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過去の礼拝説教

「私を友と呼んでくださる神」

2017年03月12日 聖書:ヨハネによる福音書 15:11~17

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。今朝の御言葉は、この主イエスの言葉で始まっています。

間もなく、十字架へと向かわれる、主イエスは、この時、渾身の思いを込めて、訣別説教を、語っておられました。その主イエスの、お言葉です。

私が、訣別説教において、これらのことを、語っているのは、「私の喜びが、あなたがたの中にあり、そして、あなたがたの喜びが、満ち溢れるためなのだ」。

これは、とても嬉しいお言葉です。感謝すべきお言葉です。

主イエスは、ご自身の喜びが、満ち溢れるためである、と言われたのではありません。

満ち溢れるのは、「あなたがたの喜び」。つまり、私たちの喜びなのです。

主イエスが、私たちの内に、いてくださることによって、まことの喜びが、私たちの心に、満ち溢れてくる、と言われているのです。

信仰生活とは、「喜びに生きる」生活、である筈です。信仰生活とは、難行苦行を耐え忍ぶ、辛くて、厳しい生き方である、と思っている方が、おられるかもしれません。

しかし、まことの信仰とは、信じる人に、満ち溢れる、喜びを与えるものなのです。

喜びの源である、主イエスが、私たちの内に、いてくださる。そのことによって、与えられる、喜びの生き方なのです。

戦後、大阪のドヤ街で、全くのゼロから、開拓伝道をした、ある若い牧師の話を、以前、させていただきました。

極度の貧しさの中で、苦労に苦労を重ね、40歳を少し過ぎた頃、やっと小さな会堂を立て、「さぁ、これから」、という時に、病に倒れて、召されました。

人間的に見たら、苦労の連続で、何の楽しみもなかったような、人生でした。

でも、その先生は、召される直前に、奥様の手を握られて、一言、「楽しかったねぇ」、と言われて、微笑みながら、召されて行かれたのです。何が、楽しかったのでしょうか。心の内にいてくださる主イエスと、共に歩めたことが、楽しかったのです。

どんなに貧しくとも、どんなに苦しくとも、「楽しかったねぇ」と、ほほ笑むことができる。

それが、主イエスの愛に生かされる、まことの喜びの生き方なのです。

そして、その喜びは、心に満ち溢れてくるものなのだ、と主イエスは、言われているのです。

現実の生活には、辛い、苦しいことがあるかも知れません。しかし、主イエスが、私たちの、心の内に、いてくださるなら、私たちの心を、喜びが満たす、というのです。

その活き活きとした喜びは、命を懸けて、私たちを愛してくださった、主イエスの愛に応えて、お互いに愛し合う、という生き方から、生まれてくるのだ、と主イエスは、言われています。

