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過去の礼拝説教

「この人々は去らせなさい」

2017年09月03日 聖書:ヨハネによる福音書18:1~11

私と家内は、6年前に、イスラエル旅行に行かせていただきました。訪問した場所のすべてにおいて、大きな恵みを頂きました。

その中でも、特に、印象に残った場所の一つが、ゲツセマネの園でした。

ゲツセマネという言葉は、ヘブライ語で、「油絞り」という意味です。当時は、そこで、オリーブの実から、油を搾ったのです。

今でも、そこには、樹齢何百年という、古いオリーブの木々が、沢山茂っています。

このようなオリーブの木々に囲まれて、主イエスが、血の滴りのような、汗を流されて、祈りの格闘をされた。そのことに、思いを馳せて、暫し黙想しました。

このゲツセマネの園は、主イエスにとって、慣れ親しんだ場所でした。主イエスは、度々、この場所に来られていました。

最後の晩餐の後も、主イエスは、いつものように、いつもの場所に、行かれたのです。

でも、これは、主イエスにとって、最も危険な行動でした。

主イエスを裏切ろうとしていた、イスカリオテのユダは、そのことを、予測していたからです。

ゲツセマネに行けば、自分は捕えられる。その事を、主イエスは、ご存知でした。

しかし、主イエスは、それを避けようとは、されませんでした。

裏切り者の目を、くらますために、もっと安全な場所に、身を隠されても良かったのです。

でも、そういうことを、なさらずに、わざわざ、最も危険な場所に、進んで行かれました。

そのため、この祈りの園、交わり象徴とも、言うべき場所が、裏切りと、捕らわれの場所に、なってしまったのです。

この出来事に、弟子たちは、大きなショックを受け、激しく動揺しました。

あろうことか、いつも一緒にいた仲間に、裏切られてしまった。すべてを捨てて、従ってきた先生が、目の前で、捕らえられてしまった。これ程、衝撃的なことは、なかったと思います。

今朝の御言葉で、際立っているのは、弟子たちや、群衆の、騒々しさと、主イエスの静けさです。動揺する弟子たちと、ぶれない主イエス。その見事なまでの、対比です。

恐らくそこは、弟子たちや群衆たちの、怒号が飛び交う、騒然とした場になったと思います。

しかし、そんな中、主イエスお一人が、静かに、その場に、身を委ねておられます。

ここでの、主イエスのお姿は、父なる神様に、完全に、自らを明け渡した、お姿です。

血の汗を流すような、激しい祈りの末に、「父よ、あなたの御心が、なりますように」、という祈りに、導かれた後の、お姿です。

この周囲の騒々しさと、主イエスの静けさとの、対比のピーク。それが、10節、11節です。

ペトロが、大祭司の手下に、切りかかって、右の耳を切り落とした出来事です。

なぜペトロは、剣を振ったのでしょうか。色々な理由を、考えることが出来ます。

しかし聖書は、ペトロが、なぜ剣を抜いたか、ということには、興味を持っていません。

ただ、主イエスのお言葉を、記しているだけです。主イエスは、静かに言われました。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。

ルカによる福音書では、剣を用意させたのは、主イエスご自身であった、と書かれています。弟子たちが、「ここに二振りの剣があります」、と言うと、主イエスは、「それでよい」と言われた、と書かれています。

なぜ主イエスは、大勢のローマの兵士に対して、たった二振りの剣で、十分だと言われたのでしょうか。実は、この剣は、初めから、戦うために、用意させたものではなかったのです。

主イエスは、「剣をさやに納めなさい」、と言われました。マタイによる福音書では、それに続けて、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」、と語られています。

この時の剣は、弟子たちに、剣を抜かせないことを、学ばせるための、剣であったのです。

目の前にある問題や、危険に対して、あなたは、剣を用いてはならない。武力や暴力を用いてはならない。それは、正しい問題解決の方法ではない。

まことの力と、まことの正しさを、持っておられる、父なる神様にのみ、問題解決の鍵がある。だから、まず、父なる神様に祈って、問題解決の道を、尋ねなさい。それこそが、正しい方法なのだ。主イエスは、そのことを、示そうとされたのです。

