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過去の礼拝説教

「私たちを生かす息」

2017年06月04日 聖書:エゼキエル書 37:1~14

今から約2,600年前、バビロンの都を流れるケバル川のほとりに、ひとりの預言者が、憂いに満ちて、佇んでいました。

その人の名は、エゼキエル。かつては、エルサレム神殿の祭司でした。

紀元前598年、彼は、ひき裂かれる思いで、故国ユダから、捕囚の民として、バビロンに連れて来られたのです。

恐らく、目に涙をため、重い足を引きずるようにして、砂漠を渡って、バビロンまでの、苦しい旅をしたのだと思います。その上、バビロンに到着して、程なく、彼は、妻を失います。

捕囚から5年後に、エゼキエルは、神様からの、召しを受けて、預言者となります。

エゼキエルは、捕囚期の預言者です。捕囚期とは、国が戦争に敗れ、神殿は焼き払われ、体制が崩壊した、苦難と混乱の時期です。

11節には、捕囚の民の、嘆きの声が、記されています。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」。

このような、挫折と破れのただ中で、エゼキエルは、預言者として、召されたのです。

1節の御言葉は、エゼキエルが、「主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた」、と語っています。そこで、エゼキエルは、異様な光景を、見させられました。

何と、その谷は、カラカラに枯れ果てた、非常に多くの骨で、満ちていたのです。

想像するだけで、背筋がゾッとするような、恐ろし気な光景です。

しかし、エゼキエルが、そこで見たのは、単なる、薄気味悪い、幻想ではありません。

蔵言17:22に、「霊がしずみこんでいると骨まで枯れる」、という言葉があります。

ですから、「枯れた骨」とは、実は、憂いに満ちた、人間のことを、表しているのです。

しかも、それが「甚だしく枯れていた」のです。カラカラに、枯れ果てていたのです。

これは、当時の人々の、憂いと苦悩の、深さを示しています。

当時の人々は、憂いと苦悩で、霊が沈み込んで、枯れた骨のようになっていたのです。

私たちが、聖霊に導かれて、先ず見るのは、そのような枯れた骨です。枯れた骨のような、憂いに満ちた、人間の現実なのです。

12節で、主は、言われています。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である」。

主は、イスラエルの民の現実は、これなのだ、と言うのです。

そして、続いて、イスラエルの民の、呻くような言葉が、記されています。

「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」。

エゼキエルは、神の霊に導かれて、イスラエルの人々の現実が、望みを失った、枯れた骨のようであることを、示されました。

カラカラに干からびた、累々たる、骨の山。そこに、民族の苦悩の現実を、見たのです。

主は、エゼキエルに、「これらの骨は、生き返ることができるか」、と問い掛けられます。

望みを失った、イスラエルの民が、どうして、生き返ることが、できるでしょうか。

でも、神様は、そのような現実を、見せた上で、尚も、エゼキエルに、問い掛けるのです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。

皆さん、今朝、私たちは、神様が、私たちにも、同じ問い掛けをされている、と聞かなければ、ならないと思います。ご一緒に、私たちの、目の前の現実を、見てみましょう。

私たち日本人、また現代に生きる、世界中の人々の、現実はどうでしょうか。やはり、「枯れた骨」、なのではないでしょうか。

「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。この問い掛けは、今、私たちに対して、向けられています。

今、日本は、そして世界は、生き残りをかけて、ひた走っています。経済的にも、政治的にも、競争社会で、勝ち組に残ることを目指して、あらゆることを、そのために捧げています。

他の会社よりも、より多くの物を、より速く、より安く作って、競争に勝つ。他の国よりも、軍事的、経済的に、優位に立って、相手を支配する。そうしなければ、生き残れない。

そこに、全力を傾けて、ひたすらに走っています。

「サバイバルゲーム」と言われる、過酷な生存競争の中で、人々は、心の安らぎを失い、いらだちと、怒りと、不安の日々を送っています。皆が、疲れています。

行き過ぎた競争。大義を見失った、サバイバルゲーム。それが、精神の荒廃を、生み出しています。精神の荒廃は、家庭や、学校教育、ひいては国や世界の、あるべき姿を歪め、独善的な自己中心主義や、排他的なナショナリズムを、生み出しています。

自分さえよければ良い。自分の国さえ、豊かになれば良い。他人のこと、他の国のことなど、構ってはいられない。そういう思いが、環境を破壊し、公害を黙認し、いじめや、格差社会、残虐な犯罪、そして、テロを惹き起こしています。

民衆は、目先の利益のみに、目を向け、政治家は、そんな大衆に迎合する、ポピュリズムに走っています。

どうでしょうか、皆さん、私たちも、枯れた骨のような、憂いに満ちた、現実の中に、いるのではないでしょうか。いらだちと、怒りと、不安の中に、いるのではないでしょうか。

