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過去の礼拝説教

「約束の虹」

2018年02月28日 聖書:創世記 9:1~17

今朝与えられた御言葉、創世記9章は、ノアの箱舟の物語の、締め括りの箇所です。

洪水が終わって、ノアとその家族が、箱舟を出て、新しい生活を始めようとしています。

その新しい出発に当って、神様は、先ず、祝福の言葉を、語られました。

御言葉は、このように語り出しています。

「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。』」

神様が天地を創造された時に語られた、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、という祝福の言葉。それと同じ言葉が、ここで再び、神様から語られています。

洪水によって、古い世界が滅ぼされ、新しい世界が始まる。その始めに際して、神様は、この祝福を、改めて、人間に与えてくださったのです。

ですから、この祝福には、新たな意味が、込められているのです。

天地創造の時に、神様は、この世のすべてを、極めて善いものとして、造られました。

人間もそうです。特に、人間は、神様の御姿に似せて、造られたのです。

そして、神様は、人間が生きるために、必要なすべてを、与えてくださいました。

人間は、そのような恵まれた環境で、自由に生きることが、許されたのです。

たった一つ、神様は、人間に守るべき約束事を、与えられました。それは、園の中央にある、知恵の木の実だけは、食べてはならない、ということでした。

これを守って生きるということは、人間が、ただ自由奔放に生きるだけでなく、その自由に伴う、責任を果たして、生きなければならない、という戒めでした。

更に、知恵の木の実を、食べてはならないということは、人間が、造られたものとしての立場を超えて、神様のような知恵を持とうなどと、思い上がってはならない、ということをも教えていました。

一体人間の罪の本質とは、何でしょうか。それは、「神を神とせず、自分を神とすること」です。神を第一とせずに、自分の思いや欲望を、第一として生きることです。

そこから、すべての、人間の不幸と、苦しみが、起こって来るのです。

人間は、このたった一つの約束さえも、守れませんでした。神様との約束よりも、自分の欲望を、第一にしてしまったのです。そこから、人間は、罪の深みへと、落ち込んで行きました。罪というものは、連鎖反応を起こします。罪は罪を産んでいきます。

罪を覆い隠すために、更なる罪を犯し、どんどん深みに、はまって行ってしまいます。

神様は、それをご覧になって、深く悲しまれました。

今朝の御言葉の直前の8章21節で、神様は、「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」、と嘆かれています。

人間の罪が、どんなに抜きがたいものであるか。神様は、それをご覧になりました。

そして、深く嘆かれたのです。そして、神様は、古い世界を滅ぼし、新しくしようとされました。洪水によって、この世界を、リセットしようとされたのです。

そして、リセットされた世界の初めに、神様は、改めて、人間を祝福されました。

私たちが、生きている、この世界は、ノアの洪水以後の、リセットされた世界です。

神様の祝福の言葉が、その始まりにおいて、響き渡った世界です。その世界を、私たちは、今、生きているのです。ですから、私たちの人生にも、この神様の祝福の御声が、響いている筈なのです。私たちは、祝福された命を、今、生きているのです。

幼い時から、悪いことばかりを、思うような私たちなのです。でも、そんな私たちが、祝福されているのです。それは、私たちが、立派だからではありません。ただ神様の憐れみによって、祝福されているのです。

私たちが、この祝福の内に、生かされている。これは、素晴らしいことなのです。

しかし、人間は、そのことを、なかなか分ろうとせずに、人生に行き詰まって、しまいます。

この人生は、本当に意味があるのか。生きていくことに、価値があるのか。自分など、いない方が良いのではないか。そのような思いに、捉われてしまう人が、多くいるのです。

今、日本では、年間約3万人の人が、自ら命を断っています。インターネットには、自殺願望を持つ人たちのサイトがあり、それを利用して、痛ましい殺人事件が起りました。

本当に、悲しい出来事です。

生きていても、仕方がないのではないか、死んでしまった方が、いいのではないか。

そんな思いに、陥ってしまうのは、神様の祝福を、見失っているからではないでしょうか。

自分は、神様の祝福の内に生かされている、ということを知らないからではないでしょうか。

私たちが、自分自身の中に、生きる意味や目的を、見出そうとしていくなら、やがて、行き詰ってしまうと思います。私たちは、不完全で、汚れに満ちた者だからです。

自分の中に、生きることの、究極の意味を、見出すことは、難しいのです。

でも、幼い時から、悪いことばかりを考える、そんな私たちを、尚も、祝福してくださる、神様の御声を、聞くことによって、私たちは、生きていく力を、与えられるのではないでしょうか。

先週の聖書講読・祈祷会において、十字架の箇所から、神様の全能について学びました。

その時、こんな質問を、させて頂きました。もし、皆さんに、全能の力が与えられたとしたら、皆さんは、何をされるでしょうか。何を望まれるでしょうか。

全能の力が与えられたなら、是非こういうことがしたい。そう思うことは、一体何でしょうか。

健康が与えられたい。もっと聡明になりたい。もっと強い信仰を持ちたい。様々なことを、望まれるでしょう。では、皆さんの中に、こう思われる方はおられるでしょうか。

今まで、私は、どうしてもあの人を愛せなかった。でも、全能の力を与えられたなら、あの人を愛したい。今まで、どうしてもあの人を赦せなかった。でも、全能の力を与えられたなら、あの人を赦したい。愛せなかったあの人を、愛したい。赦せなかったあの人を、赦したい。そのように思われる方は、おられるでしょうか。

