MENU

過去の礼拝説教

「真理を知る喜び」

2017年05月14日 聖書:ヨハネの手紙一 2:18~27

私たちは、今、ご一緒に、聖日礼拝を献げています。

毎週、日曜日の朝に、ここで、礼拝が献げられている。私たちは、これを、当然のことと思っています。日曜日に、礼拝が献げられないことなど、あり得ないと思っています。

ですから、今朝は、他に予定があるので、礼拝に出席できない。でも、来週は行くから、それで良いだろう。

そう思って、礼拝を休むことに、大きな痛みを、覚えない方も、おられるかもしれません。

それは、聖日礼拝は、毎週、必ず献げられているから、いつでも出席できる、という思いが、根底にあるからかもしれません。

でも、日曜日には、必ず礼拝が守られている、ということは、当たり前のことなのでしょうか。

突然、話を変えて恐縮ですが、私は、夕暮れに、海岸に行くことが好きです。

そして、美しい夕焼けの空を見て、いつも感動を覚えます。

西の方、箱根連山の彼方に、陽が沈むと、空が赤く輝き出します。その残照の輝きが、次第に広がって、空一面が、徐々に赤く染まっていく。

その色の変化は、まさに、大空に描かれた、壮大な絵画です。どんな画家も、あの素晴らしいパノラマを、十分に描き出すことは、できないと思います。

その光景を見るたびに、いつも思うのです。この素晴らしい夕焼けは、天気のいい日なら、いつも、ただで見ることができる。今日見逃しても、また次の機会に見ればよい。

そう思うから、それほど、大切なものとは、思いません。

でも、もし、この夕焼けは、百年に一回しか、見られないとしたら、どうでしょうか。今回見逃したら、生きている内には、二度と見ることができない。そうだとしたら、どうでしょうか。

恐らく、おびただしい人が、海岸に集まって、何とかして、百年に一回の、壮大な自然のドラマを、一目でも見ようと、殺到するのではないかと思うのです。

礼拝で、神の言葉が語られている。これは、実はすごいことなのです。毎週、日曜日に、神の言葉を、聴くことができる。この天地を造られた、神様の言葉を、聴くことができる。

私たちにとっては、思いもよらないようなことが、ここで、起こっているのです。

でも、毎週、当然のように、行なわれているので、私たちは、それが、どれほど尊いものであるか、気が付きません。夕焼けを、いつでも見られる、と思っていることと同じです。

もし、百年に一回しか、神の言葉を、聞くことができないとしたら、私たちは、何を差し置いても、礼拝に駆けつけると思います。それを、聞き逃したら、本当に残念に思うでしょう。

しかし、幸いなことに、私たちは、毎週、神の言葉を、聴くことができるのです。

でも、礼拝が、毎週、献げられている、ということは、ごく当たり前のことではないのです。

今のように、礼拝が、日曜日毎に、当然のように、献げられるようになる迄には、長くて、厳しい、教会の戦いがあったのです。

その戦いの中で、命懸けで福音を伝え、礼拝を守ってきた、人たちがいたのです。

その人たちのお蔭で、今、私たちは、こうして、当然のように、礼拝を献げ、御言葉を聴くことが、出来ているのです。

ヨハネの手紙が書かれた当時も、教会は、厳しい戦いの中にありました。その戦いは、大きく分けて、二つありました。一つは、ローマ帝国や、ユダヤ教徒からの、迫害です。

この手紙が書かれたのは、紀元90年頃だと言われていますが、その頃には、キリスト教は、ユダヤ教から、はっきりと、決別していました。

それまでは、キリスト教は、ユダヤ教の一分派と、見做されていたのです。

しかし、次第に、キリスト教と、ユダヤ教の違いが、はっきりとしてきて、ユダヤ教の指導者たちは、キリスト教徒を、ユダヤ教の会堂から、閉め出すようになりました。

ユダヤ教は、ローマの公認宗教でしたから、ユダヤ教の一分派である、と見られている限り、キリスト教は、迫害されることは、ありませんでした。しかし、はっきりと、ユダヤ教と、袂を分かったために、ローマ帝国とユダヤ教徒によって、迫害されるようになったのです。

