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柏牧師:過去の礼拝説教

「戸を開けて主をお迎えしよう」

2016年12月25日 聖書:ヨハネの黙示録 3:20

皆さん、クリスマス、おめでとうございます。

アドベントクランツの、真ん中の、大きなロウソクに、火が灯されました。

先週まで、一本ずつ、ロウソクの火を、増やしながら、このクリスマスの時を、待ち望んできました。救い主の、ご降誕をお祝いする、この時を、待ち望んできました。

でも、待っていたのは、私たちだけではありません。実は、私たちのことを、ずっと待っておられるお方が、おられるのです。私たちこそ、待たれているのです。

私たちを、待っておられるお方。その方は、2千年前、貧しい、僕のお姿で、家畜小屋に、お生まれになりました。そして、飼い葉桶に、寝かされました。

飼い葉桶という、最も低い所に、お生まれになったお方は、最後は、十字架にまで、徹底して、降りて行かれました。

ところが、そのお方は、神ご自身であったのです。主イエスという、神ご自身であったのです。神様が、そこまで、低くなられたのです。

では、その、低く降られた、主イエスは、今、どうしておられるのでしようか。

今朝の御言葉は、語っています。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」。

神の御子イエス様は、低く、小さくなられて、「飼い葉桶」に降られました。そして、すべての人を、神の御国へと、招いてくださいました。

また、十字架にまで、降りて行ってくださり、救いの御業を、なし遂げてくださいました。

その主イエスは、今、「戸口に立って、たたいている」、と語りかけておられます。

なぜ、戸口に立って、たたいておられるのでしょうか。

それは、この「戸口」こそが、現代の、最も低いところだからです。

御言葉は、言っています。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」。

この戸は、私たちの、心の戸です。主イエスは、私たちの、心の戸を、たたいておられるのです。私たちが、心の戸を開けるのを、待っておられるのです。

待たれているのは、実は、私たちの方なのです。

ベツレヘムの家畜小屋。そこは、暗く、冷たく、汚いところです。

そこに、降られた主イエスは、今、同じように、暗く、冷たく、汚れた、私たちの心の戸口にまで、降られて、その戸を、たたいておられるのです。

今、戸が、たたかれています。なぜなら、戸が、閉められているからです。

開いている戸を、たたく必要はありません。

閉められた戸口の、内側は、真っ暗な闇です。私たちは、今、その闇の中にいます。

誰もが、心の奥底に、闇を抱えているからです。

誰もが、心の片隅に、孤独を感じています。人生の空しさに、心を寒くする時があります。

重荷を背負って、人知れず、悩むことがあります。

他人の言葉や行いによって、心に深い傷を受けて、涙することがあります。

世の中の、不条理に、言いようのない、怒りと失望を、覚える時があります。

そんな時、私たちの心は、暗闇に覆われています。

でも、皆さん、大丈夫なのです。「飼い葉桶」にまで、低く降られて、十字架で、命を与え尽くして、私たちを救ってくださった、主イエスが、私たちの、心の戸口に立って、たたいておられるからです。

主イエスが、私たち一人ひとりの所にまで、低く、低く、降って来られています。

今、私たちが、心の戸を開いて、主イエスを、お迎えするなら、主イエスは、すぐに、私たちの心に、入って来てくださいます。

ですから、主イエスが、戸をたたいておられる音を、主イエスが、呼び掛けておられる声を、聞き漏らすことが、ないようにしたいと思います。

そして、主イエスに向かって、私たちの心の戸を、大きく開きたいと思うのです。

では、私たちが、心の戸を開いた時、どんなことが起こるのでしょうか。

聖書はこう告げています。 「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。

私たちが、心の戸を開ければ、主イエスは、中に入って来られて、私たちと、「食事を共にする」、と言われています。食事を共にするとは、親しい、打ち解けた交わりを、意味します。

