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過去の礼拝説教

「主イエスは愛の弁護士」

2017年04月30日 聖書:ヨハネの手紙一 2:1~6

主イエスは、十字架にかかられる前の晩、愛する弟子たちに、こう言われました。

「私は、あなた方をみなしごにはしておかない。」

ヨハネによる福音書14章8節の御言葉です。 これは、本当に、嬉しい御言葉です。

あなた方は、みなしごではない。あなた方は、どんな時にも、決して、一人ではない。主イエスは、はっきりと、そう約束して、くださったのです。

では、この約束は、具体的には、どのような意味を、持っているのでしょうか。

主イエスは、続いて、言われました。主イエスが、この世を去った後に、父なる神様は、別の弁護者を、送ってくださる。この「別の弁護者」が、いつも、あなた方と一緒にいるのだ。

だから、あなた方は、みなしごではない。主イエスは、そう約束されたのです。

なぜ、主イエスは、わざわざ、「別の弁護者」、と言われたのでしょうか。

それは、主イエスという弁護者が去った後に、主イエスとは、別のお方が、新たな弁護者として、来てくださる。そのことを、明確にするため、であったのです。

そして、この別の弁護者は、あなた方が、いつ、どこにいようと、必ず、共にいてくださるお方なのだ。主イエスは、そう断言して、くださったのです。

この「別の弁護者」とは、聖霊なる神様のことです。

弁護者という言葉は、他の聖書では、「助け主」とか、「慰め主」と、訳されています。

原語は、「呼ばれてかたわらにいる人」、という意味の言葉です。

呼ぶと、そばに来てくれて、ずっと一緒にいてくれる人。裁判の時には、文字通り、そばに立って、弁護してくれる人のことです。

主イエスは、そのような助け主、慰め主として、聖霊が、弟子たちに送られる、と約束してくださったのです。

私たちが、最も苦しいとき、悩みのときに必要なもの、それは助け主、慰め主です。

この世のすべてのもが、助けにならず、慰めにならないときに、呼べば、必ず傍らに来てくれる弁護者。いえ、呼ぶ前から、既にそばにいてくださるお方。それが聖霊なる神様です。

私たちに、このようなお方が、与えられていることは、本当に大きな恵みです。

もし、主イエスが、2千年前に、地上に来られて、そのまま、未だに、パレスチナの地に、生きておられたとしたら、どうでしょうか。

その主イエスに、直接お目に掛からないと、救われない、ということであるなら、私たちは誰も、仕事も、家事も、勉強も、手につかなくなって、しまうのでは、ないでしょうか。

主イエスのおられるところは、主イエスの「追っかけ」の人たちで、いつも、ごったがえし、戦場のように、なってしまうと思います。

遠く日本からやって来た、私たちなど、その衣に触れることさえ、できないかもしれません。

しかし、肉体を持った存在としての、主イエスは、天に上られました。そして、代って、私たちに、聖霊を、送ってくださいました。

それによって、誰のところにも、いつどんな時にも、「助け主」・「慰め主」が、共にいてくださる道を、開いてくださったのです。

ところで、第二コリント5:10に、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」、とあります。

この御言葉にあるように、私たちは、いずれ、神様の前に立たされ、最後の審判と言われている、裁きを受けます。しかし、その時、そこにも、弁護者、助け主が、おられるのです。

今朝の箇所、ヨハネの手紙一 2:1~2には、その時の事が、書かれています。

但し、ここでは、弁護者は、聖霊ではなく、主イエスご自身である、と書かれています。

地上においては、聖霊が、弁護者として、私たちを助け、慰めてくださる。

そして、終わりの時には、主イエスご自身が、父なる神様の、傍らにいてくださり、私たちのために、執り成してくださる、というのです。

これは、まさに、最強の弁護団ではないでしょうか。私たちは、地上にあっても、天にあっても、最強の弁護団によって、守られているのです。

この、最強の弁護団、ということで、想い起す出来事があります。

以前にも、お話ししましたが、23年前に、アメリカ全国民の、注目を集めた、ある裁判がありました。

プロ・フットボールの、元スーパースターで、引退後は、俳優やコメンテイターとして活躍していた、O.J.シンプソンという人が、離婚した元妻と、その友人を、殺害した容疑で、逮捕されたのです。

