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過去の礼拝説教

「助けの石なる主」

2017年11月05日 聖書:サムエル記上 7:2~12

今朝は、茅ヶ崎恵泉教会創立66周年を記念する礼拝を、ご一緒に献げています。

この66年間に、神様が注いでくださった、計り知れない恵みに、感謝する時を持っています。この朝、与えられた聖書の御言葉は、旧約聖書サムエル記上の7章です。その中でも、特に12節が、創立記念礼拝の御言葉として、示されました。

「サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、『今まで、主は我々を助けてくださった』と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。」

私が、この教会に遣わされてから、まだ4年半しか経っていません。ですから、私自身の、この教会の歴史に関する知識は、まことに乏しいと言わざるを得ません。

しかし、その乏しい知識をもって、私なりに、この教会の、これまでの歩みを、振り返ってみますと、「今まで、主は我々を助けてくださった」という御言葉が、本当に心に迫ってきます。

ここにある「今まで」という言葉は、「今、この時に至るまで」、という意味を含んだ言葉です。

「今、この時に至るまで、主は我々を、助け続けてくださった」。

そのような、意味が込められた言葉です。そして、更には、「だから、主は、これからも必ず、私たちを、助けてくださるに違いない」、という願いが、込められた言葉です。

今朝、私たちは、この茅ケ崎恵泉教会を、今に至るまで、瞳のように守って下さり、慈しみの御翼の陰に、覆い続けてくださった、主の深い愛を覚え、その御前に、ひざまずいて、心からの感謝を、ささげていきたいと思います。

そして、「主よ、どうか、これからも、今までと変わらない、いえ、それ以上の導きと助けを、私たちに与えてください。あなたにのみ、私たちは、より頼み、あなたにのみ、私たちは、期待します」と、心を合わせて祈り、願っていきたいと思います。

先程、読んで頂きました、サムエル記上7章の時代背景は、現在、私たち、茅ヶ崎恵泉教会が置かれている、状況とは大きく異なります。

しかし、主の御心に沿わぬ者であるにも拘らず、人の思いを遥かに超える恵みを、主が、注いでくださり、助けてくださった、という点においては、共通しています。

そのことを覚えつつ、与えられた御言葉から、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。

7章の出来事が起きたのは、紀元前11世紀頃です。ですから今から3100年も前の事です。その頃、イスラエルの主権は、実質的に、宿敵ペリシテに握られていました。

7章の出来事よりも、20年程前、イスラエルは、ペリシテに戦いを挑みました。

その時、十戒を納めた、主の契約の箱を、先頭に立てて、イスラエル軍は進軍しました。

しかし、これは、心から、全能の神様に信頼して、信仰を持って進んだ、ということではなかったのです。イスラエルの人々は、主の箱を、偶像の様に取り扱っていたのです。

確かな信仰がないにも拘らず、この箱さえあれば、神様は私たちを守ってくださる、という迷信的な考えに頼っていたのです。

主の箱に、収められている御言葉と、それを通して示される、神様の御心こそが、重要であった筈です。大切なことは、一人一人が、その神様を、心の内にしっかりと、捉えていることであったのです。そして、その神様の、全能の御力を、心から信じて、御心に従っていくことであったのです。

しかし、イスラエルの人々は、異教の偶像と、主の箱とを、同列に置いてしまったのです。

神様との、魂の交流がないままに、主の箱を、ただ迷信的に用いて、戦いの道具としてしまったのです。

この時、イスラエルにとって、本当に必要であったのは、主の箱に、魔術的な力を期待すること、ではありませんでした。或いは、馬や、戦車や、武器でも、ありませんでした。

彼らが、まことに必要としたのは、生ける神ご自身であったのです。その主に対する、混じり気のない、確かな信仰であったのです。

しかし、イスラエルの人たちは、そのことに気が付きませんでした。

一方のペリシテの人々は、主の箱を前面に打ち立てて、進んでくるイスラエル軍を見て、恐れを抱いて、言いました。「これは大変だ。あのエジプトから、イスラエルの民を救い出した、力ある神が、先頭に立って進んでくる。それなら我々は、彼らを上回る決意をもって、戦わなければならない」。そう励まし合って、気を引き締めて、戦ったのです。

