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過去の礼拝説教

「我が内に生きるキリスト」

2017年10月15日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2:15~21

今年は、宗教改革から5百年目の記念の年とされています。マルティン・ルターが、カトリック教会の改革を願って、95箇条の提題を発表したのが、1517年であったからです。

この95箇条の提題が、ヴィッテンベルグ城の門に貼られたのが、1517年の10月31日と伝えられていて、この10月31日が宗教改革記念日とされています。

ルターは、時のカトリック教会が、贖宥状、或いは免罪符とも呼ばれていますが、それを買えば、罪の償いが行われる、と言ったことに、強く抗議しました。ルターが抗議した、つまり、プロテストしたことから、プロテスタントという呼び名が生まれました。

ルターは、人は信仰によってのみ、義とされて、救われると説いて、カトリック教会の、信仰と善い行いによって、救われるという教義と、鋭く対立しました。

この「信仰義認」の教義を守るために、ルターは生涯をささげた、とも言えますが、そのルターを支えたものの一つが、ガラテヤの信徒への手紙でした。

ガラテヤの信徒への手紙には、人は信仰によってのみ救われる、という信仰義認の教えが、使徒パウロの言葉を通して、力強く語られています。

ルターは、このガラテヤの信徒への手紙を、「わが妻カテリーナのようだ」、と言って、こよなく愛しました。

そこで、これから、暫くの間、宗教改革5百年を覚えて、礼拝に於いては、このガラテヤの信徒のへの手紙から、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

今朝は、2章15節~21節を、読みました。今朝の御言葉は、この手紙の中で、というよりも聖書全体の中で、最も大切な箇所の一つである、と言っても良いと思います。

16節の御言葉は言っています。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。

これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。

なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」

この御言葉について、ある人が、こんなことを言っています。

「この聖句は、聖書の語っている、救いについての、最も大切な箇所です。これは、棺桶に入れて行くべき、最大の神の約束です。天国に、私たちを入れてくださる、神の約束の御言葉です。」

棺の中には、普段、その人が、最も大切にしていたものを、入れます。

どうでしょうか、私たちは、この御言葉を、それ程、大切にしているでしょうか。

ルターは、ガラテヤの信徒への手紙の註解書において、この2章16節のためだけに、十数ページを費やしています。

それ程、この御言葉を、大切にしていたのです。

16節だけではなく、19節後半と20節の前半の御言葉も、多くの人たちによって、大変愛されている御言葉です。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

もし、キリスト教信仰において、最高点とか、頂点というようなものがあるとしたなら、この御言葉のような信仰告白を、自分自身の言葉とすることではないかと思います。

今朝は、これらの御言葉から、福音の豊かな恵みに、ご一緒に与りたいと思います。

このように、語り出しますと、期待に膨らんで、なんかワクワクしてきます。

ところが、最初の15節は、私たちには、ちょっと引っかかる言葉です。

「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」

私たち日本人は、異邦人ですので、「なんだ、これは!」と、思わず反発したくなるような、言葉です。

でも、ここで言う「罪人」とは、神様に背いている者、という意味ではなくて、ユダヤ教の律法を、守っていない人のことを、言っています。

異邦人は、律法を知らず、律法によって生きていない、ということを言っているのです。

それにしても、「異邦人のような罪人ではありません」、と言われると、少しカチンと来ます。

しかし、続く16節の御言葉は、「けれども」、という言葉で始まります。「けれども」なのです。

けれども、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、誰一人として、自分の行いによっては、神様の前で、自分を正しいと、証明することは、出来ないのだ。

パウロは、そのことを説き明かすための、導入として、15節の御言葉を、語ったのです。

福音を知ることによって、ユダヤ人も、異邦人も、同じように罪人であることが、初めて分かるのです。

パウロは、主イエスに出会って、まことの救いに、入れられました。その時、初めて、ユダヤ人も異邦人も、神様の前には、全く変わりのない、罪人であることを、知ったのです。

十字架の恵みの、大きさを知るまでは、自分の罪の大きさも、分からなかったのです。

自分の罪は、神の独り子が、ご自身の命をもって贖わなければ、赦されることはない。

それほど深く、重いものなのだ。そして、その罪の刑罰を、神の独り子が、代わって負ってくださった。

この福音に触れたときに、人は、初めて、自分がどれほど、罪深い者であるかを、知るようになります。そして、そのような者のために、命を懸けてくださった、主イエスの愛の大きさを、知るようになります。

