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過去の礼拝説教

「なぜ私なのですか」

2017年11月26日 聖書:エレミヤ書 1:4~10

カトリック作家遠藤周作の長編小説「沈黙」が、最近映画化され、再び注目を集めています。

主人公は、ロドリゴという司祭です。ロドリゴは、島原の乱の後の、キリシタン弾圧の嵐が荒れ狂う日本に、敢えてやって来ます。

長崎のある村に、辿り着いたロドリゴは、村の外れの小屋に隠れ、昼は小屋の中に潜伏し、夜になると、ミサなどの活動を行いました。また、藁で作った十字架やロザリオを、村の人々に与えるなどの、布教活動を、秘かに行いました。

ある晩、ロドリゴが小屋に隠れていると、いつもと違う声に、呼び出されます。

厳しい弾圧の最中です。信者以外の人に見つかれば、銀300枚と引き換えに密告され、拷問にかけられ、信仰か命の、どちらかを捨てることになります。

罠の可能性も、十分に考えられます。極度の緊張の中、しかし、ロドリゴは扉を開けます。

どうして開けたかと言いますと、罠にはまって、拷問にかけられるという、恐怖心よりも、「もし信徒だったら、お前はどうするのか」、という声の方が、心の中で強く響いたからです。

その声に、促されて、「たとえ騙されて良いではないか」、という思いに至ったのです。

まさに、神様に、背中を強く押されたのです。

遠藤周作は、「私にとって、神の存在を信じるとは、背中を押されるような感じである」、と言っています。神様に、背中を押されて、信仰の道を、一歩一歩進む。

キリスト者は、多かれ、少なかれ、同じようなことを、感じたことがあると思います。

ある若者が、自分のブログに、面白いことを、書いていました。彼は、こう言っています。

「僕は、牧師の子ども(パスターズキッズ)をやっています。しぶしぶやっています。

頼まれたからやっています。生まれる前にイエス様に、「お前を、牧師の息子として、生まれさそうと、思っているけど、どう?」って言われて、「あ~、そうすか。でもイエス様が言うんやったら」って応えたら、「ほな、いってらっしゃい!」って、背中を押されて、気付いたら僕は赤ちゃんになっていました。」

若者らしい、くだけた表現ですが、彼も、主イエスに背中を押されて、牧師の子として生まれ、今も、牧師の子をやっている、と言っています。

ロドリゴも、この若者も、自分の意志というよりも、神様に、強く背中を押された、という経験をしています。

讃美歌にあるように、「大波のように、神様の声が、心に寄せてきて、気が付くと、荒海に漕ぎ出していた」、というのです。これは、私たちが、神様によって、召し出される時の姿を、よく表しているのではないでしょうか。

私たちが、信仰に招き入れられる時、或は、教会において、様々な奉仕を担っていく時、更には、牧師・伝道師として献身していく時、このような体験をすることが多いと思います。

清水ヶ丘教会に、仕えていた時のことです。ある兄弟が受洗しました。

多くの教会では、受洗を希望される方に、役員会が面接をします。

その仕方は、教会によって、様々に違っています。

予め書いて来られた、証しを読んで頂いて、それについて質問する教会もあります。

或いは、証しを提出して頂き、役員会がそれを読んで、判断する教会もあります。この場合には、受洗希望者が、役員会に出席することは、求められません。

逆に、教会によっては、かなり厳しい質疑応答をするところもあります。

茅ヶ崎恵泉教会では、受洗を希望される方に、役員会に出席して頂き、「洗礼を希望するに至った経緯」、について語っていただきます。

そして、その後で、簡単な質疑応答をしています。もっとも、質疑応答と言っても、ほとんどが、歓迎の言葉か、喜びの言葉で、難しい質問は、聴いたことがありません。

清水ヶ丘教会も、同じような役員面接でした。その兄弟も、役員会において、洗礼を受けたいと思うに至った、経緯について、話されました。

その時、とても印象深いことを話されました。その兄弟は、ご自分から、受洗を強く望んだというよりも、自然に、そうせざるを得ないような状況へと、追い込まれていったような気がする、と言われたのです。

それを聞いて私は、これが、私たちが、信仰の決断をする時の、真実の姿なのではないか、と思わされました。

自分が考えて、考えて、考え抜いた末に決断した、というよりも、むしろ自分の意志に関わりなく、そうせざるを得ないような状況に、次第に追い込まれていった。

何か、大きな力に押し出されて、気が付くと、飛び込んでいた。

洗礼を受ける時も、或いは教会で様々な奉仕をする時も、また、献身して神学校に進む時も、自分の意志でそう決めたというよりも、見えない手で、後ろから押し出されるように、追い込まれていった、というのが真実の姿なのではないかと思うのです。

私は、58歳で、献身して、神学校に入りました。その時も、一大決心をした、というよりも、大きな力に押されて、そうせざるを得ないような状況に、次第に追い込まれていった、というのが真実の姿です。仕方なしに、飛び込んだ、というようなところがあります。

