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過去の礼拝説教

「願いを聞いてくださる神」

2017年07月09日 聖書:ヨハネの手紙一 15:13~21

子どもの頃、ある工事現場で、こんな会話を、耳にしたことがあります。

「おい、その電線は死んでいるけど、こっちは生きているから、気を付けろよ」。

変な話です。電線が死んだり、生きたり、する筈はありません。

お分りでしょうが、電線が死んでいるというのは、電源に繋がっていない、ということです。

電線が生きているというのは、電源に繋がっていて、電気が流れている、ということです。

だから、気を付けろよ、と言っていたのです。

電線は、電源に繋がれていなければ、生きていません。ただの銅線です。

しかし、電源に繋がれている時には、生きた力を発揮します。

同じ銅線ですが、電源に繋がっているか、いないかで、決定的な違いが生じます。

私たちも、命の源である、主イエスに、繋がっているか、いないかで、生きているか、それとも、死んだような者であるか、はっきりと分かれます。

御言葉は、主イエスと、結ばれている人には、永遠の命がある、と言っています。

先週の御言葉の最後に、こう書かれていました。5章11節、12節です。

「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」

御子イエス様と、結ばれている人には、永遠の命がある、と言っています。

永遠の命とは、不老不死のことではありません。また死んだ後の、命のことでもありません。今、この時に、主イエスと結ばれている、ということなのです。

主イエスとの、生きた交りの中にいること。それが、永遠の命なのです。

13節で、ヨハネは言っています。あなた方は、主イエスという、神の子の名を、信じているのだから、もう既に、永遠の命を得ているのです。

ヨハネは、是非、そのことを知って欲しい、と願っています。

あなた方は、既に、永遠の命の恵みに、生かされているのです。どうか、そのことを知って欲しい。その確信に、堅く立って欲しい。それが、私の、切なる願いなのだ。

ヨハネは、その思いに押し出されて、この手紙を書いたのです。

永遠の命とは、主イエスとの、活き活きとした交わりに、入れられることです。

そして、この交わりは、どんなことがあっても、絶対に崩れることはありません。

私たちは、様々な苦難に出遭って、失望し、落胆することが、あるかも知れません。

しかし、永遠の命に生かされているなら、絶望することはありません。永遠の命とは、絶望なき人生、と言い換えても、良いと思います。

絶対に崩れることのない、主イエスとの交わりに、生きているなら、絶望しません。

たとえどんなに、周囲の状況が暗くて、どこにも希望が、見えないような時にも、主イエスとの、関係の糸だけは、絶対に切れません。それが繋がっている限り、絶望しません。

二千年の教会の歴史において、この永遠の命の希望をもって、厳しい迫害に耐えた、多くの殉教者たちがいます。

スミルナの主教をしていた、ポリュカルポスという人は、ローマ政府によって捕らえられ、厳しい迫害を受けました。しかし、その人格が、あまりにも高潔であったため、役人は何とかして、この聖人を助けたい、と思いました。

そして、形だけでも、キリスト教を捨てるようにと、熱心に勧めました。

しかし、彼は、はっきりと、こう言い切ったのです。「私は今まで、80年間生きてきて、一度たりとも、主イエスに、裏切られたことがありません。私は不真実でしたが、主はいつも真実でした。その主を、どうして、裏切ることが、出来ましょうか」。

そう言って、火あぶりの刑に、服していったのです。

また、テルトリアヌスという司祭は、ローマ軍の百人隊長の子として、生まれました。

ある日、彼は、ローマの円形劇場で、キリスト教徒たちが、火あぶりの刑や、猛獣の餌食となって、殺されるのを目撃しました。

しかし、無名の男女や、奴隷たちが、死を恐れることなく、殉教していくのを見て、大変心を打たれました。後に、キリスト者となった彼は、こう言っています。

「この驚くべき忍耐を、目撃した者は誰でも、ある不安に襲われる。何が彼らに、この忍耐を与えたかを、詮索せずにはおられなくなり、その真理を発見すると、すぐに自らも、これに従うのである。この真理を、把握したからこそ、彼らは、故郷の家に帰るように、死につくことが、できるのである」。

テルトリアヌスが、強く心を動かされた、殉教者が持っている真理こそが、永遠の命の希望です。どんな迫害の中でも、絶対に切れない、神様との関係です。

それに支えられていたから、彼らは、故郷の家に帰るように、死につくことができたのです。

ですから、永遠の命とは、絶対に消えることのない、希望のことです。

死をも超える希望です。死の先にある、希望に生きる命のことです。

それは、死に打ち勝たれた、主イエスと繋がり、主イエスと一つになるときに、与えられるのです。この永遠の命に生きる時に、私たちに、平安があります。

ビリー・グラハム牧師の集会で、ある人が、このような質問をしました。

「あなたは、将来について、たくさんの説教を、してくださいました。でも、あなたは、あなた自身の、未来について、ご存知なんですか?」

ビリー・グラハム牧師は、このように答えました。

「私は、自分の未来については、全く知りません。しかし一つ、分かっていることがあります。私の未来を、誰が掴んでくださっているのか。そこことについては、よく知っています」。