パウロは、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と、言っています。

ユダヤ教徒だった頃のパウロは、人は律法の実行で義とされる、と信じて励んできました。

しかしパウロは、人は誰も、律法を完全に、実行することは、出来ないことを知りました。

律法の義によって、救われるためには、すべての律法を、完全に守らなければならない。

しかし、そんなことは不可能なのだ。パウロは、そのことに、気付かされたのです。

救いとは、自分の行いの立派さに対する、神様のご褒美ではありません。

自分の罪の深さを知って、心から悔い改めた時に、一方的に与えられる、神様の恵みなのです。

「義とされる」という言葉は、元々は法廷用語で、「無罪とされる」、という意味の言葉です。

皆さん、私たちが、神様の御前に、立った時のことを、思い描いてみましょう。

神様の御前の法廷で、あなたが、天国に入れるかどうかの裁判が、行なわれているとします。

そこで、あなたの幼い時からの生涯が、ビデオのように映しだされます。

自分にとって有利になるように、意図的に編集したものではありません。

全てをご存知の、神様の目から見た、完全ノーカット版の記録です。

幼い時から、晩年までの、ひとこまひとこま・・・。自分の、ありのままの姿を、私たちは、直視できるでしょうか?

例えば、十戒に従って、裁かれる事を、想像してみてください。

「あなたは父母を、どんな時も、敬ってきましたか?人を恨んだことはなかったですか?姦淫の思いを持ったことはなかったですか?嘘をついたことはなかったですか?盗んだことはなかったですか?人の物を欲しいと思ったことはなかったですか?唯一の神である主を、いつも第一にして、歩んできましたか」。

行ないだけではなく、その行いの動機、心の奥底にある思いまでが、一つ一つ明らかにされるのです。そうであれば、もはや言い逃れはできません。

神様の聖い法廷に立って、私たちの生涯が裁かれるとき、私たちには、「有罪判決」しか、待っていないのです。

私たちは、死刑の判決を受けて、牢屋に入れられます。

なすすべもなく、ただ死刑の執行を、待っています。

その時、突然、の扉が開かれ、「釈放だ!出て行ってよろしい」、と看守が言うのです。「エッ、一体どうしたんですか?」と質問する私に、看守が答えます。

「ある人が、お前さんの代わりに、罰を引き受けて、死刑になってくれたのさ」。

「そんなこと、信じられない」と、言おうとした、その時、あの懐かしい声が、聞こえてきます。「父よ、この者は、私が十字架の血潮で、贖い取った者です。ですから、どうか御救いに入れてください」。

キリスト者として生きて行くということは、いつでも、この原点を忘れない、ということです。

救いは、私たちの行いに、よるのではなく、十字架の贖いに、よるのです。

勿論、福音にふさわしく歩むように、努力をすることは、大切です。しかし、どんなに立派な信仰生活であっても、私たちの信仰の行為が、私たちを義とするのではありません。

そこを間違えると、「信仰とはこうあるべきもの」、という思いに、捕らわれてしまって、「信仰」それ自体が、新しい律法になってしまう、危険があります。

神様は、御自分の方から、一方的に、私たちを、義と認めてくださるのです。

この救いに与るのは、飛行機に乗るようなものです。飛行機に乗れば、誰でも、空を飛べます。体重の差なんか、問題ではありません。

主イエスは、力強い恵みの飛行機なのです。私たちを、神の御国へと、運んで行く飛行機です。信仰とは、この飛行機に乗り込むことです。

飛行機に乗るのに、私の体重は軽い、いや、私の方がもっと軽い、などと言い争っても、無意味です。いくら体重が軽くても、自分の力で、空を飛ぶことは、できません。

こんな汚れた私たちが、神の子とされる。それは、空を飛ぶのに、遥かに優る奇跡です。

自分の力で、できるとか、できないとか、いうような、問題ではないのです。

「私は大丈夫」、「私は駄目だ」、「私は強い」、「私は弱い」。そんなことではありません。

大切なことは、キリストという、恵みの飛行機に、乗ることなのです。

そして、その飛行機に乗るための切符が、主イエスの十字架なのです。

しかも、

驚くべきことに、この切符は、ただで受け取ることが出来るのです。

いえ、それどころか、どうか受け取って欲しいと、主イエスは望まれておられるのです。

これはもう、私たちの想像を絶する、恵みです。

この素晴らしい恵みに、迫られて、パウロが、思わず叫んだ信仰告白。

それが、19節、20節です。パウロの心の内から、ほとばしり出た言葉です。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」 これは、本当に、すごい言葉です。

パウロは、かつては、律法を守ろうと、一生懸命に、生きていました。

しかし、律法に生きていけばいくほど、その生き方に、行き詰ってしまったのです。

それは、ちょうど、修道士であったルターが、禁欲的な生活をして、善行に励んでも、神様の前で、自分は義である、との確信を持つことができずに、苦しみ続けたことと同じでした。

主イエスは、最も大切な戒めとは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神様を愛することである、と教えられました。

