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過去の礼拝説教

「平和の息吹」

2018年04月15日 聖書:ヨハネによる福音書 20:19~23

皆さんは、イースターの日の情景を、どのように想像されておられるでしょうか。

水野源三さんが詩に詠っているように、空にはひばりが鳴き、スミレの花が咲き匂う、

そんな清々しい朝に始まり、主の復活を、祝うかのような、喜びと輝きに満ちた一日。

そんなイメージを、持っておられるのでは、ないでしょうか。でも、実際には、どうだったのでしょうか。

では、これから、その日の情景を、聖書の御言葉に従って、ドキュメンタリー風に、想像してしましょう。

先ずマグダラのマリアが、主を失った悲しみに、重い足を引きずるようにして、主イエスの墓に向かいます。ところが、墓を塞いでいた大きな石が、取りのけられているのを見て、驚き、恐れます。そして、急いで戻って、ペトロたちに知らせます。

マリアの報告を受けて、ペトロともう一人の弟子は、墓と隠れ家の間を、慌ただしく行き来します。走りに走って墓に向かい、墓が空であることを確認します。しかし、二人は、何もせずに、あたふたと家に帰っていきました。

そして、家の鍵を全部閉めて、中に閉じ籠ります。主イエスの遺体を持ち去った、ユダヤ人たちが、今度は、自分たちを捕えに来るかもしれない。そのことを恐れて、隠れたのです。

そこに、マリアが、墓から戻って来て、驚くべきことを告げます。主イエスが、復活された。

マリアは、復活の主イエスに出会って、その御声を聞いた、というのです。

ペトロたちは、墓が空であることは、確認しました。しかし、マリアが告げている、主イエスの復活は、信じられませんでした。他の弟子たちに至っては、尚更のことでした。

マリアが言っていることは、たわ言としか、思えなかったのです。

夕方になって、エマオに向かっていた二人の弟子が、息を切らせながら、戻ってきます。

この二人も、復活の主イエスに、出会ったというのです。狭い家の中は、大騒ぎになります。

一体どういうことか。そんなことがあるのか。何かの勘違いか、錯覚ではないか。

マリアに続いて、エマオから戻った二人からも、主イエスが復活されたと、聞かされても、弟子たちの心は、相変わらず、疑いと恐れに、捕らわれていました。

弟子たちは、主イエスが復活されたという話を、二度も聞いたのです。でも、それを聞いて、「良かった、良かった」と言って、お祝いをしたのではないのです。

戸を閉ざして鍵をかけて、閉じ籠ってしまったのです。

一体、弟子たちは、誰を恐れていたのでしょうか。何が怖かったのでしょうか。

マリアとエマオから戻った二人の弟子は、熱心に、主イエスの復活を語ったと思います。

「私は復活の主イエスに、確かにお会いしたのです。そのお声を、しっかりと聞きました」。

それを聞いて、弟子たちは、何を思ったのでしょうか。主イエスが復活した。

もし、そのことが事実であるなら、どうなるだろうか。

この時、弟子たちが恐れていたのは、ユダヤ人たち、だけだったのでしょうか。

弟子たちは、ユダヤ人だけでなく、もしかしたら、心の奥底で、主イエスのことも、恐れていたのかもしれません。

私たちは、主イエスを見捨てた。その主イエスが、復活された、と言う者たちがいる。

もし、それが事実であるなら、主イエスは、私たちのところにも、来られるかもしれない。

その時、私たちは、その主イエスの前に、立つことができるだろうか。顔を上げることができるのだろうか。そのような恐れを、抱いていたのではないかと思います。

もし、主イエスが復活されて、自分たちの所に来られたなら、主イエスは自分たちを、どうされるだろうか。

恐らく、自分たちの裏切りを非難され、自分たちの罪が、裁かれるに違いない。

彼らは、そのことを、心の奥底で、恐れていたのかもしれません。

弟子たちは、家の中に閉じ籠っていた、と書かれています。それは言い換えれば、自分たちの罪の世界に、閉じ籠っていた、ということです。

主イエスを見捨てたという、罪の世界に、閉じ籠っていたのです。弟子たちが、閉ざしていたのは、家の戸だけではありませんでした。自分たちの心をも、閉ざしていたのです。

小さな子どもたちの、神様に対する言葉を集めた、「かみさま どこにいるの」、という可愛らしい絵本があります。そこに、6歳のオーギュスタンという子の、言葉が紹介されています。

