MENU

過去の礼拝説教

「悲しみは喜びに変わる」

2017年07月30日 聖書:ヨハネによる福音書 16:16~24

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」。

主イエスは、この御言葉を、最後の晩餐における、訣別説教の中で、語られました。

これから、ご自身は、ゲツセマネにおいて、捕らえられ、十字架にかけられ、この世から、取り去られる。そのことを、予告されたのです。

更に、主イエスは、その事が起こった時、「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」ことになる、と言われました。あなた方は、悲しみの涙に暮れる。けれども、それを見て、この世の人々は喜ぶ、と言われたのです。

なんと、悲しいことを、言われるのでしょうか。主イエスは、弟子たちを、わざと、悲しませようとしておられるのでしょうか。私は、これから、十字架にかかって、苦しむのだから、あなた方も、少しは悲しみなさいと、いうのでしょうか。そんなことはありません。

主イエスは、弟子たちを、励まそうとしておられるのです。

あなたたちは、孤児のように、捨て去られるのではない。私は、十字架にかかって死ぬ。

けれども、すぐに復活して、あなたたちのところに、また戻って来る、と言われたのです。

「またしばらくすると、わたしを見るようになる」、と仰ったのは、そのことです。

私の十字架の死を見て、あなたがたは悲しみに覆われる。

でも、暫くすると、私は復活して、再びあなた方と会うことになる。だから、あなたがたの悲しみは、喜びに変わるのだ。主イエスは、そう言われたのです。

今日の箇所で、繰り返して、出てくる言葉があります。それは、「しばらくすると」、という言葉です。この「しばらく」、という言葉は、原文では、ミクロンという言葉です。

ミクロンという言葉は、現在も使われています。1ミリの千分の一という、非常に小さな、長さの単位を表す言葉です。

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」。主イエスは、ミクロンの内に、つまり、ほんの僅かな時間の内に、ご自身が死なれることを、ここで予告されました。

主イエスが死なれると、主イエスが見えなります。主イエスの恵みが、見えなくなります。

皆さん、私たちも、信仰生活において、そんな思いに、覆われることが、あるのではないでしょうか。主イエスが、見えなくなってしまった。主イエスの恵みが、見えなくなってしまった。

「主よ、あなたは、どこに行かれたのですか」と、思わず叫んでしまう。そんな時があります。

しかし、そういう時に、私たちは、この主イエスのお言葉を、想い起したいと思います。

「あなたは、私のことが、見えなくなってしまった、と言っているね。でも、それは、ほんの短い時間だけなのだよ。暫くすると、必ずまた、私を見るようになる。だから、私のことを、探し続けなさい。私のことを、尋ね求めることを、止めてはいけません」。

主イエスは、そのように、言われているのです。

私たちは、この主イエスの御言葉に、望みを見出します。この主イエスの約束を信じて、たとえ一時、見失っても、主イエスを、尋ね求めて、いきたいと思います。

しかし、実を言いますと、主イエスが、見えなくなった時も、主イエスが、いなくなってしまった訳ではないのです。主イエスは、ずっと、共にいてくださっているのです。

私たちが、その主イエスを、見失っているだけなのです。

私たちの目が塞がれて、共にいてくださる、主イエスが、見えなくなっているのです。

多くの人に愛されている、「あしあと、Footprints」、という詩があります。こういう詩です。

「あしあと」
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
わたしはとまどい、主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていたのだ。」
何度読んでも、新たな感動を覚える詩です。

主イエスが、見えない、と私たちが、泣き叫んでいる時も、主イエスは、共にいてくださる。

私たちのことを、背負っていてくださる、というのです。そして、やがて、そのことを、気付かせてくださる、というのです。私たちは、この約束を信じて、歩んでいくのです。

私たちの人生には、楽しい時もあれば、苦しい時もあります。

深い悲しみの時があっても、その後に、喜びの時がくる。そして、また悲しみの時がくる。

そのようなパターンが、繰り返されます。

ですから、昔から、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」、などと言われています。

主イエスは、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしをみるようになる」、と言われました。でも、これは、「苦あれば楽あり」という、人生における、繰り返しのパターンのことを、言われたのではありません。

悲しみと喜びが、代わる代わる訪れるのではない。私が、復活して、再びあなた方と会うことによって、「悲しみが喜びに変わる」のだ、と仰っておられるのです。

悲しみが喜びに、嘆きが歌に、変わってしまうのだ、と言われているのです。

そうは言っても、既に済んでしまった、過去の出来事が、変わる訳はないだろう、と仰る方が、おられるかもしれません。昔から、「過去は変えられない」、と言うではないか、と言われるかもしれません。