私のことを、私よりも、よく知っていて、私の人生の行く末を、握っている方がおられる。

その方が、いつも共にいてくださり、最善に導いてくださる。

もし、そのことを、知っているならば、私たちは、すべての恐れから、解放されます。

永遠の命に生きるとは、このような生き方である、と思います。

ですから、永遠の命に生きるとは、この世において、既に、天国を経験することである、と言い換えてもいいと思います。

ある人が、教会の牧師に尋ねました。「先生、どんな人が、天国に行けるのですか」。

その牧師が、静かに答えました。「この地上で、天国を経験している人が、行けるのです」。

愛する兄弟姉妹、あなたは、今、この地上で、天国を味わっておられるでしょうか。

以前仕えていた教会で、教会員の方々に、少し意地悪な、質問をしたことがあります。

「もし、あなたが、今、召されたとしたら、あなたは、天国に行けると、思いますか」。

「はい、行けると思います」。そう答えた人は、僅かでした。

多くの方が、考え込んでしまいました。そこにいたのは、皆、教会の信徒の方々です。

ですから、主イエスの十字架によって、罪が赦されたことを、信じている人たちです。

でも、あなたは、天国に行けると、思いますか、と正面から、質問されると、考え込んでしまうのです。なぜでしょうか。

私たちは、失敗ばかり、しているからです。神様の御心を、示されながら、それに従わず、背くことが、あまりにも多いからです。神様の御心を、いつも、悲しませているからです。

ですから、こんな私は、天国に相応しくない、と思ってしまうのです。

「はい、私は天国に行けます」と、自信をもって、言うことができないのです。

でも、皆さん、お忘れでしょうか。この手紙の1章9節には、こう書いてあった筈です。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」

大丈夫ですよ。心から、悔い改めれば、良いのですよ、と書いてあった筈です。

ですから、「はい、天国に行けます」、とはっきり言える筈なのです。

でも、私たちは、そこでも、尚、心配します。今は、タイミングが悪い。

もし今、主イエスの再臨があって、裁きが行われたとしたら、どうしよう。まだ、悔い改めていない罪がある。イエス様、すみませんが、もう少し遅く来てください。

そんな、情けない思いに、捕らわれます。

でも、皆さん、大丈夫なのです。私たちは、悔い改めすら、満足にできない者であることを、素直に告白すれば良いのです。

そして、「どうか、悔い改めのできない私を、お赦しください」、と祈るのです。

そのような、祈りをささげているなら、もう大丈夫です。必ず、天国に行けます。

それが既に、悔い改めの、第一歩だからです。

私たちの信仰は、本当に小さなものです。からし種一粒ほどの、信仰です。100点満点で、たった1点くらい、いえ0.1点くらいかもしれません。

でも、主イエスに繋がっているなら、どんなに小さな信仰でも、大丈夫なのです。主イエスの、救いの恵みは、無限大だからです。ちょっと、掛け算をしてみてください。

無限大に100を掛けても、答えは無限大です。0.1を掛けても、答えは無限大です。

ですから、誰に繋がっているかが、大事なのです。大切なのは、自分の信仰の大きさではありません。誰に繋がっているかなのです。命の源に、繋がっているか、どうかなのです。

そして、私たちが、神様と繋がっているなら、私たちは、神様に祈ることができるのです。

14節の御言葉は、神様は、その祈りを、聞き入れてくださる、と言っています。

ただ、一つだけ、条件がある、というのです。それは、神様の御心に適う、祈りであるということです。これが、聞き入れられるための、条件である、というのです。

ここで、私たちは、再び不安になります。もしかしたら、私たちの祈りは、御心に適った祈りでは、ないのではないか、と思ってしまうのです。

私の祈りは、とても、御心に適っているとは、思えない。だから、どうせ、聞き入れてもらえないだろう。それなら、無駄だから、祈るのを止めよう。

そんなことを、考えては、いけません。祈るのを、止めてはいけません。

確かに、私たちの祈りが、御心に適わないことも、あるでしょう。

いえ、御心に適わない祈りの方が、多いかもしれません。

でも、止めずに、祈り続けてください。なぜなら、祈っている内に、神様の御心が、分かってくるからです。祈っている内に、神様が何を考えておられるか、示されるのです。

人間の場合でもそうです。初めの内は、その人が、何を考えているのか、分からなくても、色々と話している内に、段々と、その人の考えていることが、分かって来ます。

祈り続けていく内に、神様の御心が、段々と分かってくるのです。そして、自分の祈りが、どんなに的外れであったのか、示されるのです。ですから、祈りを止めてはいけないのです。

でも、少しひねくれた人は、こう考えるかもしれません。

そうか、御心に適った祈りでなければ、聞き入れられないのか。結局、神様は、御心しか、なされないのか。それなら、祈っても、祈らなくても同じではないか。

どっちにしても、神様は、自分の好きなようになさるなら、祈る意味は、ないのではないか。

皆さん、感心したように、聞いておられますが、こんな屁理屈に、惑わされてはいけません。

それでも、尚、祈り続けることが、大切なのです。

なぜなら、祈っていく内に、私たちの方が、変えられていくからです。祈りは、神様を、懐柔するために、するのではありません。神様を説得して、私たちの思いに、従わせるために、するのではありません。逆です。私たちが、神様の御声を、聴くためにするのです。

