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過去の礼拝説教

「夜であった」

2017年01月29日 聖書:ヨハネによる福音書 13:21~30

今朝は、十二弟子の一人である、イスカリオテのユダについて、ご一緒に考えてみたいと思います。ユダは、主イエスが、「ご自分の者」、として愛された、十二弟子の一人として、選ばれた人です。

ルカによる福音書の6章には、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」、と書いてあります。

十二人を選び、使徒として立てられるために、主イエスは、徹夜で祈られた、というのです。

また、マルコによる福音書の3章には、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた」、と記されています。

ここにある「これと思う人々」という言葉は、以前の口語訳聖書では、「みこころにかなった者たち」と訳されていました。主イエスが選ばれた十二人は、「これと思う人たち」、「みこころにかなった者たち」であったのです。

つまり、主イエスは、徹夜の祈りをされて、御心にかなった者たちを、召されたのです。

このことから分かるのは、主イエスが、弟子を選ぶ基準は、頭が良いとか、財産をもっているとか、人生経験が豊かだとか、そういうような、人間的な基準ではない、ということです。

その基準とは、主イエスの、祈りと御心なのです。主イエスの、祈りと御心によって、12人は選ばれたのです。

使徒とは、「遣わされた者」、という意味です。代理人としての、権限を与えられて、遣わされた人のことです。いわば、全権大使のような人のことです。

そして、私たち、すべてのキリスト者は、その使徒に与えられた、全権大使としての使命を、受け継ぐ者なのです。

そんな大それたこと、とても出来ない、という思いが湧いてきます。

しかし、良く考えてみますと、当時のペトロやヤコブは、主イエスの弟子になって、僅か2~3年でした。信仰暦からすれば、私たちの方が、遥かに長いかも知れません。

そういう人たちに対して、主イエスは、私の全権大使になりなさい、と言われたのです。

しかも、この人たちは、無学なガリラヤの漁師や、人々から嫌われていた、徴税人たちでした。そのような人たちを、主イエスは、遣わされたのです。

常識から考えれば、これは無謀です。しかし、主イエスの目には、決して、無謀ではなかったのです。

なぜなら、その選びの背後には、主イエスの徹夜の祈りと、切なる御心があったからです。

私たちが、選ばれて、キリスト者とされ、伝道に遣わされる。これも同じことです。

私たちを、選んでくださるためにも、主イエスは、夜を徹して、祈られたのです。

ペトロは、後に三度も、主イエスを知らないと言って、主を否んだ人です。

そのペトロを選ぶために、主イエスは、どれほど長く、祈られたことでしょうか。

それどころか、主イエスを裏切った、イスカリオテのユダも、選ばれたのです。

主イエスは、ユダの弱さを、知っておられました。このユダのために、主イエスは、どんなに深く祈られたか、想像も付きません。

そうであるなら、私たちが選ばれるためにも、主イエスは、夜を徹して、祈られた筈です。

皆さん、私たちは、自分が選ばれるためには、ペトロよりも長い祈りなど必要ない、と言えるでしょうか。ペトロよりも、少ない祈りで十分だ、と言える人が、一人でもいるでしょうか。

また、ユダよりも、少ない祈りで結構です、と言える人が、一人でもいるでしょうか。

私たちは、ペトロよりも、ユダよりも、多く祈って頂いたのです。だからこそ、今、こうして、教会に呼び集められて、神様の御業に、参加させて、頂いているのではないでしょうか。

それを知ったならば、主イエスの祈りに、少しでも応えていきたい。主イエスの御心を、少しでも実現していきたい。そのように願う者と、されるのではないでしょうか。

さて、今朝の御言葉は、このように語り始めます。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている』」。

