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過去の礼拝説教

「あなたは一人ではない」

2017年02月19日 聖書:ヨハネによる福音書 14:15~24

「あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの綻を守る」。

今朝の御言葉は、この主イエスの語りかけで、始まっています。何気なく、スーと聞き流してしまいそうな言葉です。しかし、良く味わってみますと、とても重い言葉です。

「私の掟を守りなさい」、という命令ではないのです。「あなた方は、私の掟を守る」、と言われているのです。「私を愛しているならば、私の掟を守る筈だ」、というのです。

最後の晩餐の時、主イエスは、食事の半ばで立ち上がって、弟子たちの足を、洗われました。その後で、主イエスは、こう仰いました。

「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。

主イエスが与えられた、「新しい綻」とは、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」、ということでした。その時は、これを、命令として、与えられました。

しかし、15節では、「あなたがたは、わたしの綻を守る」、と言われています。

もはや、命令ではなく、事実として、語っておられるのです。

私を愛するなら、お互いに愛し合うようになる、と言われているのです。

私たちは、今、礼拝を守っています。何のために、礼拝をささげているのでしょうか。

私たちを、命がけで愛してくださっている、主に感謝し、その主を愛し、その主の愛に応えたい、と願っているからではないでしょうか。

そのように、私を愛しているなら、「互いに愛し合う」、という私の掟を、守ようになる。

主イエスは、そのように、言われているのです。

皆さん、礼拝を守るということは、自分一人の、ことではありません。お互いに愛し合いながら、営まれることなのです。この礼拝において、私たちは、愛によって結ばれるのです。

教会とは、礼拝によって、造り上げられる、愛の共同体である筈なのです。

このようなことを聞かされると、皆さん方の中には、戸惑われる方も、おられると思います。

「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。私があなた方を愛したように、お互いに愛し合うのは当然だ。この主イエスのお言葉は、よく分かる。

そうでありたいと願う。しかし、自分は、そのような愛から、遠く離れている。主イエスが、愛してくださるように、隣人を愛することなど、とても出来ない。何かしらの、助けが必要だ。

そのような思いが、生まれるのでは、ないでしょうか。私たちだけではありません。この時、弟子たちの中にも、そのような思いが、あったのだと思います。

主イエスは、その心の内を、見抜かれて、仰いました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠に、あなたがたと一緒に、いるようにしてくださる」。

これは、主イエスの、祈りの言葉です。主イエスは、父なる神様に、祈っておられるのです。

私が去った後、この世に残される者たちのために、「別の弁護者」を、遣わしてください、と祈っておられるのです。

「弁護者」とありますが、これは何を、意味しているのでしょうか。

この言葉は、様々に訳されて来ました。一番古い明治訳では、「慰め主」と訳されています。

その後の、文語訳や口語訳では、「助け主」と訳されています。そして、新共同訳では、「弁護者」となっています。

もともとのギリシア語は、「パラクレートス」という言葉です。これは「呼ばれて傍らにいる者」、という意味の言葉です。「傍らに」という言葉の「パラ」と、「呼ぶ者」という言葉の「クレートス」。この二つ言葉の、合成語です。

