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過去の礼拝説教

「真実の愛はどこに」

2017年02月05日 聖書:ヨハネによる福音書 13:31~38

今朝の御言葉の中で、私たちが、最も慣れ親しんでいるのは、34節の「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、という御言葉だと思います。

「互いに愛し合いなさい」。この御言葉は、キリスト者であるならば、誰でもが、聞いたことがある言葉です。主イエスは、この言葉を、「新しい掟」として、弟子たちに語られました。

「あなたがたに新しい掟を与える」と言って、語られたのです。

しかし、これは、私たちを、少なからず、当惑させます。なぜ、互いに愛し合うことが、「新しい掟」なのでしょうか。互いに愛しあうことの、大切さ。それは、主イエスに、改めて、教えられなくても、誰もが、よく知っていることです。

学校においても、いえ、既に、幼稚園においても、互いに愛し合いなさい、と教えられています。尤も、幼稚園では、もう少し易しい言葉で、「仲良くしなさい」と教えています。

結婚式でも、夫婦は互いに愛し合いなさいと、勧められます。私たちは、昔から、互いに愛しあうことの、大切さを、教えられてきました。

では、主イエスは、なぜ、これは「新しい掟」である、と言われたのでしょうか。「これは、新しい掟だ。あなたがたは互いに愛し合いなさい」、と主イエスは言われました。

私たちは、互いに愛し合わなければ、生きていかれない、ということを、よく知っています。

しかし、また同時に、どこかで、愛し合うことを、諦めている、ということはないでしょうか。

真実の愛に生きる。そんなことは、夢物語だと思っている。それは、理想主義者の語ることだ、と思っている。そういうことはないでしょうか。

愛することの大切さを、知りながら、真実に愛し合うことが、できない現実を、心の底で、覚めた目で見つめている。そんな現実の前に、佇んでいる。そういう自分を、見つめていることがあると思います。

この福音書と、深い関係がある、ヨハネの手紙一の2章7節は、こう言っています。

P.510、またはP.442です。ヨハネの手紙一2章7節。 「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」。

この手紙の著者は、私があなた方に、書き送っているのは、誰でもが、既に聞いている、古い掟です、と言っています。

このヨハネ第一の手紙は、「愛し合いなさい」という言葉を、繰り返して語っています。

しかし、「これは古い掟だ」というのです。そしてその上で、更に続けて語っています。

8節です。「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。」

誰もが知っている、古い掟である筈の愛。しかし、その愛から、誰もが堕ちてしまって、闇の中を歩いている。お互いに愛し合うことができずに、闇の中で、憎み合って生きている。だから、古い掟が、改めて、新しい掟として、語られなければならない。

そういう、人間の現実がある、と言っているのです。

人は、愛なくしては、生きてはいけない。誰もが、そのことを、昔から良く知っています。

それなのに、これを新しい戒めとして、語らなければならない。

この現実が、主イエスを、どれほど、悲しませたことだろうか、と思います。なぜ、この教えを、改めて、語らなければならないのか。主イエスのお心は、深く痛まれたことと思います。

では、ここで言う、「愛の新しさ」とは、一体何なのでしょうか。主イエスは、ここで、愛し合うことを、新しい戒めとして語られた後で、それを更に、言い直されています。

「わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

主イエスは、ここで、「わたしが、あなたがたを愛したように」、と言われています。

私たちは、自分は、まことの愛を求めて、歩んでいる、と思っています。しかし、そう思っている私たちに、一つの鏡が、突きつけられるのです。

「わたしが、あなたがたを愛しているように、あなたは隣り人を愛していますか」。

あなたは、まことの愛を求めている、と言っている。では、あなたの愛は、私のあなたに対する愛を、映していますか。この問いが、私たちに、突きつけられているのです。

私たちは、ここで、主イエスの、真実の弟子であることを、求められているのです。

弟子は先生の真似をします。ですから、弟子の愛には、先生の愛が、映し出されている筈なのです。

例えば、夫が妻を愛するときにも、そこに主イエスの愛が、映し出されているだろうか。

主イエスは、この妻を、愛していてくださっている。妻に対する、その主イエスの愛が、自分の妻に対する愛の中に、映し出されているだろうか。そのように、問われているのです。

夫婦の間だけではありません。あらゆる人間関係において、それが問われます。

主イエスは、この人を、愛しておられる。その主イエス愛が、自分の、この人への愛の中に、映し出されているだろうか。それが問われるのです。

主イエスなら、この人を、どのように愛するだろうか。そして、私は、主イエスの、この人に対する愛に、倣っているだろうか。この問いが、自分にとっての、鏡となるのです。

そして、もし、私たちの愛の中に、主イエスの愛が、少しでも映し出されているなら、私たちが、主イエスの弟子であることを、世の人々が知るようになる。

主イエスは、そう言っておられます。

皆さん、教会とは、どのようなところでしょうか。教会とは、この主イエスの愛が、映し出されている所である筈です。

たとえ、それが、くっきりとは見えず、ぼんやりとしたものであったとしても、主イエスの愛が、映し出されているところ。それが教会である筈です。

どこに真実の愛が、見られるのだろうか、と絶望するような、世の中です。

だからこそ、せめて教会には、たとえ不完全であっても、主イエスの愛が、映し出されていて欲しい。私の体である教会は、そのような群れであって欲しい。これは、主イエスの、切なる願いです。