そして、祈りを通して、神様の御心を、分からせていただくのです。それが祈りの目的です。

ですから、たとえ、初めは、御心に適った祈りでなくても、祈ることが、大切です。

なぜなら、私たちの祈り、そのものが、神様によって導かれて、変えられていくからです。

初めの内は、自己中心的な祈りであっても、祈り続けているうちに、次第に、神様の御心に沿った祈りへと、変えられていきます。

主イエスも、仰っています。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」。これは、祈りの三段階を、示しています。初めは、求めるだけの祈りから、スタートするかもしれません。

しかし、次第に、神様の御心を、探す祈りに、変えられていきます。そして、最後は、門をたたく行動へと、導かれていくのです。

私たちの祈りは、大体最初は、願いばかりです。しかし、やがて、その願いを実現するために、私は何をしたらよいでしょうか、という祈りに導かれます。

そして、更に祈っていく内に、あなたはこれをしなさい、という御心を、示されます。

しかし、私たちは、示された、その御心に、従えないことが多いのです。

そのとき,私たちの祈りは、神様の赦しを乞う、懺悔の祈りになります。

そして最後は、そんな私を、尚も愛してくださっている、神様への感謝の祈りに導かれます。

どんな祈りでも、最後に、感謝の言葉が、出てくるならば、勝利です。

祈りとは、本来、願いから出発して、感謝へと至るものなのです。

そして、感謝の祈りに、導かれた時に、私たちの祈りは、既に適えられているのです。

もう一つ、祈り続けることの、理由があります。

それは、祈ることによって、神様が、働いてくださることがある、という事です。

時には、ご計画を変えてまでして、働いてくださることがあるのです。

主イエスが、フェニキアの町ティルスを訪れた時、カナンの女が、娘の癒しを、熱心に願いました。でも、主イエスは、神様のご計画は、ユダヤ人の救いが先で、異邦人は、その後なのだ、と言われました。しかし、その婦人は、それにも拘わらず、願い続けました。

すると、主イエスは、「それほど言うなら、よろしい」、と仰って、娘を癒してくださったのです。

ご計画の、順序を変更して、くださったのです。

いくら熱心に祈ったからと言って、全く御心に沿わないことを、なしてくださることはないと思います。しかし、ご計画の優先順位を、変えてくださることは、あり得るのです。

御言葉は、更に、兄弟のための、執り成しの祈りを、勧めています。

私たちは、兄弟姉妹の、救いのために、何もできません。でも、執り成しの祈りを、祈ることは出来ます。教会は、この執り成しの祈りによって、支えられています。

しかし、これは、死に至らない罪を、犯している人々の、場合であって、死に至る罪を、犯している人々については、神に願うように、とは言いません、と書かれています。

何とも恐ろしい響きを持った言葉です。では、死に至る罪とは、どのような罪なのでしょうか。それは、「自分には罪が全くない」、と言い張ることです。もし、自分の罪を、全く認めないなら、主イエスの十字架の救いも、必要なくなります。

罪がないと言い張るなら、主イエスの、十字架の愛を、拒むことになります。それでは、救われようがありません。このように、主イエスを、全面的に拒むことが、死に至る罪です。

主イエスを信じていても、弱さのために、主イエスに、背いてしまうこととは、全く違います。

弱さの故に、主を裏切っても、悔い改めるなら、神様は、赦してくださいます。

しかし、自分は正しい。自分には、全く罪がない。だから、主イエスの救いは、必要ない。

そう言って、主イエスの愛を、拒み続けるなら、赦したくても、赦しようがないではないか、と御言葉は言っているのです。

さて最後に、御言葉は、力強い、励ましの言葉を、語ってくれています。

主イエスが、守ってくださるので、悪い者は、キリスト者に、手を触れることができない、と語っているのです。

悪い者は、脅かすことは出来ても、触れることは出来ない、と言うのです。

『天路暦程』という小説の中で、主人公が、進もうとしている道の先に、鋭い牙と爪を持つ、ライオンが吠えている、という場面が出てきます。

しかし、その道を通らなければ、先に進むことが出来ません。恐ろしくて、引き返そうかと思っていると、その道の先にいた男が、こう言います。

「あなたの気力は、そんなに小さいのですか。恐れなさるな。ライオンは、繋がれているのです。道の真ん中を歩けば、大丈夫ですよ」。

その言葉を信じて、道を進んでいくと、男の言葉通り、ライオンは鎖で繋がれていて、吠えるだけで、触れることはなかった、という話です

皆さん、今も、私たちを罪に誘う、悪い者たちは、私たちを脅かします。

しかし、御言葉は、確かな約束を、与えてくれています。「恐れることはありません。主イエスが、守ってくれていますから、悪い者は、あなたに、手を触れることができません」。

皆さん、私たちは、主イエスによって、守られているのです。

そのことを感謝し、そのことを確信して、ご一緒に、歩んで行きたいと思います。