当初は、証拠が整っているので、シンプソン氏の有罪を、予想する見方が、圧倒的でした。

ところが、大資産家であるシンプソン氏は、優秀な弁護士を、何人も雇って、強力な弁護団を組成しました。

ドリームチームとも呼ばれた弁護団は、総勢15名。しかも腕利きの、大物弁護士ばかり。

弁護士費用は、当時の為替レートで、総額9億円にも達した、と伝えられています。

まさに、史上最強ともいうべき弁護士団は、極めて巧妙に、「殺人事件」の裁判を、「人種問題」へと、すり替えていきました。

そして、遂にシンプソン氏を、無罪にする事に、成功したのです。

この無罪判決に、一部のマスコミは、「今やアメリカにおいては、正義までも、お金で買うことが出来るのか」、と反発しました。

ところで、もしあなたが、何か、とても重大な事件の、現行犯として、多くの目撃者がいる中で逮捕され、動かし難い証拠を突き付けられ、しかも、辣腕の検事によって、裁判にかけられた、としたらどうでしょうか?

シンプソン氏のように、9億円も出して、強力な弁護団を組成する、お金もありません。

ついた弁護士は、全く有能そうには見えません。

それどころか、いかにも非力そうで、ただ人の良さだけが、取り柄のような人です。

もはや、絶望的です。有罪は確定的です。逃れる術は、全くありません。

牢屋に入れられて、有罪判決を、ただ待つだけです。しかも、犯した罪の重さから見て、死刑判決は、確定的です。

牢屋の暗闇の中で、怯えつつ、死刑判決の日を待つ。そんな日々が続きます。

ところが、突然、牢屋の扉が開かれ、看守が、「お前は、無罪放免だ。どこへなりとも出て行って良い」、と言うのです。びっくりして、「えっ、どうしてですか」と聞くと、「お前の代わりに、他の人が、死刑になると、言ってきたからだ」、と言うのです。

「一体誰ですか、私の代わりに、死刑になるって、言ってくれた人は」。

「それは、あの、お前の弁護士だよ。あの弁護士が、お前が有罪で、死刑になることが、避けられないと知って、自分が代わりになる、と言ってきたんだ。

全く、何を考えているのかね。お前のような、罪人の代わりに、なるなんて」。

看守は、吐き捨てるように、そう言ったのです。

無能で、非力で、ただ人が良いだけが、取り柄だと思っていた、あの弁護士が、私に代わって、死刑になってくれる。そのお陰で、私は、無罪放免となる。

そんなことがあるのでしょうか。この世の常識では、あり得ません。およそ考えられません。

でも、そんな考えられないことが、実際に起こったのです。いえ、今も起こっているのです。

先ほど読んでいただいた、聖書の御言葉が、そのことを語っています。

ヨハネの手紙一の2章1節、2節です。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」

御言葉は、裁判において、私たちの罪を償うために、命を献げてくださった人がいる、と言っています。

終わりの日の裁きの時、神様の傍らに、弁護士がいる。正しいお方がいる。そのお方が、私たちの罪を、代わって負ってくださって、死刑台に上ってくださった。

だから、私たちは、もう死刑台に、上らなくても、よくなったのだ、と言っています。

正しいお方が、私たちに代わって、罪人となって、死刑になってくださった。

そんな、考えられないようなことが、実際に起こったのだと、言っているのです。

聖書が言っている罪とは、法律や道徳に違反する、犯罪行為のことではありません。

聖書が指摘する人間の罪とは、「的はずれな生き方」、のことです。

神様は、私たち人間を、愛の対象として、ご自身のお姿に、似せて創造されました。

ですから、私たちは、創ってくださった、神様の方を向き、神様の愛に応えて、生きていかなければ、ならないのです。それが、私たちの生き方の、正しい方向なのです。

しかし、私たちは、それが、なかなか出来ないのです。私たちは、神様に背を向け、神様とは、逆の方を向いて、生きてしまいます。まさに、的外れな生き方を、してしまいます。