教会において、私たちは、讃美歌を歌います。使徒信条を告白します。

しかし、それが、私たちが、主イエスの弟子であることの、しるしとなるのでしょうか。

教会に集まった人たちが、讃美歌を歌い、使徒信条を唱えるなら、世の人たちは、それによって、私たちを、主イエスの弟子である、と認めてくれるでしょうか。

そう考えている人も、おられるかもしれません。でも、主イエスは、そうは言われませんでした。主イエスは、こう言われているのです。

「あなた方が、互いに愛し合っているなら、そして、あなた方の愛の中に、私の愛が、少しでも、映し出されているなら、その時、それを見る人たちが、あなた方は、確かに、私の弟子であると、認めるだろう」。主イエスは、そう仰っているのです。

以前、韓国で、ある教団の総会が開かれました。その時、意見が、真っ二つに分かれて、激しい論争になりました。

お互いが、自分たちこそ、主イエスの真実の弟子である、と主張して、論争はエスカレートし、喧嘩のようになり、遂に暴力沙汰にまで、及びました。

心配した人が、警察に通報して、警官が駆けつけました。警官が、大声で、「喧嘩は止めろ」と叫んで、やっと静かになりました。そこで、警官は、何と言ったでしょうか。

「クリスチャンは、こんなことをしない人たちだと思っていた」。

その時、そこに集まっていた人たちは、自分たちこそ、キリストの弟子だと、お互いに言い合って、争っていたのです。

そう言い合って、お互いに、相手を殴り合っていたのです。しかし、そこには、主イエスの弟子の姿は、見られませんでした。

主イエスは、言われています。お互いに、争い合うのではなくて、愛し合いなさい。

私が、あなた方を愛したように、お互いに愛し合いなさい。そうすれば、あなた方が、私の弟子であることを、皆が認めることになります。

私たちのことを見た人が、「クリスチャンって、こんな人たちじゃないと思っていた」、と言われない様にしたいと思います。

そうではなくて、「あなたたちを見ていると、キリストがどんな方か、分かるような気がする」、と言われるような者に、させていただきたい、と心から願います。

私たちは、主イエスが愛されたように、お互いに、愛し合いたいと思います。

しかし、本当に悲しいことですが、私たちは、いくら努めても、それを実行できません。

それどころか、そう努めれば、努めるほど、かえって、自分の弱さを示されて、罪の深さを、知らされるばかりです。愛そうとすればするほど、愛の足りなさを、示されます。

でも、そういう私たちの弱さを、主イエスはすべてご存じなのです。

そして、その上で、尚も言われるのです。諦めずに続けなさい。出来るか、出来ないかが、問題なのではないのです。出来なくても良い。私はそれを知っている。

しかし、それでも尚、祈りつつ、それを真剣に願い、それを望み、それを目指しなさい。主イエスは、そう言われているのです。

さて、今朝の御言葉の最初に、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」、と書かれています。

主イエスが、この言葉を語られたのは、ユダが、最後の晩餐の部屋から、出て行ったのを、見られたからです。主イエスの、愛する弟子の一人が、出て行った。

何をしに、出て行ったのでしょうか。主イエスを、裏切るために、出ていったのです。

それをご覧になって、主イエスは、「今や、人の子は栄光を受けた」、と言われました。

「人の子」とは、主イエスご自身のことです。つまり、ご自分が、栄光をお受けになった、と言われたのです。ここで、私たちは分からなくなります。

栄光を受ける、ということは、神として尊ばれる、ということです。

なぜ、ユダが裏切るために出て行ったことで、主イエスが、神として尊ばれることになるのか。普通に考えれば、逆ではないか、と思います。

しかし、ユダが出て行ったとき、まさに、その時、主イエスは、ご自分が、十字架に上げられる時が、いよいよ来た、ということを知られたのです。

ご自分が、十字架に上げられることによって、すべての人を、罪から救う、贖いの御業が、成し遂げられる。すべての人間の罪を、赦したいと、願っておられる、「神様の愛」が、最高の形で、示されることになる。

その時、御子なる神としての、主イエスの、本来の使命が、成就するのです。ですから、「今や、人の子は栄光を受けた」、と言われたのです。

サタンは、人間を、罪の暗闇の中に、永久に閉じ込めて、支配しようとしました。

しかし、神様は、主イエスの十字架によって、このサタンの策略を、打ち砕かれて、完全に勝利されたのです。そのようにして、ご自身の栄光を、受けられたのです。

ですから、「栄光を受ける」、ということは、主イエスが、十字架にかかられる、ということを、意味しているのです。

主イエスの、十字架によって、神様の無限の愛が成就され、神様が、主イエスによって、栄光をお受けになった。そうであれば、神様も、また、主イエスに、栄光をお与えになる、と御言葉は言っています。

