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過去の礼拝説教

「皆、キリストにあって一つ」

2017年12月17日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3:21~29

今朝は、アドベント第三主日の礼拝を、ご一緒に献げています。

希望のロウソク、平和のロウソクに続いて、喜びのロウソクに、火が灯されました。

クリスマスは、神様との間に、平和の道が整えられたことを、喜ぶ時です。

平和とは何でしょうか。様々な定義が考えられるでしょう。しかし、最も簡潔な言い方をすれば、敵対していたものが、和解することである、と言えると思います。

そうしますと、神様と私たちの間に、平和がもたらされた、ということは、神様と敵対していた私たちが、神様と和解した、ということになります。

神様と敵対していた私たちが、神様と和解して、神様との間に、平和が実現した。

暗闇に希望の光が灯された。そのことを喜ぶのが、クリスマスなのです。

そう言いますと、世の中の、ほとんどの人は、「私は、別に、神様と敵対した覚えなどない。神様と争ったことなんかない」、と言われると思います。

そもそも、私は、無神論者で、神の存在自体を、認めていないのだから、敵対しようがないではないか。そのように言われる方も、おられるでしょう。

或いは、逆に、私は、信心深いから、いくつもの宗教を信じている。様々な神様を拝んでいる。だから、神様に敵対することなど、あり得ない、と言われる方もおられるでしょう。

しかし、実は、そのような状態こそが、聖書が言う、神様に敵対している状態なのです。

親にとって、最も辛い言葉は、一体何でしょうか。手塩にかけて育てた、愛する子どもから、「お前なんか親じゃない。お前なんか親と思わない」、と言われることではないでしょうか。

親の存在を認めないこと。これが、最も親を悲しませる、敵対行為です。

或いは、妻がありながら、その妻を無視して、何人もの他の女性を愛する、ということがあれば、それこそ、妻に対する裏切りとなり、最も妻を悲しませる、敵対行為となります。

神を認めず、他のものを、第一として生きる時、私たちは、神に敵対しているのです。

世の快楽や金銭を愛し、人からの誉れを愛する時、私たちは、神に敵対しています。

聖書は、それを、罪と言っています。

主イエスは、私たちの、そのような罪を贖うために、この世に来てくださいました。

主イエスは、一度も、罪を犯したことがないお方です。神様の御心を喜ばせることのみを、行なってこられたお方です。

そのお方が、罪に染まった私たちの、なれの果てとなって、私たちに代わって、神に呪われ、裁かれ、捨てられるために、この世に来てくださった。

それによって、罪の中に、どっぷりと漬かっていた私たちが、神様に喜ばれる者、神の子とされたのです。神様と敵対していた私たちが、神様と和解させていただいたのです。

クリスマスは、そのことを喜び、感謝する時なのです。

一般的に、和解と言えば、仲直りを意味します。仲直りというのは、双方が歩み寄って、お互いを赦し合い、受け入れ合うことです。

しかし、このクリスマスに見る、神と人間との和解とは、そのような、仲直りではありません。神様と人間との和解は、双方が歩み寄って、赦し合ったのではなく、神様からの一方的な働き掛け、一方的な赦しによるのです。

そのために、神様が、計り知れない犠牲を、払ってくださったのです。

それが、クリスマスの出来事です。今朝、私たちは、喜びのロウソクに、火を灯しました。

クリスマスは、私たちにとっては、この上ない喜びの出来事です。

しかし、その一方で、神様の側には、計り知れない、痛みがありました。私たちは、そのことを、忘れてはならないと思います。

クリスマスは、私たちを、神の子とするために、神様が、一方的になしてくださった、救いの出来事でした。では、それ以前は、人間は、どのような状態であったのでしょうか。

今朝の御言葉は、このように言っています。23節です。「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」