そのような、外からの迫害に加えて、教会の内部にも、深刻な問題が、生じました。

間違った教えを、説く人たちが現れて、教会が混乱する、ということが、起こったのです。

教会は、外からは迫害の手が伸び、中では、間違った教えによって、揺れ動いたのです。

間違った教えとは、キリストのことを、頭から否定する教え、ではありません。

キリストのことを、語ってはいるのですが、少しずつ、キリストのことを、曲げるような教えが、入り込んできたのです。そして、それらの教えに、惑わされる人たちが、出て来たのです。

今朝の箇所では、そういう間違った教えを、説く人たちのことを、反キリストと言っています。

反キリスト、原語では、「アンチキリスト」という言葉です。

この「アンチキリスト」という言葉は、「キリストに敵対する者」、という意味と、「キリストに取って代わる者」、という二つの意味があります。

ここで言っている、アンチキリストとは、キリストに敵対する者のこと、ではありません。

キリストの敵であることが、誰の目にも、明らかであるような人のこと、ではないのです。

一見すると、いかにも信仰深くて、この人こそ、まことの信仰者だ、と思わせるような人。

でも、実は、福音とは、全く違う教えを、説く人たちのことを、言っているのです。

キリストに対する、明らかな敵対者、というのではなくて、似非キリスト者のことです。

キリスト者らしく、振舞っているけれども、似て非なる人のことです。

こういう人たちのことを、異端と呼びます。

誰が見ても、キリスト教ではない、と分かるものは、異端ではなくて、異教です。

仏教や神道が、キリスト教の異端である、という人はいません。明らかに、違う宗教であることが、はっきりしているからです。

ですから、仏教や神道は、異端ではなくて、異教なのです。

異端というのは、キリスト教の仮面をかぶった、偽キリスト教のことです。そういう教えが、教会の中に、入り込んできたのです。

主イエスも、そのことを預言されて、マタイによる福音書24章で、こう言っておられます。

「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」

反キリストは、偽メシアや、偽預言者の姿をしてくる、と主イエスは言われています。

厄介なことに、反キリストは、サタンの顔をしては、来ないのです。

もし、サタンの顔をしてくるなら、皆、すぐ分かるので、惑わされることはありません。

ところが、反キリストは、そうではないのです。

クリスチャン作家の、三浦綾子さんのご主人の、三浦光世さんは、懸賞論文に当選して、得意になっていた綾子さんに、「気をつけなさい。サタンはサタンの顔をしては来ないからね」、と言ったそうです。

そうなのです。サタンは、サタンの顔をしては、来ないのです。ですから、手強いのです。

それでは、反キリストと言われている人たちは、どのような教えを、説いたのでしょうか。

教会を混乱させた異端とは、どのようなものだったのでしょうか。

22節が、そのことを説明しています。「御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」。

父なる神様と、御子なる神様を、認めない者。それが、反キリストである、というのです。

しかし、父なる神様を認めないとなると、もうこれは、無神論者と言うことになります。

ですから、そういう人は、もともと教会には来ません。

そうしますと、教会を混乱させた、反キリストとは、御子なる神様を、認めない者である、ということになります。

人となられた御子を、認めない人たちのことです。

霊的な存在としての、キリストのことは、熱心に語るのです。その教えは大切にするのです。でも、神が人となって、この世に来た。そんなことは、あり得ない、というのです。

まして、神が、極悪人がかかる、十字架につけられて、殺された。そんなことは、認める訳にはいかない、というのです。

ですから、十字架の贖いを、語らないのです。福音の核心を、認めないのです。

主イエスが、真の神であり、且つ、真の人であることを、否定するのです。

反キリストの人たちは、このように主張しました。

ナザレのイエスは、飽く迄も、一人の人間に過ぎない。ただ、このナザレのイエスが、バプテスマを受けたときに、聖霊が降って、彼は、キリストとしての働きを担う、器とされた。