どのようにして、神様は、主イエスに、栄光を与えられるのでしょうか。それは、「主イエスを復活させてくださる」ことによってです。

主イエスが、受ける栄光とは、死からの、甦りの栄光なのです。復活された主イエスが、天の父なる神さまの許に、引き上げられる栄光です。

主イエスは、続けて、「私が行く所に、あなたたちは、来ることが出来ない」と言われました。

間もなく、私はいなくなる。でも、あなたがたは、私がどこへ行くか分からない。捜しても見つけることができない、と言われたのです。

ペトロは、この言葉に驚いて、「主よ、どこに行かれるのですか」、と聞きました。

「主よ、どこへ行かれるのですか」。この言葉を、そのまま題にした小説があります。

ポーランドのノーベル賞作家、シェンキエヴィッチが書いた、『クオ・ヴァディス』という本です。正式な題名は、「クオ・ヴァディス・ドミネ」、「主よ、どこへ行かれるのですか」です。

この小説の舞台は、ネロ皇帝時代のローマです。最晩年、ローマにおいて、伝道をしていたペトロは、ネロ皇帝による迫害に遭って、命の危険に晒されました。

教会の仲間たちが、ペトロの身を案じて、ローマから逃げてください、と言ってくれました。

ペトロは、それを受け入れて、ローマの都を出て行きます。しかし、その途中、アッピア街道を歩いているとき、向こうから近づいてくる、主イエスに出会うのです。

ペトロが問いかけます。「クオ・ヴァディス・ドミネ」。「主よ、どこに行かれるのですか」。

すると主イエスは、「あなたが捨てて、逃げようとしている、ローマの都に、私は行くのだ。十字架に、再びつけられるために」、と言われたのです。

ペトロは、驚いて、とんでもないことです、と言って、直ぐに引き返えして、殉教の死を遂げた、と伝えられています。

私たちも、人生の旅路において、何度も、「主よ、あなたはどこへ行かれるのですか」、と問うのではないでしょうか。

主は、どこに行かれようと、しておられるのか。主は、何をされようと、しておられるのか。

そのことを、私たちは、問い続けます。これは、大切な問いです。

しかし、仮に、主イエスが、どこに行こうとされているのか、分かったとしても、私たちが、いつも、ついて行ける訳ではありません。主イエスに、従って行けないことが、多いのです。

この時のペトロも、そうでした。しかし、ぺトロは、そのせっかちな性分を発揮して、「主よ、なぜ、ついて行けないのですか。あなたのためなら、命を捨てます」、と言いました。

それに対して、主イエスは、「私のために、命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私のことを、知らないと言うだろう」、と言われました。

そして主イエスが言われた通りに、この後直ぐに、ペトロは、主イエスを三回も否認しました。私たちは、深い同情をもって、そのペトロの姿を、思い起こします。しかし、私たちは、そこで立ち止まって、考えなければならないと思います。

ペトロの失敗、ペトロの挫折は、他人ごとではありません。その出来事の中に、私たちすべての者の姿が、現れているのです。それは、私たちが、日々犯している失敗であり、挫折でもあるのです。

やがて、ペトロは、復活された、主イエスと出会います。この福音書の最後の、21章には、ガリラヤ湖畔における、復活された主イエスと、ペトロとの出会いが記されています。

復活の主は、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と、三度も聞かれました。

三度とも、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。以前のペトロであったら、こんな答え方はしないと思います。

「主よ、勿論、私は、あなたを愛しています。あなたのためには、命を惜しみません」。

きっと、このように言ったに、違いないと思います。

しかし、三度も、主イエスを否認した後のペトロは、こう言ったのです。

「主よ、私があなたを愛していることは、あなたご自身が知っておられます」。

自分の弱さを知ったペトロは、もはや、かつてのペトロでは、なくなっていました。

そして、このようなペトロに、主イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」と仰って、教会を託されたのです。

主イエスは、私たちにも、教会に仕える務めを、委ねてくださっています。

その時、主イエスは、私たちに、「あなたはわたしを愛するか」、と問われます。

礼拝においても、祈祷会においても、或いは、奉仕の業においても、そこで、私たちが聞くのは、「わたしを愛するか」、という主イエスの問いです。

そして、私たちは、その主イエスの問いに対して、このように答えるのです。

「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。私たちが、答えることが出来るのは、この言葉だけです。

その時、私たちは、三度も主を否んだ、ペトロと同じところに、立たされていることに、気づくのです。

私たちが主を愛し、隣人を愛する愛。それは、私たちへの、主の愛に対する、応答です。

主を裏切り、主を悲しませている私たちを、尚も愛してくださる、主の愛に対する応答です。

その愛に立ち続ける、お互いでありたいと思います。

互いに愛し合う、新しい戒めに、生きる群れでありたいと願います。