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過去の礼拝説教

「影ではなく光を見つめよう」

2016年11月27日 聖書:コロサイの信徒への手紙 2:16~23

アドベントクランツの、最初のローソク、希望のローソクに、火が灯されました。

これから、聖日毎に、ローソクの火を、一本ずつ増やしてまいります。

希望の灯に続いて、平和の灯、喜びの灯、そして、愛の灯を、順に灯していきます。

そのように、光を増やしながら、御子のご降誕を祝う、クリスマスに備えてまいります。

寒さに向かいますが、私たちの心は、クリスマスという、神様の愛の奇跡を、待ち望む喜びで、熱くされていきたい、と思います。

以前、ある役者の、インタビューを、テレビで見ました。

その役者は、とても稽古に熱心なので、インタビュアーが尋ねました。

「あなたのような立派な役者さんが、なぜ、そんなに一生懸命に、稽古をされるのですか」。

その役者が、答えました。「一生懸命やる方が、楽だからです」。

それを聞いて、「なるほど」と思いました。人は、何かに、一生懸命に、打ち込んでいる時は、他のことを考えなくて良いので、楽なのです。

これさえやっていれば大丈夫、というのは、大変なようで、一面では、楽な生き方である、と言えます。

同じように、これさえ守っていれば良い。そういうものがあると、人は、安心します。

規則さえ守っていれば、人から非難されることが、ないからです。ですから、世の中には、規則が満ち溢れています。

また、これに打ち込んでいれば良い。そう思い込んでいる時にも、人は、一時的な安心感を得られます。ですから、カルト宗教のようなものが、後を絶たないのです。

カルト宗教が要求する、精神修養に没頭している時、他のことを、考えなくて済むからです。

しかし、規則に頼り、精神修養に没頭している内に、いつしか自分を見失っていきます。それらに縛られて生きていく内に、自分らしい生き方ができなくなり、自由を失っていきます。

先ほど読んでいただいた、今朝の御言葉の主題は、「自由」です。

パウロは、コロサイの教会の人たちが、真の自由に生きて欲しい、と願っているのです。

この時、コロサイの人たちから、自由を奪い、重荷を負わせていたものが、三つありました。

その第一は、律法主義です。生まれ育った、ユダヤ教の戒律から、抜け出せないでいる人たちが、コロサイの信徒たちにも、戒律を押し付けて、自由を奪っていたのです。

二つ目は、間違った神秘主義です。熱狂主義と呼んでもよいと思います。

精神的な、興奮状態に陥ることによって、不安や、恐れから、逃げようとした人たちが、教会の人たちにも、そのような熱狂主義を、勧めたのです。

私は天使を見た。私は幻を見た。私は異言が語れる。あなたも、そうならなくては駄目だ。

そう言って、人々を不安にさせたのです。

三つ目は、極端な禁欲主義です。厳しい禁欲生活を、自らに課すことによって、不安や恐れに、打ち勝てる、と考えた人たちが、禁欲生活を迫ったのです。

律法主義、熱狂主義、禁欲主義。これら三つは、2千年前の、コロサイの教会だけではなく、現在でも、人々を、縛り付け、人々から自由を奪っています。

今も、次々に生まれてくる、様々な新興宗教。そのすべてが、律法主義、熱狂主義、禁欲主義、のいずれか、もしくはすべての要素を、取り入れて、人々を縛り付けています。

なぜでしょうか。それは、これらの新興宗教に、一生懸命になっているときに、人々は、不安や恐れを、一時的に忘れて、楽になれるからです。

しかし、これらは、根本的な解決を、与えてくれません。一時的な安心を、与えるだけです。

ですから、絶えず、励まなければ、ならないのです。

その結果、どんどんエスカレートしていきます。これでもまだ足りない。もっと、頑張らなくてはいけない。そのような、強迫観念に、いつも迫られることになります。

ですから、いつも、辛い顔をして、歯を食いしばって生きる。いつしか、そんな生き方を、生きるようになってしまいます。

パウロは、コロサイの信徒が、そうならないようにと、心を込めて、語りかけています。

コロサイの教会の人たち、あなた方は、既に、自由にされているではないか。

主イエスが、不安や重荷から、あなた方を、解放してくださったではないか。

あなた方が、最も恐れていた罪の問題。それに対する裁き、その結果としての、滅びの死。

かつて、あなた方は、それらに対する、不安と恐れに、捕らわれて、がんじがらめに、縛られていた。自由を失っていた。しかし、キリストの十字架が、その縄目を、解いてくださった。