互いに愛し合う、という生き方から、活き活きとした喜びが生まれ、そして、その喜びが、更に深く愛し合う生き方へと、私たちを、導いていくのです。

愛と、喜びの好循環。それが、主イエスが、心の内に、いてくださることの、恵みなのです。

「わたしが、あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

主イエスは、繰り返して、この御言葉を、語られました。

掟という言葉が、堅すぎるなら、「決まりごと」、と言い換えても、良いかもしれません。

「互いに愛し合う」。人が、喜びの人生を、生きていく上で、どうしても必要な、決まりごと。

それが、「互いに愛し合うことなのだ」、と主イエスは、繰り返して、言われたのです。

確かにそうだと思います。愛がなければ、私たちは、喜びの人生を、生きていかれません。

では、その愛は、どのようにして、人々に伝わるのでしょうか。

主イエスは、この世のすべての人を、愛しておられます。その尊い命を、惜しげもなく、与えられたほどに、愛しておられます。

しかし、その愛は、何かを、媒体としなければ、人々には、伝わりません。伝えるものが、必要なのです。その媒体こそが、まさに、私たちなのです。

私たちは、主イエスの愛を、伝えるという、大切な使命を、主イエスから、委ねられています。主イエスは、私たちに、頼んでおられます。

「私は、この人を愛している。でも私は、私の愛を、この人に、直接伝えることが出来ない。

どうか、私に代わって、私の愛を、この人に伝えてください。あなたが、伝えてくれなければ、伝わらないのです。それしか、方法が無いのです。どうか、お願いします。」

主イエスは、そのように、頼んでおられるのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

隣人を愛する、ということを通して、主イエスの愛を伝える。この使命を果たすことが、互いに愛し合う、ということなのではないでしょうか。

主イエスから、「頼みますよ」と言われて、「はい、分かりました。あなたの愛の、ほんの一部しか、伝えられません。でも、一生懸命に務めます」、と言って応えて行くのです。

こんなに、素晴らしい使命はありません。しかし、それだけではありません。

私たちが、この使命に生きようと、一歩踏み出す時、主イエスは、私たちを、友としてくださる、というのです。主イエスは、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたは、わたしの友である」、と言ってくださっています。

私が頼んだ仕事を、してくれるあなた方は、私の友なのだ、と言ってくださるのです。

私たちも、信頼できる友に、大切なことを、お願いします。ですから、主イエスから、大切なことを、委ねられた、私たちは、主イエスの、友なのです。信頼されている、友なのです。

主イエスは、更に続けて、まことの友の姿を、示しておられます。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。

命を捨てる愛。主イエスの、十字架の御業は、まさにこのことです。私たちを、友としてくださった、主イエスは、私たちのために、その命を、十字架の上に、ささげてくださいました。

これ以上大きな愛はない、という愛。まことの友として愛を、私たちに示してくださったのです。皆さん、私たちは、主イエスに、「わたしの友」、と呼ばれているのです。こんな小さな、貧しい者が、神の御子の友、とされているのです。

とてつもなく、大きな光栄を、与えられているのです。

この後、讃美歌493番「いつくしみ深い」を、ご一緒に賛美いたします。

この讃美歌の元々の題は、「What a friend we have in Jesus」です。

「イエス様は、何と素晴らしい友なんでしょう」、という意味の題です。

世界的に愛されている、この讃美歌は、ジョセフ・スクライヴェンという人の作詞です。

彼は、結婚式の前日に、婚約者が、突然溺死するという、不幸に見舞われました。

深い心の痛みを抱きながら、彼は、新しい生き方を求めて、カナダに移住し、学校の教師をしました。そんな彼に、再び春がめぐってきました。

エリザという女性に出会い、婚約するに至ったのです。彼の傷ついた心も癒され、明るい希望が見え始めたときに、彼女は結核に侵され、帰らぬ人となってしまいました。

彼は41歳、彼女は23歳でした。

一度ならず二度までも、婚約者に先立たれるという、痛ましい不幸に、出会ったのです。

深い落胆と、孤独にさいなまれながらも、彼は、祈りを通して、主の深い慰めと、平安を得ました。その時に作られたのが、この讃美歌でした。

愛する人を失ったが、私には、主イエスという、素晴らしい友がいてくださる。

この素晴らしい友こそ、「弱さを共に負ってくださり、世の友が、私を捨て去る時にも、祈りに応えて、慰めてくださる、お方なのだ」、と彼は歌ったのです。

普通の人であれば、神様を呪いかねないような、状況でした。でも、彼の顔は「天使を思わせる」ほどの、平安と優しさに、満ちていたと言われています。

彼の人生は、主イエスに友とされ、主イエスを、友と呼ぶことが出来るという、幸いに、満たされた人生でした。皆さん、私たちにも、そのような生き方が、許されているのです。

いえ、そのような、生き方へと、招かれているのです。

友情とは、美しいものです。しかし、私たちの友情は、また、脆いものでもあります。

親友だった二人が、些細なことによって、絶交してしまう。そういうことも、しばしば起こります。しかし、主イエスと、私たちとの間に、生まれる友情は、そうではありません。

