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過去の礼拝説教

「豊かな実を結ぶ生き方」

2017年03月05日 聖書:ヨハネによる福音書 15:1~10

昨年11月に、創立65周年を感謝する、記念礼拝を献げました。その礼拝で、説教してくださった小橋先生が、このような体験談を、紹介してくださいました。

先生が、未だお若い、青年牧師であった頃、ある教会で、こんな質問を受けられました。

「キリスト教を信じると、どんな御利益があるのですか」。

小橋先生は、少し考えてから、こう答えられたそうです。「キリスト教を信じると、イエス様が、いつも共にいてくださいます」。

小橋先生は、こんな答で良いのかな、と少し不安だったそうですが、その方は、納得されて帰られたそうです。

今朝の御言葉の5節で、主イエスは、こう言われています。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

人は、誰も、実り豊かな人生、充実した人生を、生きたいと願っています。

今朝の御言葉に沿って、先程の小橋先生の答を、言い換えてみますと、こうなると思います。「キリスト教を信じると、いつもイエス様とつながっていることができます。そして、充実した人生を生きることができます」。

もし、これを御利益と呼ぶなら、こんなに素晴らしい御利益はありません。

しかし、皆さん、それだけではないのです。主イエスにつながることによる恵みは、もっと大きくて、深いのです。

1節の御言葉は、こう語り出しています。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 主イエスは、ご自身のことを、まことのぶどうの木である、と言われました。

まがい物の、ぶどうの木は、いくつもあるかもしれない。

けれども、私こそが、「まことの命」を養う、ぶどうの木なのだ。私の父は、そのぶどうの木を養う農夫。あなた方は、その木に連なる、枝なのだ。そして、その枝は、豊かに実を結ぶ。

今朝の箇所で、主イエスは、このことを、繰り返して語られています。

父なる神様は、ぶどうの木と、その枝々を養う、農夫であるというのです。

この農夫という言葉を、古い英語の聖書は、「ハズバンドマン」と訳しています。ハズバンドマンという言葉は、農夫を意味する、古い英語の表現です。

しかし、同時に、ハズバンドですから、夫という意味をも、含んでいます。

ということは、夫が妻を愛し、妻をいたわるように、父なる神様は、ぶどうの木と、その枝々を愛し、いたわってくださっている、というのです。

果物の中で、ぶどうは、最も手間のかかるものだそうです。その手間をも厭わずに、神様は、私たちを愛し、養い、いたわってくださる。

その神様のお陰で、私たちは、豊かな実を、結ぶことができる。主イエスは、そのように、約束してくださっているのです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

皆さん、お気付きになられたでしょうか。この5節の御言葉は、命令形ではありません。

「実を結べ」、と命令しているのでは、ないのです。

「実を結ぶ」、と言われているのです。ごく自然のこととして、実を結ぶ。ぶどうの木が、自然に実を、結ぶように、あなた方は、実を結ぶのだ。主イエスは、そう言われたのです。

あるドイツ人の牧師がいました。この人は、第二次世界大戦の末期に、ソ連軍の捕虜となって、シベリヤの収容所に送られ、死の淵をさまようような、厳しい生活を送りました。

もう、あの懐かしい故郷に、二度と帰れないかも知れない。愛する人々に、もう会うことが、できないかも知れない。そのことを思うと、悲しみで、胸がいっぱいになったそうです。

でも、この人は、悲しみでいっぱいになっても、絶望はしなかったそうです。何故かと言いますと、この御言葉に、励まされたからです。

主につながっていれば、ここでも、実を結ぶ生き方ができる。この、地獄のような、収容所でも、実りある生き方を、することができる。そのことを知らされたからです。

どんな時にも、どんな境遇にあっても、主イエスにつながっていれば、実りある生き方を、することができる。豊かに、実を結ぶことができる。

御言葉は、そのように、力強く、約束してくれています。

しかし、今朝の御言葉では、慰めだけではなく、私たちに対する、チャレンジの言葉も、語られています。2節の御言葉です。

「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」。

主イエスは、「わたしにつながっているなら、豊かに実を結ぶ」、と約束してくださいました。しかし、一方では、わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、取り除かれてしまう、とも言われています。