主イエスは、心を騒がせた、と書かれています。弟子に裏切られるのですから、心が痛むのは当然です。人間関係の中で、最も辛いことは、愛する人に、裏切られる事です。

主イエスにとって、ユダは、心から愛する、弟子でした。主イエスが、この上なく、愛し抜かれた、弟子の一人であったのです。

だからこそ、そのユダに裏切られることは、辛く、悲しいことでした。

21節以下の御言葉を読んでまいりますと、驚くのは、弟子たちが、最後まで、ユダが裏切る、ということに、気づいていないことです。なぜなのでしょうか。

主イエスは、ユダの中に、裏切りの思いがあることを、早くから、知っておられました。

それにもかかわらず、主イエスの、ユダに対する態度は、他の弟子たちに対する態度と、少しも変わりませんでした。これは考えてみると、驚くべきことだと思います。

どんなに太っ腹の人でも、自分を裏切ると、分かっている者に対して、平然と接することなど、できるものではありません。

しかし、主イエスは、ユダが裏切ることを知りながら、他の弟子たちと、何ら変わりなく、ユダを愛され、彼の足をも、洗われたのです。

他の弟子とは違って、ユダとは距離を置く。そういうことは、なさいませんでした。

それで、他の弟子たちも、ユダの様子がおかしい、などとは全く思っていなかったのです。

もう一つ、はっきりしていることは、ユダは、際立った悪者ではなかった、ということです。

ユダは、皆と同じだったのです。いえ、皆と同じどころではありませんでした。弟子たちの中でも、信頼されていたのです。

29節に、「ユダが金入れを預かっていた」、と記されています。

主イエス一行の会計係を、ユダがやっていた、というのです。教会や他の団体でも、会計を担当する人は、皆に信頼されている人です。

ですから、ユダが、飛び出して行った時も、祭りの準備をしに行くのか、もしくは、いつものように、貧しい人への、施しをしに行ったのだ、と思っていたのです。

更に、もう一つ、忘れてはならないことがあります。それは十二弟子の誰もが、それぞれ自分に思い当たるものを、心に秘めていた、ということです。

主イエスを、裏切ろうとする思いは、ユダだけが、抱いていたのではありません。

多かれ少なかれ、同じ思いが、他のすべての弟子たちの内にも、潜んでいたのです。

ですから、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」、と言われた時、十二弟子の皆が、「自分のことを言われたのではないか」、という不安を、抱いたのです。

そして、それを、必死に打ち消そうとして、お互いに、顔を見合わせたのです。

他の弟子たちも、ユダと同じような闇を、心の片隅に、持っていたのだと思います。

この時、「弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者」が、主イエスの、すぐ隣の席に、着いていました。

この「イエスの愛しておられた者」が、誰であるかは、今も、議論があります。

しかし、伝統的には、この「愛弟子」とは、ゼベダイの子ヨハネである、とされています。

この人に、ペトロが、合図を送りました。

主イエスは、一体、誰について、言っておられるのか。それを、尋ねるようにと、合図を送ったのです。「合図をする」という言葉は、「頭を振って指図をする」、という意味の言葉です。

親しい者たちの間で、私たちが良くする仕草です。

そこで、この弟子が、主イエスの胸もとに、寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」、と尋ねました。すると、主イエスは、「わたしがパン切れを浸して、与えるのがその人だ」、と答えられました。

「イエスの胸もとに寄りかかる」、という表現は、少し分かり難い、かもしれません。

当時の食事は、椅子に座るのではなくて、横になってしていたそうです。左肘をついて、右手を伸ばして、パンや杯を取ったのです。

そうやって、弟子たちは、横になって、グルッと輪を作るようにして、食事をしていました。

主イエスの、右側というのは、特に近い者の席です。そこにヨハネが、横になっていました。その頭は、主イエスの胸元の、すぐ近くにあったのです。

恐らく、ユダは、主イエスの、直ぐ左隣にいたのでしょう。

ですから、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」、という主イエスの言葉。

この言葉は、「誰だ、誰だ」と、つぶやき合っている、騒々しさの中で、ヨハネとユダだけに、聞き取ることが、出来たのだと思います。

ここで、もう一つ確認したいことは、パンを浸して、渡すというのは、主イエスが、いつもなさっておられた、ということです。この行為は、親密さの表現でもありました。

まるで、父親が、子どもたちに、食べ物を与えるように、しばしば主イエスは、弟子たちに、パンを与えておられました。

この時も、さりげない様子で、ユダにお渡しになったので、弟子たちは、特別のこととは思わず、気づかなかったのだろうと思います。

いつも、弟子たちに、与えてくださっているように、ユダに与えられた。これは愛の行為です。主イエスは、ここで、ユダに対して、最後の愛の、訴えをなされたのです。

それなのに、なぜユダは、裏切ったのでしょうか。その心の中に、何があったのでしょうか。

なぜ裏切りの思いが、生まれたのか。そのことについて、福音書は、何も書いていません。

ですから、確かなことは、分かりません。それで昔から、様々な推測が、なされてきました。

最も広く語られているのは、こういう見方です。ユダは、主イエスに対して、政治的英雄のイメージを、抱いていた。しかし、それが叶わなかったので、失望して裏切ったという説です。

しかし、福音書は、ユダの裏切りの理由を、はっきりとは、書いていません。

なぜ書かなかったのでしょうか。

ある人が、裏切りというのは、厳しい拷問や、甘い誘惑によって、起こされるとは限らない。

それは、私たちの日常の、どこにでも、起こり得ることなのだ。実に裏切りは、枯葉が一枚落ちただけでも、起こりうるのだ、と述べています。

裏切りとは、どのような時にも、どのような理由によっても、起こり得ることなのです。

ですから、敢えて、その理由を書かなかった、とも考えられます。

私たちは、「裏切り」とは、最も非道な、振る舞いである、と捉えています。

ですから、ユダという名前は、極悪非道な人間の、代名詞のように、なっています。

しかし、ここで、注意しなくてはならないことは、そのように考えることによって、私たちが、ユダを、特別な人に、してしまってはならない、ということです。

ここで、御言葉が、私たちに、伝えようとしていることは、何でしょうか。

それは、弟子たちの群れの中にも、そして教会の中にも、必ず、一致を乱す者がいる。

そういうことを、言おうとしているのではありません。

そうではなくて、主イエスに従っている者であっても、誰もが、ユダとなり得る、ということです。ユダと同じように、サタンの力に、捉えられてしまうことがある、ということです。

