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過去の礼拝説教

「一人の人のようになって」

2017年03月26日 聖書:ネヘミヤ記 8:1~10、フィリピの信徒への手紙 2:1~5

今朝、私たちは、今年度最後の礼拝を、ご一緒にささげています。

今年度、私たちの群れは、ローマの信徒への手紙12章2節後半の御言葉を、主題聖句として与えられ、この御言葉の許に、共に歩んできました。

『何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』

茅ケ崎恵泉教会が、何をするにも、先ず、主の御心を、尋ね求める、群れでありますように。

自分の思いではなく、教会の頭である、主イエスの御心を、尋ね求め、主イエスの御心を、わきまえ知る。その様な群れでありますように、と願いつつ歩んでまいりました。

では、主の御心とは、どのようにして、示されるのでしょうか。

主の御心は、聖書の御言葉を通して、また、祈りを通して、私たちに、示されます。

主に、心を明け渡して、素直な心で、御言葉を読み、心を注ぎ出して、祈っていく時に、聖霊なる神様が、私たちを導いてくださり、御心を示してくださいます。

ですから、「御心をわきまえ知る」、ということは、御言葉の傾聴と祈りを、より一層深めていく、という生き方に、繋がっていきます。

そして、そのようにして、御心が示されたなら、私たちは、何とかして、その御心に、従って歩んで行きたい、と願うように導かれます。たとえ、不十分であっても、また、ほんの僅かであっても、御心を実現する者と、ならせて頂きたい。そのような思いに、導かれます。

御心を示されたにも拘らず、それに従おうとしないのであれば、神様は悲しまれます。

そこで、4月からの来年度は、「主の御心に従う」、ということを、教会全体のテーマとして、歩んでまいりたいと示されました。

この礼拝後に持たれる、教会総会において、このテーマを、提案させていただきます。

そして、この「主の御心に従う」、というテーマを支える、主題聖句として、ヨシュア記24章24節を、紹介させていただきます。こういう御言葉です。

『わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。』

主に仕え、その御声に、従って歩む。来年度は、そのような群れを目指して、歩んでまいりたいと思います。

その時、最も大切なことは、私たちが、一つとなることです。

一つとなって、主の御心に従うことです。それぞれが、自分の思いや願いを、主の御心と思い込んで、勝手な方向に進もうとするなら、教会は一つとはなりません。

教会が一つとならなければ、教会全体として、主の御心に従って、歩むことはできません。

教会が一つとなる。その姿を、黙想していた時、想い起した、御言葉があります。

旧約聖書ネヘミヤ記8章1節の御言葉です。

『民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。』

ここに、「一人の人のようになった」、と書かれています。

この時、どれ位の人が、集まっていたのか、正確には分かりません。しかし、かなり多くの人が、そこにいたと、思われます。恐らく、何万という人が、そこに集まっていたでしょう。

この時、集められた人々は、バビロン捕囚から、エルサレムに帰還した、ユダヤの民です。

バビロン捕囚からの、第一次帰還者たちは、苦労に苦労を重ねて、崩壊していた神殿を、再建しました。しかし、エルサレムの町を、守るための城壁は、未だ崩れたままでした。

そこで、ネヘミヤを総督とする、第二次帰還者たちの手によって、城壁の再建が、始められました。敵の妨害など、多くの困難がありました。しかし、それらを乗り越えて、やっと城壁は、再建されました。

長かったバビロン捕囚から、解放され、懐かしいエルサレムに帰り、苦労の末に、神殿を再建し、そして今や、立派な城壁も完成した。

ユダヤの民の、喜びは、どれほど大きかったでしょうか。人々は、喜びに満たされて、水の門の前の広場に、集まってきました。なぜ、神殿に、集まらなかったでしょうか。

それは、神殿ですと、男性と女性は、別々の場所に、集まらなければ、ならなかったからです。男性も女性も、共に、この喜びを、分かち合うために、広場に集まったのです。

大勢の人が集まって来ました。しかし、彼らは、「一人の人のようになった」、と書かれています。何万もの人々が、「一人の人のようになった」のです。

皆さんは、テレビや映画で、イワシのような小さな魚が、大きな魚から、身を守るために、群れを作って、泳いでいる映像を、ご覧になったことがあると思います。

たくさんの魚が、一塊になって、まるで、一匹の巨大な魚のようになって、皆が、同じ方向に泳いでいく。誰が教えた訳でもないのに、見事な結束力を示して、一つとなって、泳いでいる。その姿に、感動を覚えたことは、ないでしょうか。