父なる神様という農夫は、ぶどうの枝々を、養い、いたわってくださいます。

しかし、また同時に、一本一本の枝を点検して、剪定もされる、というのです。

この枝には、実は実らない。そう思われたときには、それを、切り取ってしまう、というのです。そして、火に投げ入れて、焼いてしまわれる、というのです。

実を結ばない枝は、取り除かれてしまう。ひょっとして、自分は、そのような枝ではないだろうか。そう思うと、私たちは、不安になります。

自分の、今の信仰を顧みると、洗礼を受けた時のような、活き活きとした喜びが、薄れてしまっているように思う。信仰が、枯れてしまったように感じる。

そんな思いに、囚われている時に、この御言葉に出会うと、不安になります。

しかし、大切なことは、それでも、主イエスに、つながり続けることなのです。主イエスに、つながり続けるなら、主イエスは、必ず、命の樹液を、豊かに注いでくださいます。

その命の樹液を、受け入れるならば、いつか必ず、実を結びます。

ですから、どんなことがあっても、主イエスに、つながり続けなければ、いけないのです。

主イエスが、まことの木である、ということは、本当に感謝なことです。

なぜなら、たとえ私たちの信仰が、枯れたようであっても、つながっている主イエスが、まことの木であるなら、私たちは、その木から、まことの養いを、得ることが出来るからです。

そして、いつか必ず、実を結ぶことが、できるのです。私たちは、この信仰に立っています。

父なる神様は、そんなに性急に、結論を出して、枝を取り除くことは、なさいません。

私たちの実が、実るか、実らないかを、鋏を持って、手ぐすね引いて、見張っておられる。

そんなお方では、ありません。枝が、本当に命を失って、死んでしまっているか。

枯れているように見えても、命の樹液が、尚も流れているか。それを、忍耐強く、見守っていてくださる、お方なのです。

そして、夫が妻をいたわるように、愛をもって養い、育ててくださる、お方なのです。

今回、「つながる」という言葉を、黙想していた時、私は、あるイメージを持ちました。

それは、「接木」のイメージです。自然に生えた枝ではなく、後から接木された枝。

そんな枝のことを、思い浮かべました。私たちは、生まれながらに、主イエスという木に、つながっていた訳ではありません。元々は、罪の中に生まれ、滅ぶべき者であったのです。

そんな、汚れた私たちが、主イエスという、聖なる木に、接木されたのです。

接ぎ木をするときは、土台となる木に、刃物で切れ目を入れて、そこに枝を、差し込みます。

土台となる木を、傷つけなければ、接ぎ木することは、できないのです。

この傷こそが、主イエスの十字架です。主イエスという木が、十字架によって、傷つけられなければ、枝は差し込めないのです。

十字架によって、できた傷に、枝が差し込まれて、新しい木に、つながるのです。

それによって、罪ある者が、救われ、聖められて、新しい命に、生きる者とされるのです。

すべての人は、主イエスという木に、接木される枝として、招かれています。

しかし、すべての人が、接木に成功する訳ではありません。接木されても、枯れてしまう枝もあります。

そうすると、接木された枝が、土台の木に、上手くつながるかどうかが、問題になります。

罪の中にあった私たちが、主イエスという、命の木に接木されて、土台である木から、命の樹液をいただいて、生かされる。これが、私たちの救いです。

しかし、せっかく接木されても、木から注がれる養分を、拒否しているなら、接木は成功しません。新しい木に対する、拒否反応を、示しているなら、命の実を、結ぶことはできません。

単に、つながれているだけでは、接木が成功している、ことにはなりません。

接木された枝が、木から豊かな養分を、吸収しているか、どうかが問題なのです。

つながれているのに、実を結ばないというのは、接木されても、木から注がれる養分に、拒否反応を示しているからです。

形だけがつながっていても、中に樹液が流れていなければ、枯れ枝なのです。

それでは、せっかく、十字架において、自らの身を引き裂いて、枝を受け入れてくださった、主イエスという、土台の木を、悲しませてしまいます。

たとえ僅かでも良いのです。まことの木から注がれる、命の樹液を吸収して、その恵みに、生かされてください。それが、まことの木である、主イエスの、心から願いなのです。

「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。

この御言葉は、戦前の文語訳では、「人もし我におり、我また彼におらば、多くの実を結ぶべし」、となっていました。「つながる」という言葉が、「いる」という言葉に、訳されていました。

また新改訳聖書では、「つながる」という言葉は、すべて、「とどまる」と訳されています。

この訳の方が、原語の意味に、近いのです。ここで「つながる」、と訳されている言葉は、元々は、「とどまる」という意味なのです。

「つながる」という言葉ですと、体の一部だけが、或いは、心の一部だけが、つながっていても、それでも、つながっていることになります。

主イエスと、かすかな糸でつながっている。それでもいい、ということになります。

しかし、ここでは、そうではありません。つながっている、というのは、相手の中に「いる」のです。相手の中に、「とどまる」のです。住み着いてしまうのです。

主イエスが、私の中に住み着き、私が、主イエスの中に、住み着いてしまうのです。

ですから、主イエスと、永遠に、共にいることができるのです。これほど、大きな恵みは、ありません。

しかし、私たちは、このような大きな恵みに出会った時、いつもためらいを覚えてしまいます。私のような、罪に染まった、汚れた者が、その様な、恵みに与って良いのだろうか。私は、そのような恵みを受けるに、相応しくないのではないか。そのように、思ってしまいます。