普通、私たちは、もし、全能の力を与えられたなら、自分がより幸せになるために、その力を用いようとします。

でも神様は、全能の御力を、ご自身のためには、用いられないのです。

神様の全能とは、ご自分にとって、都合の悪いことさえも出来る、という全能なのです。

ご自分に敵対する人をも赦し、都合の悪い人をも愛する、という全能なのです。

愛せない人を愛し、赦せない人を赦す。そのために、神様は全能の力を使われるのです。

私たちがしたいことは、自分を救うということです。でも、主イエスは、ご自分を救うということには、その全能の御力を、使われなかったのです。

ですから、「全能の神の子なら、十字架から降りて来い」、というのは、見当違いなのです。

それは、神様の全能が、分かっていない、言い方なのです。実際は、その逆なのです。

全能だから、人間を救うために、十字架に止まることが出来たのです。

敵対する人のために、十字架にかかって死ぬ。これは、人間には出来ないことです。

全能なる神様でなければ、出来ないことです。それが、主イエスの全能の使い方なのです。

今朝の箇所でも、神様は、全能の御力を、使われています。

幼い時から、神様に従わず、悪いことばかりを考える私たち。そんな私たちを、尚も、祝福するというのは、人間にはできません。全能の神様でなければ、出来ないことなのです。

さて、3節で、神様はこう言われました。「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」。神様は、人間が、動物の肉を、食糧とすることを、許してくださいました。

間違って頂きたくないのですが、この御言葉は、人間は、何を食べるべきか、ということを、語っているのではありません。食べてもよいものと、いけないものを定めている、食物規定が、ここに書かれているのではありません。

ここで語られていることは、人間の命であれ、動物の命であれ、すべての命は、神様のものである、ということです。神様のものであって、人間のものではない、ということです。

ですから、神様のものである命を、人間が、好き勝手にしては、ならないのです。

すべての命を、神様のものとして、御心に適う仕方で、大切に取り扱わなければ、ならないのです。そして、私たちは、他の生き物の、命の犠牲によって、生かされている、ということを、覚えていなければ、ならないのです。

それは、菜食主義を貫いたとしても同じです。中学生の頃に学んだ詩で、大関松三郎という人が作った、「虫けら」という詩が忘れられません。その詩の最後は、こう言っていました。

「おれは くわをもって 土をたがやさねばならん/おれは おまえたちのうちをこわさねばならん/おれは おまえたちの 大将でもないし 敵でもないが/おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする/おれは こまった/おれは くわをたてて考える

だが虫けらよ/やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや/おまえらを けちらかしていかんばならんでや/なあ/虫けらや 虫けらや」

菜食主義であっても、他の生き物の命を、犠牲にしていることには、変わりはないのです。

ですから、私たちは、食事の度に、命の本当の所有者である、神様を覚えて、謙遜な思いで、心からの感謝をもって、食べさせて頂かなければ、ならないのです。

食前の感謝の祈りを、形式的な、おざなりの祈りにしては、いけないのです。

続いて、5節、6節には、神様のものである、命を損なう者には、神様ご自身が償いを要求される、と書かれています。

とりわけ、すべての命の中でも、人間の命は、特別のものであると、語られています。

なぜなら、6節にあるように、「人は神にかたどって造られたからだ」、というのです。

被造物の中で、神様にかたどって造られたのは、人間だけです。

ご自分にかたどって造られた、人間の命。神様は、その人間の命を、祖末にすることを、固く禁じられました。すべての人が、神様に、かたどって造られているのです。

誰一人として、例外はないのです。人種、性別、能力、身分の違いがあっても、すべての人が、神様にかたどって造られた、ということにおいては、違いはないのです。

ですから、すべての人が、神様にとっては、限りなく尊い存在なのです。神様は、すべての人を、御手に握り締めて、「あなたは、わたしのものだ」、と言われているのです。

ですから、その人の命を、損なったり、粗末にしたりすることを、固く禁じられるのです。

よく、「一人の人の命は地球よりも重い」、と言われます。

自殺や、殺人事件が起るたびに、命の大切さを、子供たちに、もっと教えなければならない、という議論がなされます。

しかし、私たちが、自分の命を、「自分のもの」だ、と思っている間は、本当の意味で、命の尊さは、分からないと思います。

もし命が、自分のものであるあるなら、その命をどう取り扱おうと、それは自分の勝手だからです。命を捨てたいと思うなら、捨てても良い、ということになります。

しかし、命は、自分のものではありません。それは神様のものです。神様のものですから、それは、かけがえなく尊いのです。決して、粗末にしては、ならないものなのです。

たとえ、それを託されている人が、「生きていても意味がない、死んだ方がましだ」、と思ったとしても、その命は、その人が、勝手に捨ててしまっては、ならないものなのです。

