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柏牧師:過去の礼拝説教

「主に喜ばれる生き方」

2016年12月18日 聖書:コロサイの信徒への手紙 3:18~4:1

アドベントクランツの4本目のロウソク、愛のロウソクに、火が灯されました。

暗闇に光が差し込むように、私たちのところに、愛の主が来てくださった。そのクリスマスの出来事、愛の奇跡の出来事が、いよいよ近づいてきました。

来週の聖日は、ご一緒に、感謝と喜びをもって、クリスマス礼拝をささげます。

2千年前に、ユダヤのベツレヘムで、一人の幼な子が生まれました。

その時、貧しい夫婦に、部屋を用意する家は一軒もなく、若い夫婦は、家畜小屋でその幼な子を産み、飼い葉桶にその子を寝かしました。

暗くて、寒くて、汚い家畜小屋。柔らかいベッドではなくて、堅くて、寝心地の悪い飼い葉桶。

最悪の条件での、出産でした。でも、そこには、平和と、喜びが、満ち溢れていました。

なぜでしょうか。そこに、愛があったからです。そこに、感謝があったからです。

ヨセフとマリア。この若い夫婦は、お互いを、そして生まれ来た幼な子を、心から愛していました。そして、無事に出産できたことを、神様に、深く感謝していました。

最悪の条件でした。でも、そこには、愛と感謝がありました。粗末な家畜小屋は、平和と喜びに、覆い包まれていたのです。ヨセフと、マリアと、幼な子イエス様。この家族は、世界で一番幸せで、一番祝福された、家族でした。

今朝の御言葉は、このように、幸せで、祝福された、家庭を築くには、どうしたらよいか、ということを、教えてくれています。

ヨセフとマリアと幼な子イエス様の家庭。今朝は、この家庭を、心に思い描きながら、ご一緒に、御言葉から、聴いてまいりたいと思います。

まず、初めに出て来るのは、夫婦の関わりについてです。

18節の御言葉は、言っています。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」。

「仕えなさい」、という言葉に、違和感と、抵抗を感じる方も、おられるかもしれません。

女性の人権を、無視するような言葉だと、感じる方も、おられるかも知れません。

しかし、聖書は、ここで、男女差別をしている、のではありません。

19節では、夫たちに対して、「妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」と語られています。「愛しなさい」、ということは、「仕えなさい」、ということと、同じことです。

相手を心から愛した時には、自然に、その人に、仕えることになるからです。

ですから、「仕える」ということでは、夫も妻も同じなのです。

「幸せ」、という言葉を、「仕え合う」、という言葉を当てて、「仕合せ」、と書くことがあります。

勿論、当て字です。当て字ですけれども、なかなか、いい当て字だと思います。

お互いに、心から仕え合う、そこに幸せが生まれる。それは、間違っていないと思います。

仕え合うことが、家庭の幸せを生み出す。

それは、愛する、ということにおいても、同じです。ですから、ここでは、夫婦は、お互いに仕え合い、愛し合って、生きていくべきである、と言っているのです。お互いに、です。

妻が、夫を愛し、夫に仕える。このことで、想い起こす話があります。

あるクリスチャンの婦人がいました。彼女の夫は、ギャンブル依存症でした。ろくに働きもせず、ギャンブルに明け暮れる、毎日でした。生活費は、ほんの僅かしか、くれませんでした。

彼女は、夫のために、真剣に祈りました。祈りの中で、あることを示されました。

彼女は、一生懸命に内職をして、生活を維持しながら、少しずつ貯金をしました。

生活を切り詰めながら、少しずつ、少しずつ、貯めたお金で、夫の背広を買ったのです。

この背広を着て、まともな仕事に就いて、働いて欲しい。そんな願いを込めて、なけなしの貯金をはたいて、背広を買ったのです。

そして、夫が帰ってくるのを、待ちました。夫が喜んでくれるのを、秘かに期待して、待ちました。やがて夫が帰ってきました。そして、背広を見て、言いました。

「なんだ、これは」。「あなたに着て欲しくて」、と妻が言いました。

すると、夫は、喜ぶどころか、怒鳴りつけたのです。「余計なことをしやがって。そんな金があるなら、俺に使わせろ」。妻は、小さな声で、一言、「すみません」、と答えました。

