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過去の礼拝説教

「聖霊の実」

2018年01月14日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 5章16節~26節

新しい年、2018年を迎えて、2週間が経ちました。

最近は、あまり聞かれなくなりましたが、私が子供の頃は、「一年の計は元旦にあり」、という言葉を、よく耳にしました。

元旦に、「今年こそは、このような一年を送ろう」と決心し、それを書初めにしたり、日記や手帳に記したりしました。

私も、子供の頃は、色々なことを、年の初めに決心しました。「今年こそ、これこれのことを実行しよう」とか、或いは、「今年こそ、これこれを止めよう」という決心でした。

でも、それこそ「三日坊主」で、長続きした試しがありませんでした。

今朝の御言葉の19節~21節には、避けるべき15の「悪徳のリスト」が、記されています。

年の初めに、「今年こそ、これこれを止めよう」、と決心する事柄の、殆どが、ここに記されているのではないかと思います。

そして22節~23節には、私たちが目指すべき、9つの「徳目のリスト」が、記されています。

「今年こそ、このように生きよう」、と決心する事柄の多くが、ここに記されています。

一年の初めに、今年は、この「悪徳のリスト」から遠ざかり、この「徳目のリスト」に親しもう。

そのように決意する。皆さんも、そのようなご経験を、お持ちだろうと思います。

今朝の御言葉は、キリスト者とは、そのような生き方が、三日坊主に終わらないことを、目指す者である、と言っています。

なぜ、そのような生き方を、目指すのか、そして、どうすれば、そのような生き方へと、導かれるのか。今朝の御言葉は、私たちに、そのような、問い掛けを、与えています。

先週の御言葉の、5章13節で、使徒パウロは、「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」、と言っていました。 今朝の御言葉では、それを、更に一歩進めています。

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

この御言葉は、以前の口語訳聖書では、「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」と、もっと強い語調で、訳されていました。

