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過去の礼拝説教

「民の代わりに死なれたお方」

2017年09月24日 聖書:ヨハネによる福音書 18:12~24

皆さん、突然ですが、暫しの間、目を閉じて、黙想してみてください。

あなたが、日頃イメージしている、主イエスのお姿を、想い起してください。

あなたは、今、その主イエスの、すぐ目の前にいます。主イエスの、ごく近くにいます。

ほとんど、主イエスに、触れられるほど、近くにいます。主イエスの息遣いが、あなたの頬に、感じられます。その時、あなたは、どのような気持ちになるでしょうか。

きっと、聖なる畏れと、息苦しいほどの緊張感に、覆われると思います。しかし、また同時に、言いようのない喜びと、大きな感動に、満たされるのではないでしょうか。

自分が、主イエスに、触れることができるほど、近くにいる。想像しただけでも、ワクワクしてこないでしょうか。

今朝の御言葉は、こう語り出しています。「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。」

ここに、「イエスを捕らえて縛り」、という言葉が出て来ます。

この短い言葉について、古代教会の指導者であり、神学者でもあった、アウグスティヌスという人は、こういうことを言っています。

主イエスを捕えて縛る。それをした者は、今、主イエスに近づいている。こんなに近づくことはできない、と思うほど、近くある。離れていては、縛ることはできないからだ。

しかし、主を殺すためではなく、この方を、心から受け入れるために、近づくのであれば、どんなに良かったことだろうか。

アウグスティヌスは、主イエスを、受け入れるために、近づく者は、幸いだと言っています。

皆さん、私たちは、主イエスに、少しでも近づきたい、と願っています。そうですよね。

でも私たちは、主イエスを、縛り上げて、殺すために、近づいているのではありません。

主イエスを、受け入れるために、近づいています。主イエスを縛るためではなく、逆に、主イエスによって、罪の縄目から、解き放たれて、自由に生きるために、近づいています。

アウグスティヌスは、そんな私たちのことを、何と幸いな者であるか、と言っているのです。

今朝、私たちは、そのような幸いに、生かされていることを、改めて覚えて、心から感謝したいと思います。

今朝の御言葉には、アンナスによる裁判と、その裁判の場に紛れ込んだ、ペトロのことが、記されています。ペトロについては、来週、ご一緒に、御言葉から聴いていきたい、と思いますので、今朝は、アンナスによる裁判に絞って、お話しをさせて頂きたいと思います。

13節に、「まずアンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司、カイアファのしゅうとだったからである」、と書かれています。

アンナスは、カイアファと並んで、しばしば、その名が挙げられています。ルカによる福音書の3章や、使徒言行録の4章には、「アンナスとカイアファが大祭司であったとき」、と記されています。二人が、同時に、大祭司であったかのように、書かれています。

しかし、実際には、この時、アンナスは、大祭司の職に、あった訳ではありません。

記録によりますと、アンナスは、紀元6年から15年まで、大祭司の職にありました。

しかし、主イエスの逮捕の時には、大祭司ではありませんでした。

自分の娘婿の、カイアファが、大祭司の職にあったのです。しかし、実際には、アンナスの方が、カイアファよりも、力を持っていたようです。

アンナスは、謂わば、名誉大祭司ともいうべき、陰の実力者であったのです。

彼は、長期に亘って、陰の実力者として、大きな権力を、持ち続けました。

退位した後、彼は、二人の息子を、相次いで、大祭司にしました。しかし、この二人は、アンナスの意に沿わなかったようで、二人とも、短期間で交代させられています。

そして、娘婿のカイアファを大祭司にして、自分が、裏から糸を引いて、操縦したのです。

どうして、アンナスは、それ程の権力を、長きに亘って、持つことができたのでしょうか。

それは、ローマ皇帝や、高官たちに、多額の賄賂を、贈り続けていたからです。

皆さんは、主イエスによる、エルサレム神殿の、「宮浄め」の出来事については、よくご存知のことと思います。

当時、神殿の「異邦人の庭」、と呼ばれる場所において、市場が開かれていて、商売が行なわれていたのです。そこには、両替人もいました。なぜ両替が、必要であったのでしょうか。