ちょっと横道に逸れますが、この時、ペトロに、耳を切り落とされた、マルコスという、大祭司の手下について、リチャード・ボルカムという聖書学者が、こんなことを言っています。

先に書かれた、マタイ、マルコ、ルカの福音書では、この人の名前は、書かれていない。

それなのに、ずっと後になって書かれた、ヨハネによる福音書だけが、この人の名前は、マルコスであった、と書いている。何故だろうか。

恐らく、この人は、この出来事の後、クリスチャンになったのだろう。

こともあろうに、大祭司に仕えていた者が、キリスト者になった。そんなことが、公になれば、大問題となる。そして、ユダヤ人たちから、命を狙われるようになるだろう。マタイ、マルコ、ルカの福音書が、書かれた時、この人は、未だ生存していたのではないだろうか。

だから、名前を公表する訳にはいかなかった。でも、ヨハネによる福音書が書かれた時には、もう天に召されていた。だから、名前を公表しても、良くなったのだろう。

ボルカムの推測が、事実かどうか、確かめる術はありません。しかし、初代教会が、厳しい迫害の中を、通ってきたことを考えると、頷けるような気がします。

ルカによる福音書によれば、マルコスは、切られた耳を、主イエスによって、癒された、とされています。この奇跡によって、彼は、主イエスを信じる者と、されたのかもしれません。

しかし、それだけでなく、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」、という、主イエスのお言葉をも、深く心に留めたのだと思います。

なぜ、このイエスという人は、このような混乱と、危険の中で、こんなにも静かで、平安でいられるのだろうか。なぜ、命の危険が迫る中で、自分を捕えに来た、敵を癒すという、愛の業を、行なえるのだろうか。

この人の、毅然とした静けさと、深い愛の業の、背後には、一体何があるのだろうか。

是非、それを知りたい。彼は、そう思ったのではないでしょうか。だから、クリスチャンになったのではないでしょうか。

さて、今朝の御言葉には、「裏切られ、逮捕される」、という小見出しが、付いています。

しかし、この箇所を、丁寧に読みますと、父なる神様が、ご自身のご計画を、実行するために、ユダを用いて、裏切らせ、兵士を用いて、逮捕させたのだ、ということが分ります。

そして、主イエスは、その父なる神様のご計画に、完全に従って行かれたのです。

ここで、主イエスが、対面しておられるのは、ユダや兵士ではなく、父なる神様なのです。

「裏切る」、という言葉は、「引き渡す」とも、訳せる言葉です。主イエスは、父なる神様のご計画に従って、引き渡されたのです。

カトリックの司祭で、ハーバード大学の教授でもあった、ヘンリ・ナウエンという人が、このようなことを言っています。

「引き渡される出来事によって、主イエスの生涯は、明確に二つに分けることができます。

その内の前半は、活動的なことで占められています。

そこで主イエスは、すべてのことを、率先して行っておられます。主イエスは、メッセージを伝え、癒しを行い、旅をしておられます。

しかし、一旦、引き渡されるや否や、他人のなすがままに、なってしまわれました。

捕らえられ、祭司長の所に導かれ、ピラトの前に連れ出され、茨の冠をかぶらされ、十字架に釘付けにされました。ご自分で何かをしようとはされず、すべて他人まかせでした。」

ヘンリ・ナウエンは、そう述べた後で、続いて、私たちの人生に、そのような主イエスのお姿を、適用して、更にこう語っています。

「主イエスの生涯は、自分の人生を、自分の思い通りに、操作しないことが、人間のあり方として、大切である、ということを教えています。主イエスの、そして、私たちの本分は、能動においてだけでなく、受動、即ち、待ち望むことにおいても、全うされるのです。」