私たちが、神様と、そのような、親しい交わりを、持つことができるために、主イエスは、低く、低くなられて、私たちのところにまで、来てくださったのです。

主イエスと共にする食事。それは、信頼し合った者たちが、共にする「交わりの食事」です。

それは、「喜びの食事」です。そして、また、「神の国の食事」です。

この後、私たちが、ご一緒に祝う、聖餐式は、この神の国の食事を、先取りしたものです。

しかし、私たちは、直ぐに、主イエスに対して、戸を閉ざしてしまいます。

主イエスを、客間に迎え入れようとせずに、家畜小屋に、押し込めてしまおうとします。

そして、主イエスを、待たせ続けてしまいます。

主の救いを、受け入れることを、ためらってしまいます。また、洗礼を受けた後でも、しばしば、戸を閉じてしまうのです。

「戸をたたくキリスト」。それは、主イエスの、ご生涯全体を、表しています。

クリスマスの晩も、主イエスは、人々から、戸を閉ざされ、客間ではなく、家畜小屋でお生まれになりました。

また、福音を宣べ伝えて、各地を旅された時も、「人の子には枕するところがない」、と言われました。私たち人間は、主イエスに対して、なかなか、戸を開けようと、しないのです。

そして、地上のご生涯の最後は、エルサレムの「門の外」で、十字架にかかられました。

十字架は、私たち人間が、主イエスを、拒絶したということを、はっきりと示しています。

ですから、「戸をたたくキリスト」とは、十字架にかかられた、キリストのお姿です。

主イエスは、十字架で、傷ついた御手をもって、私たちの戸を、たたいておられるのです。

それは、「どうか、戸を開けてください」という、神様の願いです。神様の、切なる願いの、ノックなのです。それにも拘らず、私たちは、なかなか、戸を開けようとはしません。