あなた方は、そのことを受け入れて、まことの自由に生きる者と、されたではないか。

永遠の命の希望を与えられ、活き活きとした、喜びに生きる幸いを、味わったではないか。

それなのに、なぜ、再び、色々なものに、縛り付けられて、重荷と、不安の中に、逆戻りしていくのですか。主イエスは、そんな生き方から、あなた方を、解放するために、十字架にかかってくださったのですよ。

パウロは、コロサイの人たちに、救われた時の、あの喜び、あの開放感を、取り戻して欲しい、と言っているのです。

律法主義は、人々を、様々な戒律で、縛り付けます。

ユダヤ教の戒律は、あれを食べてはいけない、これを飲んではいけない。食べるときは、こうしなければならない。そのような食物規定によって、人々を、縛りつけていました。

それに対して、パウロは、言うのです。

思い出して欲しい。主イエスは、すべての食べ物は清い、と言われたではないか。

人を汚すのは、口から腹に入るものではなく、心の内から、言葉となって、口の外に出てくるものなのだ。神様が用意してくださったものは、感謝して、何でも食べてよいのだ。

神様が、問題とされるのは、何を食べるかではなく、心の内に、何を思うか、なのだ。

主イエスは、そう言われたではないか。この恵みを想い起して、喜びの人生を、生きて欲しい。パウロは、そう言っているのです。

主イエスは、全ての食べ物は清い、と言ってくださいました。これは本当に大きな恵みです。

ある宗教は、大変厳しい、食物規定を、信者に課しています。そのため、激しい飢饉に襲われて、食べ物がなくなった時、救援物資が届いても、戒律で許されていないから、食べないと言って、餓死した人たちが大勢いた、という報告を聞いたことがあります。

食物規定が、人を生かしたのではなく、人を殺してしまったのです。

また、律法主義者たちは、特定の日に、特別な意味を与えて、守らせようとしました。

この日には、これをしてはならない。あれをしなければならない、という細かい規定を作って、人々を縛り付けました。日本にも、友引、仏滅、など、同じような習慣があります。

そう言いますと、キリスト教にも、クリスマス、ペンテコステ、イースターがあるではないか、と反論されそうです。しかし、私たちは、そのような日に、縛られてはいません。

そのような日によって、自由を奪われていません。

クリスマスだけに、キリストがいるのではありません。ペンテコステだけに、聖霊が臨在するのではありません。

それぞれの記念日は、与えられている恵みを、想い起して、感謝する日なのです。

日にち、それ自体に、魔術的な意味が、あるのではありません。

祭りも、儀式も、私たちの救いには、直接関係はありません。

私たちの希望、喜び、生きる力。それらは、すべて、キリストから、直接、来るのです。

キリストによって、罪赦され、新しい命に、生かされている。そのことが、すべてなのです。

御言葉は言っています。律法主義は、キリストの福音という、まことの救いの影に過ぎない。まことの光が、未だ見えなかったときには、影だけが見えていた。しかし、まことの光が来た時、影は消え去るのです。