ここには、人間の命に対する、神様の熱い愛が、語られているのです。

「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。これは、人間のどうしようもない罪についての、神様の悲しいまでの認識です。

洪水後の新しい世界も、罪ある人間によって、築かれていくことには、変わりはありません。

ですから、そこでも、罪がもたらす、様々な問題や、悲惨なことが、繰り返して起るのです。

人間は、繰り返して、過ちを犯します。何度も、何度も、神様に背くのです。

その点では、洪水後の新しい世界は、洪水前の世界と、何も変わるところがないのです。

しかし、洪水の前と後で、ただ一つ、変わったことがあります。

それは、そのような人間に対する、神様の御心です。

この世が、人間の罪に満ちているなら、この世を、一挙に滅ぼしてしまおう。それしか、問題解決の道はない。かつて神様は、こう思われていました。その御心を、変えられたのです。

そして、罪ある人間と、その世界に、尚も、祝福を与えてくださることを、決意されたのです。

神様は、この決意を、契約を立てる、という仕方で、示して下さいました。

「わたしが、あなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって、地を滅ぼすことも決してない」。

ここで、神様は、契約を「結ぶ」、とは言わずに、契約を「立てる」、と言っておられます。

普通、私たちは、契約を「結ぶ」と言います。二者が、話し合って、合意に達して、契約を結ぶのです。その時、契約した双方には、契約を守るという、義務が生じます。

しかし、この「立てる」という言葉は、二者間の契約ではなく、片方だけの、一方的な契約の時に、使われる言葉です。ですから、二者で結ぶのではなくて、一人で立てるのです。

神様は、人間が、契約を守れないことを、よくご存知でした。ですから、人間の方からの約束は求めずに、ご自身だけが、一方的に決心され、約束してくださったのです。

もう二度と、洪水によって、すべての生き物を、滅ぼすようなことはしない、と神様は、一方的に、約束してくださったのです。

滅ぼされて当然の人間を、神様が、尚も愛してくださり、その命を、ご自分のものとして、大切にすると、一方的に、宣言してくださったのです。

神様は、この契約の印として、雲の中に、虹を置いてくださいました。虹は、神様が、洪水の後に、立ててくださった、契約の印です。

この「虹」という言葉の、ヘブライ語の元々の意味は、「弓」です。

英語でも、同じです。英語の虹は、rainbowです。これもrain(雨)と、bow(弓)とから、成っています。「雨の弓」が虹なのです。

虹が弓である、ということには、深い意味があります。弓は、敵を攻撃する武器です。

神様は、この契約において、人間の罪の故に、人間を攻撃するその弓を、置いてくださったのです。武器を放棄してくださったのです。

今後、二度と、洪水を起こして、人間を攻撃することはしない、と宣言してくださったのです。

では、もし、虹の弓に、弦が張られたなら、そこから放たれる矢は、どこへと向かっていくのでしょうか。その矢は、上に放たれます。神様へと、向かっていくのです。

人間へと、向かうのではないのです。人間の罪に対する、裁きの矢は、神様ご自身へと向けられるのです。御子イエス・キリストへと、向けられるのです。

洪水後の、新しい世界の始まりで、神様が与えてくださった、祝福の契約は、主イエスの十字架による、罪の赦しへと、繋がっていくのです。

罪ある人間を、この世もろとも滅ぼす。それは、一時的な、問題解決にはなるでしょう。

しかし、神様は、それをされないのです。そうされずに、自ら十字架に、向かわれるのです。

どうしようもない人間を救うために、主イエスは、十字架へと向かわれるのです。

主イエスは、十字架の上で、自分を十字架につけた、人々のために、祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

この祈りによって、私たちは、生かされています。この祈りがあるので、私たちは、生きることを許され、神様の御前に、立つことができるのです。

キリスト者とは、キリストを信じる者であることは、当然ですが、同時に、キリスト者とは、神様の忍耐を、知る者でもあります。神様が、忍耐をしていてくださる。

そして、また、キリスト者とは、神様の痛みを、知る者でもあります。神様が、私たちのために、痛まれている。

その神様の痛みが、どれほど大きいものであるかを、私たちは知らされています。

神様の恵みの背後には、神様の痛みがあるのです。神様が、私たちのために、苦しみを担ってくださった、ということがあるのです。私たちは、そのことを、信じるのです。

その恵みに、押し出されて、私たちは、この世に出て行くのです。

幼い時から、悪いことばかりを、思うような者であるにも拘らず、尚も、神様に祝福されている者として、私たちは、この世に出て行きます。

神様の痛みによって、赦されている者として、私たちは、この世に出て行きます。

命の大切さを、伝える者として、私たちは、この世に出て行きます。

そして、何よりも、神様の愛によって、生かされている者として、私たちは、この世に出て行きます。

そのような者として、私たちは、共に歩んでまいりましょう。先立って歩まれる主イエスを、見上げながら、助け合いつつ、励まし合いつつ、共に歩んでまいりましょう。