実は、夫は、嬉しかったのです。涙が出るほど、嬉しくて、感動したのです。

でも、ここで、嬉しがったら、それこそ、自分は、妻に依存している、だらしない男に、なってしまう。そんな気がして、素直になれなかったのです。

ですから、心にもない、怒鳴り声を挙げて、虚勢を張ったのです。

そうすれば、さすがの妻も、逆上して、言い返してくるだろう。そうしたら、殴りつけてでもして、威勢を示してやろう。そんな気持ちで、怒鳴ったのです。

ところが、妻は、言い返すどころか、小さな声で、一言、「すみません」、と言ったのです。

それを聞いた夫は、完全に、打ちのめされました。

「俺の負けだ。どうして、こんなに弱い女房が、こんなに強いんだ」。

夫は、妻の強さの、秘密を知りたいと思いました。そして、その強さは、彼女の信仰から来ることを、知ったのです。

やがて、その夫は、妻と共に、礼拝に出席するようになりました。そして、主イエスに捕らえられ、全く変えられて、真面目に働くようになったのです。

この婦人は、祈りを通して導かれ、徹底して、夫に仕えました。夫を愛し貫いたのです。

そして、遂に、幸せを、掴み取ることが、できました。いえ、主によって、幸せを、与えられたのです。すべてを益としてくださる、主を信頼していたからです。

聖霊によって身籠るという、思いがけない妊娠をした、マリア。もし、そのことを打ち明けたら、あの優しいヨセフも、さすがに逆上して、何をされるか、分からない。

そんな危険を承知の上で、マリアは、主に祈り、主を信頼し、主に委ねました。そしてヨセフに、事実を打ち明けたのです。その結果、思っても見なかった、幸せを、与えられました。

どこまでも、夫を信頼し、夫に仕え、夫を愛し貫く。これは、主に対する、深い信頼なくしては、なし得ないことなのです。

一方、御言葉は、夫たちに対して、「妻を愛しなさい」、と勧めています。私たちは、この言葉を、当然なこととして、読み流しています。

しかし、ここにある、「愛しなさい」、というのは、ただの言葉では、ないのです。

この「愛する」という言葉は、原文では、アガパオーという言葉なのです。

ギリシア語には、愛とか、愛する、という言葉が、幾つかあります。

男女間の愛を表す、エロースという言葉。友情や、人間愛を表す、フィリアという言葉。

家族の間の愛を表す、ストルケ―という言葉。このように、いくつかあります。

けれども、今朝の箇所では、エロースでも、フィリアでも、ストルケ―でもなく、アガペーという愛。その動詞形の、アガパオーという言葉が、使われているのです。

アガペーの愛。これは、本来、人間にはない愛です。神様の愛です。その愛を持って、愛しなさい。と言っているのです。

「妻を愛しなさい」、というのは、ただ愛しなさい、ということではないのです。神様の愛をもって、妻を愛しなさい、と言われているのです。

では、神様の愛とは、どんな愛なのでしょうか。

イエスは、私たちを、限りなく愛してくださり、私たちの罪を赦すために、十字架に架かって、その命を、献げてくださいました。それが、聖書が語る、神様の愛です。

ですから、神様の愛とは、自分に背く者をも、命懸けで、愛する愛なのです。

夫は、そのような愛で、妻を愛しなさい、と勧められているのです。

命懸けの愛、などと言うと、大袈裟に聞こえるかもしれません。けれども、その意味するところは、「自分を捨てる」、ということです。「自分の思いを捨てる」、ということです。