では、どうしたらよいのでしょうか。どうすれば、戸を、開けることができるのでしょうか。

主イエスの愛に、触れるのです。拒絶する私たちを、尚も赦して、戸をたたき続ける、主イエスの熱き愛に、触れるのです。

その熱き愛に触れて、私たちの心にある、凍てついた氷の壁を、溶かしていただくのです。

私たちを赦し、私たちを救うために、命を懸けてくださった、主イエスの愛。

この熱い愛の現実に、触れる。それ以外に、戸を開く術は、ないと思います。

主イエスは、今も、私たちの戸を、たたき続けておられます。これは、主イエスが、私たちを、諦めていないということです。どうでもいい、と思ってはいないのです。

熱い関心を、私たちに注いで、くださっているのです。あなた方は、どうでもいいものではない。あなた方は、「私の大切な子なのだ」、と言われているのです。

そのために、主イエスは、ご自身を、ささげてくださったのです。

主イエスは、命懸けで、私たちの罪を、帳消しにしてくださいました。そして、永遠の命という、素晴らしいプレゼントを、用意してくださいました。

主イエスは、今、そのプレゼントを、受け取って欲しい、と言って、待っていてくださいます。

どうか、戸を開けて、この救いのプレゼントを、受け取って欲しい。これは、あなたのための、プレゼントなのです。そう言って、皆さんの心の戸を、たたき続けておられます。

皆さん、復活されたイエス様が、弟子たちに顕れた時のことを、想い起してください。

捕まることを恐れた、弟子たちは、部屋の鍵を、全部掛けていました。

でも、復活された主イエスは、その部屋に、スーと入って来られたのです。

復活された主イエスは、鍵がかかっている部屋にも、自由に出入りできるお方なのです。

ですから、私たちの心の戸を、たたき続けて、私たちが開けるのを、待つ必要など、本当はないのです。

入ろうと思えば、いつでも、私たちの心の中に、入って来ることができる、お方なのです。

でも、主イエスは、そうされないのです。主イエスは、私たちが、自分で、自分の心の戸を、開けることを、願っておられるのです。

私たちが、自分で、心の戸を開けるまで、待っておられるのです。私たちの、愛の応答を、求めておられるのです。

全能の主は、私たちの心の戸を、こじ開けて、入ろうとされるなら、いとも簡単に、入ることが出来るお方です。

全能の御力によって、私たちの心をこじ開け、支配し、従わせることが、出来るお方です。

しかし、主は、そうはされないのです。そして、ただひたすら戸をたたいて、待ち続けておられるのです。私たちの応答を、ひたすら待ち続けて、くださっているのです。

それは、私たちと、愛の交わりを、されたいからなのです。命令で戸を開ける時、そこには交わりはありません。命じる者と、従う者との間には、主従関係があるだけです。

また、力づくで、こじ開けたとしても、やはりそこには、交わりはありません。支配する者と、支配される者の、関係があるだけです。

主イエスは、私たちが、心から、主を迎え入れることを、望んでおられるのです。そこにこそ、本当の愛の交わりがあるからです。

全能の神様は、本来、私たちの助けや、協力など、一切必要とされないお方です。

それが全能ということです。でも、その全能の神様が、ただ一つだけ、私たちの協力を必要とされ、それを切に望まれていることがあります。

それは、私たちが、神様の愛に応答することです。神様の愛に応えて、戸を開けることです。それだけは、私たちの協力を、必要とするのです。

だから、私は、いつまでも、戸をたたき続けるのだ、と主は言われているのです。

有名な絵にもあるように、キリストがたたいておられる戸は、外側に、ドアノブが付いていません。内側からしか開けられない戸なのです。私たちが開けなければ、戸は開かないのです。私たちは、戸をたたいてくださる、主イエスを、喜んで、迎え入れたい、と思います。

皆さんが、まだ少年・少女だと、想像してみてください。お母さんが、皆さんが、欲しくてたまらない物を、プレゼントしようと思って、家の外に立っています。

両手いっぱいに、プレゼントを持っています。そのプレゼントは、とても壊れ易いものなので、お母さんは、家のドアーを開けることができません。

両手が塞がっていて、チャイムも鳴らせません。ですから、お母さんは、皆さんが、家の戸を開けるのを、じっと待っています。

外は、凍えるように寒くて、しかも、土砂降りの雨が、降っています。でも、お母さんは、プレゼントを手にしたまま、じっと待っています。

壊れることを覚悟で、プレゼントを手放せば、中に入れます。でも、そのプレゼントは、皆さんが、欲しくてたまらないものなのです。

ですから、お母さんは、決して手放しません。冷たい雨に打たれて、凍えてしまいそうになるのを、必死にこらえて、外で待っています。

温かい部屋の中で、テレビのお笑い番組を見ている、皆さんは、それに気がつきません。

でも、お母さんの帰りが、余りにも遅いので、心配になって、ようやく玄関の戸を開けます。

そこで、皆さんは見るのです。ずぶ濡れになって、凍える寸前のお母さんの姿を。

お母さんは、消え入るような声で、「はいこれ、あなたが欲しかったプレゼント」と言って、プレゼントを手渡そうとします。

そんな時、あなたは、どうしますか。「そんなもの要らない」、と言って、戸を閉めてしまいますか。そんなことはしない筈です。

「お母さんどうしたの!早く家に入って」、とお母さんを、部屋に入れるでしょう。

では、お母さんではなくて、主イエスが、ずっと戸の外で待っていてくれたなら、どうしますか。主イエスが、罪の赦しと、永遠の命という、皆さんが、一番欲しいプレゼントを持って、雨の日も、風の日も、ずーと待っていてくれたら、どうするでしょうか。

「結構です。私には、あなたの救いは必要ありません」。そう言って、戸を締めますか。

それとも、「ありがとうございます。どうか、中に入ってください」と言って、主イエスを、心の中にお迎えして、プレゼントをいただきますか。

イエス様を、心にお迎えするか、それとも、そのまま外で、ずーと待たせたままにしておくか。それによって、私たちの生き方が決まります。主イエスが、戸をたたいている、ということは、私たちに、問いかけておられる、ということです。

これからも、主イエスに、心を閉ざして生きるか。それとも、これからは、主イエスに、心を開いて生きるか。そのことが、問われているのです。

皆さん、私たちは、心を全開にして、主イエスを、お迎えしようではありませんか。

主イエスを、心にお迎えして、主イエスと共に歩む時、私たちの心には、救いの喜びと、平安が満ち溢れます。

その時、クリスマスの本当の恵みが、私たちの内に実現するのです。

クリスマスは、そのように、主イエスを、救い主として、私たちの心に、お迎えする日なのです。

この後、ご一緒に賛美する、讃美歌430番の3節は、こう歌っています。

「わたしのために 死んだイエスの その憐みを なぜ拒むか  かたく閉ざした 戸を開いて 心の中に 主を迎えよう」。

今朝、この讃美歌を、私たち自身の言葉として、心から賛美したいと思います。