しかし、ゲツセマネの祈りのときに、その聖霊は、彼から離れ、十字架にかかったのは、一人の哀れな男に過ぎない。霊的な存在であるキリストが、ナザレのイエスという、仮の肉体を纏って、一時的に現れただけである。彼らは、こう主張したのです

しかし、これでは、私たちの救いはありません。

主イエスは、仮に現れたお方では、断じてありません。御子なる神様が、確かに人となって、来てくださり、この世に住んでくださったのです。

私たちと同じ苦しみ、同じ悩みを、味わってくださり、遂には、私たちに代わって、十字架にかかってくださったのです。そして、復活されて、今も、私たちと共に、いてくださるのです。

それが、御子なる神様である、主イエスというお方です。私たちが、信じているのは、このお方です。

ですから、このお方は、どんな時にも、私たちの慰めと、なってくださるのです。

私たちの、すべての苦しみ、すべての悩みを、共に負ってくださる、お方なのです。

どこまでも、一緒にいてくださる、お方なのです。

主イエスは、真の神にして、真の人なのです。全く罪のない、真の神だけが、完全な贖いを、なし得るのです。しかし、贖うのは、もともと人間の罪なのです。ですから、本来は、人間が、自分で自分の罪を、贖わなければならないのです。

そのためには、真の神が、真の人となって、十字架にかかってくださらなければ、ならなかったのです。これが、私たちに与えられた、まことの救いです。

真の神である主イエスは、背き続ける私たちを救うために、真の人となってくださいました。

そして、この世に来てくださり、私たちの身代わりとなって、十字架に死んでくださいました。

でも、反キリストの人たちは、主イエスが、真の神であり、また、真の人である、ということを、信じようとせず、これを否定したのです。

このような、異端的な教えが、いつの間にか、教会に忍び込んできて、多くの人たちが、間違った教えに、引き入れられていったのです。

このようなことは、常に起きる、危険性があります。現代でも、そのような異端が存在します。私たちを、主イエスから、引き離そうとする力は、いつも存在するのです。

真の神様が、私たちを、救うために、真の人となって、この世に来てくださった。

このことを思う時、子供の頃に聞いた、「灯台守の男の子」の話しを、いつも思い出します。

こんなお話です。『ある島の灯台に、父親と男の子が暮していました。

ある日、恐ろしい嵐が、この島を襲いました。物凄い風と雨が、灯台に吹き付けました。

あまりにも激しい風のために、カモメたちが、方向感覚を失って、灯台の光に向かって、物凄いスピードで、飛んできました。

カモメたちは、灯台のガラスに、思い切りぶつかっては、ばたばたと死んでいきました。

カモメたちのことが、大好きな男の子は、必死になって叫びました。

「駄目だよう。こっちに来ては駄目だよう。お願いだから、灯台の光に向かって飛んで来ないで。ガラスにぶつかって、死んでしまうよ。こっちに来ては駄目だよう。」

しかし、灯台の中から、いくら叫んでも、嵐の中にいる、カモメたちには聞こえません。

男の子は、お父さんに聞きました。「ねえ、お父さん。このままでは、カモメたちが、みんな、ガラスにぶつかって、死んでしまうよ。どうしたらいい?」

お父さんは、暫く沈黙していましたが、やがてこう言いました。

「鳥たちを助ける、たった一つの方法は、お前が鳥になって、こっちに来ないように、誘導するしかない。これしか、鳥たちを助ける方法はないのだよ。」

男の子は、暫く考えてから、言いました。「分かった。お父さん、僕、鳥になる。鳥になって、カモメたちを助ける。」

男の子は、鳥になって、嵐の中に、飛び立っていきました。そして、灯台のガラスの前に、立ちはだかって、「こっちに来ては駄目だよう」、と叫び続けました。