自己中心的な思いからではなく、どこまでも相手の気持を思い、徹底して相手の立場に立って、愛を実践する、ということです。

自分の思いを捨てて、相手を思いやり、相手を労わる愛。私たちは、そのような愛を、マリアに対する、ヨセフの愛の中に、見ることができます。

ヨセフは、許婚のマリアから、突然、妊娠していることを、聞かされました。自分には全く覚えがないのに、婚約者のマリアに、子が宿ったのです。

マリアは、聖霊によって、身籠ったと言っている。でも、そんなことは、とても信じられない。

マリアを深く愛していたヨセフが、どんなに傷ついたかは、容易に想像できます。

傷ついただけではありません。嫉妬と、怒りで、ヨセフの心の中は、荒れ狂ったと思います。

しかし、それでもヨセフは、怒りと嫉妬に任せて、マリアを告発しようとは、しませんでした。

当時の婚約というのは、法的には、結婚と同じ意味を持っていました。

ですから、その期間中に、他の人の子を宿したとすれば、それは結婚後の姦淫と、同じ罪と見做されました。

もし、ヨセフが告発して、マリアが、裁判にかけられたなら、マリアは、姦淫の罪で、死刑にされるのです。ヨセフは、それを望みませんでした。それをしてはいけない。

このマリアを、死なせてはならない。ではどうしたらよいか。今は、事実を公にせず、ひそかに離縁しよう。マリアを、静かに去らせよう。ヨセフは、そう決心したのです。

しかし、離縁した後はどうなるか。やがて離縁したことが、世間に知られる。マリアが身籠っていることも、いずれ分かる。世間の人は、当然それは、ヨセフの子だと思うだろう。

自分の子を、宿らせておきながら、離縁するとは何事か。何と冷たい男か。何と酷い男か。恐らく、ヨセフは、そのように非難されるだろう。

でも、ヨセフは、そういう非難を、甘んじて受けてでも、マリアの命を、救おうとしたのです。

苦悩の末に、ヨセフは、そう決心したのです。

しかし、その苦悩の只中で、ヨセフは、神様と出会ったのです。

夢の中で、ヨセフは、神様のお言葉を聞きました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」

神様は、ヨセフに、マリアと離縁するのではなく、自分の妻として迎えなさい、と言われました。それは、マリアの産む子を、自分の子として、引き受けなさい、ということです。

マリアの産む子を、お前の子として、迎え入れて欲しい。神様がそう頼んでおられるのです。ヨセフは、この神様のお言葉に、従います。しかし、何の抵抗もなく、直ちに従った訳ではありません。

苦しみ、悩んだ末に、「聖霊によって身ごもった」、ということを、信じて、受け入れたのです。

自分の子ではない子を、宿したマリアを、受け入れたのです。神様のお言葉と、マリアの言葉を、信じたのです。自分の思いを、押し殺して、マリアを信じたのです。

それが、マリアにとって、最も良いことだと、示されたからです。これが、ヨセフの、マリアに対する愛でした。自分の思いを捨てても、相手を思いやり、相手を労わる愛です。

これは、普通では、人間には、出来ないことです。人間の愛を超えています。

神様の愛です。神様に、本当に出会った者しか、示すことが出来ない愛です。

今朝の御言葉は、夫に、このような愛を、勧めています。神様の愛、アガペーの愛を勧めています。

ギャンブル依存症の夫を、立ち直らせた、妻の愛。聖霊による子を、自分の子として、受け入れた、ヨセフの愛。これらは、いずれも、神様の愛によって、導かれ、信仰によって、成し遂げられた愛です。

御言葉は、夫婦の間に、そのような愛を、実現するように、勧めているのです。

私たちにとって、とても高い目標です。しかし、高いからこそ、チャレンジするのです。

神様の助けを、祈り、求めつつ、チャレンジしていくのです。本当に幸せな、結婚生活を目指して、一歩一歩、歩んでくのです。それが、私たちの、信仰の歩みです。

さて、夫婦の関係に続いて、次に、親子の関わりについて、教えられています。

「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい」、と書かれています。

この御言葉のモデルは、主イエスご自身です。主イエスの育ての親、ヨセフは、若くして亡くなった、と考えられています。

主イエスは、福音宣教という、大切な使命をお持ちでしたが、家族を養うために、家業を継いで、働かれました。そして、弟たちが成長して、一人前になるまで、家族を支えられたのです。大切な使命があるからと言って、決して、家族を、なおざりにはされませんでした。