そして25節、「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」

私たちは、律法の下で監視されていた。律法という養育係の下に、置かれていた、というのです。律法を、すべて守らなければ救われない、というのであれば、律法違反をしないように、私たちは毎日、不安と恐れの中を、びくびくしながら、生きていかなければなりません。

律法という鎖に、がんじがらめに縛られて、いつも監視されて、生きている。

そこには、活き活きとした喜びはありません。人を生かす自由はありません。

しかし、信仰が現れたので、もはや私たちは、律法という監視役から自由にされた、と御言葉は言っています。

「信仰が現れる」、というのは、少々、分かり難い表現です。私たちは、普通、「信仰が現れる」、などとは言いません。

しかも、ここで、「現れる」と訳された言葉は、元々は「来た」という言葉です。

「信仰が来た」と言っているのです。私たちが、信仰を持った、というのではないのです。

信仰が、外からやって来た、というのです。私たちが、信じる、信じないに、かかわらず、信仰の方が、私たちの所に、やって来た。聖書は、そう言っています。

私たちの信仰の根拠は、私たちの外にある、というのです。外にあるものが、侵入してきて、私たちを捉えてしまった。それが、クリスマスの出来事なのです。

主イエスが来られたことによって、主イエスを信じる、信仰が生まれた。そして、その信仰が、私たちに働き掛けて、私たちを捉えたのだ、というのです。

それが、信仰が現れました、という御言葉の意味なのです。ですから、「信仰が現れました」、という言葉は、クリスマスの出来事を、言い表しているのです。

そのように、キリストの救いに生かされた、私たちには、神の子としての特権が、与えられていると、御言葉は語っています。

「神の子」とは、どういう意味なのでしょか。今朝の御言葉は、この「神の子」のことを、別の言葉で表現しています。それは、「相続人」という言葉です。

29節の終わりに、「約束による相続人」、という言葉が出てきます。

キリストのものとされた私たちは、相続人とされている。しかも、神の財産の相続人である、というのです。あなた方は皆、神の子だ、神の財産の相続人だ、と言っているのです。

では、神の財産とは、一体、何でしょうか。神様が、私たちに、与えてくださる財産。

神様しか、与えることができない財産。それは、何なのでしょうか。

それこそが、十字架の贖いによって、与えられる「永遠の命」ではないでしょうか。

私たちは、等しく、神の財産である、「永遠の命」を、受け継ぐのです。

神様が、私たちに、「永遠の命」という財産を、残してくださる時、私たちは、何もしていません。何も出来ないのです。神様が、すべてのことをしてくださるのです。

しかも、神様は、その財産を、残してくださったばかりでなく、どうか、この財産を、受け取ってもらいたいと、私たちに頼んでおられるのです。受け取りを、願っておられるのです。

神様が、人間に願う。一体そんなことがあるだろうか、と思ってしまいます。

しかし、聖書を読みますと、神様が、私たちにひざまずいて、願っておられる箇所があります。あの、洗足の出来事のときです。

渡される前の晩、主イエスは、奴隷の姿となって、人の足を洗うという、最も卑しい仕事をされました。

何のために、そんなことをされたのでしょうか。私たちに、命を与えるためです。

あの時、主イエスは、単に、弟子たちの足を、洗われただけではありません。

弟子たちに、ご自身の命を与えることを、示そうとされたのです。

そのようにしてまで、神様は、御自分の財産である、永遠の命を差し出されて、これを受け取って欲しい、と願っておられるのです。

どうか、神の子と、なって欲しい。私の相続人と、なって欲しいと、願っておられるのです。

しかし、自分自身を顧みる時、この私のような者が、神の子になれるのだろうか、と思います。相続人として、相応しいのだろうか、と思います。

しかし、御言葉は、心配しなくても良い、と言っています。なぜなら、キリストに結ばれて、洗礼を受けた私たちは、すべて、キリストを着ているからだ、というのです。

キリストを着れば、中味はどうであっても、皆同じように、キリストに相応しい者とされるのだ、と言っているのです。なぜなら、キリストが、私たちを、覆い包んでしまうからです。