まことの光が来ているのに、未だ影を追っている、律法主義者たち。

生きて、働かれている、キリストを見ないで、実体のない影だけを、見つめている律法主義者たち。彼らは、本来、生きるべき、生き方をしていません。

それは、地図を、誤って使っているようなものです。

地図とは、目的地を、知るために、用いるものです。目的地の位置を知り、そこへの、道筋を示すのが、地図の役割です。

でも、律法主義者たちは、地図本来の役目である、目的地を見ることなく、地図の上に書かれた、標識や印だけに、目を奪われてしまったのです。

この標識はどういう意味だろうか、この印はどういう意味だろう。そんなことばかりに、気を取られて、本質を見ることが、出来なくなっていたのです。

どうして、そうなってしまったのでしょうか。彼らは、神様のことを、間違って、捉えていたからです。彼らのイメージする神様は、いつも人間を見張っていて、失敗すれば、それ見たことか、と指摘するような、厳しいだけの神様だったのです。

そんな神様を、イメージしている人生には、活き活きとした喜びも、将来への希望もありません。でも、聖書が語る神様は、そんな神様ではありません。

失敗した時、「神様、失敗しました、助けてください」、と叫べば、「仕方がないなぁ」と言って、手を差し伸べて、助けてくださるお方なのです。

嵐の湖で、主イエスを疑ったために、溺れかかったペトロは、思わず叫びました。「主よ、助けてください」。主イエスは、近寄って、手を差し伸べて、ペトロを、助けてくださいました。

ゲツセマネで、主イエスを、見捨てて、逃げ去った弟子たち。三度も、主イエスのことを、知らないといったペトロ。そんな弟子たちのところに現れた、復活の主イエスは、弟子たちを叱ったり、非難したりする言葉を、一言も仰いませんでした。

ただ「あなた方に、平安があるように」、と祈られて、失意と、不安の中にいる、弟子たちを励まされたのです。

皆さん、私たちが信じている神様は、私たちの弱さを、受け入れてくださるお方です。失敗や挫折を、咎めるのではなく、赦してくださるお方なのです。

勿論、甘いだけのお方では、ありません。

不正や、不義や、邪悪な行いには、激しい怒りを、示されます。しかし、その怒りも、愛の怒りです。憎しみの怒りではありません。

過ちを犯した私たちが、立ち返ってくることを、願っておられるのです。

そして、私たちが、「主よ、弱い私を、お赦しください」、と言って、立ち返るなら、無条件で、受け入れ、赦してくださる、お方なのです。

あの、放蕩息子の帰りを、ひたすら待ち続け、帰ってきた息子を、無条件で迎え入れた、父親の姿。それが、私たちの神様のお姿です。

神様を、ただ厳しいだけの、裁きの神様、としか捉えていないと、律法主義に陥ります。

戒律を、全部守らなければ、救われない、という強迫観念に、囚われてしまいます。

熱狂主義も同じです。幻が見られなければ、救われないのではないか。天使を、この目で、しっかりと見て、礼拝しなければ、いけないのではないか。

そんな思いに、自らを追い込んでしまい、結局、神様の愛から、離れていってしまうのです。

行き過ぎた禁欲主義も同様です。神様に、気に入られるために、難行苦行して、体を痛めつける。自分の失敗は、自分で罰しようと、するのです。

そうすれば、神様の裁きから、逃れられる、と思っているのです。自分で、自分を罰すれば、赦される。自分の罪は、その程度の軽さだと、思っているのです。

いずれも、神様を誤解しています。神様は、そんなことを、望んでおられません。

神様が、望んでおられること。それは、私たちの失敗も、挫折も、すべて主イエスが、十字架において、償ってくださった。その愛の御業を信じて、感謝して、受け取ることなのです。

そして、赦された者として、活き活きとした、喜びの生き方を、生きていくことなのです。

律法主義、熱狂主義、禁欲主義。これら三つには、共通点があります。

それは、いずれも、自分の力で、救いに至ろうとしていることです。

自分の努力で、戒律を守り、自分の力に頼って、幻を見て、自分自身で、罪の償いを行なおうとしているのです。

しかし、そのように、自分の力、自分の功績に、頼っていくうちに、いつしか、人は、高慢になっていきます。表面で、謙遜を装っていても、それは、独りよがりの、偽りの謙遜なのです。