この時、ユダヤの民は、この魚の群れのように、一つとなって、集まっていたのです。

烏合の衆のようではなく、一人の人のようになって、整然として、集まったのです。

では、彼らは、何のために、集まってきたのでしょうか。

城壁の完成を、皆でお祝いする。そのイベントのために、集まってきたのでしょうか。

そうではありません。彼らは、主の御言葉を、聞くために、集まってきたのです。

神様が、授けてくださった、律法の言葉を、聞くために、集まったのです。

彼らは、祭司エズラに、その律法の言葉を、読んで欲しいと、求めました。

夢にまで見た、エルサレムに、やっと帰還できた。そして、念願の神殿が再建された。

その上、城壁までも再建された。長い間、待ちに待っていた日が、やっと来た。

その喜びの中にある民が、先ず願ったこと。それは、御言葉を聞くこと、であったのです。

何よりも、先ず、神様の言葉を聞きたい、と願ったのです。

言い換えれば、これは、礼拝です。喜びの只中にいる民が、先ず願ったこと。それは、礼拝をささげることでした。大きな喜び、深い感謝は、人の心を、礼拝へと向かわせます。

人々は、礼拝をしたかったのです。御言葉に、飢え渇いていたのです。

祭司エズラは、夜明けから、正午まで、御言葉を読み上げ、民は皆、その御言葉に、耳を傾けていた、と書かれています。

朝6時ごろから、正午までです。何と、約6時間です。しかも、この時、人々は、立ったまま、聞いていたのです。

皆さん、果たして私たちは、御言葉に対して、このような、飢え渇きを、持っているでしょうか。立ったまま、6時間も、御言葉を聞きたい、と願ったことが、あるでしょうか。

もし、私が、皆さんを、立たせたまま、6時間も、説教したら、一体、どうなるでしょうか。

多くの方は、途中で、帰ってしまうかもしれません。

そして、臨時教会総会が招集され、牧師解任が決議される、ということになると思います。

しかし、この時、ユダヤの民は、喜んで、聞き続けたのです。

エズラが、感極まって、「ハレルヤ!」と、声を上げると、民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」、と唱和して、顔を地に伏せて、主を礼拝したのです。

そして、人々は、感動と喜びの、涙を流したのです。その光景を見て、総督ネヘミヤと祭司エズラは、こう言って、人々を励ましました。

『今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。泣いてはならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。』

ユダヤの民よ、あなた方は、今、一人の人のようになって、喜んでいる。神の御言葉を聞いて、喜びの涙を流している。

そのように、御言葉によって、結ばれて、一つとなることが、あなた方の力の源なのだ。

御言葉が、接着剤のように、一人一人を結びつけ、全体が一人の人のようになる。

それが、力の源なのだ、と言ったのです。これは、私たちに対する、言葉でもあります。

皆さん、私たちの、力の源は、どこにあるのでしょうか。私たちの力は、どこから、生まれてくるのでしょうか。

主の御言葉からではないでしょうか。主の御言葉を聞き、それを喜び、それに生かされる。

そこから、私たちの力が、生まれて来るのではないでしょうか。

茅ケ崎恵泉教会に連なる、全ての者が、主の御言葉を喜び合って、一人の人のようになる。その時、教会全体が、力に満たされるのだと思います。

御言葉によって、一つとされ、力を与えられることを示す、一つのエピソードがあります。

ある若い夫婦が、毎朝のディボーションの時に、一緒に聖書を、1章ずつ読んでいました。

しかし、戦争が起こって、夫は戦地へ、送られることになりました。出征の日、二人は、別れ別れになっても、一日に1章ずつ、聖書を読むことを、続けて行こうと、約束しました。

何年も経って、やっと夫が戦地から、帰ってきました。翌朝、二人は、以前のように、一緒に聖書を読もうと、お互いの聖書を開きました。すると、二人が開いた聖書の箇所が、ピタッと一致したそうです。何年離れていても、二人は、同じ御言葉を、毎日読んでいたのです。

離れていても、その御言葉によって、結ばれていて、一つであったのです。

そして、それが、二人の力の源と、なっていたのです。

皆さん、私たちは、今、この礼拝において、同じ御言葉を、聴いています。そして、同じ思い、同じ喜びを、共有しています。それが、私たちの、力の源なのです。

教会に集う全ての者が、一人の人のようになる。それは、全ての教会の、共通の目標です。使徒パウロも、そのことを、切に求めていました。

先ほど、フィリピの信徒への手紙2:1~5を、読んでいただきました。この手紙は、使徒パウロが、フィリピの教会に宛てた手紙です。

パウロは、フィリピの教会を、我が子のよう愛し、誇りにさえ思っていました。

しかし、そのような教会であっても、全く問題がなかった訳ではありません。

フィリピ教会にも、対立がありました。教会の人々が、一人の人のように、なってはいなかったのです。

ですから、パウロは、ここで、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と、切に願っているのです。

「心を合わせて、同じ思いで」、と言っています。

それは、そのように生きることが、教会の中においてでさえ、難しいからです。

同じ思いになりたい、と思っても、それが、なかなか出来ないのです。

しかし、1節の御言葉は、こう言っています。

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」。

原文を見ますと、ここには、「もし~があるなら」という言葉が、4回続いて語られています。

「もし、キリストによる励ましがあるなら。もし、愛の慰めがあるなら。もし、御霊の交わりがあるなら。もし、慈しみと憐れみがあるなら」と、繰り返して、語っているのです。