神殿に納めるお金は、普段使われている、ローマのお金ではなくて、ディルスと呼ばれる、古いユダヤの通貨でなければならない、と定められていたからです。

この両替には、法外な手数料が、徴求されました。

また、神殿に献げる、犠牲の動物は、献げ物として相応しいかどうかを、祭司に調べてもらって、許可されたものしか、献げることが出来ませんでした。

外で安く買った動物を、献げようとしても、神殿の検査官は、何かと言いがかりをつけて、許可しませんでした。

結局、神殿で売られている動物を、法外な値段を払って、買うしかなかったのです。一説によると、鳩は、神殿の外の値段の、15倍もの高値で、売られていたと伝えられています。

神殿の陰の実力者である、アンナスは、これらの商いの、免許を与えることによって、莫大な利益を、得ていたのです。

そして、その利益を、ローマ皇帝や、高官たちへの、賄賂に使っていたのです。

民衆は、そのことに、薄々気付いていました。ですから、いつしか、この市場は、『アンナス市場』、と、呼ばれるようになったそうです。

主イエスは、この市場での、不正な取引を、激しく憤られて、両替商や、動物を売っている人たちの台を、ひっくり返した、と聖書は伝えています。

ですから、アンナスにとっては、主イエスは、極めて目障りな存在だったのです。何とかして、排除したい人物だったのです。

そのアンナスは、まず弟子たちについて、主イエスに尋問しました。

具体的に、何について尋ねたのか。それは、記されていませんので、分かりません。

しかし、分かっていることは、主イエスが、何もお答えにならなかった、ということです。

弟子たちのことについて、問われても、主イエスは、ただ沈黙されて、おられました。

そうすることによって、弟子たちを、守ろうとなさったのです。

ゲツセマネにおいて、捕らえられた時も、そうでした。ご自身の方から、進み出られて、「私が、あなた方が捜している、イエスである。だから、この人々は去らせなさい」、と言われて、弟子たちを逃がされました。

自分を見捨て、逃げてしまった、弱い弟子たちを、どこまでも、守ろうとされたのです。

この、主イエスのお気持ちは、一貫して、変わることは、ありませんでした。

私たちの羊飼いである、主イエスは、そのように、羊である弟子たちを、そして、私たちを、どこまでも、守ってくださるお方なのです。

このようなお方を、「わが主」と、呼ぶことのできる幸いを、感謝したいと思います。

第二の質問は、主イエスの教えに、関するものでした。

主イエスはその問いに対して、こう答えられました。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」

主イエスは、ここで、アンナスの尋問の不当性を、明らかにされています。

当時のユダヤの裁判では、被告人を、保護するシステムがありました。

被告人を告発する際に、証言者を立てるのは、告発した側の責任でした。

ですから、主イエスの教えについても、教えた本人である、主イエスに、その内容を、問うことは、不当だったのです。

もし、証言者が、立てられていないにもかかわらず、逮捕したとするならば、むしろ逮捕した側に、責任が生ずることになったのです。

もし、彼らが、主イエスの教えについて、証言を得たいと思うなら、教えを聞いた人たちを、証人に立てて、その人たちに、尋ねるべきであったのです。

この時のアンナスの尋問は、裁判の手続きにおいて、明らかに、不当であったのです。

ですから、アンナスは、主イエスのお言葉に、何も反論することが、できませんでした。

このアンナスによる裁判でも、その後の、ピラトによる裁判においても、主イエスは、実に堂々としておられます。

一体、裁かれているのは、どちらだろうか、と思うほどに、実に、毅然としておられます。

ところが、そういう裁判の手続きを、知らなかった、下役の一人が、大祭司が、不当に卑しめられたと誤解して、暴力を振ってしまいます。「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」、と言って、主イエスを、平手打ちにしたのです。