しかし、皆さん、大丈夫なのです。主イエスは、仰っています。3節です。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。これは、何と慰めに満ちた御言葉でしょうか。

主イエスが、私たちの心の中に、御言葉を植え付けてくださった。その時に、私たちは、もう既に、聖くなっている、というのです。汚れから、解き放たれている、というのです。

私たちは、既に聖いのです。なぜなら、御言葉が、私たちの中にあるからです。

主イエスの御言葉が、私たちの内に、生き続けて、私たちを、聖め続けてくださっている、というのです。

ここにある、「わたしの話した言葉」は、単数形で書かれています。あの言葉、この言葉、ではないのです。単数形の言葉。それは、福音を意味しています。

福音を聞かされて、あなた方は、既に、聖くされている。だから、恐れずに、ためらわずに、聖なる木である、私につながっていなさい。主イエスは、そう言ってくださっているのです。

2節に「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」、と語られています。興味深いことに、この「手入れをする」という言葉は、3節の「清くする」、という言葉と、同じ言葉なのです。もともとは、「不純物を取り除く」、という意味の言葉です。

私たちが、福音を聞き、これを拒否するのではなく、これを受け入れて、これに応えようと歩みだす時に、神様が、私たちを手入れしてくださり、私たちを聖めてくださる、というのです。

福音に生きようと、歩みだす私たちに、神様が、働き掛けてくださり、私たちの中から、不純なものを取り除いてくださる。それによって私たちは、手入れされ、聖められるのです。

本当に、何から、何まで、父なる神様と、主イエスが、すべてを、してくださるのです。

私たちは、ただ、主イエスという、まことの木につながり、神様の手入れを、受けるだけで良いのです。

この譬えの終わりで、主イエスは、「つながっていなさい」、という言葉を、「わたしの愛にとどまりなさい」、と言い換えておられます。

既に、13章34節で、主イエスは、こう言われていました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

主イエスは、この訣別説教において、一貫して、「互いに愛し合いなさい」という、新しい掟について、語っておられます。

そのことを考えるなら、ここで、主イエスが仰っている、豊かな「実」とは、この「新しい掟」を、実践することである、と示されます。

「実を結ぶ」ということは、「互いに愛し合う」という生き方を、実践することなのです。

9節で、主イエスは、語られています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

今までの文脈から、この言葉を捉えるならば、このように意訳することが、できるのではないかと思います。

「父がわたしを、愛してくださった。そして、今も、愛し続けていてくださる。そのように、わたしも、あなた方を愛した。そして、今も、愛し続けている。だから、そのわたしの愛の中に、しっかりと、とどまり続けなさい。今も、後も、永遠に」。

一時的ではないのです。継続的な愛の交わり、永遠に続く、愛の交わりの中に、あなた方は、いるのだ。今そうであるように、これからも変わらずに続く、真実な愛の中に、永遠に留まり続けなさい。主イエスは、そう言っておられるのです。

そして、このことを、実践することが、父なる神様に、栄光を帰すことになる、というのです。

私たちという枝が、主イエスという木に、接木され、主イエスにつながったときに、私たちは主イエスという木から、限りない愛を、養分として、いただくことが出来ます。

そして、その注がれた愛をもって、お互いに愛し合っていくのです。

それが、父なる神様に、栄光をお返しすることになる、というのです。

私たちが、「愛の戒め」を、実践することによって、父なる神様に、栄光をお返しする。

主イエスが、弟子たちに、そして私たちに、一番願っておられるのは、そのことなのです。

主イエスは、父なる神様の、愛の中におられました。

そして、父なる神様が、教えられた通り、その愛の掟に生きられました。十字架の愛を、貫かれました。

わたしが、父なる神様の、愛の中に、しっかりと、生きているように。そのように、あなた方も、わたしの愛の中を、生きなさい、と主イエスは言われるのです。

私たちが顕わす、神様の栄光とは、何よりも、私たちが、キリストの愛の中にいる、ということを、周りの人々に、示すことです。

私たちが、主イエスの愛の内に、生きている姿を、証しすることです。

今、この世は、自己中心的な考えによって、恐ろしい方向に、進もうとしているように、感じられます。

そのような時、最も大切なことは、神様が生きておられる、ということを、はっきりと、示すことです。その責任は、私たちキリスト者にあります。

私たちが、父なる神様の栄光を、顕わすかどうかに、かかっています。

教会は、「まことのぶどうの木」である、主イエスにつながる、「愛の共同体」です。

茅ヶ崎恵泉教会が、心を尽くして主を愛し、お互いを自分のように愛する。そのような、愛の共同体として、この世に、主の愛を証ししていくことができますようにと、心から願います。

たとえ、小さな群れであっても、主の愛の灯を高く掲げて、共に歩むことができますように、神様の導きと助けを、祈り求めて、まいりましょう。