キリストを着る。キリストが、私たちの装いとなっている。これは、ただ、キリストの真似をする、ということではありません。キリストが、私たちの内に、実際に、生きて働いてくださる、ということです。

それが、外にあるものが、入り込んできた、という事です。外からきたものが、私たちの全存在を、取り込んでしまう。そういう信仰の姿です。

「キリストを着ている」なら、教会に生きる私たちは、皆一つになる、と御言葉は言っています。同じキリストを着ているのですから、皆、同じものになっていくのです。

それこそが、正しい教会の姿です。私たちが、目指すべき姿です。

キリスト・イエスにあっては、民族による差別、社会的立場による差別、性的な相違を超えて、皆一つなのです。

当時、ここで語られている、ユダヤ人とギリシア人の対立、奴隷と自由人との間の隔たり、男女の差別、これらはすべて、絶対的なものでした。

そこから生まれる、差別や対立は、当然のもの、超えがたいもの、と思われていました。

しかし、教会においては、それらが超えられている。それは、キリストに結ばれて、キリストを着ているからである、というのです。

教会につながる者にとっては、ユダヤ人とギリシア人の差別はない。奴隷と自由人の差別もない。男と女の差別もない。皆、等しく、神の子、約束の相続人なのだ、というのです。

それが、教会において見られる、現実なのだ。御言葉は、そのように言っています。

そのように差別を、乗り越えることができる。その根拠はどこにあるのでしょうか。

それは、ただ、ひたすら、キリストを着る。この一事に、かかっているのです。

洗礼を受けて、キリストに結ばれて、キリストを着る。このことを欠いて、私たちの内に、決して一致はないのです。

罪の奴隷となっていた、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい衣である、キリストを着る。その信仰に生きる者は、皆一つになることができるのです。

いえ、真実に、一つになるには、それしかないのです。キリストを着るしかないのです。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」 この手紙を書いた、使徒パウロは、そう言っています。

しかし、パウロの関心は、このような違いを、生み出している、社会を打ち壊し、差別を破棄することに、あったのではありません。

残念なことに、それらの差別が、社会に存在している、という現実がある。

しかし、教会は、それによって、引き裂かれてはいない。洗礼を受けて、キリストに結ばれた者たちは、皆、一つなのだ。

そこに、パウロの関心はありました。それが、神の子である、ということです。

そこには、キリストによる一致があり、お互いに敬い合い、仕え合う、愛がある。

それが、キリストの者とされた人の、新しい生き方なのです。

洗礼を受けて、キリストを着ている。それが、私たちを、一つにします。

それによって、人間の分裂、差別、違いが、教会の中では、克服される、というのです。

律法は、人間同士の違い、分裂、差別を生み出します。しかし、洗礼は一つにするのです。

キリストを着ることは、一つにする、というのです。

皆さん、どうでしょうか。茅ケ崎恵泉教会は、お互いが、キリストを着ているでしょうか。

キリストを着た者同士として、一致しているでしょうか。愛に生きているでしょうか。

クリスマスを、待ち望むこの時、お互いに、今一度、自分自身を、見つめ直してみたいと思います。

第二次世界大戦の最中、ナチスによる、ユダヤ人大虐殺の中で、二冊の有名な本が、生まれました。

一冊はユダヤ人で、当時ウィーン大学で、心理学を学んでいた、ヴィクトール・フランクルが書いた、「夜と霧」という本です。日本人でも、多くの人が、この本を愛読しています。