これに対しても、主イエスは、毅然として、言われました。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか」。

皆さんの中には、この主イエスのお言葉を、意外だと、思われる方が、おられるかもしれません。主イエスは、山上の説教で、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けなさい」、と教えられた。でも、ここでは、主イエスは、左の頬を向けずに、反論されているではないか。

仰っていることと、違うではないか。そう思われた方が、おられるかもしれません。

確かに主イエスは、暴力に、暴力をもって、対抗することを、厳しく戒められました。

暴力を振るうことを、徹底して、排除されました。しかし、それは、不正を見逃皆さんもしてもよい、という事ではありません。

主イエスほど、正しい事と、正しくない事を、はっきりと、区別された方はおられません。

その最たる出来事が、十字架です。人間の罪は、決して見逃すことは、できないのです。

不正は、裁かれなければ、いけないのです。

でも、主イエスは、言われるのです。「私は、罪の中にいる人間を、尚も愛さずにはおられない。何とかして、罪ある人間を、赦したい、救いたいのだ。

そのためには、自分が、人間の罪を負って、代って死ぬ他ない。」

そうなのです。十字架は、不正を見逃すことができない、主イエスが採られた、究極の愛の御業であったのです。

主イエスは、自分を打った者に、その正当性の根拠を求めました。

しかし、この訴えは、主イエスを殴った下役に、向けられただけではなく、それを止めようともせずに、見過ごしていた、アンナスにも、向けられていました。

大祭司の役目とは、神様と人間との間の、執り成しをすることです。国民全体を代表して、一年に一度、罪の贖いの、犠牲をささげて、執り成しをするのが、大祭司です。

でも、いくら犠牲をささげても、罪を赦されたという、確信を持つことが、出来ませんでした。

ですから、毎年、繰り返して、犠牲の動物を、ささげ続けなければ、ならなかったのです。

しかし、主イエスは、ご自身を、十字架にささげて、全ての人の罪の、執り成しをされました。

一度にして、完全な贖いを、成し遂げてくださったのです。

ですから、主イエスこそ、神様と人とを執り成す、まことの大祭司なのです。

ここでは、二人の大祭司が、対峙しています。この世の大祭司アンナスと、まことの大祭司主イエスです。一体、どちらの罪が、明らかにされているでしょうか。答えは、明らかです。

この時、主イエスは、平手で打たれても、打ち返そうとは、しておられません。

この世の暴力に対して、主イエスは無力です。

神の愛そのものである、主イエスは、全く無力です。今、神の愛は、縛られています。

平手で叩かれています。私たちの救いが、打ち叩かれています。

一体、誰によってでしょうか。ここで、神の愛を、打ち叩いているのは、誰なのでしょうか。

アンナスであり、その配下にある、ユダヤ人たちでしょうか。

確かに、直接には、彼らが、神の愛を、平手で打ち叩いています。神の愛を、自己中心的な思いで、裁いています。でも、裁いているのは、彼らだけでしょうか。

彼らだけだ、と思うなら、それは間違いです。そうではありません。

彼らだけでなく、私たちも、主イエスを、裁いているのです。たとえ、キリスト者であったとしても、私たちは、主イエスを、絶えず、裁いているのではないでしょうか。

主イエスが、自分を喜ばせてくれる、神であるか。自分を正しいと認めてくれる、神であるか。自分を祝福してくれる神であるか。自分にとって、役に立つ神であるか。

そういう思いをもって、主イエスを、裁いている、ということはないでしょうか。

人類は、その初めから、神様に文句を言って、神様を責めています。

最初の人アダムは、「あなたが、私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」、と言っています。

自分の罪を、棚に上げて、「神様、あなたが悪いのです」、と言って、神様を裁いています。

裁かれるべき人間が、裁き主である神様を、逆に、裁いています。それが、私たち人間の姿です。

14節に、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」と、カイアファが助言した、と記されています。