神様は、そんな私たちの、すべてをご存知の、全知全能のお方です。

ですから、私たちが、どんなに、神様に背き、神様の御心とは反対の、「的外れな生き方」をしてきたかを、よくご存じなのです。私たちが、自分自身を知る以上に、ご存じなのです。

いくら私たちが、表面を取り繕っても、神様の目を、ごまかすことはできません。

どんな言い訳をしても、真相を暴かれて、しまいます。私たちは、この世の終わりの日に、そのような神様の前に立ち、神様の裁きを、受けなければならないのです。

これは、すべての人について、決められていることです。

すべてを知っておられる、神様の前では、私たちは、無罪を立証することは、できません。

どんなに有能な弁護士を雇っても、有罪を無罪に変えることは、出来ないのです。

私たちは、刑罰から逃れる方法を、全く持っていません。全く絶望的な状況です。

ところが聖書は、絶望する事はない、というのです。ここに、もう一人、弁護士がいるではないか、というのです。

しかし、この弁護士は、人間的に見た場合、とても有能そうには、見えません。

また、勇ましく戦ってくれるような、強い人にも、見えません。むしろ無力とも、思えるような人です。右の頬を打たれたら、黙って左の頬を、差し出すような人です。

なす術もない私たちの、傍らに座って、一緒に涙を流してくれることしか出来ない。そんな弁護士なのです。

しかし、この弁護士は、私たちの有罪が、避けられないと知ると、何と、自分が、私たちの代わりに、有罪になる、と申し出たのです。

「私の依頼人の罪は、明白であり、刑罰は避けられない。しかし、私は、私の依頼人を、心から愛している。だから、私が代わって、罰を受けます。」と申し出たのです。

こんな弁護士がいるでしょうか。常識ではとても考えられません。

しかし、いるのです。確かにいるのです。この弁護士こそ、イエス・キリストです。

しかも、このイエス・キリストを、私たちの弁護士として、雇うのに、お金は要らない、というのです。シンプソン氏のように、大金持ちである、必要はないのです。

ただ、イエス・キリストを、私の弁護士とします。私は、このイエス・キリストという弁護士を、信じて、委ねます、と言い表すだけで、充分なのです。何と、素晴らしいことでしょうか。

弁護士イエス・キリストは、依頼人である私たちを、無罪にできないことを知ると、私たちを生かすために、代わって、死んでくださったのです。

そうであるなら、私たちは、与えられた命を、代わって死んでくださった方のために、用いて、生きなければならない、のではないでしょうか。

そうでなければ、代わってくださった方の死は、無駄になってしまいます。正しい方の、犠牲的な愛が、無駄になってしまう。そういう理不尽なことが、起こってしまいます。

しかし、現実の世の中には、時々、そういう理不尽なことが、起こります。

今から、もう26年も前の、冬の日の午後、数人の若者が、冷たい隅田川に飛び込んで、一人の初老の婦人を、助けました。

それだけならば、それは、一つの美談です。けれども、現実は、もっと過酷でした。

真っ先に飛び込んだのは、山崎さんという青年でした。

彼は、恐怖に捕らわれて、しがみつき、暴れまくる、その婦人を、必死になって、岸の近くまで引き寄せました。しかし、ついに力尽きて、流れに消え、水死してしまったのです。

