MENU

過去の礼拝説教

「栄光に満ちたミステリー」

2016年10月30日 聖書:コロサイの信徒への手紙 1:24~29

今朝の御言葉は、おやっと思うような、言葉で始まっています。

「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たしています」。

これは、使徒パウロの言葉です。パウロは、ここで、何を言おうとしているのでしょうか。

キリストの苦しみの、欠けたところを、自分の身をもって、満たしている。

これは、どういうことでしょうか。キリストの十字架の苦しみが、私たちの救いのために、不十分であった、とでも言うのでしょうか。

そんなことは、あり得ません。百歩譲って、もし、そうであったとしても、その欠けたところを、父なる神様が満たす、というなら分かります。

でもそれを、パウロが満たす、と言っているのです。神様がなされた、御業の不足を、人間が満たす、と言っているように、取れます。そんなこと、出来る筈がありません。

ですから、私たちは、ここで、ハタと立ち止まって、当惑してしまいます。一体、この言葉は、何を言っているのでしょうか。

キリストの十字架は、私たちの罪に対する、完全で、十分な贖いである筈です。

キリストは、ご自身の命も、思いも、すべてを注ぎ出して、私たちを、罪から贖い出して、くださいました。キリストは、私たちを救うために、とことん苦しみ抜かれたのです。

神であられるお方が、その思いのすべてを、注ぎ出され、その力のすべてを、使い果たされて、究極の苦しみを、引き受けられた御業。それが、あの十字架であったのです。

その神様の大事業に、人間の業が、入り込む余地など、ある筈がありません。

ですから、このパウロの言葉は、大きな謎となって、残ります。

その謎を解く前に、十字架の救いについて、今一度、考えてみたいと思います。

十字架の救い。それは、人間の歴史から見れば、2千年前に、一人の無力なユダヤ人が、ローマ帝国によって、死刑にされた。ただ、それだけのことです。

そのような事件は、他にも、いくつもありました。ですから、歴史書にも記載されないような、小さな出来事です。

しかし、神様の目から見た時、この出来事は、歴史上で、最も大切で、最も大きな出来事であったのです。

今朝の御言葉は、この出来事のことを、神様の「秘められた計画」、と言っています。

神様が、人知れず、秘かに計画されていた、ことがあった。それが、キリストの出来事なのだ、というのです。

キリストの十字架という、秘められた計画を、実行されるまでに、神様は、本当に、ありとあらゆることをして、人間を救おうとされました。様々な計画を、実行されたのです。

旧約聖書は、そのことを、語っている書物です。

旧約聖書には、背き続ける人間を、何とかして、立ち帰らせようと、ひたすらに願われた神様の、様々なご計画が、書き記されています。

神様は、人間に、律法を与えて、正しい生き方を、示されました。

何人もの、預言者を送って、神様の御心を伝えました。また、人間の歴史に、働きかけて、人の思いではなく、ただ神様の御旨のみが、実現することを、何度も、証明されました。

更に、自然の偉大な力や、自然がもたらす、素晴らしい恵みを通して、ご自身の力と、愛の大きさを、示されました。

本当に、ありとあらゆることを通して、人間に、ご自身の御心を、伝えようとされたのです。

しかし、それでも、人間は、自己中心的な思いに囚われて、神様に立ち帰らなかったのです。自分の欲望を満たすことを、第一とし、神様を、第一としなかったのです。

それ程、人間の罪は、深かったのです。人間の罪は深すぎて、神様が用意された、様々なご計画では、救い出すことが出来なかったのです。

神様は、そのような、人間の頑なさを、本当に悲しまれ、嘆かれました。

マタイによる福音書23章に記されている、主イエスのお言葉が、そのお気持ちを良く表しています。主イエスが、十字架にかかられる、直前に語られた御言葉です。

『エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。

だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。』

この御言葉は、神様の心からの嘆きです。恐らく、この時、主イエスは、涙を流されていたと思います。

立ち帰ろうとしない人間は、見捨てられ、滅ぼされる。でも、それは、神様の御心ではありませんでした。神様の願いは、人間が立ち帰って、生きることであったのです。

旧約聖書のエゼキエル書18章に、その神様の御心が、切々と語られています。

『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』。

背き続ける人間たちよ、どうか、立ち帰って欲しい。滅んではならない。死んではならない。

あなたたちは、生きなければならない。私は、あなたたちが、滅びるのを、見たくないのだ。

神様は、そう言っておられるのです。神様は、何とかして、人間を、ご自身の方に、近づけようとされました。しかし、人間は、ますます神様から、遠ざかっていったのです。

そこで、遂に、神様は、御自分の方から、人間に近付いていかれました。

それが、御子イエス様を、人として、世に遣わす、ということだったのです。御子なる神様が、人間の代わりに、滅びの死を、引き受ける。これが、神様の、最後のご計画だったのです。