でも、飛び込んだ所には、主イエスが、いてくださいました。主イエスが、愛の御手を広げて、しっかりと受け止めて、くださいました。そして、共に歩んでくださいました。

信仰生活には、このように、神様の方からの、一方的な働き掛けがあります。

先ほどエレミヤ書1章4節~10節を、読んでいただきましたが、エレミヤという預言者も、こういう形で、神様からの働き掛けを受けました。

しかも、かなり強引な仕方で、引きずり込まれたのです。4節、5節に、こう書かれています。

「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。』」 これは、まさに、問答無用という感じの、呼びかけです。

この世に生まれる前から、私はあなたを知っている。生まれる前から、あなたを選んでいる。だから、従って来なさい。あなたは、預言者になるのだ。以上。終わり。

「えー、そんなぁ、ちょっと酷くないですか」。エレミヤでなくとも、そう叫びたくなります。

あまりにも強引な呼びかけに、エレミヤは、たまらずに叫んでいます。6節です。

「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』」

エレミヤも必死です。私はただの若者です。未だ準備不足です。

神様、あなたのご都合ばかり仰らずに、少しは、人間の側の事情も考えてください。

とにかく時間をください。この時、エレミヤは、20歳くらいだったと思われます。

あなたが、私を選ばれるのは勝手です。でも、私にも、自分の人生を選ぶ、時間と権利をください。第一、私は、口下手なのです。

しかし、エレミヤの必死の抵抗を、神様は全く無視するかのように、こう語られます。

7節、8節です。「しかし、主はわたしに言われた。『若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す』と主は言われた。」

神様は、ごちゃごちゃ心配するな。私があなたと共にいる。だから、余計なことは考えずに遣わす所に行って、私の命じたことを語りなさい。そう言って、連れて行こうとするのです。

これは、とんでもなく、強引なやり方です。人権無視も、甚だしい限りです。

問答無用で、どこかに連れて行かれる時、当然、私たちは抵抗します。エレミヤは、自分は若すぎるし、その上、口下手だ、と言って抵抗しました。

裏を返せば、今の自分では駄目だ。もう少し成長してからにして欲しい。

もう少し、それらしく整えられて、準備してから出掛けたい。そう言っているのです。

しかし、時間を十分にかけて準備して、整えられたら、本当に行けるでしょうか。

もっと、ためらってしまうことになる。もっと、踏み出すのが、怖くなるかもしれません。

時間を掛け過ぎたために、タイミングを失ってしまって、以前よりももっと、決断が難しくなってしまう。そういうことがあります。

ギリシア神話の中に、「チャンスの神様には前髪しかない」、という言葉があります。

あなたに向かって、やって来る、チャンスの神様を、勇気を出して掴むか、それとも、ためらって手を出さずにいるか、その選択に悩む。これは、誰にでもあると思います。

すぐに掴もうとした人は、前髪を掴むことが出来た。でも、一瞬迷ってしまった人は、掴むことができなかった。なぜなら、チャンスの神様には、前髪しかなくて、後ろはつるつるだからだ、というのです。だから、通り過ぎてからでは、掴めないのです。

ギリシア神話の昔から、こういう話があるということは、決断することが、如何に難しいか、ということを、示しています。

まして、神様の招きに応じる、という決断は、ことさら難しいかもしれません。

私たちは、神様に呼ばれた時に、殆どの場合抵抗します。自分の側に、選択権を確保しておこうとします。

しかし神様は、そんなことは、お構いなしに、ご自分のご計画を、進めてしまわれるのです。

さて、今朝は、エレミヤに対する、神様の強引とも思われる呼び掛けから、いくつかのことを、学んでいきたいと思います。

5節の御言葉は、神様が、ある人を、預言者として召される時、予めそのように、神様が決意されていた、ということを示しています。

これを、私たちに置き換えるならば、神様が、私たちを、キリスト者として、或いは教会での奉仕者として、召し出される時には、予め決意されておられる、ということです。

思いつきで、召し出されるのではなくて、その人が、母の胎内に宿る前に、既に、決意されておられる、というのです。

それに対して、私たちは、よく思いつきで、色々なことをします。自分の願いを、実現するために、色々と計画します。自分の願いを、叶えることを、第一としていますから、その計画は、往々にして、行き詰まります。途中で挫折することが、多くあります。

