MENU

過去の礼拝説教

「あなたのために私は去る」

2017年07月23日 聖書:ヨハネによる福音書 16:5~15

随分前のことです。私が、まだ、大学生の頃、「知りたくないの」、という歌が、流行ったことがありました。切ない恋心を、歌った歌です。

「あなたの過去など、知りたくないの……たとえ、この私が、聞いても言わないで」

人は、誰も、嫌なことは、聞きたくありません。自分が悲しくなること、自分にとって辛いことなど、聞きたくありません。愛する人の過去など、聞きたくありません。

だから、聞いても、言わないで。この気持ちは、よく分かります。

今朝の御言葉における、弟子たちもそうでした。

5節で、主イエスは「今、わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこに行くのか』と尋ねない」、と語っておられます。

主イエスは、この言葉を、最後の晩餐における、訣別説教の中で、言われています。

「あなた方は、誰も、私がどこに行くのか、尋ねない」。この主イエスの、お言葉を読んで、「あれ、そうかな」、という思いになられた方も、おられると思います。

なぜなら、13章36節で、ペトロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」、と尋ねているからです。それに対して、主イエスは、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」、と答えられておられます。

また、14章5節を見ますと、今度はトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません」、と尋ねています。

このトマスの質問に対して、主イエスは、「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、と答えておられます。

これらの、意味深い答えを、弟子たちが、十分に理解し、納得したので、もはや、誰も、「主よ、どこに行かれるのですか」、と尋ねなかったのでしょうか。

そうではありません。この時、弟子たちは、この主イエスのお言葉を、全く理解できていませんでした。納得していた訳では、ないのです。

では、どうして弟子たちは、主イエスに対して、「主よ、あなたはどこに行かれるのですか。もっとはっきりと教えてください」、と問い続けなかったのでしょうか。

恐らく、この時、弟子たちは、主イエスに問いかける、気力さえも、失っていたのだと思います。尋ねることが、怖かったのです。

いよいよ、主イエスが、どこかへ行ってしまわれる。そのことを思うと、不安で、悲しくて、そんなことを、考えたくもなかったのです。先ほどの歌のように、聞きたくなかったのです。

主イエスは、弟子たちに、言われました。「私は、間もなく、あなたたちのもとを去っていく。

そして、私が去った後、あなたたちは、会堂から追放される。殺される者もある」。

恐ろしいことです。誰も、そのようなことを、聞きたくありません。

「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」。

6節の、主イエスのお言葉の通り、弟子たちの心は、悲しみで満ちていました。

主イエスと、離れ離れになる、という悲しみのために、言葉も出なかったのです。

弟子たちが、主イエスと共に過ごした期間は、僅か三年ほどであった、と言われています。

しかし、それは、本当に充実した、素晴らしい、三年間であった、と思います。

朝から晩まで、主イエスと寝食を共にして、主イエスのお言葉に、浸り切ることができた。

主イエスの、愛と優しさを、毎日のように、味わうことができた。

目の前で行われる、恵みの奇跡に、目を見張る思いがした。

こんなに満ち足りた、幸いな日々は、なかったと思います。しかし、その幸いな時が、終わろうと、しているのです。主イエスと、別れる時を、迎えているのです。

しかも主イエスは、ご自分は、十字架につけられて、殺される、と言われています。

弟子たちの心には、「こんなはずではなかった」、という思いが、起こっていたと思います。

私たちも、人生の色々な場面で、「こんなはずではなかった」、という思いを、持ちます。

祈って、祈って、準備した伝道集会に、一人も求道者が来ない。こんなはずではなかった。

人生の途上で、突然重い病気に、罹ってしまう。こんなはずではなかった。

自分が勤めている会社が、倒産してしまう。こんなはずではなかった。

思いがけない、自然災害に遭う。こんなはずではなかった。

私たちは、様々なことによって、「こんなはずではなかった」、という失望感を味わいます。

特に、愛する人との、突然の別れの時に、「こんなはずではなかった」、と強く思います。

弟子たちは、主イエスから、「もう二度と、あのガリラヤで、共に過ごしたような、幸いな生活は、できないのだよ」、と言われたことで、悲しみで、心が塞がれていたのです。

「こんなはずではなかった」、という思いに、覆われていたのです。

「主よ、どこへ行かれるのですか」、と尋ねる、気力さえも、失せていました。

しかし、そのような弟子たちに向かって、主イエスは、言われます。

愛をもって、優しく、言われます。弟子たちの悲しみを、共有しつつ、言われるのです。

「あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、……」。

この「実を言うと」、という言葉は、ギリシア語の原文では、「しかし、わたしは真理をあなたがたに語ります」、と書かれています。

主イエスが、「実は…」と言われて、語り始められたことは、単なる、「思いがけないこと」、ではありませんでした。もっと大切なことでした。それは、神の真理であったのです。

主イエスはここで、神の真理を、語ろうとされて、おられるのです。

主イエスは、「こんなはずではなかった」と呟く、弟子たちに対して、「私はあなた方に、大切な真理を語りますよ」、と言われたのです。

あなたを生かす、神様の真理とは、こういうことなのですよ、と主イエスは語られたのです。

「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者は、あなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。