律法主義者は、私は、様々な掟を、すべて守っている、と言って、自分の行いを誇ります。

熱狂主義者は、自分は、天使を見た、幻を見たと、自分の信仰を誇ります。

禁欲主義者は、自分は、こんなに難行苦行をして、自分の罪を償っている、と自己犠牲を、誇ります。

そのように、自分の行為を、誇っている限り、主イエスの十字架の救いを、自分のものにすることは、出来ません。十字架の贖いの尊さを、本当に受け入れることは出来ないのです。

私たちは、自分の力で、自分を救うことは出来ません。

オリンピックの重量挙げで、金メダルを取った、世界一の力持ち。200キロを、軽々と持ち上げる選手が、100キロ程度なのに、持ち上げられない、唯一のものがあります。

何でしょうか。それは、自分自身です。

どんなに力持ちでも、自分で、自分を持ち上げることは、できません。

でも、赤ちゃんでも、飛行機に乗れば、空高く飛ぶことができます。救われるということは、主イエスという、飛行機に、乗せていただくことなのです。

自分の力では、せいぜい数メートルしか、飛び上がることが、出来ません。でも、主イエスという飛行機に乗れば、何千メートルの上空まで、一気に上ることができます。

その時は、太っていようが、痩せていようが、大人であろうが、赤ちゃんであろうが、全く違いはありません。私は、痩せているから、飛行機に乗って飛べるけど、あなたは太っているから、飛べない、などということはありません。

主イエスという飛行機に乗る時、私たちの資質や、私たちの力など、問題ではなくなります。

それなのに、尚も、自分の力や、自分の行いを、誇ろうとするのは、滑稽です。

自分の行いを誇る気持ちを、全く捨て去って、ただ、キリストの十字架の、恵みによってのみ、救われることを、受け容れなければ、救いには、入れられないのです。

パウロは、自分の行いや、力を、誇ろうとする人たちの、思い上がりに、惑わされてはならない。その人たちに、あれやこれやと、言わせてはならない、と忠告しています。

パウロ自身も、自分の賜物や、伝道の成果、を誇ることを、しませんでした。

人間的に見れば、パウロは、多くの、誇るものを、持っていました。

人々が、羨むような、知識や、地位や、血筋に、恵まれていました。でも、自分については、ただ弱さのみを、誇ったのです。このパウロの謙遜こそが、救われた者の姿です。

日本キリスト教海外医療協力会という団体から、パキスタンの聖ラファエル病院に派遣され、6年間に亘って、現地の人たちに仕えた、青木繁という小児科の医師がいます。

この医師は、まだ若い、前途有為な青年医師です。

もし、日本にいたなら、収入も、地位も、尊敬も、望むままに、得られただろうと思います。

その人が、それらすべてを投げ出して、パキスタンの子供たちのために、テロの脅威や、不十分な施設、人々の無理解という、困難な環境の中での、医療活動に、身を投じたのです。

その青木医師が、現地から送ってきた、活動報告には、こんなことが書かれていました。

「主イエス様に従い、ただ神の道具として働きたいと願いつつも、自分の利己心と虚栄心によって、キリスト者としての歩みを妨げられています。どうぞお祈りください。」

誇ろうとすれば、誇ることは、山ほどもある、この青年医師の、あまりの謙虚さに、私は、全く打ち砕かれました。そして、自分自身の傲慢さを、改めて示されました。

私たちは、自己満足を、覆い隠すような、偽りの謙遜に生きるのではなく、自分の弱さも、欠けも、失敗も、すべてを、十字架の主に、明け渡して、活き活きとした喜びと、確かな希望に、生きていきたいと思います。

私たちを、無条件で、無制限に、赦してくださる、主イエスに、しっかりと繋がって、成長していきたいと願います。

その愛の主、イエス・キリストが、来てくださった、クリスマスが、近づいています。

ご一緒に、祈りつつ、恵みの時に、備えてまいりましょう。