そして、計画を、途中で変更せざるを、得なくなることが、多いのです。

しかし、神様のご計画は、挫折しません。決して、変わりません。

例えて言うなら、それは、自動車のナビに、似ています。

私たちは、運転していて、途中で心変わりして、行き先を変えたり、ルートを変えたりします。でも、ナビは、一度設定した行き先を、変えることはありません。

私たちが、心変わりして、ナビ通りに進まなくても、どこまでも、もとの目的地に、導こうとします。決して、諦めません。

私は、神様の導きも、同じだと思います。私たちを、召し出そうと、一度、決意されたら、それを変更されることも、諦めることもないのです。

また、神様の召しは、選ばれる人の、人間的な価値に依りません。

私たちは、選びと聞きますと、すぐその人の価値を考えます。

友人を選ぶ場合でも、或いは結婚相手を選ぶ場合でも、私たちは意識する、しないに拘わらず、相手の人の、価値を考えて、値踏みをします。

しかし、神様が、エレミヤを選んだ時の、選び方は、私たちの選び方とは、全く違います。

エレミヤが母の胎に宿る前から、神様は選んでおられた、というのです。

母の胎に宿る前ですから、その時、エレミヤは、存在すらしていません。存在しないものについて、価値判断はできません。

エレミヤは、人間としての価値判断に、基づかないで、選ばれたのです。

キルケゴールという人が、『使徒と天才との相違について』、という本を書いています。

彼は、その本の中で、こう語っています。

「天才とは、自分の内にあるものを、紡ぎ出して仕事をする者である」。

天才は、自分の内にある、持って生まれた才能を紡ぎ出して、仕事をする。自分の内側にあるものによって勝負をする、というのです。

それに対して、使徒は、自分の内側にあるものによって、仕事をするのではなくて、外から与えられたもので、仕事をするというのです。

例えば、使徒パウロは、本当に豊かな才能に、恵まれていたと思います。

しかし、使徒パウロの本質、と言いますか、本領は、そこにはないのです。

彼は、外から与えられたものによって、仕事をしたのです。

彼は、多くの手紙を書きました。そして、それらが、神の言葉として、聖書に収められています。神様の御心、神様の御言葉。これは、パウロ自身の中にはありません。

いくら自分の中から紡ぎ出しても、ローマの信徒への手紙のような、神の言葉を書くことはできません。それは、外から与えられなければ、ならなかったのです。

これは、使徒だけではなく、預言者についても言えることです。

そして、また、神様の召しを受けた、私たち一人一人についても、言えることだと思います。

ところが、エレミヤは、神様からの召しを受けた時に、何とかして、それを断ろうとします。

自分は年が若いし、口下手なのです。そう言って、神様の呼び掛けをかわそうとします。

ここでも、天才と使徒、或は預言者との違いが表れています。

天才は、自分の内にあるものを、売り出すチャンスを、狙っています。ですから、そのチャンスが来たら、「待ってました」と言って、飛びつきます。逃げ腰にはなりません。

しかしエレミヤは、様々なバリケードを築いて、神様の呼び掛けから、逃げようとしています。ところが、神様は、「あぁ、そうか」と言って、引っ込まないのです。

逆に、そういう人をこそ、私は求めているのだ、と言われるのです。

自分の内にあるものでなく、私が、外から与えるものによって、勝負する者を、私は求めているのだ、と言われるのです。

ですから、「自分は若者にすぎない、と言ってはならない」、と言われるのです。

「私があなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うのだ」と言って、説得されるのです。

9節では、「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける」、とまで言われました。

私は、あなたが口下手なのを、よく知っている。あなたの内には、何もないのをよく知っている。だから、私の言葉を、あなたの口に授けるのだ。

あなたは、私が授けた、その言葉で勝負しなさい。あなたは、口下手のままで良い。

何もなくて良い。必要なものは、すべてこの私が与える。私が共にいて、あなたを助け、必ず救い出す。そう言われるのです。

神様は、問答無用で、私たちに声をかけ、私たちを選ばれます。

それは、ありのままの私たちを、神様は必要としておられる、ということなのです。

ですから、私は年が若すぎる、と言って反論しても、無意味なのです。私は口下手だから、と言って逃げようとしても、無駄なのです。

なぜなら、神様は、若くて、口下手なエレミヤをこそ、必要としているからです。

ですから、もう少し整えられて、他の人のようになろうとして、装ってはいけないのです。

そんなことをしたら、神様が、世界で一人しかいない私に、わざわざ声をかけてくれた意味が、なくなってしまいます。誰か、他の人のように装って、神様の召しに、応えるべきであるなら、神様は、とっくの昔に、その他の人に、声をかけている筈です。

確かに、神様の召しは、問答無用で迫ってきます。しかし、それは同時に、そのまま、ありのままの私たちを、徹底的に尊重してくださる、呼び掛けでもあるのです。

この私が、今の私のままでいい、という呼び掛け。それが、神様の召しです。

ですから、もし、今、あなたが、神様の召しの声を、聞いておられるなら、その声を、もっとはっきりと聞いて下さい。

そのまま、ありのままの、あなたを必要としている、と神様は、言われている筈です。

洗礼を受けることに、教会の奉仕者になることに、或いは伝道者になることに、内なる促しを、感じておられるなら、素直に、その内なる促しと、向き合って下さい。

今、様々な抵抗を、感じておられるかも知れません。

神様の呼び掛けに、答えられないと思う、色々な理由を、持っておられるかも知れません。

しかし、どうやら神様は、そんなあなたを、必要とされて、おられるようなのです。

ですから、他の人のように、装ってみることなどせずに、そのまま、ありのままで、神様の召しに応えてみてください。

あなたは、他の人になる必要などない。あなたは、あなたのままでいい。

そう言ってくださる、神様の呼び掛けを、しっかりと、聞いていこうではありませんか。

世界でたった一人の、かけがえのない、あなたが必要なのだ。そう言われる、神様の御声に、応えてみようではありませんか。

神様は、必ずあなたを、素晴らしい恵みの世界へと、引き上げてくださいます。