十字架の救いは、神様にとって、究極の切り札、まさに、秘められたご計画だったのです。

今朝の御言葉にある、秘められた計画という言葉。この言葉は、以前の口語訳聖書では、「奥義」と訳されていました。

秘められた計画、或いは奥義、と訳された言葉は、原語では「ミステーリオン」というギリシア語です。この言葉は、英語の「ミステリー」の語源です。

もう、これ以外に人間を救う手段は、残されていない。まさに、究極の御業。それが、神様の奥義、ミステリーなのです。

ですから、この秘められたご計画、神様のミステリーとは、最後の切り札である、主イエスのことを言っているのです。

全能の神様が、背き続ける人間を、滅ぼすのではなく、尚も、救おうとされる。そのために、命をささげてくださる。こんなこと、誰も考えもつきません。まさに奥義、ミステリーです。

御言葉は、この秘められた計画である、主イエスのことを、「栄光の希望」と言っています。

主イエスによる救いは、私たちにとって、栄光の希望、栄光のミステリーなのです。どんな状況にあっても、これさえあれば、生きていける、という希望。それが、主イエスなのです。

キリスト教の、ユニークな特色は、主イエスの出来事、そのものが、救いのすべてである、ということです。

私たちは、良く勘違いします。キリスト教の救いは、主イエスのお言葉や、教えの中にある、と思ってしまいます。

他の宗教や、道徳の場合は、教祖やリーダーが語ったことが、救いの言葉となります。

ですから、キリスト教も、同じだと、思ってしまいます。

勿論、主イエスが語られた、お言葉は、私たちの宝です。山上の説教などの、教えは、私たちの信仰生活の、道標です。

でも、それらのお言葉や、教えが、私たちの救い、なのではありません。そうではなく、神ご自身が、人間となって、この世に来てくださり、私たちの身代わりとなって、私たちの罪をすべて負って、十字架に死んでくださった。この出来事自体が、私たちの救いなのです。

そのキリストが、今も生きて、私たちのうちに、住んでくださる。私たちを、神の宮としてくださる。どんなに汚れた存在でも、「私はお前の中に住みたいのだ」と言ってくださる。

この栄光に満ちた、キリストを、お迎えすることが、私たちの救いなのです。

ですから、パウロは、『その秘められた計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。』といっているのです。

この主イエスの十字架は、十分にして、完全な救いでした。欠けも、不足もないのです。

さて、ここで、初めの問いに、帰ってみたいと思います。

「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たしています」。この24節の御言葉は、何を意味するのでしょうか。二つの解釈が、考えられます。

一つは、この苦しみは、キリストの体である、教会の苦しみである、ということです。

パウロ自身が、かつて、教会を迫害した時、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」、という主イエスの御声を、聞いたことがありました。

ですから、教会の苦しみは、キリストご自身の苦しみなのです。この世にあって、教会が、まことのキリストの体になるためには、様々な戦いがあります。

ここで、パウロは、その教会の戦いを、自分の身に引き受けることを、キリストの苦しみの、欠けを満たす、と言っている。昔から、そのような解釈があります。

24節で、パウロは、教会のために苦しむことを、喜びとしている、と言っています。

パウロの、教会に対する深い愛が、込められた言葉です。

愛しているもののために、労苦する時、それは苦しみではなく、喜びとなります。

三浦綾子さんは、「愛とは、重荷を、重荷と感じないことだ」、と言いました。

その通りだと思います。母親は、赤ちゃんの体重が、増えることを、喜んでいます。

体重が増えれば、抱くのも、背負うのも、大変になります。

でも、母親は、「ほら、もうこんなに重くなったのよ」と言って、喜んで抱いています。

抱くのが大変だから、もっと瘦せ細って欲しい、などと言う母親はいません。

パウロは、愛する教会のために、労苦することは、喜びである、と言っているのです。

私たちも、このパウロの愛に、見倣っていきたいと思います。

さて、キリストの苦しみの欠けたところ、という言葉の、もう一つの解釈です。

この、「キリストの苦しみの欠けたところ」とは、主イエスが、弟子たちに託した、宣教の使命である、という解釈です。

十字架で死なれ、復活されて、天に昇られた主イエス。その主イエスが、この地上で、やり残したこと。それは、神様の、救いのご計画を、広く宣べ伝えることでした。

神様の、秘められた計画、栄光のミステリーである、十字架の贖い。この福音を、宣べ伝えること。それが、「キリストの苦しみの欠けたところ」だと、捉えるのです。

マタイによる福音書の最後で、復活の主イエスは、弟子たちに、このように命令されました。『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい』。

この一つのことが、足りないのです。十字架の後には、その恵みを伝える、宣教の業が続かなくてはならないのです。それが、欠けているのです。

今朝の御言葉の、全体を捉えた場合、この解釈の方が、文脈に沿っていると思います。

以前にも、お話ししたことがありますが、天国における、主イエスと、天使ガブリエルとの会話の、小噺があります。

天国を散歩中の主イエスに、天使ガブリエルが話しかけます。「イエス様、暫くお顔を、見ませんでしたけど、どこにいかれていたのですか」。「ちょっと、地上に行っていたのだよ」。