心理学者のヴィクトール・フランクルが、アウシュビッツを生き延びた経験から、人間とは何か、人間の生きがいとは何かという、根本的な問題を、追及した本です。

この本は、私たちに、非常に力強い勇気を、与えてくれます。

でもクリスチャンにとっては、ヴィクトール・フランクルの、「夜と霧」よりも、もう一冊の本の方が、大切かも知れません。

それは、コーリー・テン・ブームという人が書いた、「隠れ家」という本です。

オランダ人の時計屋の主人、キャスパー・テン・ブームは、父親から受け継いだ、キリスト教信仰を、何よりも大切にしていた、敬虔なクリスチャンでした。

この時計屋の主人は、オランダにナチス・ドイツが入って来た時、ユダヤ人を自分の家に匿います。ユダヤ人を助けていることが知れると、自分が死ぬ事になるかもしれない、と忠告された時、キャスパーは、「神の古代からの民のために、自分の命を捨てるのは、栄誉だ」、と答えたと伝えられています。

「アンネの日記」ではありませんけれども、秘密の部屋を奥の奥に作って、そこにユダヤ人を住まわせました。そのような活動を通して、テン・ブーム一家と、その友人たちは、およそ800人の、ユダヤ人の命を救った、と言われています。

ところが、裏切り者が出て、キャスパー・テン・ブームは、政治犯として捕まってしまいます。

そして、牢獄に移されてから、僅か10日後に、天に召されてしまいます。

キャスパーには、コーリー・テン・ブームとベッツィ・テン・ブームという、二人の娘がいました。この二人とも、強制収容所に入れられてしまいます。

コーリーとベッツィは強制労働をさせられ、蚤だらけの不衛生な小屋で寝かせられ、食事も家畜の餌のようなものを食べさせられ、過酷な労働を強いられました。

そうした中でも、この姉妹たちは、信仰を失いませんでした。「どこにいても、主イエスが共にいてくださる」。これが、彼女たちの、唯一の希望でした。

残念なことに、ベッツィは、栄養失調のため、収容所で亡くなってしまいます。

ユダヤ人に、自分の家を、「隠れ家」として、貸してあげたために、お父さんは政治犯として捕まって死に、自分たちも強制収容所に入り、妹は栄養失調で死んでしまう。

何とか生き残った、コーリーは、戦後、「隠れ家」という本を書きます。

その内容は、一言で言えば、「イエス・キリストこそ、わが隠れ家」、「神こそ、わが隠れ家」、という信仰の証しです。

自分の家を、「隠れ家」として、ユダヤ人に提供したために、家も家族の命も失った。

しかし、この「隠れ家」に住んでいた、ユダヤ人は、なんと戦争を、生き延びたのです。

自分の家に隠れた、ユダヤ人は、戦争を生き延びました。けれども、自分は、父親も、また妹も、失ってしまったのです。でも彼女は、それで良しとします。

コーリー・テン・ブームは、信仰によって、導かれたのです。イエス様という「隠れ家」を、持っているなら、私の地上の家は、他の人の隠れ家になっても良い。

なぜなら、主こそ、わが隠れ家、わが贖い主、わが砦なのだから。

全く縁もゆかりもない、見ず知らずの人。しかも、人種も、宗教も、異なるユダヤ人に、命懸けで、自分の家を、提供する。どうして、こんなことができたのでしょうか。

今朝の御言葉で言えば、キリストに結ばれて、キリストを着ていたからです。

キリストを着ることによって、少しずつでも、キリストに似た者と、されていったからです。

キリストは、その愛をもって、私たちに、「隠れ家」を、備えてくださいました。いえ、ご自身が、隠れ家となってくださいました。

どんな時も、私たちを、守ってくれる、隠れ家となってくださいました。そのために、ご自分の家を離れ、家畜小屋の飼い葉桶に、来てくださいました。それが、クリスマスの出来事です。

キリストに結ばれ、キリストを着る時、私たちは、人種の違い、身分の違い、性別の違いを超えて、一つとされます。お互いに愛し合い、仕え合う、群れとされます。

茅ヶ崎恵泉教会に繋がる私たちすべてが、その様に、キリストにあって、一つとされますように、祈りつつ、歩んで行きたいと思います。