このような現実を、私たちに、見せた上で、神様は、私たちに、問い掛けます。

「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるか」。

この問い掛けに、私たちは、返す答えを、持っていません。エゼキエルのように、「主なる神よ、あなたのみが、ご存知です」、と答えることしかできません。

私たちには、自分で、解決する力はありません。この現実を前に、私たちは、無力です。

ですから、「主なる神よ、あなたのみが、ご存知です」、と答えることしか、できないのです。

しかし、この答えは、また、神様に一切を委ねる、信頼の告白でもあります。

枯れた骨のような、私たちが、生き返ることができるか。私たちには、分かりません。

でも、主よ、あなたは、ご存知です。ですから、全てをご存知の、あなたに、委ねます。

御心ならば、あなたは、私たちを、生き返らせて、くださいます。

私たちの答は、これ以外には、ありません。これが、唯一の、答えです。

20世紀における、最も重要な哲学者の一人である、マルティン・ハイデッガーという人が、出口の見えないような、暗い未来を見つめて、こう言いました。

「かろうじて、ただ神のようなものだけが、我々を救うことができるのです」。

ハイデッガーは、哲学者であって、宗教家ではありません。ですから、ここで言う神とは、必ずしも、聖書が語る神とは、限りません。

しかし、「神のようなもの」だけに、私たちの希望がある、と言っているのです。

もう一人、日本の哲学者であった、谷川徹三氏は、こう言っています。

「今日の政治や、経済の現実をも含めて、世相に見られる精神の荒廃は、われわれが『神』を忘れたところに生まれているのだ」。

これら二つの言葉には、共通点があります。20世紀を代表する、東西の二人の哲学者は、いずれも「神」を持ち出しているのです。神に答がある、と言っているのです。

エゼキエルが言った言葉、「主なる神よ、あなたのみが、ご存知です」。

二人の哲学者は、この言葉と、同じことを、言っているのではないか、と思います。

それでは、その唯一の救い、唯一の解決である、主なる神様は、一体、何をしてくださるのでしょうか。そして、私たちに、何をせよと、言われているのでしょうか。

主なる神様は、言われています。4節です。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け」。

「主の言葉を聞け」、と言われますが、一体、何を聞けというのでしょうか。カラカラに、枯れ果ててしまった骨が、尚も、聞くべき言葉など、あるのでしょうか。

そこで、聞くべき主の言葉が、示されます。5節です。「わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」。

エゼキエルは、神様が、枯れた骨に、霊を吹き込むと、骨が生きたものになる、と聞かされます。霊を受けると、枯れた骨が、生き返るのだと、神様は、言われたのです。

今朝の御言葉、エゼキエル書37章1節~14節までに、霊という言葉が10回も出てきます。そして、その内、5回は、「生かす」という、動詞と結びついています。

「神の霊を吹き込まれる」ことと、「生き返る」こととが、繰り返して、語られているのです。

聖霊が、死んだ者を生かす。絶望の淵にいる者を生かすと、神様は言われるのです。

「わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」。

「聖霊を受けよ」、と主は言われるのです。「そうすれば生き返る」と言われているのです。

聖書は、その光景を、詳細に描いています。6節には、「わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」、とあります。

驚いたことに、エゼキエルが、命じられたように、預言すると、そのようになったのです。

骨と骨とが、音を立てて近づき、その上に、筋と肉が生じ、そして皮膚が、その上を覆った、というのです。そのようにして、外側の人の形は、整いました。

しかし、その中に、霊はなかった、というのです。命はなかったのです。

このことは、創世記2章7節に記された、創造の出来事を、想い起させます。

神様が、人間を造られた時、土の塵で、人を形づくり、その鼻に、命の息を吹き入れられた。

「人はこうして生きる者となった」、と御言葉は言っています。

土の塵から造られた人間が、「生きる者」になった。それは、神様が、その鼻に、「命の息を吹き入れられた」からだ、と言うのです。

そのようにして、私たち人間は、生きる者にされたのです。

神様が、その鼻に、命の息を、吹き入れられたのです。人間が、自分で息を吸った、とは記されていません。人間が、自分の力で、命を獲得したのではないのです。

そうでなくて、人間は、土の塵の現実にいるのです。人間は、土の塵のように、死んだ状態にいます。神様が、息を吹き入れて、くださらなければ、生きたものには、ならないのです。

旧約聖書において、「霊」という言葉は、「息」とも訳せますし、また「風」とも訳せる言葉です。

一つの言葉が、霊という意味と、息という意味と、風という意味を、持っているのです。

ですから、神様が、土の塵で人を造り、その鼻に、命の息を吹き入れられ、人が生きる者となった、という出来事においても、命の息に代えて、霊と言っても良いのです。

神様が、土の塵で造った人間に、霊を吹き入れて、人が生きるものになった、というのです。

皆さん、ご一緒に、この場面を、想像してみましょう。

私たち人間は、塵から造られ、大地に横たわっています。生きる力もなく、死んだ状態です。

私たちが悩み、人生の重荷に、喘いでいるのは、そうした状態です。

神様は、そんな私たちの上に、覆いかぶさるようにして、身を屈め、膝を折り、その口から、息を吹き入れてくださいます。この神様の行為は、神様の憐れみと、力を示しています。