主の箱を、偶像の様に取り扱って、確かな信仰もないままに、進んだイスラエルと、決意をみなぎらせて、それを迎え撃ったペリシテ。どちらが、優勢であったかは、明らかでした。

イスラエルは、戦いに大敗し、主の箱は、敵に持ち去られてしまったのです。

その敗戦から、20年の歳月が流れました。7章2節の御言葉は、こう言っています。

「主の箱がキルヤト・エアリムに安置された日から時が過ぎ、20年を経た」。

主の箱は、20年間も放置されたまま、顧みられることなく、空しく月日が流れたのです。

その間のことを、聖書は何も記していません。ペリシテに支配され、希望もなく、生活も心も、荒れ果てていた、暗黒の時代です。

しかし、その20年という苦難の時を経て、漸く、イスラエルの家は、こぞって主を慕い求めるようになったのです。人間とは、そのように、愚かで、鈍い者なのです。

人々は20年間も、契約の箱のことを、放っていたのです。主の箱など、あってもなくても、どうでもよいような、生活を送っていたのです。

しかし、苦難が極った時に、漸く主を慕い求めるようになります。暗黒の時代の夜明けでした。夜明けの宣言は、預言者サムエルの説教で、始まりました。3節です。

「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」

サムエルは、「心を尽くして主に立ち帰れ」、と言いました。それは、あなた方の心の中にある、偶像の神々を取り除け、ということを意味していました。

もともと、神様との魂の交流は、稀薄であった信仰です。しかし、神殿の中心から、契約の箱が消えてしまったとき、他の神々が、中心に居座るように、なっていったのです。

心という神殿に、いつの間にか、神ならぬ神々、様々な偶像が、居座るようになります。

それは、3千年前も、現代も変わりません。私たちも、ちょっと油断すると、心の中心にいた筈の神様に替わって、他のものが、心の中心に居座るようになってしまう、ということを経験しています。成功という神や、欲望という神や、快楽という神が、王座に居座るようになってしまうのです。私たちの信仰生活にも、そのようなことが、起こり得るのです。

今、人々は、人間の力に頼り、「力は正義である」、と叫んでいます。このような時こそ、まことの神様を、心の中心に、しっかりと捉えていなければ、ならないと切に思います。

私たちにとって、必要なのは、限界のある人間の力ではなく、全能の神ご自身です。

そして、私たちが、このお方を迎えるために、必要な事はただ一つなのです。

それは、自分の内から、神ならぬ神々を、捨て去ることです。

クリスチャンドラマの制作の、パイオニアと言われている、ハロルド・エーレンスペーガーという人がいます。

彼は、宗教ドラマの実感を体験するために、ドイツ・アルプスの麓のオーバーアマガウという、人口5千人の小さな村に、有名な受難劇を見に出かけました。

そして、その村の、敬虔なルター派の家庭に、滞在しました。

受難劇の俳優たちは、すべて、その村の人たちの中から、選ばれます。

ドラマの監督は、人々をよく観察して、一人一人の人柄に、最もマッチしていると思われる、新約聖書のキャラクターを選びます。

エーレンスペーガーさんが滞在した家に、ヨハン(英語読みではジョン)という名の、10代の青年がいました。

ある日、この敬虔な青年は、エーレンスペーガーさんに、こう話したそうです。

「大きくなったら受難物語で、ヨハネ(英語でジョン)の役をもらいたいな。僕は、イエス・キリストの役を、演じるようには、なれないと思う。でも、一生懸命がんばって、ヨハネが愛したように、イエス様を愛するようになれれば、もしかしたら、ヨハネに選ばれるかもしれない」。