でも、嵐の恐ろしさに、気が狂ったようになった鳥たちは、男の子に向かって、ぶつかってきました。男の子は、その鳥たちを体に受けながら、尚も叫び続けました。

やがて、嵐が止みました。この男の子のお陰で、多くの鳥たちの命が、助かりました。

しかし、灯台の下には、傷ついた一羽の鳥が、命を失って横たわっていました。』

こういうお話です。この話の男の子は、主イエスを表しています。

鳥を救うために、人間が鳥になるなんて、あり得ないことです。もし、そんなことがあったら、本当に驚きます。しかし、主イエスがしてくださったことは、それ以上のことでした。

創造主である神様が、人間の姿になって、この世に来てくださり、人間の身代わりとなって、死んでくださったのです。この主イエスの愛は、私たちの知識を、はるかに超えています。

思いもよらない、けた外れに大きくて、深い愛です。

ですから、頭だけで、これを理解しようと思っても、出来ません。私たちの知識を超えた、この愛を捉えるためには、何か助けが必要です。

それも人間の助けではなくて、神様の助けが必要です。

これを分からせてくださるのが、聖霊なる神様です。

20節の御言葉は、「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」、と言っています。

ここにある、聖なる方とは、主イエスのことです。そして、油を注がれている、ということは、聖霊が注がれている、という意味です。

聖霊が注がれて、初めて、私たちは、主イエスのことが分かるのです。真の神が、真の人になって、私たちの所に、来てくださった、という真理が、初めて、分かるのです。

聖霊の助けを得なければ、この真理は、分かりません。いくら本を読んでも、いくら研究しても、分からないのです。

聖霊は、私たちに、主イエスという真理を、分からせてくださるお方なのです。

コリントの信徒への手紙一12章3節が、「誰も、聖霊に依らなければ、イエスを主であると、告白出来ない」、と言っている通りなのです。

ヨハネは、クリスチャンに与えられる、大きな特権は、聖霊の油が注がれることである、と言っています。

私たちが、聖書を読む時、聖霊は、聖書の言葉に、光を与えて、私たちが、御言葉を分かるようにと、導いてくださいます。

茅ケ崎とも関係が深い、クリスチャン詩人の、八木重吉は、こんな短い詩を、残しています。

「聖書に解がたきところあらば/まづ聖霊にきかん/聖書のみに依る信仰はあやうし!/

われ今にしてこれをしる、おそきかな」

自分の頭だけで、聖書を理解しようとすることは、危うい。

聖書が分からない時は、まづ聖霊に聞かなくてはならない、と言っているのです。

「主よ、分からせてください」、と祈りつつ、御言葉を読む時、聖霊は、私たちの心を照らし、豊かな恵みの世界へと、私たちを導いてくださいます。主イエスという真理を、示してくださいます。

今朝の御言葉は、私たちが、異端から守られるために、二つのことを、勧めています。

ひとつは、初めから聞いたことに、留まること。つまり、福音に留まることです。

もう一つは、御子の内に、留まること。主イエスの内に、留まり続けることです。

この二つのことを、もっと具体的に言えば、教会に留まり続ける、ということです。

教会は、病院のようなものです。教会は、主イエスという、スーパードクターがいる、魂の病院です。ここで、私たちの魂は、癒されます。

でも、教会と病院とでは、大きな違いが、一つあります。病院は、良くなったら、退院します。

けれども、私たちは、教会に、留まり続けなければ、ならないのです。主イエスに、留まり続けなければならないのです。

私たちが、教会に留まり続け、主イエスに留まり続けるならば、私たちは、反キリストによって、惑わされることなく、真理の内を、歩むことができる。御言葉は、そう約束しています。

この約束を、感謝しつつ、真理を知る喜びに生かされて、ご一緒に歩んでまいりたいと思います。