神様が求められるのは、愛であって、形式的に、規則を守ることではないのです。

パウロは、律法を守ることによって、愛したのは、自分であって、神様ではないことに、気が付いたのです。しかも、律法を守ろうと思っても、満足に守ることもできない。

ですから、律法を守ることによっては、自分を生かすことができず、却って、律法は、自分を殺すものである、ということを知ったのです。

このようにして、パウロは、律法によって、生きることを捨てて、ただ信仰によって、十字架の恵みに、よりすがって生きる者へと、変えられていったのです。

パウロは言っています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」

ここで、パウロは、「キリストと共に」と、言っています。

「共に」と言うのですから、キリストと一体となって、十字架につけられた、というのです。

どうして、パウロは、そのような思いに、導かれたのでしょうか。

キリストがつけられた十字架。それは、本来は、自分の十字架であるからです。

私がいるべき場所に、キリストがいてくださる。私の身代わりとして、十字架についていてくださる。そうであれば、私も、主イエスの十字架で、共に死ななければならない。

十字架で、キリストと共に、罪に死んでこそ、キリストの中で、生きることができる。

パウロは、そう言っています。いえ、もっと凄いことを、言っています。

キリストの中で生きている、というどころではない。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

キリストが、自分の中に、乗り込んで来てしまわれた、と言っているのです。

キリストが、自分の内にあって、生きているというのは、不思議なことです。

しかし、これこそが、キリスト者が、目標とすべき、生き方であると思います。

言い換えるならば、自分の意志で生きているのではなくて、キリストが自分を生かしている、ということだと思います。

それは、ちょうど、金太郎飴のようなものです。どこを切っても、金太郎が、顔を出すように、人生のどの場面においても、キリストが顔を出すような生き方。

パウロは、自分の人生は、そのような生き方へと、変えられたのだ、と言っているのです。

しかし、同時に、20節の後半にあるように、私たちキリスト者は、「肉において生きています」。人間として、人間らしく生きています。キリストによって救われた時に、肉を捨てた訳ではありません。人間としての、様々な制約や、束縛の中で生きています。

人間としての弱さや、欠けを持って、生きています。ですから、失敗もします。だらしない姿を、さらしだすこともあります。

そのような中にあって、私たちを愛し、私たちのために、身を献げられたお方の、愛を信じることによって、私たちは、尚も、生きていけるのです。

ヒトラー時代に、ナチの政策に反対して、捕えられ、強制収容所に入れられ、そこで獄死した、パウル・シュナイダーという牧師がいます。

国家批判の容疑で、捕えられましたが、自分の教会に戻ってはいけない、という条件付で、釈放されました。同じように命じられた、多くの牧師は、その処置に従いました。

しかし、シュナイダーは、こう言いました。自分は、神によって、この教会に遣わされている。自分と教会員とは、神によって、結び付けられている。

だから、どんなに強い権力でも、自分を、この教会から引き離すことはできない。

そう言って、自分の教会に、戻ったのです。そのため、また、捕えられて、とうとう強制収容所に送られることになりました。それは、死を意味していました。

収容所に送られる前に、彼は、夫人と面会しています。その時、彼は、泣きに泣いたそうです。泣き崩れる夫に、夫人は、その日の聖書日課の御言葉を、読んで聞かせました。

ヨハネの黙示録5章5節でした。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので…」 この御言葉にある、「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」とは、主イエスのことです。偶然にも、その日の御言葉は、こう言っていたのです。

泣くな、見よ、主イエスは、勝利されているではないか。だから、泣くな。

その後、二人は、口ごもりながら、主の祈りを、祈ったというのです。いつもなら、すらすらと祈ることが出来る、祈り慣れた主の祈りを、口ごもりながら、祈ったというのです。

私が、この話から、慰めを得るのは、シュナイダーが、私たちとは違った、特別な人、人間離れした人ではなかった、ということです。

彼もまた、パウロが言うように、肉にあって、生きている人であったのです。

人間としての弱さや、脆さを抱えつつも、尚も、そこで、自分を愛し、自分のために身を献げられたお方の、勝利を信じ、愛を信じて、涙を流しつつ、そして口ごもりつつ、祈っている。

その姿に、心惹かれたのです。

皆さん、私たちは、この世において、弱さや、欠けを持って、生きています。

そのように、肉において、なお生きなければならない時に、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた」お方を、どこまでも信頼して、生きていくのが、キリスト者なのです。

私のために、十字架の死を引き受けてくださった、主イエスの、真実の愛。それを、どこまでも信じ、それに委ねて、生きて行く。

そのような、生き方こそが、神の恵みを、無にしない生き方なのです。

御言葉は、今日も、私たちに、語りかけています。どうか、キリストの死を、無意味なものにしないで欲しい。神の恵みを、無にしないで欲しい。

この語り掛けに、確かに、応えていくお互いでありたいと、願います。