カナダ出身の精神科医、エリック・バーンという人が、有名な言葉を残しています。

「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる。」

確かに、既に起こってしまった、過去の出来事、それ自体を、変えることはできません。

時計の針を、逆に戻して、過去の出来事を、変えることができたら、どんなに良いだろうかと、誰もが、一度は、思ったことがある、と思います。

確かに、既に起こってしまった、過去の出来事を、変えることはできません。

けれども、その意味を、変えることはできます。

過去は変えられません。しかし、過去の意味は変えられます。

私も過去に、いくつか、辛い体験を、してきました。その中に、2回の失業があります。

突然解雇を、言い渡されて、失業した経験が、2回もあります。その時は、「なぜ私が…。こんなに一生懸命に仕事をしているのに…」、と理解できずに、苦しみました。

しかし、その時の経験は、今の私にとっては、尊い宝物となっています。あの時の経験があるからこそ、このことを受け入れられる。そう思うことが、度々あります。

今は、あの失業と言う経験は、本当に恵みであったと、心から思うことができます。

あの経験は、私にとって必要な時であった。あの時を、与えてくださった主に、感謝しますと、心から言うことが出来ます。これは、決して、えぇ格好して、言っているのではありません。

本当に、心からそう思っているのです。

過去は変えられません。しかし、過去の意味は変えられます。かつては、苦しみだけだと、思っていた、過去の出来事が、感謝と喜びに、変わることがあるのです。

その典型が、主イエスの十字架です。弟子たちにとって、十字架は、当初は、悲しみと絶望、そのものでした。

その十字架が、復活の光に、照らされた時に、救いと勝利の、しるしとなったのです。

私たちの先生が、無残にも、十字架にかけられてしまった。でも、それは、私たちの罪を、贖うためであった。私たちの代わりに、神の独り子が、死んでくださったのだ。

その事を知った時、悲しみと絶望でしか、なかった十字架が、思い出すだけでも、感謝と喜びで、胸が震えるような、尊い救いの、しるしとなったのです。

21節で、主イエスは、悲しみが喜びに変わる、ということを、出産に譬えて、語られました。

以前、出産について、あるご婦人が、こんなことを、書いておられました。

「もうすぐよ、とお産婆さんが言ってくれる。わたしはその「もうすぐ」というのが待ち切れない。この出産の苦しみから、解き放ってくれる時が、本当に来るのか、とさえ思う。

もう辛抱できない、と思っている。そこには、もうすぐ、子どもが与えられる、という期待の喜びさえも、実は、なくなってしまっている。

ただ自分の中にある願いは、どうでもいい、この痛みが、終わってくれればいい、ということに尽きる。そして、もう耐え切れない、と思うときに、最後の陣痛が訪れる。

圧倒的な幸福感が訪れる。子どもが生まれた。苦しみは突然消えて平安が訪れ、自分までが、すっかり新しくなったとさえ思う」。その人はこのように書いています。

苦しみの只中にある時は、ただこの苦しみが、去ってくれることだけを、願っていた。

しかし、その苦しみが、極限に達した時、子どもが生まれた。

その時の、言い尽くしがたい喜びが、よく言い表されていると思います。

こういう文章を読みますと、ごく単純な疑問ですが、主イエスは、男なのにどうして、こういうことを知っておられるのだろう、という思いが、心に沸き起こってきます。

私たち男性は、このような陣痛の苦しみとか、出産の喜びというものを、知りません。

しかし、驚いたことに、主イエスは、知っておられるのです。

やはり、私たちの主は、誰に対しても、寄り添ってくださり、すべての苦しみも、悲しみも、共にしてくださるお方なのだ、ということを、この御言葉を通しても、知ることができます。

ここで主イエスは、十字架の苦しみを、「陣痛」に譬えられました。

「女は子供を産むとき、苦しむものだ。……しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。そう語られました。

主イエスの十字架の死は、神様が、私たちを、神の子として、生み出すための、愛の苦しみであったのです。神様が、人間を新しく生み出すための、陣痛であったのです。

私たちは、罪のために、滅びの死に向かって、歩んでいました。しかし、主イエスは、私たちに代って、十字架に死んでくださり、私たちの罪を、取り除いてくださいました。

人間が、神の子として、新しく生まれるために、主イエスは、十字架の苦しみを、自ら進んで、引き受けてくださいました。母親が、陣痛の苦しみを味わうように、苦しんでくださいました。

十字架というのは、人を、最も苦しめて殺すために、考え出された、残虐な処刑方法です。あまりの苦しさに、殆どの人が、最後は発狂して、死んでいった、と伝えられています。

ですから、実際には、十字架は、陣痛の苦しみを、遥かに越える、苦しみであったのです。

私のような、汚れた存在を、新しく、神の子として、生み出してくださるために、主イエスは、十字架の苦しみを、自ら担ってくださいました。その生みの苦しみによって、私は、新たに生まれることが、出来たのです。何という恵みでしょうか。