主イエスと、私たちとの友情は、十字架の愛によって、支えられているからです。

普通、友情というのは、似通った者たちの間に、生まれるものです。性格とか、能力とか、環境とか、趣味などが、似ている。そういう者たちの間に、生まれるものです。

同じ学校の、同じクラスにいた。同じクラブにいた。同じ職場にいた。同じ趣味を持っていた。同じような、苦労を経験した。同じ理想や、主義主張を持っていた。

そういう風に、何かを、共有している、人たちの間に、生まれるものです。

でも、主イエスと、私たちとの友情は、そうではありません。共通点は、全くありません。

主イエスは、聖さにおいても、正しさにおいても、そして愛においても、完全なお方です。

それに対して、私たちは、汚れに満ちており、不誠実で、愛に欠けた者です。

何よりも、主イエスは、創造主であり、私たちは造られた者なのです。まさに、天と地ほどの、違いがあります。本来なら、とても、友になどなれない、間柄なのです。

しかし、主イエスが、十字架で、私たちの罪のすべてを、贖ってくださり、汚れた私たちを、聖い者と見做してくださいました。

それによって、私たちを、ご自身の友として、相応しい者に、してくださったのです。主イエスが、命を捨ててまでして、私たちを、友としてくださったのです。

そうであれば、私たちは、少しでも、友らしくなりたいと、願うのではないでしょうか。

いつまでも、友達甲斐のない友で、あってはいけない。少しでも、友達甲斐のある友に、ならしていただきたい。そのように、願うのではないでしょうか。

私たちの、信仰生活の目標。それは、少しでも、主イエスの、友達甲斐のある友と、なることです。命を懸けて、私たちを、友としてくださった、主イエスの、まことの友となる。

私たちは、生涯かけて、その目標に向かって、一歩一歩歩んで行くのです。

「友のために、自分の命を捨てる友情」。この言葉を聞いて、太宰治の小説「走れメロス」を、思い起こす人があるかもしれません。

お互いの命を懸けた、二人の男の、美しい友情の物語です。もしかしたら、その原点は、今朝の御言葉で、あったかもしれません。

恐らく、太宰にとって、小説の中の二人のような友情は、強い憧れであったのだと思います。

太宰は、それを必死に求めながらも、残念ながら、それを知ることは、できませんでした。

命を捨てるまでの愛に出会い、それを体験することが、できなかったのです。

太宰は、真剣に、キリストによる救いを、求めました。しかし、彼は、義なる神、裁きの神は理解できても、愛なる神、赦しの神を、捉えることが、できなかったと言われています。

太宰は、聖書を、熱心に読みました。しかし、私たちを、赦すために、十字架に、命をささげてくださった、主イエスの愛を、自分のものとして、掴み取ることが、できなかったのです。

ご自身の命を、捨ててまでして、私たちを愛してくださり、私たちの友となってくださった、主イエスを、捉えることが、できなかったのです。

太宰は、そのような愛を、人間の中に、求めました。しかし、それを、人間の中に求めても、見出すことは、難しいのです。もともと、私たちの中には、そのような愛は、ないのです。

友情という言葉について、もう一箇所、私たちが、心に留めるべき、御言葉があります。

それは、ヨハネによる福音書21章15節以下の御言葉です。そこには、復活の主イエスが、ガリラヤ湖畔で、ペトロに出会った出来事が、記されています。

そこで、主イエスは、ペトロに対して、三回に亘って、「ペトロよ、私を愛しているか」、と問われています。そして、三回とも、ペトロは、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたが御存知です」、と答えています。

ここで興味深いのは、主イエスの、最初の二回の「愛しているか」、という問いにある「愛」と、ペトロの「愛しています」、という返事にある「愛」が、原語では違っている、ということです。