この水死した山崎さんは、自動車修理工として、まじめに働く、19歳の青年でした。

一方、助けられた婦人は、ノイローゼで入院していたのですが、その病院から抜け出して、川に身を投げて、自殺しようとしていた、64歳の方でした。

自殺を図った、64歳の婦人が助けられ、前途有為な、19歳の青年が、命を落としたのです。犠牲的な愛を示した、青年が死んで、死のうとしていた、初老の婦人が助かった。

何とも説明し難い、理不尽な話です。

私たちが生きている、この世の中には、このようにして、命を捧げて、犠牲的な愛を示したにも拘わらず、それが無駄に見えるような、理不尽な現実が、あるのです。

主イエスの、十字架の死も、そうです。この日本の中で、一体何人の人が、主イエスの十字架の意味を、分かっているでしょうか。

日本のクリスチャン人口は、1%にも満たない、といわれています。そうしますと、残りの99%の人にとっては、無駄に死んだように、思える人が主イエスです。

日本の人たち、ばかりではありません。人類すべてのために、一見、無駄に見えるように、死んだお方が主イエスなのです。

主イエスは、罪の暗闇の中を、うごめいている、私たち一人ひとりを、愛してくださって、なんとかして救おうとして、身代りになって、死んでくださいました。

でも、多くの人は、そのことを知りません。知らされても、分かろうとしません。信じようとしません。

神ご自身が、背き続ける人間のために、人間に代わって、十字架に死んでくださった。

全く罪のないお方が、私たちの罪の故に、私たちに代って、苦しまれたのです。

それにも拘らず、人間は、それを知ろうとしません。分かろうとしません。信じようとしません。そんな理不尽なことが、あるでしょうか。そんな無駄なことが、あるでしょうか。

この現実を、ご覧になって、主イエスは、どう思われているでしょうか。

こんな筈ではなかった。人間が、こんなに頑なで、鈍くて、不信仰だとは、思わなかった。

こんなことなら、十字架で、あんな苦しみを、味わうのではなかった。そう思っておられるでしょうか。違います。そんなことは、露ほども、思っておられません。

主イエスは、きっと、こう言われていると思います。

良いのだ。私は、あなた方の、そんな弱さも、そんな不信仰も、全部知っているのだ。

だからこそ、私は、十字架にかかったのだ。

それより他に、そんなあなた方を、救う方法がなかったのだ。私は、あなた方が立ち帰るのを見越して、十字架にかかったのではない。

ただ、飼う者のない羊のように、あなた方が、さ迷い、滅びようとしているのを見て、耐えがたい憐れみを感じて、一人でもよいから、救いたいと思って、十字架にかかったのだ。

私は、あの十字架において、私のすべてを、注ぎだした。私には、もうこれ以上の、選択肢は残っていない。あなた方にとっては、これが、最後のチャンスなのだ。

だから、どうか、一人でも多くの者が、私の愛を、受け入れて欲しい。主イエスは、こう言われている筈です。

私たちを生かすのは、この主イエスの愛です。この主イエスの愛は、計算づくの愛ではありません。

主イエスは、私たちが、立ち帰るのを計算して、十字架にかかられたのではありません。

山崎青年の愛も、主イエスの愛も、計算づくの愛ではありません。もともと計算づくの愛は、愛ではありません。自分の死が、無駄になるかもしれない。

そういう、理不尽なことが、起こるかも知れない。その確率が高いなら、止めよう。

もし、低いなら、実行してみよう。そんなことは、始めから、考えていません。

そんな計算を超えた愛です。私たち活かす力、それは、この計算づくではない、主イエスの愛です。

私たちは、生きていく上で、様々なものを、必要としています。あれがなければ、生きていけない。これがなければ、生きられない、と思っています。

しかし、私たちが生きていく上で、本当に必要とするのは、この計算を超えた愛です。

私たちの、有罪判決を、無罪にするために、代わって死んでくれた、弁護士主イエスがおられるのです。このお方の、計算を超えた愛が、私たちを生かすのです。

このお方を、私たちの弁護士として受け入れ、この弁護士を信頼し、この弁護士にすべてを委ねて、平安の内を、歩んでいきたいと願います。

この弁護士の、計算を超えた愛を、感謝しつつ、喜びながら、共に歩んでまいりましょう。