パウロは、「愛によって互いに仕え合う」、ということは、「御霊の導きに従って歩む」、ということなのだ。

聖霊の導きに従って歩むことを通して、初めて、愛によって互いに仕え合う、ということができるのだ、と強い口調で、語っているのです。

ところで、今朝の御言葉には、「霊」と「肉」、いう言葉が、頻繁に出てきます。

普通、私たちは、「霊と肉」と聞くと、それは、精神と肉体のことを、表していると考えます。

しかし、ここでは、そうではありません。

ここでの「霊」とは、私たちの精神のことではなく、聖霊を意味しています。

私たちの内に働きかけ、私たちに御心を示してくださり、私たちを信仰へと導いてくださる、聖霊なる神様のことを言っているのです。

パウロは、ここで、「愛によって互いに仕え合う」歩みとは、決して孤独な歩みではない。

私たちが、一人で頑張って、歩むのではなくて、聖霊なる神様が、私たちと共にいてくださり、支えてくださる。そういう歩みなのだ、と言っています。

神様は、私たちが、互いに仕え合う愛に、生きることができるようにと、私たちに、寄り添い、助けてくださる、お方なのです。

聖霊なる神様が、共にいてくださる。だから、そのお方の、導きに従って、歩みなさい。

それが、「愛によって互いに仕え合う」生き方に、繋がるのだ、と言っているのです。

更に、25節では、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」、と言っています。

この御言葉は、聖人君子のような生き方を、私たちに、求めているのではありません。

そうではなくて、聖霊の導きに従って、一緒に、前進しようではないか、と私たちを招いているのです。

十字架によって救われ、キリスト者となった、あなた方は、自分の力で、生きているのではなくて、神様に生かされているのです。

だから、私が、私が、と肩肘張って、生きていくのではなく、聖霊の導きに従って、生きていこうではありませんか。そう呼び掛けているのです。

キリストが、私に代わって、十字架に死んでくださった。だから、罪の中にあった、古い自分も、キリストと共に、十字架に死んだのだ。

そうであれば、これからは、キリストのものとして、聖霊の導きの中を歩んで行く。

それが、キリスト者の生き方です。

そのことを、パウロは、24節で、こう言っています。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」

この24節は、今朝の御言葉の、中心聖句であるとも言えます。

キリスト者とは、キリストの十字架によって、古い自分に死んで、新しい自分に、生まれた者のことです。

古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分を着た。つまり、衣替えをした者のことです。

古い自分とは、肉の業に、支配されていた自分です。新しい自分とは、霊の実を結ぶことを目指して、歩んでいる自分です。

それは、言い換えれば、自分、自分、という生き方に、別れを告げて、キリストのものとなって、キリストに従うという、新しい生き方へと、一歩踏み出すことです。

古い自分に死んで、新しい自分を生きる。これが、キリスト者の目標であると言えます。

生前に、お会いしたことはありませんでしたが、私が尊敬している牧師の一人に、日本イエス・キリスト教団の初代委員長を務められた、小島伊助という先生がおられました。

小島伊助先生は、この24節の御言葉を、とても大切にされていました。

恐らく、小島先生は、その若き日に、四国の松山で、この御言葉に出会われ、信仰を持たれたのだと思います。その小島先生が詠まれた短歌に、こういう歌があります。

「わがあかし 四国は伊予の 松山で ガラテヤ5章 24節」

そのものずばりの短歌です。何の修飾もなく、味も素っ気もないような歌です。

でもこの24節の御言葉が、小島先生の人生を決定付けたことが、高らかに詠われています。この御言葉に対する、小島先生の感謝と喜びが、ほとばしり出ています。

「わがあかし 四国は伊予の 松山で ガラテヤ5章 24節」

私たちも、小島先生に倣って、こう詠いたいものだと、思わされます。

「わがあかし 茅ヶ崎共恵 2丁目で ガラテヤ5章 24節」

450年以上に亘って、世界中で、尊ばれてきた、ハイデルベルク信仰問答書。

その第1問は、こう問い掛けています。「生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」そして、その答えは、こう言っています。

「私が、私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」

ハイデルベルク信仰問答書は、その冒頭において、キリストのものとされていることが、私たちの、ただ一つの、そして完全な慰めである。と言っているのです。

何故なのでしょうか。24節の御言葉が、その答えを与えてくれています。

キリストのものとされた人は、自我や欲望から解き放たれて、自分本来の生き方ができる者と、されているからです。本来の自分らしく、生きることができる。

それこそが、私たちにとっての、唯一、最大の慰めではないでしょうか。

キリストのものとされ、聖霊に従って歩む時に、私たちは、初めて、自分らしい、自然な生き方が、出来るようになる、というのです。

逆に、私たちが、肉の欲望に、捕らわれて生きるなら、私たちは、自分が本当に欲している、自分らしい生き方が、できていないのだ。パウロは、そのように言っているのです。

勿論、キリストのものとされたからといって、私たちが、罪から完全に自由にされて、模範的な生き方が、できるようになる訳ではありません。

依然として、罪人です。罪赦された、罪人なのです。そのことに、変わりはないのです。

しかし、聖霊の導きの中を、キリストと共に、歩もうとする時、私たちは、小さいながらも、霊の実を結ぶ生き方へと、一歩踏み出すことができるのです。

弱く、罪深い者でありながら、小さな霊の実を結ぶ生き方を目指して、歩み出すことができるのです。

19節以下で、パウロは、「肉の業」と、「霊の実り」とを、対比させています。

まず、肉の業が、具体的に、どういうものであるかを、リストアップしています。

「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」。

随分たくさん挙げていますが、まだ少ない方なのかもしれません。

仏教では、このような肉の業を、「煩悩」と言っていますが、その種類は、もっと多くて、百八もあると言われています。

除夜の鐘を百八回たたくは、百八の煩悩を、取り去ることから来ています。

19節以下で述べられているのは、自己中心的な思いから生じる、様々な肉の業です。

「姦淫、わいせつ、好色」。自分の情欲のままに、妻、或いは、夫以外の人と生活をする。

それによって、神様が定めた、結婚の秩序が、崩れていきます。

「偶像礼拝、魔術」。これは、神様を礼拝する仕方が、間違ってしまう、ということです。

これによって、神様との正しい関係が、崩れていきます。

「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」。

隣人と一緒に、生きることができず、私たちの社会生活を、破壊してしまう、私たちの姿が、様々な言葉で、ここに示されています。

これらの肉の業によって、他者との関係、人間相互の関係が、崩れていきます。

そして、「泥酔、酒宴」。酒に溺れ、美食にふける。そこで崩れていくもの。

それは、自分自身です。

このように、肉の業による崩れは、様々です。

肉の思いに囚われ、肉に振り回され、まるで肉の奴隷になったような、不自由な生活。

結婚相手と共に、神様と共に、隣人と共に、正しく生きることが、できなくなってしまう。

そして、結局、自分自身も崩れていってしまう。それが、肉の業の結果です。

19節の「肉の業」の、「業」という言葉は、ギリシア語では、複数形で書かれています。

しかし、22節の「霊の結ぶ実」の「実」、は単数形です。でも、その後に、9つの言葉が続いています。それなのに、単数形で書かれています。文法的には、矛盾するように思えます。

なぜ、この「実」が、単数形で書かれているのか、様々な解釈があります。

パウロは、9つの聖霊の実を、一つのまとまったものと考えていた。だから単数形にした、という見方があります。

今、ミカンがおいしい季節ですが、ミカンを想像すると、分かり易いと思います。

御霊という一つのミカンの中に、9つの房がある、という考え方です。

みかんの皮をむくと、たくさんの房が、つまっています。

愛、喜び、平和などの、9つの房が詰まっているのを、想像したら良いと思います。

でも、一つのミカンです。だから単数形で表したのだ、という見方です。

また、9つの聖霊の実ですが、その本質は一つである。だから、単数形にしたのだ、という意見もあります。

三位一体の神様も、単数形で表されているのと、似ています。本質は、一つだからです。

もう一つの見方は、御霊の実とは、実は、「愛」のことである、という解釈です。

愛こそが、肉の行いに打ち勝つ、御霊の実である、というのです。

御霊の実とは、愛のことであって、愛が、喜びとか平和とか、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制として、具体的に現れるのだ、というのです。