私たちは皆、主イエスを信じて、光の中を歩む生き方と、サタンに支配されて、闇の中を歩む生き方との、瀬戸際に、いつも立たされているのです。

ユダを始めとする、弟子たちの裏切りの行為は、彼らの心を支配する、サタンの仕業に、他なりません。そのサタンの仕業を、象徴するものが、夜の闇です。

30節の、「夜であった」、という言葉が、弟子たちの心の闇を、浮き彫りにしています。

「夜であった」、と書かれています。夕食を取っていたのですから、夜であった、ということは当たり前です。しかし、福音書記者ヨハネは、そう書かずには、おれなかったのです。

この「夜」は、ユダの心の中にある、闇を表しています。

しかし、また同時に、この「夜」は、私たち一人一人の、心の中にある、闇をも表しています。

主イエスが、ご自分の者として、愛して、この上なく愛し抜かれた者たちの、闇です。

主イエスによって、愛し抜かれている者たちの闇です。

ここで主イエスは、ユダに対してだけは、その無限の愛を、出し惜しみされた、とは書いてありません。ユダもまた、私が愛し抜いている者の一人だ、と言われているのです。

私の愛する者の一人を、闇が捕らえている。

この時、主イエスには、ユダに対する、深い悲しみが、あったと思います。

同じように、私たちが、主イエスを裏切るときに、私たちに対する、主イエスの、深い悲しみがあります。私たちも、何度も、繰り返して、主イエスを、裏切っています。

主イエスの御心を、知りつつ、それに従おうとせず、裏切り続けています。

私たちの、心の奥底にある、主イエスの、御心を裏切る思い。それは、まさに夜の闇です。

「夜であった」。この短い言葉から、示されることは、自分の心の中にある、夜の闇を、しっかりと見つめることです。

しかし、皆さん、その夜は、必ず明けるのです。闇は、消え去るのです。

朝日が昇ると、夜の闇が、さっと消え去るように、私たちの、心の闇も、消え去るのです。

なぜなら、そこに、十字架の光が、差し込むからです。十字架から注がれる、赦しの光が、差し込むからです。

主イエスが、十字架で献げられた、私たちに対する、執り成しの祈り。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

この祈りが、私のために献げられた、執り成しの祈りである、と受け取る時、私たちの心の闇に、光が差し込みます。

その光によって、私たちは、見るのです。何を見るのでしょうか。

自分の足を見るのです。主イエスが、命を懸けて、洗ってくださった、自分の足を見るのです。そして、私たちは、知るのです。そうだ、私は、既に、足を洗われている者なのだ。既に、赦されている者なのだ。そのことを、知るのです。

私たちの、心の闇を、消し去るのは、十字架から、差し込んでくる、この赦しの光だけです。

そして、その光は、復活の希望の光と相まって、更に輝きを増して、心の隅々まで、照らすようになります。

主イエスが、十字架の上で、献げられた、執り成しの祈り。ユダは、その祈りを、知ることなく、自らの命を絶ってしまいました。

もし、ユダが、この主イエスの、執り成しの祈りを聞いていたなら…。心から、そう思わずに、いられません。

もし、ユダが、十字架の主イエスを見上げ、そして、自分のために、献げられた、あの執り成しの祈りを、聞いたなら、ユダは、きっと、知らされた筈です。

「これが、まことの救いなのだ。ここにこそ、まことの救い、まことの生きる道がある。

ローマの圧政からの解放。そんな、一時的な解放ではなく、まことの解放が、ここにある。

まことの光が、ここから差し込んでいる。この光の中で、生きていこう。」

ユダは、きっとこのような思いをもって、十字架のもとに、ひれ伏したと思います。

そして、赦された者として、足を洗われた者として、新しい希望の光の中を、生きることになったと、思うのです。

ヨハネによる福音書は、1章5節で、「光りは暗闇の中で輝いている」、と記しました。

まことの光である、主イエスは、闇の中でこそ、輝くのです。

人間の罪が極まる時、神様の愛も、また極まります。この世の闇が深まる時、神様の光が輝きを増すのです。

サタンの力に翻弄されて、まことの光を見失い、闇の中へ踏み出してしまう。そのような、私たちの闇の中で、まことの光である、主イエスが、輝いてくださいます。

「夜であった」。しかし、皆さん、この夜は、輝かしい朝へと、繋がっています。朝の光は、私たちの心に、既に差し込んでいるのです。

皆さん、私たちは、毎日、この朝の光の中で、自分の足を、眺めたいと思います。主イエスによって、洗われた足を、見詰めたいと思います。

それから、目を上げて、十字架の主イエスを、仰ぎ見たいと思います。

私たちの前に、ひざまずかれて、十字架の釘の跡が、くっきりと示されている、その御手で、足を洗ってくださる、主イエスのお姿。そして、十字架の上で、私たちのために、執り成しの祈りを、献げてくださっている、主イエスのお姿。

毎朝、この二つの、主イエスのお姿を、見ることから、一日を始めたい、と思います。

どんな夜も、必ず明けるように、主イエスは、私たちの罪を、必ず赦してくださるのです。

私たちは、その恵みに生かされているのです。

そのことを心から感謝するお互いでありたいと思います。