ヘンリ・ナウエンは、神様のご計画に、全き信頼を置いて、そのご計画に、身を委ねて生きることの、大切さを語っています。そして、この時の主イエスは、まさにそうでした。

私たち人間を、罪の滅びから、救おうとされる、父なる神様のご計画に、完全な服従をもって、応えていこうと、されておられたのです。

「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。この言葉は、その決意を示しています。

この杯とは、十字架のことです。父なる神様から、裁かれ、呪われ、見捨てられて、滅ぼされることです。言い換えれば、私たちの罪に対する、父なる神様の、裁きの杯です。

その杯が、主イエスの前に、差し出されているのです。その杯を飲む、ということは、父なる神様の裁きを、私たち人間に代わって、その身に引き受けることです。

父なる神様は、それを飲んで欲しいと、主イエスに、依頼されたのです。そして、主イエスは、その父なる神様の御心を、受け入れて、従って行かれたのです。

罪のない神の御子が、その杯を、飲んでくださった。それによって、罪ある私たちが、それを飲まずに、済んだのです。

父なる神様のご計画に、主イエスが、完全な服従をもって、応えてくださったからです。

ある教会での話です。「死んで三日目に復活することが、分かっているなら、私だって死ねる」、と豪語した、求道者の方が、いたそうです。でも、結局、その人は、信仰を持つには、至らなかったそうです。父なる神様のご計画に、絶対的な信頼を持って、従うという事は、そんなに簡単な事ではないからです。

「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。主イエスが、静かに語られた、このお言葉。この言葉は、絶対的な信頼と、完全な服従の言葉なのです。

その静かな決意をもって、主イエスは、前に進み出られました。

この時、主イエスは、具体的には、ユダと、兵士の一隊に対して、進み出たのですが、実際は、父なる神様の御心に従って、十字架に向かって、進み出られたのです。

ナザレのイエスは、どこにいるのか、と捜す人たちに対して、主イエスは、「わたしである」と答えておられます。「わたしである」。原文では、「エゴー・エイミー」という言葉です。

「エゴー・エイミー」。この言葉には、「わたしは神である」と、いう意味が含まれています。

主イエスが、神としての、ご自分の存在を、宣言されておられるのです。

「わたしである」と、名乗り出られたことによって、神としての、ご自身の存在を、はっきりと、宣言されておられるのです。

私が、ここにいる。まことの人となった、まことの神である、私がここにいる。

「わたしである。エゴー・エイミー」、という言葉は、そのことを示す言葉なのです。

「わたしである」。この力ある御言葉に打たれて、人々は、後ずさりして、地に倒れました。

主イエスが、手で押し倒したのではありません。御言葉の力が、押し倒したのです。

そのように、主イエスとは、力に溢れておられる、お方なのです。今日のキリスト者は、この主イエスのお姿を、見失っているのではないか、とふと思うことがあります。

今、多くの人が抱いている、主イエスのイメージは、悲しみや、悩みの中にいる、私たちに、寄り添ってくださるお方。悲しみ、悩みを、共有してくださり、共に泣いてくださるお方。

そのような、慰め主としての、主イエスのイメージではないでしょうか。

そのイメージは、大切です。決して間違ってはいません。しかし、主イエスは、それだけのお方なのでしょうか。

十字架の主イエスは、実にしばしば、ただ弱い主イエス、無力の主イエス、絶望の主イエスとして、描かれます。まるで、消えてしまいそうな、弱い主イエスとして語られています。

それが、現代人の好む、イエス像になっています。

確かに、私たちが、弱さの故に、うずくまっている時、その傍らに、主イエスは、間違いなくいてくださいます。共にいてくださいます。それは確かです。でも、その時、私たちは、主イエスも、私たちと同じように、弱い存在である、と思ってしまうことは、ないでしょうか。