エーレンスペーガーさんとヨハンは、友だちになりました。

彼がアメリカに帰ってからも、数年間、文通が続いたそうです。

それから大きな変化が、ドイツに起こりました。ヒットラーが権力を握り、若者たちは、この「新しい指導者」に、従い始めました。

ジョンの手紙もまばらになり、とうとう途絶えてしまいました。数年間、ジョンからの便りは途絶えていました。そして戦争です。

ある日、一通の手紙が届きました。それは、1933年10月、ポーランドの消印でした。

喜んで封筒を開けましたが、中に手紙はありません。替わりに、ドイツの新聞の切り抜きが入っていました。そこには大きな写真が載っていました。

写真の中央で、笑顔で勝利に酔っているのは、手を高く挙げ、側近に囲まれたヒットラーです。エーレンスペーガーさんは、写真をじっと見つめました。

「ありえないことだ……。いや、確かにそうだ」

疑いはありませんでした。ヒットラーの隣りに立っているのは、あのジョンです。

背の高い、成長したハンサムな青年でした。そして親衛隊の制服を、着ていました。

エーレンスペーガーさんは、その写真をじっと見て、それからペンを取り、写真のヒットラーに矢印を付けて、英語で「イエス・キリスト」と書きました。そして、もう一つの矢印をジョンに付けて、「彼の愛する弟子ヨハネ」、と書きました。

ヨハンの心の中心にいた、主イエスが、いつの間にか、ヒットラーに、替わっていたのです。

これは、他人ごとではありません。私たちの心にも、起こり得ることなのです。

契約の箱が、神殿から消えてしまったとき、民は、他の神々に、仕えるようになりました。

私たちの心から、主を愛し、主に仕える、という熱い思いが、消えてしまったとき、その心に、神ならぬ神々が、居座り始めるのです。何にも居座っていない、ということはないのです。

必ず何かが、その心を支配しているのです。

いつの間にか、主イエスが、ヒットラーに替わっても、心を痛めずにいた、ヨハンでした。

むしろ、そのことに、誇りを感じて、新聞の記事を、多くの人に送っていたのです。

残念なことに、彼の心の神殿には、主イエスの愛とは、全く関係ない、いえ、正反対のものが、居座ってしまったのです。私たちの心が、そうならないように、私たちは、見つめるべきものを、確かに見つめ続けていきたいと思います。

イスラエルの人々の心に、神ならぬ神々が、居座りはじめて20年。どん底に陥った民が、漸く主を慕い求めたとき、サムエルは最初に、「偶像を取り除きなさい」と訴えました。

そこで「イスラエルの人々は、バアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕え」ました。

漸く、まことの主なる神様に、立ち帰ったのです。

それを見て、サムエルは言いました。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」

人々は、ミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食しました。

そして、その所で言ったのです。「わたしたちは主に罪を犯しました」。

民は、心から罪を悔い改めました。そして、偶像を取り除いて、「主に罪を犯しました」、と正直に告白したのです。

偶像を取り除き、罪を告白した人々に対して、サムエルは贖いの小羊を献げ、その罪の赦しを、祈りました。それは、礼拝において、私たちが罪を告白し、十字架を仰ぐのと同じです。

崩れていた主の祭壇を、もう一度築くこと。恵みから落ちたものが、恵みへ戻ろうとするとき、これ以外の方法はありません。本当に、これ以外にはないのです。

罪を悔い改め、真剣な祈りを献げ、神様を礼拝する。それしかありません。

それは、教会にとっても、個人にとっても、同じことです。

サムエルがミツパに民を集めている、と聞いたペリシテの人たちは、そこで軍事的な備えが、なされていると勘違いして、イスラエルに攻め上ってきました。

先の、ペリシテとの戦いに敗れたイスラエルは、鍛冶屋を持つことが許されず、剣や槍を作る自由を、奪われていました。

そのように武装解除されていたイスラエルが、攻めて来る強敵に、立ち向かえる唯一の武器。それは、ただ祈りだけでした。

祈りは神様への叫びです。神様へ向かって叫ぶのは、弱い人間のすることではありません。祈りは、力強い信仰の行為なのです。主に向かって、叫び続けるのが信仰なのです。

そして、主は、彼らの祈りに、応えられ、イスラエルは、勝利することができたのです。

イスラエルは、なぜ勝てたのでしょうか。それは主が、大きな雷鳴をとどろかせて、ペリシテ人をかき乱して下さったからです。では、いつ、そのことが、起きたのでしょうか。

イスラエルが、祈っている時でした。イスラエルが戦い始める前、つまり、イスラエルがまだ何もしていない内に、既に、ペリシテの敗北が、決定的になっていたのです。

この出来事の中で、決定的な行為を、行っているのは、主なる神様です。主が敵を滅ぼし、民を守ってくださったのです。人間が成したことは、信仰を持って、ただ祈ることだけでした。