「ぼくのこころは きょうとじたままです。でも、だいじょうぶです。かみさまが あけるカギを もっているからです。」

オーギュスタンは、かたく閉ざした自分の心を、神様が開けてくれることを、信じていました。だから大丈夫です、と言っています。この時、弟子たちも、心を閉ざしていました。

その彼らに、必要だったのは、幼いオーギュスタンのような、素直な信仰でした。

主が、必ず、心の戸を開いてくださり、希望の光を注いでくださる、という信仰でした。

でも彼らは、それを忘れていました。だから、大丈夫です、とは言えなかったのです。

そのような状況の只中に、復活の主イエスが来られて、彼らの真ん中に立たれました。

そして、お言葉をかけられました。主イエスは、何と言われたのでしょうか。

「あなたがたに平和があるように」、と主イエスは言われたのです。

主イエスは、恐れと脅えの中にいる弟子たちに、ただ一言、「あなたがたに平和があるように」、と言われました。

これは、弟子たちの思いを、遥かに越えた一言でした。人間の思いや知識からは、全く予測することのできない言葉でした。

こういう時に、予想される人間の言葉は、「なぜ私を見捨てて逃げたのか。あなた方を決して許さない」という、恨みと裁きの言葉です。

人間的に考えれば、そう言われるのが当然です。しかし主イエスが、ここで弟子たちに語られた言葉は、「あなたがたに平和があるように」、という言葉でした。

新約聖書は、ギリシア語で書かれています。しかし、主イエスや弟子たちは、普段はアラム語を使っていました。ですから、恐らくここで、主イエスが、実際に語られた言葉は、「シャローム」という、言葉だったと思われます。

この「シャローム」という言葉は、相手の人の平和を願う、祈りの言葉です。

弟子たちの真ん中に、ご自身を現された主イエスは、二度も繰り返して、「あなたがたに平和があるように」、と言われました。

主イエスは、弟子たちの心の内を、良くご存じでした。彼らの心の内にある、恐れや不安を、ご存知でした。ですから彼らのために、二度も、「平和」を祈られたのです。

ご自身の復活を、信じることができないで、ただ脅えていた、弟子たちに、甦りのお姿を示されて、祈られたのです。「シャローム。あなたがたに平和があるように」。

ヘブライ語で「シャローム・平和」とは、神様が共におられる状態、のことを言います。

神が共におられること。それが、シャローム・平和、ということなのです。

ですから、主イエスが、共におられるなら、そこにシャローム・平和があるのです。

主イエスはここで、「シャローム。平和があるように」、と言われました。

「主イエスを見殺しにした」、という罪の意識の中に、閉じ籠っている、弟子たちに対して、「私は、今も、あなたと共にいる。だから大丈夫だよ」、と宣言しておられるのです。

私は、あなた方を、裁くためではなく、救うために来たのだ。そして、今も、あなた方と共にいる。だから、あなた方は、恐れなくても良い。脅えなくても良いのだ。

シャローム・平和があるように。主イエスは、弟子たちに、そう言っておられるのです。

皆さん、私たちが信じている神様は、このような、愛に満ちた、素晴らしい神様なのです。

そのことを、改めて感謝したいと思います。

このお言葉を、主イエスから受けた時、弟子たちは、自分たちのような罪深い者も、神様の愛によって、赦されている、ということを、心から信じることができました。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。ここでの喜びは、主イエスが、復活された、という喜びだけではなかったのです。

この喜びは、彼ら自身が、自らを閉じ込めていた、罪から解放されて、新しい命に生きる者とされた。そのことを知った喜びをも、含んでいるのです。

「あなたがたに平和があるように」、と主イエスは言われました。

人間の世界における平和とは、大体、双方が歩み寄って、妥協点を見出して、そこに収まることによって、実現します。

双方が50%ずつ歩み寄って、そこで和解するのが、理想的な形です。

しかし、主イエスが与えてくださる平和は、そうではありません。

過失割合から言えば、私たちが100%です。主イエスは0%です。そうであれば、過失割合100%の私たちが、過失割合0%の主イエスに、全面的に歩み寄るしか、和解の道はない筈です。ところが、全くその逆のことが、起こったのです。

過失割合0%の主イエスが、過失割合100%の私たちに、全面的に歩み寄ってくださって、和解を実現してくださったのです。それが、主イエスが与えてくださった「平和」です。

この福音書の14章27節で、主イエスは、こう言われていました。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」。