主イエスは、私が去って行くのは、実は、あなた方のためになるのだよ、と言われたのです。ホントを言うと、私が去っていくことで、あなたたちは、得するんだよ、と言われたのです。

これは、弟子たちだけではなく、私たちにも、言われている言葉です。

どうして、主イエスが、去って行かれると、私たちは、得をするのでしょうか。

私たちは、主イエスが、目に見えるお方として、傍にいてくれたら、信仰を持つのも、ずっと簡単だろうと、思います。

主イエスのお言葉を、直に、この耳で聞けたら、もっと理解が深まるだろう、と思います。

神を信じろ、と言われても、目に見えない神を、どうやって信じるのか。神がおられるなら、この目で見せて欲しい。そうしたら信じてやろう。多くの人が、こう言います。

しかし、主イエスは、そういう私たちの思いに、挑戦されます。

私が死んで、目に見える存在でなくなるのは、あなた方のために、良いことなのだ。

なぜなら、私が去っていかなければ、弁護者は来ないからだ。

私が去った後で、私はあなた方のところに、弁護者を送る。主イエスは、そう言われました。

私は、決して、あなた方を、見捨てることはない。あなた方を、みなし子にはしておかない。

あなた方に、素晴らしい、弁護者を送る。そう言われたのです。

この「弁護者」とは、これまで何度も、主イエスが語っておられるように、「聖霊」のことです。この言葉は、「助け主」と、訳されたこともありますし、「慰め主」と、訳されたこともあります。もともとは、「傍にいてくれる人」、という意味の言葉です。

呼ぶと、傍に来てくれて、助けてくれる人、という意味の言葉です。

主イエスは、人間のお姿を取って、この世に来られた神様です。肉体を持った、人間として、来られました。人間としての制約を、身に帯びて、この世に、生まれてくださったお方です。

ですから、いつでも、どこでも、目に見えるお姿で、私たちの傍にいてくださる、訳ではありません。

しかし、聖霊なる神様は、いつでも、どこでも、そして、いつまでも、私たちと共にいてくださるお方です。そのお方が、傍にいてくれる。そのことが、私たちの助けになり、慰めになる。

主イエスは、そのような助け手、弁護者として、聖霊なる神様が、あなた方のところに来てくださるのだよ、と約束してくださいました。その方が、得するのだよ、と言われたのです。

主イエスが、私たちの、耳元で、「実を言うとね…、本当はね…」、と囁いて、約束してくださったのは、このことなのです。

あなたに、神様の真理を、教えてあげよう。あなたが、どこに行っても、どんな時でも、聖霊なる神様が、必ず、あなたの傍らに、いてくださって、あなたのことを、守ってくださるのだよ。あなたが、知らなければならないのは、この神様の真理なのですよ。

この真理さえ、握り締めていれば、大丈夫です。是非、このことを、知ってください。

これは、主イエスの、遺言のような言葉です。どんな時も、あなたは、決して一人ではない。

聖霊なる神様が、共にいてくださる。この真実は、揺らぐことはない。

聖霊なる神様は、目には見えません。しかし、確かにおられ、私たちの内に働いてくださるのです。どこでも、いつでも、いつまでも、共にいてくださる、助け主、慰め主なのです。

先週、105歳の生涯を生き貫いて、天に召された、日野原重明先生は、その晩年に、ご自分のライフワークとして、全国の小学生を訪ねて、「いのちの授業」を行っていました。

授業は、「命とはなんだろうか」、という質問から、始まります。

子どもたちは、たいてい、自分の左胸に手を当てて、「心臓」と答えます。

日野原先生は、「心臓は、命そのものではなくて、血液を、体内に送り出す、ポンプだよ」、と説明してあげます。子どもたちが、納得したところで、問いかけます。

生きるために、不可欠である空気は、見えるだろうか。雲を運ぶ風は、見えるだろうか。

「見えないものの中にこそ、最も大切なものがある」、と分かってもらうためです。

私たちにとって、見えないけれども、最も大切なもの。それは神様です。

聖霊なる神様は、目に見えないお方ですが、いつも共にいてくださる、慰め主です。

ある少年が、深い悩みと、悲しみを抱えて、誰にも相談できずに、一人で泣いていました。

泣きはらした目で、ふと見ると、大好きな愛犬が、じっとその少年を見つめていました。

何も言わず、ずっとそこにいて、その少年を、見ていたのです。

少年は、この犬によって、深い慰めを、与えられました。

その犬が、何かを、言った訳ではありません。何かを、してくれた訳でもありません。

ただ、傍にいて、じっと、見ていてくれただけです。でも、その犬の、心配そうな目に、その少年は、癒されたのです。誰も分かってくれない、と思っていたけど、この犬は、私の悲しみを、分かってくれている、と思ったのです。それが、嬉しかったのです。