もともと、この言葉は、法廷において、ある人を弁護するために、その人の傍らに、呼び寄せられた人のことを、意味しています。

なぜ呼んだのか。傍にいて、助けて欲しいからです。傍にいて、慰めて欲しいからです。

私たちが、本当に苦しい時、悲しい時、大きな試みの中にある時、私たちが一番欲しいのは、傍にいて、私たちを助けてくれる人、慰めてくれる人です。

「助け主」、「慰め主」、「弁護者」。「パラクレートス」は、これら全部の意味を、含んでいます。

この弁護者こそ、あなた方にとって、かけがえのない、助け主であり、慰め主である。

だから、このお方を、遣わしてくださるように、祈ってあげよう、と主イエスは、言っておられるのです。

ここで主イエスは、「別の弁護者」、と言っておられます。ということは、今までは、これとは別に、弁護者がいた、ということです。それは、誰でしょうか。

言うまでもなく、それは、主イエスご自身です。しかし、もう、この私はいなくなる。

だから、私とは別に、傍にいて、あなた方を、慰め、助けてくれる方を、父なる神様から、送っていただこう。主イエスは、そう言われたのです。

今まで弟子たちは、いつも、主イエスと、一緒にいることができました。

主イエスと一緒に、食事をすることができました。主イエスの声を、聞くことができました。

主イエスに、触れることができました。主イエスこそ、傍にいてくださる方であったのです。

主イエスこそが、助け主であり、慰め主であったのです。

その助け主、慰め主、弁護者である、主イエスがいなくなってしまう。

後に残る弟子たちは、どうなってしまうのか。そこで、主イエスは、約束してくださるのです。

私とは別の弁護者を、父にお願いしよう。

では、その別の弁護者とは、どのような方なのでしょうか。一体、主イエスに、代わるようなお方が、おられるのでしょうか。

おられるのだ。そのようなお方が、確かに、おられるのだ。そのお方が、あなた方の所に、遣わされるのだ。主イエスは、そう仰いました。

そのお方は、「真理の霊」、という方だ。そのお方が、あなた方の、助け主、慰め主、弁護者となるのだ。主イエスは、そう言われたのです、

ここで主イエスが、「真理の霊」と呼ばれたお方が、他ならぬ、「聖霊」なる神様のことです。

私たちが信じている神様は、三位一体の神様です。父なる神様、御子なるキリスト、そして聖霊なる神様、です。その聖霊なる神様が、来てくださるというのです。

間もなく、主イエスは、十字架にかかられ、復活され、そして、天の父なる神様の許に、お帰りになられる。弟子たちの傍には、おられなくなる。

でも、主イエスに代わって、聖霊なる神様が、この世に遣わされ、永遠に、私たちと共にいてくださる、というのです。

聖霊なる神様とは、私たちの内に来られ、私たちの内に、宿られる神様です。

三位一体の神様の、捉え方は、色々とありますが、今朝は、私たちに対する、神様からの、働き掛け、という観点から、考えて見ましょう。

まず、父なる神様は、天地を創造された、造り主です。世界と、私たちを、造ってくださったお方です。言わば、創造の神様です。

また、御子なるキリストは、人となって、この世に来てくださり、私たちの罪を、代って負って、十字架に死んでくださったお方です。十字架の贖いによって、神様と、私たちとの関係を、修復してくださったお方です。つまり、和解の神様です。

このように、父なる神様と、御子なるキリストは、私たちの外側から、私たちに、働きかけられる神様です。

それに対して、聖霊なる神様は、私たちの内に遣わされ、私たちの内に、住んでくださる神様です。そして、私たちを助け、導いてくださり、父なる神様のことや、御子キリストのことを、私たちに分からせ、信じさせてくださる、お方なのです。

このお方がいなければ、私たちは、せっかく用意された、救いを信じることができません。

信仰を持つことができません。

ですから、ここお方は、私たちの救いを、完成してくださる神様です。

このように、私たちに対する働き掛け、という点から言えば、父なる神様は、「創造の神」、御子なるキリストは、「和解の神」、そして聖霊なる神様は、「完成の神」である、ということができます。

これを、表現を変えて言えば、父なる神様は、「上なる神」、御子なるキリストは、「共なる神」、そして聖霊なる神様は、「内なる神」である、ということも出来ます。

主イエスが、この世におられて、弟子たちと共に過ごされた時、主イエスは、真の神であると同時に、真の人でもありました。

ですから、人間としての、制約を負って、生きておられました。一人の人間として、その行動にも、限界がありました。会うことができる人の数も、限られていました。

訪ねることのできる地域も、限られていました。そして、僅か数年で、宣教活動を終えられて、十字架につかれました。主イエスと、直接会って、そのお言葉を聞き、その愛に触れ、その助けや、慰めを、頂いた人は、限られた小数の人たちでした。