両親に従い、家族を養うということは、それ程、尊い使命なのです。

御言葉は、更に、「父親たち、子供をいらだたせてはならない」、と言っています。

子どもを、苛立たせずに育てる秘訣。それは、子供たちを、主に委ねて、育てることです。

勿論、親としての責任を、放棄して良い、という意味ではありません。

ただ、自分の力だけで、育てられる、という傲慢な自信を、持たない、ということです。

そういう、根拠のない自信を持つと、ちょっとの失敗で、絶望したり、落ち込んだりします。

子供は、親の思うようには、なかなか育ってくれません。そのような子育てを、全部自分の手に抱え込んだら、潰れてしまいます。

ですから、自分のできる限りを、尽くした後は、「神様、よろしくお願いします」、と委ねて、心の余裕をもって、育てることが、大切なのです。神様は、必ず最善を、なしてくださいます。

もう一つ大切なことは、親の信念は、子供に、必ず伝わる、ということです。

親が一番大切にしているものは、必ず子供に伝わります。そして、その成長に、大きく影響します。

もし親が、信仰を一番大切にして、生きているなら、それはきっと、子供に伝わります。

子供は、親のことを、よく見ています。ちょっとしたことから、「あー、信仰は、お父さん、お母さんにとって、一番大切なものではないのだ」、と見抜いてしまいます。

ですから、とにかく、礼拝を守ることです。礼拝を、必ず守る。ここを崩したら、信仰は育ちません。ここを守ることは、戦いです。私たちにとって、最も大切なものは、何なのか。

それを、子供に、はっきりと見せることが、大切なのです。

親の信念は、必ず子供に伝わります。「主を信じる者」として、誠実に、信仰に生き続ける。

その姿を、見てもらう以外には、親としてできることは、ないと思います。

それが、最も大切な、生きた教育なのだと思います。

次に書かれている、主人と奴隷の関係は、現代の私たちには、縁遠いものです。

でも、当時の社会は、奴隷制度の上に、成り立っていました。ですから、家庭の中に、奴隷がいることは、珍しくなかったのです。

ただ奴隷は、物として、扱われていました。奴隷の人格は、認められていなかったのです。

そのような社会にあって、奴隷は、主人に、「真心を込めて従い」、主人は奴隷を、「正しく、公平に扱う」、という勧めは、考えも付かないことであったのです。

主人と奴隷の関係については、時間の関係で、多くは語れません。ただ、夫婦関係にしても、親子関係にしても、或いは、主人と奴隷の関係にしても、核になっている教えがある、と御言葉は言っています。それは、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」、ということです。これに尽きるのだ、と言っています。

自分の目の前にいる人を、主イエスだと思って、真心を込めて、仕えるのです。

その人の中に、主イエスご自身を、見るのです。

インドの聖人と言われた、マザー・テレサは、目の前にいる人は、キリストなのだ。

小さなキリストなのだ。苦しむキリスト、病めるキリストなのだ、と言いました。

その人の中に、主イエスを見ていたのです。

聖書は、言っています。あなた方と考えを異にするひともいるだろう。でも、キリストは、その兄弟のためにも、死なれたのです。どんな人も、神様の、限りない愛の対象なのです。

その人のためにも、キリストは、死なれた。そううであれば、その人の中に、キリストは、生きているのです。

ですから、人に対してではなく、主に対してするように、接しなさい、と御言葉は、勧めているのです。もし、それが、少しでもできるなら、その人間関係は、豊かな愛で、潤います。

「人に対してではなく、主に対してするように」。私たちは、この御言葉を、どんな人との関係においても、いつも心に抱いて、接していきたいと願います。

私たちに仕えるために、自らを、極限まで低くされて、飼い葉桶に、生まれてくださった、主イエス。私たちの汚れた足を、身を屈めて、朝毎に洗ってくださる、主イエス。

その主イエスを愛し、その主イエスに、仕える思いをもって、すべての人に、接していきたいと願います。