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過去の礼拝説教

「キリストの内にある幸い」

2017年05月21日 聖書:ヨハネの手紙一 2:28~3:10

皆さん、今朝与えられた御言葉の、3章1節、2節は、宝石のように素晴らしい御言葉です。

私は、この御言葉を読む度に、いつも震えるような、感動を覚えます。

今朝は、どうか、この御言葉だけは、しっかりと握り締めて、帰ってください。

私の説教は、忘れても結構ですから、この御言葉だけは、忘れずに、持ち帰ってください。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」。

この御言葉は、私たちが何者であるか、私たちは何に希望をかけ、どう生きるべきかという、大切な問いに対する、答えを示してくれています。

人間は誰でも、自分の生き方が分からなくなって、「どう生きたらよいか」、と自問する時が、あると思います。

「自分は一体何者なのか」、「自分は何をしたらよいのか」、「自分はこれからどうなるのか」。これらの問いに対する、答えが得られないと、自分自身が分からず、自己喪失に陥ってしまいます。今朝の御言葉は、この問いに、見事に、答えてくれています。

先ず、「私は何者なのか」という問いに対して、御言葉は、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」、と答えています。これは驚くべき言葉です。

私たちは、今、既に、神の子なのだ、と御言葉は言っているのです。私たちは、もう、既に、神の子である。もし、本当にそうであれば、こんなに、嬉しいことはありません。

でも、実際の、私たちは、どうでしょうか。私たちは、しばしば迷い、神様に背を向け、逆らうことの多い者です。全く、神の子に、相応しくない者です。

しかし聖書は、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」、と断言しているのです。

いえ、私など、とても、神の子に、相応しくありません。そう言う私たちに、聖書は、語り掛けます。いえ、そうではない。あなたは、今、既に、神の子なのだ。

いつか、そうなったら良いですね、と言っているのではありません。それを目指して、歩みましょう、と励ましているのでもありません。

今、あなたは、既に、神の子なのだ、と言っているのです。

教会に、長年通っている人の中にも、誤解している人がいます。教会に来ている内に、いつか、段々と、神の子らしくなっていく。そう思っている人がいます。

でも、御言葉は、そうではない、と言うのです。私たちは、主イエスを信じるときに、既に、神の子となっている、というのです。

そして、この御言葉は、そのまま、受け入れて、良いのですよ、と言っているのです。

なぜなら、この御言葉には、十分な根拠があるからだ、というのです。

では、その根拠とは、何なのでしょうか。皆さん、それは、神様の愛なのです。

御言葉は、言っています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」。

父なる神様が、どんなに大きな愛を、私たちに、注いでくださったかを、考えなさい。

そのように問い掛けた後で、御言葉は続けて、その答えをも、語っています。

「それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。

相応しくない私たちを、そのまま受け入れて、神の子と呼んでくださる、神様の愛。

その限りなく大きな、神様の愛が、私たちが、神の子と呼ばれる、根拠だというのです。

私たちが、神様の子となる。それは、本当に、大変なことなのです。本来は、起こる筈がないことなのです。

神様に、背き続け、裏切り続けている、私たちが、神の子とされた。だから、神様のことを、「天のお父様」、と呼ぶことができる。そんな、起こる筈のないことが、起こったのです。

でも、その事が起こるために、神様は、一体、何をしてくださったのでしょうか。

愛とは、その人のために、何を犠牲にしたかによって、量ることができる、と言った人がいます。では、神様は、私たちのために、何を犠牲にして、くださったのでしょうか。

皆さんは、誘拐された経験など、持っておられないと、思いますが、ある人が誘拐されたとします。その人の家は、それほど豊かではありません。むしろ、貧しい家です。

そんな家であるのに、犯人は、法外な身代金を、要求してきました。とても、その人の家族には、支払うことはできない、と思うような高額の身代金です。身代金を支払えなければ、殺されます。助かる見込みはありません。その人は、死を覚悟しました。

ところが、家族は、家、財産のすべてを売って、本当に無一文になり、その上、多額の借金までして、身代金を用意したのです。ホームレスになって、その上、多額の負債を負ってまでして、その人の命を、救ったのです。

「なぜ、そこまでしてくれたの」。釈放された後に、その人は、父親に聞きました。

父親は、答えました。「当然じゃないか、お前は、私の愛する子なのだから。お前を失う訳にはいかないのだよ。」 その人は、父親の愛に、どれほど感謝するでしょうか。

あぁ、この人の子に生まれて良かったと、心から思うのではないかと思います。

そして、これほど大きな犠牲を払って、自分の命を、救ってくれた、父の愛に、精一杯応えて、これからの人生を、生きていこうと、思うのではないでしょうか。

でも、皆さん、神様が、私たちに、してくださったことは、これ以上のことなのです。

神様は、私たちの命を、救うために、お金よりも、もっと大切なものを、犠牲にしてくださったのです。最愛の独り子の命を、犠牲にしてくださったのです。

罪の中に、滅んでいく私たちを、救い出して、神の子としてくださるために、神様は、主イエスの命を、身代金として、支払ってくださったのです。私たちに代わって、十字架にかかるために、独り子を送ってくださったのです。