創造主なる神様が、ひざまずいて、身を屈めてくださり、優しく、でも力強く、息を吹き入れて、くださる。その神様の働きが、私たちを、生きる者に、してくださるのです。

神様は、今も、そのようにして、私たちを、生かしてくださっています。

神様は、私たちに、言わば、「人工呼吸」を、施してくださっているのです。

今、もし、皆さんの大切な人が、呼吸を失って、倒れているとします。その時、皆さんは、どうされるでしょうか。懸命になって、人工呼吸を、施されるのではないでしょうか。

心臓マッサージをして、口を上に向けて、口から息を吹き入れる。

その動作を、何度も、何度も、繰り返すのではないでしょうか。どうか、生き返って欲しい。

何としてでも、息を吹き返して欲しい。

そのような、切なる思いをもって、人工呼吸を、繰り返すのではないでしょうか。

皆さんは、生きることは大変だ、と感じることがあると思います。自分は、土の塵のように、疲れ果てて、死んだようになっている。悩みの中で、そう感じることがあると思います。

しかし、そんな時、神様が、私に、人工呼吸をしてくださっている。ご自分の命の息を、私たちに、力一杯、吹き込んでくださっている。そのことを、忘れないで頂きたいと思います。

あなたは、死んではいけない。どうか生きて欲しい。息を吹き返して欲しい。神様は、切なる思いをもって、懸命に、あなたに人工呼吸を、施してくださっているのです。

そのことを、ぜひ、想い起して、頂きたいと思います。神様の人工呼吸によって、命の息を吹き入れられ、いま生きている。生きる者にされている。そのことを、想い起して、頂きたいと思います。キリスト者というのは、それを想い起す人のことなのです。

今朝の箇所でも、神様は、同じ事をされておられます。

エゼキエル書37章は、創造主なる神様の、命の息、聖霊、を語っているのです。

9節の御言葉は語ります。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」

これは、本当に力強い、そして本当に感謝すべき言葉です。死んだような、私たちに、四方から、霊が吹き付け、私たちを、生かしてくださる。生きた者としてくださる、という約束です。

自然の風は、四方からは、吹きはしません。一方向からだけです。

でも、人を生かす、神様の霊は、四方から吹き付ける、というのです。私たちの全身を、すっぽりと覆い包んでしまうのです。

たとえ私たちが、神様に背いて、そっぽを向いていても、神様の霊は、四方から、私を取り囲み、私を覆い包んでしまう、というのです。

イスラエルの民が、枯れた骨のようになっていたのは、命の源である神様から、離れていたからです。イスラエルの民の、背きの罪が、あったからなのです。

それ故に、イスラエルの民は、バビロン捕囚という苦難を、味わうことになったのです。

でも、そんなイスラエルの民を、神様は、見捨てることを、されませんでした。たとえ、イスラエルの民が、神様を捨てても、神様は、背いた民を、尚も、憐れんでくださったのです。

それは、私たちについても、同じことです。どんなに、私たちが、神様に逆らい、神様に背を向けていても、神様の霊は、四方から、私を取り囲み、霊を吹き付け、死んだような私たちを、生き返らせてくださるのです。

なぜなら、私たちの神様は、赦しと憐れみの、神様だからです。救いの神様だからです。

そうでなければ、「枯れた骨」は、生き返ることは、できないのです。

憐れみの神様だからこそ、その民の呻きに、耳を傾けられるのです。

そして、人工呼吸を施してくださり、命の霊を吹き入れ、生きた者としてくださるのです。

現代に生きる私たちは、いかにして生き残るかという、厳しい戦いの中で、いらだちと怒りと不安の日々を送っています。生きることに疲れて、枯れた骨のように、なっています。

しかし、そんな私たちに、神様が、必死の人工呼吸を、施してくださっているのです。

もし、私たちが、生き返ることができるとするなら、それは、私たちが、神様の必死の、人工呼吸によって、生かされている、という事実に、立ち返る他ありません。

私たちを生かすために、神様が、全力を尽くして、人工呼吸を、施してくださっている。

あなたは、死んではいけない。私の霊を受けて生きよ、と言われて、命の息を、吹き込んでくださっている。私たちには、神の霊が注がれている。

そこまでして、神様は、私たちを、愛してくださっている。私たちは、この恵みの出来事に、立ち返らなければ、生きることはできません。

そして、世界中の人が、皆、同じように、神様から、命の息、聖霊を、吹き込まれている。

世界中の人々は、誰一人、例外なく、神様の、命懸けの愛の対象とされている。

この事実に立たなければ、私たちは、いらだちと、怒りと、不安の中から、救い出されて、生き返ることはできません。

「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」主なる神様は、今も、私たちに、問い掛けられています。

私たちは、答えます。「はい主よ、生き返ることができます。あなたが、命の息を、聖霊を、吹き入れてくださるから、私たちは、生き返ることができます。」

今朝、私たちは、ペンテコステ礼拝を、献げています。

復活の主イエスは、「聖霊を受けよ」、と呼び掛けておられます。

「聖霊を受けよ、そして生きよ」。今朝、私たちは、この御言葉を、聞きたいと思います。

ペンテコステ礼拝は、主から聖霊を受けて、生き返らされる時なのです。