を献げています。

お一人お一人に示された、限りない恵みと祝福に、心からの感謝を、献げるために、御前に集っています。

先輩方、お一人お一人は、長い信仰の道のりを、歩んで来られました。今、その旅路を、振り返られると、様々な困難があったと思います。

誰も分かってくれない、と思うような、深い悩み、苦しみの時が、あったと思います。

でも、そんな時も、神様は、決して、私を、見捨てられることはなかった。必ず、御許に、引き寄せてくださった。

この信仰によって、暗闇の中に、光を見出されて、主と共に、歩まれて、来られたのだと、思います。

先程の、詩編27編10節の、少し手前、同じ27編の4節は、こう詠っています。

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。」

この詩編の言葉は、先輩方の、願いでもあると、思います。いえ、先輩方だけではありません。私たち、すべての、心からの、願いでもあります。

「命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えること」。

これは、私たち、共通の願いです。

「主の家」とは、この詩人にとっては、エルサレム神殿のことでした。しかし、私たちにとっては、この教会です。

命のある限り、教会生活を続けたい。ここで、主を仰ぎ望んで、喜びの日々を、送りたい。

そして、この教会で、朝を迎えることが、できたなら、こんなに嬉しいことはない。

この詩人の思いに、私たちは、心から、「アーメン」と、唱和できるのでは、ないでしょうか。

「朝を迎える」、という言葉は、人生を全うした後に迎える、新しい朝を、指し示している、とも読めます。この教会の中に、この群れの中に、生き続けて、人生を全うする。

そして、主の光の中で、新しい命に、目覚めたい。それが、私の願いなのだ。

詩人は、このような、確かな信仰を、詠っています。そして、それは、私たちすべての、願いでもある、と思います。

私たちは、命のある限り、この教会で生き、この群れの中で養われ、ここで、主を仰ぎ望んで、喜びの日々を、送ることを、切に望んでいます。

そして、やがて、喜びの内に、新しい光の朝を、迎えたいと願っています。

この朝、私たちは、敬愛する信仰の先輩方と共に、この希望を、改めて握り締めたい、と思います。ここで、この教会で、この神の家に住む喜びを、共に味わいたい、と思います。

主は、どんなことがあっても、必ず、私たちを、引き寄せてくださいます。

この御言葉は、真実です。