私たちは、陣痛の苦しみを知った時、そんな苦しみをも厭わずに、私を生んでくれた、母親に対する、感謝の思いで満たされます。心から、「お母さん、私を生んでくれてありがとう」、という思いを持ちます。

では、私たちを、新しく生み出してくださった、主イエスに対しては、どうでしょうか。

主イエスに、お礼を言っているでしょうか。十字架の苦しみを思う時、何と言って、お礼を言えば良いのか、分かりません。御礼の言葉も、見つかりません。

しかし、主イエスはこう言われています。「お前という、一人の罪人が、新しく神の子として、生まれ出た喜びのために、私は、もはや、その苦痛を思い出さない」。

主イエスは、この私が、救われて、神の子として、新しく生まれたことを、心から喜んでくださっているのです。そのあまりの嬉しさのために、もう生みの苦しみを、思い出すこともない。

一人の罪人が、救われたという喜びが、十字架の、あの苦しみさえも、忘れさせてしまった。

それほど、あなたが救われたことが、私にとって、大きな喜びなのだ。主イエスは、そう言っておられるのです。

母親は、子どもに、陣痛の苦しみを、恩着せがましく語って、こんなに苦しんで、産んでやったのだから、親孝行しなさい、などとは言いません。

逆に、「生まれてきてくれて、ありがとう」、と言います。

主イエスも、十字架の苦しみを、恩着せがましく、お語りになるようなことはありません。

その点では、同じかも知れません。

「新しく生まれてくれて、ありがとう。私は、嬉しいよ」、と言ってくださいます。

しかし、母親は、陣痛の苦しみを、忘れることはないと思います。その苦痛を、忘れてはいない、と思います。でも、主イエスは、その苦痛を忘れて、くださるのです。

十字架の苦しみは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、思わず叫ばれたほどの、苦しみでした。暫しの苦しみ、などではなかったのです。

一体、いつまで続くのだろうか、と思うような、苦しみであったのです。しかし主イエスは、その苦しみを、暫しのもの、ミクロンの苦しみでしかない、と言ってくださるのです。

一人の罪人を、神の子として、生み出すことが出来るなら、あの十字架の苦しみでさえ、ミクロンの苦しみでしかなくなる。もう思い出すこともない。「もう、忘れているよ」、と言ってくださっているのです。こんなに、大きな愛は、ありません。こんなに、深い愛は、ありません。

更に、主イエスは、22節で、こう言っておられます。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」。

「再びあなたがたと会い」、とありますが、文脈から言えば、それは「見る」、ということです。

16節で、主イエスは、「あなたがたは私を見るようになる」、と言われました。

しかし、ここでは違います。ここでは、「私があなたがたを見る」、と言われているのです。

主イエスの方が先なのです。私たちが、主イエスを、見るよりも先に、主イエスが、私たちを見ていてくださるのです。

主イエスの眼差しが、既に、私たちを、見詰めていてくださるのです。

私たちは、見詰めていてくださる、主イエスの目を、ただ見返すだけなのです。そして、その時に、私たちは、喜びに溢れるのです。

絶望せざるを得ないような、苦しみや悲しみの中で、私たちは、この主イエスの眼差しを発見するのです。

私は、一人ではない。主イエスは今も、共にいてくださり、私を、愛の眼差しで、見ていてくださる。私は、主イエスの、御懐に抱かれている。そのことを、感じ取ることが出来るのです。

そして、そこで、私に対して語られる、主イエスの御声を聞くのです。

静かで、細い御声。けれども、限りなく優しい、御声を聞くのです。

私のために、十字架において、極限の苦しみを、負ってくださった。それにも拘らず、「愛する子よ、もう、そんなことは覚えていないよ」、と言ってくださる、主の御声を聞くのです。

苦しみ、悲しみの、只中において、私たちは、この主の眼差しを、喜ぶことが出来るのです。この主の御声を、喜ぶことが出来るのです。

このようにして、悲しみや、苦しみは、喜びに変わるのです。

そして、その喜びは、誰も奪い取ることが出来ない、私だけの、喜びなのです。

私たちはそのように、苦しみや、悲しみが、喜びに変えられることを知っています。

主イエスの御手の中で、変えられることを知っています。

エリムの集いで、歌っている、ワーシップソング「御手の中で」の、歌詞の通りです。

『御手の中で  すべては変わる 感謝に/わが行く道を 導きたまえ  あなたの御手の中で。御手の中で  すべては変わる 賛美に/わが行く道に 表したまえ  あなたの御手の業を。』皆さん、これが、私たちに与えられている恵みです。これが、私たちに与えられている祝福です。

この恵みに、生かされていることを、この祝福に、生かされていることを、心から感謝したいと思います。