しかし、聖霊なる神様は、そのような制約なしに、すべての人の心の内に、自由に働かれ、しかもどこでも、いつでも、そして、いつまでも、働かれるお方なのです。

幼いころ私は、こんなことを思ったことがあります。世界中で何十億もの人が神様を信じていて、その人たちが、皆、祈っている。

そんな中で、幼い自分が、小さなお祈りをして、神様は本当に、聞いてくださるのだろうか。

私の祈りは、何十億分の一の、小さな声としてしか、届かないのではないか。そんなことを思って、不安に襲われたことがあります。

しかし、聖霊なる神様が、私たち一人一人の内に、住んでいてくださることを知ってからは、その不安から、解放されました。神様と私たちの関係は、一対何十億という関係ではない。

そうではなくて、常に、一対一の関係なのだ。そのことを示されたのです。

私たちと神様との関係は、常に一対一なのです。

世界中に、キリスト者が、何十億といようとも、常に一対一なのです。

なぜなら、聖霊なる神様は、一人ひとりの心の内に、住んでくださっているからです。

これが、聖霊なる神様の、素晴らしさです。

私たちは、時々、弟子たちのように、主イエスが見えたらいいのにと、思うことがあります。

しかし、見えるお姿での、主イエスは、やがて、天に上られ、弟子たちの目にも、見えなくなってしまうのです。

しかし、その後に、聖霊が、弟子たちに与えられます。弟子たちが、本当の意味で、主イエスの弟子となって、立ち上がったのは、この聖霊を、与えられた時です。

主イエスが、見えなくなってからです。今、私たちにも、主イエスのお姿は見えません。

しかし、私たちには、聖霊なる神様が、いてくださいます。

聖霊なる神様は、いつでも、どこでも、共にいてくださいます。私たちの内に、いてくださいます。永遠に、一緒にいてくださいます。

ですから皆さん、どうか、どんな状況にあっても、自分は独りだとは思わないでください。

私たちは、決して独りではありません。

ある人が、「私は独りぼっちだ、と思うことは、この主イエスの、み言葉に背く、罪である」、とさえ言っています。私は一人ではない、ということは、それほど確かな、恵みなのです。

どうか、そのことを、覚えていただきたいと思います。

18節の御言葉は、こう語っています。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。

この御言葉は、ヨハネによる福音書が伝える、主イエスのお言葉の中でも、最も慰めに満ちた言葉の一つだと思います。

今、主イエスは、別れを告げておられます。十字架に向かって、進まれようとしておられます。残された弟子たちは、親に捨てられた、みなしごのような、寂しさを感じることでしょう。

しかし、そこで主イエスは、言われるのです。「私は、あなた方を、決して、みなしごにはしない。放ってはおかない」。これに優る慰めはないと思います。

主イエスは、十字架にかかられて死なれます。弟子たちにとっては、すべてが終わってしまった、と思うような出来事が、起こるのです。

「しかし私は、あなたがたを、みなしごにしてはおかない。あなたがたのところに、戻って来る」、と主は言われているのです。

主イエスは、復活されて、弟子たちのところに、戻って来る、と言っておられるのです。

しかし、それだけではありません。このお言葉は、主イエスが、天に上られた後、聖霊が送られてくることをも、示しています。

助け主として、聖霊が送られて、弟子たちに、主イエスのことを、想い起こさせ、主イエスのことを分からせ、主イエスのことを、信じさせてくださる。

そのことによって、弟子たちは、永遠の命に活かされ、主イエスと共に、生きることになる。

聖霊の助けによって、弟子たちは、そのことを信じ、永遠の命に生きることができる。

だから、どのような時にも、みなしごのように、放って置かれることはなくなる、というのです。聖霊なる神様が、どこでも、いつも、いつまでも、共にいてくださり、主イエスの愛を、分からせてくださる。これほど、心強いことはありません。これほどの、慰めはありません。