使徒パウロは、言っています。

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

私たちが、祈ることも出来ないような、苦しみ、悩みの中にある時、聖霊は、言葉に表せない、うめきをもって、執り成してくださる、というのです。

聖霊なる神様が、うめかれるのです。私たちの悩み、苦しみを、ご自身のものとしてくださり、私たちよりも、もっと深く苦しみ、もっと深く悩み、うめいてくださるのです。

少年の傍にいた犬は、ただ、じっと、見つめていただけです。それでも、その少年にとっては、かけがえのない慰めとなりました。

しかし、聖霊は、神様です。神様が、うめかれるのです。うめくほどに、私たちと、苦悩を、共にしてくださるのです。

しかも、このお方は、私たちのために、万事を益としてくださる、お方なのです。

私が去ると、このお方が、来てくださるのだよ。だから、私が去ることで、あなた方は、得をするのだよ、と主イエスは、言われているのです。

弱く、愚かで、取るに足らない、私たちであっても、このお方、聖霊が来てくださると、造り変えられます。

三度も、あんな人知らない、と主イエスを、否んだペトロ。主の復活など、絶対に信じないと言った、疑い深いトマス。捕まるかも知れないという恐怖から、裸で逃げ出したマルコ。恐れて、部屋に閉じこもっていた、弟子たち。そして、教会を迫害したパウロ。

彼らは、聖霊に満たされた時、別人のように、主のために、働き出したのです。

なぜ、聖霊は、そんなに、私たちを、変えるのでしょうか。なぜ、それほど、力強い、助けとなり、慰めとなるのでしょうか。一体、聖霊は、私たちに、何をしてくださるのでしょうか。

聖霊は、私たちに、主イエスのことを、分からせてくださるのです。

私たちを、主イエスの愛に、与らせてくださるのです。私たちを、主イエスの恵みに、与らせてくださるのです。私たちを、主イエスの命に、与らせてくださるのです。

弟子たちは、三年間も、主イエスと、生活を共にしていました。それでも、主イエスのことが、全く分かっていなかったのです。

その弟子たちに、聖霊が、注がれました。その時に、彼らは、初めて、主イエスのことが、分かったのです。主イエスの愛が、分かったのです。そして、変えられました。

でも、私たちは、あの弟子たちでさえ、なかなか分からなかった、主イエスの愛を、何と今、分からせて、頂いているのです。主イエスの命に、与らせて頂いています。

聖霊の働きによってです。ですから、私たちは、弟子たちよりも、恵まれている、と言えるかもしれません。

私は、中学から大学まで、キリスト教主義の学校で、学びました。高校1年の時の、聖書の授業の先生は、橋本ナホという婦人牧師で、猛烈な生き様によって、知られた人でした。

橋本先生は、授業中に、しばしば、「私は、子供を亡くし、主人を亡くした時に、初めて、神様の愛が、分かった」と、何度も、何度も、語られました。

初めの内は、そんなことあるのか、と半信半疑でした。でも、あまりにもしばしば、言われるので、きっとこれは、本当のことだろと、思うようになりました。

愛する子供と、ご主人を、相次いで、亡くされれば、普通は、神様を恨みます。「神は愛なり」、なんて嘘っぱちだ。神も、仏もあるものか、という気持ちに、なるものです。

でも、橋本先生は、その時に、初めて、神様の愛が分かった、と言われたのです。

それが嬉しくて、嬉しくて、ご主人の葬儀の時にも、自然に笑みが、こぼれたそうです。

先生は、長い間、ご主人の介護をされていました。ですから、長い介護の重荷から、解放されて喜んでいる、と誤解されるので、笑顔は止めた方が良い、と忠告されました。

でも、神様の愛が分かった喜びは、隠し切れずに、自然に、顔に出てしまったそうです。

不思議なことです。常識では、考えられないことです。でも、これは、実際に、橋本先生の上に、起こった出来事なのです。聖霊の、働きによらなければ、あり得ないことです。

聖霊は、私たちを、造り変えてくださいます。ですから、主イエスは、「わたしが去って行くのは、あなた方のためなのだよ。その方が、得するのだよ」、と仰ったのです。

教会が、様々な迫害に耐え抜いてきたのは、この聖霊の働きが、あったからなのです。

こんなはずではなかった。なぜ、愛する者たちが、信仰のゆえに、死ななければならないのか。こんなはずではなかった。

何度も、何度も、このような、叫びが、叫ばれました。しかし、そこで、まさにその苦難の只中で、聖霊は、働かれたのです。迫害の中にいる人たちを、生かしたのです。

「わたしは去って行くが、真理のみ霊があなた方を助けて、福音の真理をすべて悟らせてくださる」。この約束が、私たちの口から、「こんなはずではなかった」、という呟きを、消し去ってくれるのです。

この先の、16章33節で、主イエスは、こう言われています。「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。

「こんなはずではなかった」、と繰り返している限り、勇気は出てきません。出てくるのは文句ばかりです。呟きばかりです。

しかし、主イエスは、ここで言われます。あなたがたは、勇気が出せる。そのために、私はあなた方に、助け主なる、聖霊を送るのだ。

どうか、この聖霊の助けを、受け取って欲しい。そして、どうか、私の愛を、受け入れて欲しい。私たちは、この主イエスの願いに、応えていく者で、ありたいと願います。

そのために、聖霊の助けを、真剣に祈り求めて、いきたいと思います。