先に、イスラエルは、主の箱を持ち出して、ペリシテと戦おうとしました。

しかし、今回は、そうしませんでした。何故、そうしなかったのでしょうか。

主の箱自体に、魔術的な力があるのではなく、守ってくださるのは、生ける神ご自身であることを、知ったからです。

武器を持たないイスラエルの民と、これを指導するサムエルの戦いは、現代における、教会の戦いを、象徴しています。教会による、信仰の戦いもまた、主の戦いです。

主の民である教会は、戦う武器を持っていません。ただ主に信頼し、祈りをもって、主の戦いに、参画していくのです。その時に、主の勝利がもたらされるのです。

会堂建築の業も、主の戦いです。何も持っていない私たちは、祈りをもって、この闘いを戦っていきたいと思います。私たちが、心を一つにして、祈っていくなら、主は必ず応えてくださり、勝利を与えてくださいます。そのことを信じて、進んで行きたいと思います。

祈りによる勝利を得たとき、サムエルは、主に感謝の記念碑を建てて、告白しました。

「今まで、主は我々を助けてくださった」。

「今まで」とは、この戦いの勝利だけではなく、その前の20年の、苦難の時代も含まれています。いや、もしかしたら、サムエルは、アブラハムから始まる、イスラエルの全歴史を、想い起していたのかもしれません。

そのすべてを振り返ったとき、神の人サムエルの口から出てきた言葉がこれです。

「今まで、主は我々を助けてくださった」

敗北と、その後の試練の時、暗黒の時代。それらを、全部ひっくるめての「今まで」です。

そして、主は、これからも、必ず助けてくださる。民の信仰は、おぼつかないものであっても、サムエルは絶大な信頼を、主に寄せていました。

この信仰と祈りがあったので、サムエルの指導の下で、イスラエルは、この後も守られていったのです。サムエルは神様を礼拝することを喜びとし、神様を第一としました。

それ以外に、彼の策はありませんでした。

そのように祈るサムエルを、主は豊かに祝福されたのです。

今、私たちは、茅ケ崎恵泉教会の、創立66周年を記念する、感謝の礼拝を献げています。

今朝、私たちは、同じ御言葉を、自分自身の告白として、口にすることができるのではないでしょうか。

66年の歩みを振り返る時、そこには色々なことが、あったと思います。楽しい時、喜びの時だけでなく、失望した時、落胆した時、試練の中で、主に叫んだ日々もあったでしょう。

しかし主は、それらすべてにおいて、私たちを助けてくださいました。そして、その実りとして、今朝、私たちは、このように、感謝の礼拝を、献げる恵みに、与らせて頂いているのではないでしょうか。

ですから、今朝、私たちは、口を揃えて、告白することができるのです。

「今まで、主は我々を助けてくださった。」

サムエルと同じように、私たちは、今朝、それぞれの、心の中に、エベン・エゼル「助けの石」の記念碑を、打ち立てたいと思います。

そして、「今に至るまで、主は、茅ヶ崎恵泉教会を、助けてくださった。そして、これからも、必ず助けてくださることを信じます」、と共に告白したいと思います。

私たちが、心からの、祈りと感謝を、献げていくならば、エベン・エゼル「助けの石」は、決して倒れることも、くずれることもありません。

今に至るまで、私たちを助けてくださった主は、これからも、私たちの「助けの石」でいてくださいます。そのことを信じて、67年目への歩みを、ご一緒に踏み出したいと思います。