確かに、コリントの信徒への手紙一の13章には、愛が最も大切だと書いてあります。

愛は忍耐強く、情け深く、妬まず、恨まず、苛立たず、自分の利益を求めない、とあります。

だから、「愛」という一つの実に、「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の、味わいがある。

つまり、喜びという愛、平和という愛、寛容という愛、親切という愛、善意という愛、誠実という愛、柔和という愛、節制という愛があるのだ、というのです。これも心惹かれる解釈です。

今朝は、ここに挙げられた言葉の、一つ一つについて、説明する時間はありません。

しかし、これらの言葉を解く、鍵があります。

それは、主イエスのお姿を、想い起こせば良いのです。

愛も、喜びも、平和も、寛容も、親切も、善意も、誠実も、柔和も、節制も、すべて主イエスのお姿に現れています。主イエスのお姿の中に、見ることができます。

キリストのものになった人は、次第に、キリストに似る者と、なっていきます。

御霊の実を結ぶ、ということは、とりもなおさず、キリストに似た者とされて行くことです。

キリストが、私たちの内にあって生きる。キリストが、私たちの内に、形づくられる。

何か、大切なことをなす時、「主イエスなら、どうされるだろうか」、と自らに問い掛けていく。

その時、私たちの内に、御霊の実が、結ばれていくのです。

そのために、私たちが、なすべきことは、キリストに繋がっていることです。

ヨハネによる福音書15章5節で、主イエスは言われました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

この主イエスの御言葉の通り、キリストに繋がっている時に、私たちは御霊の実を結ぶことができるのです。

キリストに繋がり続けているなら、私たちの中に、自然に、聖霊の実が、実ってくる、というのです。それは、小さな、貧しい実かもしれません。

しかし、主イエスは、それを嬉しそうに、口にされ、「おいしいよ」、と言ってくださるのです。

以前、あるビジネスマンの話を、聞いたことがあります。

その人が、同僚と二人で、出張から帰る時のことです。

飛行場で、フライトの予定が遅れる、というアナウンスがありました。数時間が経ってから、遂にその便が、欠航になった、と聞かされました。長い時間待たされた挙句、家にも帰れずに、その地で、一晩を過ごさなければ、ならなくなったのです。

更に彼らは、乗り換え便の予約の為に、長い列に、並ばなければ、なりませんでした。

列に並んでいる人々は、応対している女性職員に、不満をぶつけ、きつく当たっていました。誰もが、やり場のない怒りを、誰かにぶつけたかったのです。

その女性職員は、それらのきつい言葉を、じっと耐えて、受けていました。

やがて、その人に、順番が回ってきました。すると彼は、笑顔で、こう言ったのです。

「大変ですね。あなたが悪い訳ではないのに、きつい言葉を掛けられて、辛いでしょね。

頑張ってくださいね」。

その職員は、とたんに表情が穏やかになって、「有難うございます」、と答えました。

その時、その場には、愛があり、喜びがあり、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制がありました。

彼と一緒にいた同僚は言いました。「僕たちの付き合いは長いけど、以前の君だったら、怒りに任せて、職員に怒鳴っていたんじゃないかな。」

彼は答えました。「まったくその通りさ。実は僕は、変わったんだ。僕の中に、キリストが宿っていて、そのお方に生かされていることに、気づかされたんだ。もちろん思い通りにならないこともあるけれど、欠航になった飛行機は、どうすることも出来ないよ。」

この人が、空港で見せてくれたもの。それこそが、「聖霊の結ぶ実」ではないでしょうか。

彼は歯を食いしばって、頑張って、笑顔を向けたのではありません。自分の意思を、奮い立たせて、無理して、親切な人になったり、寛容な態度を、取ったのでもありません。

それは飽く迄も、聖霊が結んでくださった、「実」なのです。

彼は、「主イエスなら、どうなさるだろうか」と、自らに問い掛けたのだと思います。

聖霊の実とは、何か、大きな、立派なことを、することではありません。このような、小さな、身近なことの中に、実を結ぶものなのです。それを、主イエスは、喜ばれるのです。

御言葉は、9つの、聖霊の実を、挙げています。しかし、それは、義務や責任として、課せられているものではありません。

キリストに繋がり、キリストと共に歩んでいく時、私たちの内に、自然と実るものなのです。

そのような実を結ぶことを目指して、共に手を取り合って、励まし合いながら、歩んでまいりたいと思います。