「好都合」と訳されている言葉は、自分たちの利益になる、という意味の言葉です。

果たして、神様は、自分にとって、役に立つ存在であるか。そういう思いをもって、いつも、神様を裁いている。そんな人間の心に、つけ込むようにして、カイアファは言うのです。

役にたたない神なら、いない方が、都合がいいぞ。いない方が、私たちの利益になるぞ。

私たちも、うっかりすると、都合がいいと、思っている間だけ、神様を見上げていて、都合が悪くなったら、神様から目を逸らせてしまう。そういう信仰に、生きていないでしょうか。

主イエスによって、解き放たれているのではなくて、逆に、主イエスを縛って、自分たちの都合のいい方向に、連れ回してしまう。

そんな風に、主イエスを、取り扱っては、いないでしょうか。

私たちは、自分の勝手な思いで、神様を裁くという、とんでもない罪を、犯しています。

神様を縄で縛って、自分の都合の良い方へ、連れ回そうとしています。

それにも拘らず、神様は、そんな私たちを、尚も愛してくださり、独り子を与えてくださったのです。そして、その独り子が、私たちに代って、裁かれることによって、私たちが、裁かれなくても、済むようにしてくださったのです。

カイアファは、一人の人間が、民の代わりに死ぬ方が、好都合だと、言いました。

一人の人が死んで、民全体が、滅びないで済むならば、それが、一番善いことなのだ、と言ったのです。

民衆が、主イエスの、力ある奇跡に興奮して、無謀にも、ローマ帝国からの、独立運動でも、起こそうとしたら、逆に、強大なローマに、一瞬にして、滅ぼされてしまう。

だから、そんな危険な人物は、死んだ方が良い。そうすれば、民全体が、滅びなくて済む。

このカイアファの言葉は、全く人間的で、政治的な意図から、出たものです。

しかしヨハネは、その言葉の中に、神様の救いのご計画を、聞き取っています。

主イエスが、人間の罪を贖うために、ご自身の命を、十字架に捨てられる。

この救いのご計画が、カイアファの口を通して、ここで語られている、と捉えているのです。カイアファは、自分でも気付かない内に、神の言葉を伝える、大祭司としての、役目を果たしているのです。いみじくも、ここで、主イエスの、十字架の意味を、語っているのです。

自分たちが、死ななくても済むために、あのイエスという男に、死んで貰ったらいい。

このカイアファの言葉は、恐ろしく、自分勝手な考えです。

しかし、そのような、自分勝手な言葉が、実は、主イエスの、十字架の死の、深い意味を、明らかにしているのです。

「私が死ななくても済むために、イエス様、あなたが死んでください。」 何という、恐ろしい、自分勝手な言葉でしょうか。「私が死ななくても済むために、あなたが死んでください。」

もし、皆さんが、誰かから、こんなことを言われたら、どう答えられるでしょうか。そんなこと、絶対に嫌ですと、言われると思います。

でも、実際に、私たちが、死ななくても済むために、主イエスは、十字架に死んでくださったのです。本当に自分勝手な、私たちの思いをも、神様は受け止めてくださり、救いの御業を、成し遂げてくださったのです。

私が死ななくて済むために、イエスは死ぬべきだ。このカイアファの言葉は、神様に敵対する、恐るべき言葉です。

しかし神様は、こんな悪意に満ちた言葉さえも、用いられて、救いの出来事を、予告されたのです。神様は、敵対者をも、用いられて、ご自身のご計画を進められます。

これは、もう、私たちの知識が、到底及ばない、本当に大きな、恵みのご計画です。

私たちは、この恵みの内を生きることを赦されているのです。

この恵みを心から感謝したいと思います。