主イエスは、初めの二回では、「あなたは、アガペーの愛をもって、私を愛しているか」、と聞かれたのです。

アガペーの愛とは、神様が、人間に対して、示される愛です。それは、絶対に、変わることのない愛です。自分の命を、犠牲にしてまで、愛する愛です。

主イエスは、あなたは、その愛をもって、私を愛しているか、とペトロに、問われたのです。

それに対して、ペトロが答えた、「愛しています」、という愛は、「フィリア」の愛です。

フィリアの愛とは、人間相互の愛です。友情を表わす愛です。

ペトロは、「私は、あなたが、私を愛してくださったようには、あなたを愛することは、できません。でも、人間としての、限界の中で、精一杯、あなたを愛します」、と答えたのです。

主イエスは、二回、「あなたは、決して変わることのない、神の愛、アガペーの愛をもって、私を愛するか」と問われ、ペトロは「私は、人間としての、限界を持った愛、フィリアの愛をもって、あなたを愛します」と答えたのです。

そして、三回目です。三回目には、主イエスは「宜しい、では、あなたは、フィリアの愛をもって、私を愛するか」、と問われたのです。

ペトロの弱さ、そして私たちの弱さを、知っておられる主は、こう言っておられるのです。

「私は、あなたを、アガペーの愛をもって、愛そう。永遠に、変わることのない愛をもって、愛そう。しかし、あなたは、フィリアの愛をもって、私を愛せば良い。

人間としての限界の中で、愛せば良い。私は、あなたの、その愛を喜んで受け入れる。

たとえ、それが、不完全な愛であっても、喜んで受け入れる」。

主イエスは、今も、私たちに、言われています。「あなたの、その愛でよい。不完全な愛でよい。その愛を用いて、互いに愛し合って欲しい。あなたのその愛を通して、私が働くから」。

主イエスは、そう言ってくださっているのです。

ですから、私たちは、自分の愛の足らなさ、自分の愛の貧しさに、絶望することはないのです。主イエスは、それをよく知っていてくださいます。

その上で、尚も、私たちの貧しい愛を、受け入れて、用いてくださるのです。

主イエスは、そのような、貧しい愛しか持っていない、私たちを、友と呼んでくださるのです。

そのように、私たちは、主イエスの、友とされているのです。

主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」、と言われました。

先ほども、申し上げた通り、私たちと、主イエスとは、同等ではありません。主イエスと私たちは、友とされてはいても、同等ではないのです。

なぜなら、私たちが、主イエスを、友として、選んだ訳ではないからです。

そうではなくて、主イエスの方から、一方的に、私たちを選んでくださり、ご自身のご計画のために、任命してくださったのです。

なぜ、神である私と、欠け多き人間である、あなたとが、友なのか。それは、私があなたを、選んだからである、と言われているのです。

ある人が、この御言葉について、こう言いました。この「選び」は、選択試験ではない。

たくさんいる人々の中から、お前は見所があると言って、選んでくださったのではない。

そうではなくて、この世から、私たち一人一人を、引き抜いてくださった、という意味である。

この世の、様々なしがらみの中で、もがき苦しんでいた者が、その縄目から、解き放たれるように、主イエスに、引き抜いていただいた。救い出していただいた。

そして「わが友よ」と呼んでいただいている。

ここで言う「選び」とは、そういうことだ、と言っています。私もそう思います。

この世における、私たちの歩みには、なお、悩みや苦しみがあります。

しかし、私たちは、皆、「主イエスによって選ばれた、主イエスの友」なのです。

十字架の贖いによって、救い出された、友なのです。

主イエスは、私たちの、欠けも、弱さも、汚れも、すべてご存知の上で、私は、そんなあなたを、そのまま受け入れる。友として、受け入れる、と言ってくださっているのです。

そのことを喜び、そのことを感謝し、そのことを伝えていく者と、させていただきたい。

そのように心から願います。

皆さん、ご一緒に、主イエスの、友達甲斐のある友、となるために、励まし合い、手を取りながら、歩んでまいりましょう。

互いに愛し合うことを通して、主イエスの愛を、少しでも、伝えていく群れと、ならしていただきましょう。