そうしなければ、私たちは、赦されないからです。独り子の命という、とてつもなく多額な身代金を、支払わなければ、私たちが、滅びの死の縄目から、釈放されないからです。

この神様の愛こそが、私たちが、神の子とされた、根拠なのです。私たちの能力や、私たちの努力が、根拠なのではありません。

もともと私たちは、神様の愛に、相応しいような者ではないのです。罪の誘惑に、打ち勝つことができない、弱い者です。でも、神様は、そんな私たちに、呼び掛けてくださいます。

「私は、お前が、罪深い者であることを、とっくに知っているよ。

私は、お前が、聖くて、正しい者だから、愛したのではないのだ。お前が、私の愛に相応しく、整えられているから、愛したのではないのだ。

私は、お前の、罪のすべてを、知っている。その上で、お前を、愛したのだ。

そして、お前を、罪の縄目から、釈放するために、私は、最愛の独り子の命を、犠牲にしたのだ。だから、もう、お前は、私のものだ。私の子なのだ。」

皆さん、私たちは、神様に愛されようとして、歯を食いしばって、頑張る必要はないのです。

元々、私たちは、自分の力で、神様の愛に、相応しい者になることなど、できないのです。

でも、神様は、それをご存知の上で、私たちのことを、愛してくださっているのです。

御言葉は言っています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」。

「考えなさい」とありますが、ここで「考えなさい」と言っているのは、実は、「見なさい」という言葉です。何と大きな愛を、神様が、私たちにくださったのか、それを見なさい、というのです。ぼんやり考えるのでなくて、はっきりと「見なさい」、というのです。

神様の愛を見ることで、私たちは、自分が何者なのか分かる。どう生きたらよいか分かる、というのです。

「見なさい」と言っていますが、それは、十字架の主イエスを見なさい、ということです。

十字架の主イエスを見て、何と大きな、神様の愛が与えられたのかを、知りなさい。

私たちは、それによって、「神の子」とされたことを、知りなさい、というのです。

もし、それを知ったならば、私たちは、自分が、どう生きたらよいかが、分かります。

それを知ったなら、私たちは、神様の愛を、無にする様な生き方は、できない筈なのです。

こんな大きな愛を、注いでくださった、神様の御心を、悲しませるような、生き方は、できない筈なのです。それを、具体的に語っているのが、6節と9節の御言葉です。

6節は、「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」、と言っています。

また、9節にも、「神から生まれた人は、皆、罪を犯しません」、とあります。

これが、神の子とされた者の、生き方である、と言うのです。神様の愛を、無にしない、生き方。神様の御心を、悲しませない生き方。それは、罪を犯さないことだ、というのです。

しかし、私たちは、ここで、ハタと、立ち止まってしまいます。

なぜなら、私たちは、弱さの故に、誘惑に負けて、罪を犯してしまうからです。私たちは、「自分は罪を犯しません」、などとは、とても言えない者である、ということを知っています。

では、私たちは、この御言葉を、どう捉えれば、よいのでしょうか。

「罪を犯しません」、と書かれていますが、この言葉は、継続的な動作を、表わしています。

「罪を犯しません」とは、継続的に、習慣的に、罪を犯し続けることが、ありませんという意味なのです。神の子とされた者は、たとえ罪を犯しても、それを継続的に、習慣的に、犯し続けることはない、という意味なのです。

弱さの故に、罪を犯したとしても、御顔の光に照らされて、心が責められ、悔い改めに、導かれる筈だ、というのです。

弱い私たちは、罪を犯します。罪を犯さずには、生きていかれない者です。

しかし、それだからと言って、私たちは、どうせ弱いのだから、罪を犯して当然なのだ。

神様は、赦してくださるのだから、罪を犯しても、気楽にしていていいのだ、ということではありません。聖書は、そんな、開き直りの生き方は、勧めていません。

神様が、私たちを、神の子とするために、どれほど大きな愛を、示してくださったか。

どれほど、大きな犠牲を、払ってくださったか。そのことが、本当に分かったなら、神様の御心を、悲しませるようなことを、平気で続けることは、出来ない筈ではないか、というのです。

神様が、嫌われることを、軽々しく、続けることは、出来ない筈だと、言っているのです。

神の子とされた者は、罪を犯さない、というのは、そういう意味です。平気で、罪を犯し続けることはできない、という意味なのです。これが、私たちに、示された生き方です。

3節の御言葉は、この生き方を、言葉を換えて、語っています。「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」。

神様の愛によって、「今既に、神の子」、とされている恵み。その恵みに、生かされている者は、御子が清いように、自分を清めるように、努める筈だ。いや、そう努めざるを、得なくなる筈だ、と言っているのです。

清めるというのは、罪がなくなる、ということではありません。主イエスの血によって、罪から清められると信じて、主イエスのうちに、いつも留まって、生きていく、ということです。