共に悲しみ、共に悩み、共に涙してくださる、主イエス。その主イエスから、慰めを得る。

これは、素晴らしい恵みです。決して、間違った、キリスト理解ではありません。

しかし、主イエスのことを、ただ、それだけのお方である、と捉えてしまうなら、それは正しくありません。

確かに、主イエスは、私たちと、共に悲しみ、共に泣いてくださるお方です。

そこから慰めを得るのは間違っていません。しかし、救いは、それだけではありません。

うずくまっているだけでは、救いになりません。それだけでは、立ち上がれません。

立ち上がらないで、うずくまったままでいるのが、キリスト者の姿ではありません。それは、本当に救われた者の、姿であるとは言えません。

もし今日、多くのキリスト者が、そのような意味において、立つことができないとするなら、それは、主イエスの、この力に溢れたお姿に、目を向けていないからです。その力強い御言葉を、信じないからです。

確かに、主イエスは、私たちの弱さを、分かってくださり、私たちの弱さに、どこまでも、寄り添ってくださるお方です。しかし、私たちと同じように、弱いお方ではありません。

主イエスは、弱い私たちの傍らに、いてくださいます。私たちより、もっと低いところにも、いてくださいます。しかし、まさにそこで、主イエスは、強いのです。

私たちの嘆きに、声を合わせて、泣いてくださるだけの、お方ではありません。

私たちの賛美に値する、力強いお方でもあるのです。栄光に満ちたお方なのです。このことを、見失わないように、したいと思います。

その主イエスが、8節で、このように語っておられます。「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」。この人々とは、そこにいた、弟子たちのことです。

主イエスは、ここで、弟子たちを、守ってくださっています。私は、これから、捕らえられ、裁かれ、鞭打たれ、十字架にかけられる。それを、私は、進んで受け入れる。

でも、この者たちは、ここから、立ち去らせてもらいたい。同じ裁きの場に、立つことが、ないようにしてもらいたい。主イエスは、そう言われているのです。

しかし、実は、ここで、主イエスが、本当に、問題にしておられるのは、大祭司やピラトによる、人間の裁きではなく、父なる神様の裁きなのです。

弟子たちが、そして、私たちが、神様の裁きの場に、立たされたなら、私たちは、罪の故に、間違いなく、滅びの宣告を受けるのです。

主イエスは、ここで、そのような裁きの場から、弟子たちを、そして、私たちを、去らせようと、してくださっているのです。

「この人々は去らせなさい」。この言葉は、直接には、主イエスを、捕らえに来た人々に、語られた言葉です。しかし、それは、同時に、父なる神様に、語られた言葉でもあるのです。

この時、主イエスの命を、求めておられたのは、実は、父なる神様ご自身なのです。

その父なる神様に向かって、「この人たちを去らせてください」、と主イエスが、願っておられるのです。私たちを裁かれる、父なる神様の前に、主イエスが、立ちはだかって、「この人たちを去らせてください」、と主イエスが、執り成してくださっているのです。

もし、この主イエスの、執り成しの言葉が、なかったならば、弟子たちも、そして、私たちも、十字架につけられていたのです。

ゴルゴダの丘に、もっと多くの、それこそ無数の十字架が、立てられることになったのです。

私たちが、十字架につけられないで、済んだということは、主イエスが、そこに立ってくださったからです。

そんな私たちに対して、主イエスは言われるのです。あなた方は、ここにいる必要はない、行きなさい。私が、あなた方に代って、ここに、このゴルゴダの丘に、立つから。

本当は、あなた方が立つべき、この場所に、私が立つから、あなた方は行きなさい。

ですから、「この人々を去らせなさい」、という御言葉には、主イエスの、十字架に対する、決意が込められているのです。十字架を受け入れられた、主イエスの愛が、込められているのです。これは、まさに、私たちを、解き放ってくれる言葉なのです。

この言葉の中に、私たちの救いがあります。私たちの希望があるのです。

このことを、今一度覚え、心から、主に、感謝したいと思います。