「あの汚れた地上に。それは、ご苦労様でした。それで、何のために行かれたのですか」。「すべての人々を、救うためだよ」。「さすがイエス様ですね、こんな短い時間で、すべての人々を救って来られたのですか」。「いや、それはできなかった」。

「やはりね、あの頑なな人間を、救うことは、難しいことですよね。それで、諦めて帰って来られたのですね」。「いや、私は、決して、諦めていないのだよ」。「ではどうされるのですか」。

「私は、何人かの弟子を残してきた。その弟子に、後を託してきたのだ」。

「弟子をねぇ。でもイエス様、もし、その弟子が、使命を果たさなかったら、どうされます」。

イエス様は、静かに言われました。「その時は、もう、他に選択肢はないのだよ」。

主イエスは、他に選択肢を、持っておられないのです。

主イエスは、後に続く弟子たちを信頼し、弟子たちに、期待されているのです。

この宣教の使命を、託されているのは、パウロのような、使徒たちだけでしょうか?

現代で言えば、牧師たちだけでしょうか?そうではありません。

皆さん方、お一人お一人も、また、この務めに召されているのです。

皆さん方、お一人お一人は、「私の計画をあなたに託しましたよ。頼みますよ」、と神様から、使命を託された方々なのです。

もし、私たちが、宣教命令に従わなければ、キリストの十字架の死は、無駄になってしまいます。ですから、私たちは、福音を、宣べ伝える、という使命を、忘れてはならないのです。

パウロは、この宣教の業も、苦しいけれども、また、喜びだと言っています。

なぜ、喜びなのでしょうか。それは、主が共に、いてくださるからだ、というのです。

先程の、大宣教命令、『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい』。

この命令に続いて、主イエスは、こう言っておられます。『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』。

主イエスは、世の終わりまで、どんな時にも、いつも共にいてくださる、と約束してくださっています。これが、パウロの喜びでした。そして、それは、私たちの喜びでもあります。

メソジスト教会の創始者、ジョン・.ウェスレーという人は、寸暇を惜しんで、イギリス中を、伝道しました。

何と、生涯で、36万キロを、馬に乗って伝道した、と言われています。36万キロというのは、地球8周分の距離です。物凄い距離です。ですから、メソジスト運動の、最初の殉教者は、彼が乗っていた馬であった、と言われています。

また、彼は、生涯で、52,400回もの説教をしたそうです。これは、50年間、一日も休まずに、説教したとして、一日平均約3回、一週間平均20回の説教を、したことになります。

まさに、伝道に命をかけた人でした。その彼が、臨終となった時、弟子が尋ねました。

「先生、先生のご生涯で、最も良かったことは何ですか」。ウェスレーは、迷わずこう答えたそうです。「最も良かったことは、神が共にいてくださったことである」。

しかし、一方では、キリストを伝えるということは、パウロが言っているように、「苦しむこと」であり「労苦」です。

家族に、或いは友人に、キリストを伝えることが、どんなに難しいことであるか。

地域の方々を、教会に迎え入れることが、どんなに労力を、要することであるか。

私たちは、肌で知っています。

だからこそ、これを、自分の力でやろうとしたら、だめです。挫折します。長続きしません。

ですから、パウロが言うように、「わたしの内に力強く働く、キリストの力」によって、この務めを、させていただく以外にありません。

この務めは、自ら求めて、得たものではありません。授けられたものです。

ですから、それを成し遂げる力も、一緒に、与えられている、筈なのです。

そうでなければ、誰も、このような務めには、耐えられません。私たちは、神様から与えられた、力の範囲内で、精一杯務めればよいのです。

先週の祈祷会で、若尾小枝子姉が、こんなことを言われました。「私はいつも気楽に生きていられる。なぜなら、神様は、できないことをしなさい、と押し付けることはなさらないお方だから。できることをせよ、と言われているのだから、気張る必要はないと思っている。」

若尾さんの仰る通りです。

私たちは、ありもしない自分の力で、宣教の務めを、果たさなければならないと、気張ることはないのです。祈りつつ、歩んでいく時、必要な力は、必ず与えられます。

そして、もし、一人でも、伝えることができたなら、その「労苦」は、大きな「喜び」に変わる筈です。

教会は、一人ひとりが、キリストと共に、キリストから力を与えられて、キリストの御業に参加させて頂く場です。皆、それぞれが、違った賜物を与えられています。ですから、それぞれに、違った役割が、与えられているのです。

大切なことは、自分にできることをする、ということです。誰ひとり、批評家や、観客となってはいけないのです。教会という舞台では、皆が、俳優であり、プレイヤーなのです。

教会に、評論家や観客が多くなると、その教会は衰えていきます。

主イエスは、私たちの罪を、観察するために、来られたのではありません。私たちの罪を、負ってくださるために、来られたのです。

そうであるなら、その主イエスに、罪を赦された者は、お客さんでいる訳には、いかない筈です。どんな小さなことでも、できることを、担っていきたいと思います。

お互いに、主イエスから、「頼みますよ」、と言われて、託された使命を、もっています。

その使命を、与えられた賜物と、力を用いて、精一杯、果たして行きたい、と願わされます。