また、「もし、あるなら」、と書かれていますが、これは、「もし、受け取っているなら」、と訳しても良い言葉です。

もし、あなた方が、それらを、受け取っているなら。そして、もし、それらが、あなた方の中に、幾らかでも、残っているなら。ここで、パウロは、そう言っているのです。

私たちは、はっきり分かっていることでも、仮定形で言うことがあります。

「プロなら、プロらしく」という時、「あなたは、プロではないですか」、と強調しているのです。

ここでも、「もし、幾らかでもあるならば」、という言葉は、「あなた方は、もう既に受け取っているのだから」、と強調しているのです。

あなた方は、もう既に、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心を、受け取っているではないか。そして、それが残っているではないか。

それが、あなた方の、支えとなっているではないか。そうであるなら、「心を一つに」することができる筈だ。御言葉は、私たち一人一人に、このように、呼び掛けているのです。

教会が一つとなれず、教会の中で争いがある時、キリストのお心が痛みます。

教会は、主イエスの御体です。ですから、教会が分裂して、教会員が苦しむのを見て、主イエスご自身が、身を切られるような痛みを、覚えられるのです。

そして、誰よりも、争っている当人同士が、一番苦しみ、辛い思いをします。

だからこそ、パウロは言うのです。あなた方の内に、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」が、幾らかでもあるなら、心を一つにすることが、できる筈だ。

あなた方は、もう既に、その恵みを、受け取っている。だから、一つになれる筈だ。

「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」。

これは、第二コリント13章13節にある、祝祷の言葉と、よく似ています。

『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように』。

私たちが、聖日毎に、繰り返して受けている、三位一体の神様の祝福です。

「キリストによる励まし」とは、キリストの十字架による、救いの恵みのことです。

「愛の慰め」とは、そのキリストを、与えてくださった、父なる神様の愛による慰めです。

「霊による交わり」とは、聖霊によって導かれる、教会の交わりのことです。

このように、三位一体の神様が、総力を挙げて、私たちを一つとするために、働いてくださっているのです。三位一体の神様が、私たちを一つにするために、礼拝において、祝福してくださる。私たちは、その恵みを、毎週、繰り返して、受けているのです。

続いて、パウロは、一人の人のようになるための、秘訣を語っています。

それは、何事も、利己心や虚栄心から、するのではなく、へりくだって、互いに相手を、自分よりも、優れた者と考える、ということです。

自分のことだけでなく、他人のことにも、注意を払うこと。それが、一人の人のようになる、秘訣であると、いうのです。

ここに、「へりくだる」、という言葉あります。この言葉は、単に身を低くする、ということではありません。どこまでも相手の立場に立って、相手の基準で考えてみる、ということです。

そして、そういう「へりくだり」ができるのは、キリストの愛を受けた者だけだ、と言うのです。なぜでしょうか。誰よりも、そのような「へりくだり」を、生きてくださったのが、主イエスだからです。主イエスは、天の高みから、この世の最も低い所、家畜小屋の飼い葉桶にまで、下って来てくださいました。これこそ、究極の「へりくだり」です。

ですから、御言葉は、言うのです。あなた方には、主イエスというお手本が、与えられているではないか。この主イエスに、見倣いなさい。

5節は、そのことを言っています。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」。

お手本である、主イエスから、目を離さずに、いつも主イエスを見上げて、行きなさい、と言っているのです。

「それはキリスト・イエスにもみられるものです」。この言葉は、文語訳聖書では、「汝ら、キリスト・イエスの心を、心とせよ」、と訳されていました。

主イエスの心を、自分自身の心として歩みなさい、と教えているのです。

教会の中で、何か問題に出会った時には、「主イエスなら、どうされるだろうか」、「主イエスなら、何と言われるだろうか」と尋ねなさい、というのです。

もし、すべての教会員が、そのような思いでいるなら、教会全体が、一人の人のように、なれる筈です。

皆が、主イエスの御心を、尋ね求めていくことにおいて、一つとなっているなら、どんな問題でも解決します。いや、問題すらなくなる筈です。

その時、私たちは、皆、主イエスの御心という、同じ方向を、見つめているからです。

教会員のすべてが、一つの心となり、同じ思いとなるとは、そういうことなのです。

でも、それは、皆が、同じような人間に、ならなくてはいけない、という事ではありません。

それぞれが、与えられた賜物、与えられた個性を、豊かに用いながら、一つの思い、一つの愛において、一致するということなのです。

それは、ちょうど、オーケストラのようなものです。

異なった楽器が、異なった音を出し、異なったパートを担い、一人の指揮者である主イエスに導かれ、一つの楽譜である聖書に従って、美しいシンフォニーを、奏でるのです。

皆さん、茅ヶ崎恵泉教会が、神様に喜ばれる、美しいシンフォニーを奏でる、オーケストラと、なるために、一人の人のようになろうではありませんか。

主イエスの御心は、教会の人々が、同じ愛に生かされ、同じ思いとなり、心を合わせて、一人の人のようになることなのです。

御言葉は、今も私たちに語りかけています。「汝ら、キリスト・イエスの心を、心とせよ」。