この慰めによって、どん底から、立ち上がった、一人の婦人がいます。

先の大戦の時に、満州の熱河省伝道に、その命を献げた、砂山貞夫先生の奥様の、砂山せつ子さんという方です。

砂山貞夫先生、せつ子さんご夫妻は、生まれたばかりの赤ちゃんと、5歳の男の子と共に、満州に渡ります。ご一家は、興隆という町で、教会を開拓し、伝道と医療活動に励みます。

しかし、その年、長男の正ちゃんを失います。その深い悲しみから、漸く立ち直った時、夫の貞夫先生が招集され、更に、毛沢東の八路軍に連行され、行方不明となってしまいます。

敗戦後、多くの日本人が、我先にと逃げ帰る中で、せつ子さんは危険を顧みず、夫の帰りを待って、満州に留まります。しかし、37歳の時に、栄養失調で、次女を失い、やがて自分自身も、栄養失調で、失明してしまいます。

遠く離れた満州の地で、敗戦国の国民として、幼い子ども3人を抱え、女一人で残され、自らも失明してしまう。まさに絶望的な状況でした。

言い尽せない苦難の末に、彼女はなんとか、日本への引き上げ船に、乗ることが出来ました。その引き上げ船の上で、彼女は、これからのことを思い、暗澹たる気持ちになります。

あぁ、これから一体、どうやって生きていけばよいのか。彼女の目から、とめどもなく涙が流れました。祈る言葉も見付からず、ただ絶望的な思いでいた、彼女の冷えた心を、その時、かすかに残った、聖霊の火が暖めました。

彼女の心に、愛唱聖歌の604番が響いてきたのです。

「望みも消えゆくまでに/世の嵐に悩む時/数えてみよ、主の恵み/なが心は安きを得ん/数えよ、主の恵み/数えよ、主の恵み/数えよ、一つずつ/数えてみよ、主の恵み」

この聖歌が、心に響き、彼女は、はっと我に帰ります。あぁ、私は、目を失った。でも、まだ私には、手もある、足もある、命もある、そして何よりも、イエス・キリストがいてくださる。

数えてみよ、主の恵み。あぁ、あの時も、主は支えてくださった。あの時も、あの時も、そしてあの時も。そうだ、これからも、主は必ず、共にいてくださる。私には、イエス・キリストが与えられているではないか。

彼女は、そこから立ち上がり、日本に帰り、盲人伝道のために働き、北海道から沖縄まで、そして更には、韓国、中国、ハワイまでも、講演して歩くほどに、用いられました。

彼女の心に、灯されていた、聖霊の火。その火を、主は消されませんでした。その聖霊の火によって、彼女は、どん底の中でも、主が共にいてくださることが、分かったのです。

皆さん、私たちは、私たちの内に灯された、聖霊の火によって、どんな時にも、主が共にいてくださることを、知ることが出来ます。

私たちは、その主を喜び、その主に祈り、その主に感謝することが出来るのです。これこそが、聖霊なる神様の働きです。

2年前に、ふじみキリスト教会に転会された、松本京子姉が創られた、「しんどいけれど」、という題の短い詩が、3月号の「信徒の友」に、掲載されています。

『父も母も私も 病と共に 生かされている/でも 神様が 共に生きていてくださる/だから 「ほっ」』

しんどいけれど、神様が共にいてくださるから、「ほっ」とできる。

京子さんに、このような平安を、与えてくださっているのも、京子さんの内に、生きて、働かれている、聖霊なる神様です。

私たちの体は、聖霊が宿ってくださる神殿である、とパウロは言いました。

そうなのです。私たちは、どんな時にも、しんどい時にも、決して、一人ではありません。

聖霊なる神様は、どんな時にも、共にいて、助けてくださいます。慰めてくださいます。

このような、弁護者を、与えられていることを、心から感謝したいと思います。