御子のうちに、留まっている時、私たちに、十字架の赦しの恵みが、迫ってきます。

その恵みに迫られ、その恵みに押し出されて、私たちの内側が、少しずつ、変えられていき、清められていくのです。

それだけではありません。実は、神様は、私たちが、そのような生き方を、生きることが、できるために、すごいことを、してくださったのです。

9節の御言葉は言っています。神様は、私たちの内に、「神の種」を宿してくださった。

この神の種が、何を意味するのか、様々な意見があります。最も多くの人が、採っているのは、この神の種とは、御言葉を指す、という解釈です。

私たちの内に、御言葉の種が、蒔かれた、というのです。種の内には、命があります。

ですから、御言葉の種も、私たちの内で、必ず育ち、実を結び、形を作っていきます。

神様は、私たちを、清めるために、御言葉の種を、私たちの内に、植えてくださり、私たちを、造り替えようとして、くださるのです。

私たちが、自分の力で、どうかして、清くなろう、とするのではないのです。

神様の種が、つまり御言葉の種が、既に、私たちの内に、宿っているのです。

その種が、神様によって、育てられ、私たちを、少しずつ、造り替えていくのです。

そのようにして、私たちは、少しずつ清められていきます。

そして、その清めの御業は、主イエスの再臨の時に、完成するのです。

今朝の御言葉は、私たちが、これから先、どうなるのか、ということについて、最も大切なことを、教えてくれています。

私たちは、今後どうなるか。もちろん誰も、自分の将来を、知り抜いている人はいません。

将来のこと、特に、死んだ後のことを考えたら、誰でも心配になります。不安になります。

今朝の御言葉も、「自分がどのようになるかは、まだ示されていません」、と記しています。

神の子とされても、やがて死んで行く。そこから先は、どうなるのか。

「それはまだ示されていないから、分からない」。そうはっきり言っています。

信仰を持っても、これから先の、すべてのことが、明らかになる訳ではないのです。

しかし、聖書は言うのです。そんなこと、ちっとも心配すること、ないではないか。

確かに、この先どうなるか、まだ明らかではない。一部始終を、分かっている訳ではない。

しかし、ただ一つ明らかなことがある。それは、「御子が現れるとき、御子に似た者となるということ」だ。御言葉は、このことを、はっきりと、言い表しています。

「御子が現れるとき」、これは、主イエスの、再臨の時のことを、言っています。

この世の終わりの時に、主イエスが、再び来られる。その時、私たちは、主イエスに似る者になる、というのです。そのことは確かなのだ。

そうであれば、それ以外の何も、知る必要はないではないか。御言葉は、そう言っているのです。主イエスに似た者になる。勿論、これは、外側の姿のことを、言っているのではありません。内側の姿。霊的な姿のことを、言っているのです。

それは、ちょうど、神様が、人間を造ってくださった時に、ご自分のお姿に似せて、私たちを造ってくださったのと、同じことです。

何も、特別な、新しいことが、始まった訳ではないのです。最初から、私たちは、神様に、似た者として、造られていたのです。

しかし、罪のために、その姿が、損なわれてしまったのです。それが、回復するのです。

皆さん、私たちは、死んだ後に、全く見知らぬところに、行くのではないのです。

決して訳の分からない、恐ろしい所に、行くのではありません。むしろ、住み慣れた所に行くのです。そこには、私たちが、良く知っている方が、おられるのです。

主イエスが、待っていてくださるのです。栄光のお姿の、主イエスが、両手を広げて、待っていてくださる。私たちは、その御腕に、飛び込んでいくのです。

そして、主イエスに抱きしめられ、主イエスの光に照らされて、主イエスに、似た者とされていくのです。これが、私たちの、未来についての約束です。

私たちは、最終的には、主イエスに、似た者とされていくのです。

私たちの肉体は、歳と共に、朽ちて行きます。私たちの体は、弱っていきます。

しかし、私たちは、主イエスに似た者とされる、と約束されているのです。

これは、素晴らしい約束です。

「私たちは何者なのか」、「将来どうなるのか」。御言葉は、この大切な問いに答えています。

私たちは、今、既に神の子であり、最後には、御子に似た者になる。

この、現在の確かさと、将来の希望に生きる、それが私たち、キリスト者なのです。

私たちは、皆、終わりの時に、神様の御前に立つのです。その時、神様の御姿を、間近に見るのです。そして、その神様に、「お父さん」、と呼び掛けることができるのです。

この望みを持っている人は、神様の御心を、平気で悲しませることは、できません。

この望みを持っている人は、軽々しく、罪を犯し続けることは、できません。

この望みを持っている人は、その人の中で、御言葉の種が、芽生え育ちます。そして、御言葉の力によって、自らを清くすることができるのです。

皆さん、ご一緒に、この希望に支えられて、歩んでまいりましょう。

御言葉は言っています。「御父が、どれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。こんな私たちを、神の子としてくださるほどなのです」。