このお言葉の通り、主イエスは、この世が与えるような平和ではない、主イエスしか、与えることが出来ない方法で、弟子たちに、そして私たちに、平和を与えてくださったのです。

私たちは、この平和によって、生かされているのです。

「あなた方に平和があるように」。そう言われた主イエスは、ご自身の傷ついた、手とわき腹を、弟子たちに示されました。

その傷跡こそは、目の前に立っておられる、そのお方が、主イエスご自身であることの、何よりの証拠でした。

また、その傷跡は、主イエスが、私たちに代って、担われた十字架を、指し示していました。

今、弟子たちが見ているのは、十字架の苦しみを担われ、呪いの死に打ち勝たれて、復活された、主イエスです。勝利者、主イエスです。

私たちも、この世にあって、様々な苦難を経験します。

クリスチャンだから苦難がない、などということは、ありません。私たちに与えられている平和は、神様を信じれば、もう苦難は襲って来ない、などという、気休めの平和ではありません。信仰を持っても、苦難はあるのです。

では、私たちに与えられている、平和とは、どういうものなのでしょうか。

それは、死の壁を打ち砕いて、復活された主イエスが、どんな時も、共にいてくださる、という平和です。苦難の中でも、復活の主イエスが、共にいてくださる、という平和なのです。

復活の主は、ご自分の、手とわき腹を、示してくださり、「あなた方に平和があるように」、と励ましてくださいます。その主イエスを、見上げる時に、与えられる平和なのです。

主イエスは続けて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。

ここで、主イエスによる、弟子たちの派遣がなされています。これは、驚きの言葉です。

この時の、弟子たちの状況を、考えてみてください。彼らは、主イエスから、福音宣教の業に、派遣されるに、相応しい姿をしていたでしょうか。

彼らは、主イエスを見捨てて逃げた者たちです。ペトロなどは、主イエスのことを、三度も知らないと、否んだ者です。ユダヤ人たちを恐れて、家の奥に、じっと身を潜めていた者たちです。これから、何をしたら良いのか、全く分からずにいた者たちです。

しかし、主イエスは、そのような弟子たちに、福音宣教という、大切な使命を託され、派遣の言葉をかけられたのです。

そんな彼らが、証し人として、立てられる根拠とは、一体何なのでしょうか。

それは、彼らの、信仰深さではありません。彼らの、能力の高さでもありません。

そうではなくて、彼らの弱さを通して現わされる、神様の憐れみです。彼らの貧しさを通して現わされる、神様の豊かさです。彼らの無能さを通して現わされる、神様の全能の御力です。そして、この世の人々が、何と言おうとも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」、と言われる、神様の愛です。ここに、彼らが、証し人として立てられる、根拠があるのです。

ですから、彼ら自身は、弱くて良いのです。貧しくて良いのです。無能で良いのです。

いえ、弱さを自覚していなければ、いけないのです、貧しさを知っていなければ、いけないのです。自分自身の無能さに、気付いていなければ、いけないのです。

そういう彼らを通して、現わされる、神様の憐れみ、神様の豊かさ、神様の御力、そして神様の愛を、示していけばよいのです。自分の強さや力を、示す必要はないのです。

ここに、私たち信仰者が、この世に生かされていることの、大切な意味が、示されています。

私たちも、弟子たちと同じです。いえ、弟子たち以下です。本当に、何も持っていません。

でも、私たちの存在を通して、神様の憐れみと、豊かさと、御力と、そして愛が、指し示されるなら、私たちが、この世に生かされていることに、意味があるのです。

では、弟子たちが、派遣される目的とは、何なのでしょうか。私たちは、派遣されて、何をするのでしょうか。

主イエスは、23節で、「罪の赦し」を伝えなさい、と言われています。主イエスの十字架は、私たちに、罪の赦しを、もたらしてくれました。

派遣された者は、この罪の赦しの福音を、伝えなさい、と言われているのです。

もし、私たちが、この福音を、真剣に伝えないなら、世の人々の罪は、赦されないまま、残ってしまうのです。教会は、この世にあって、罪の赦しの福音を、委ねられているのです。

教会は、罪を告白する、悔い改めの場であり、また、罪の赦しを受ける場でもあるのです。

教会が、この赦しの福音を伝えないなら、人々の罪が、赦されることはないのです。

ですから、主イエスは、私たちを遣わされるのです。

ここにある「遣わす」という言葉から、英語のエンジェルという言葉が、生まれました。

御言葉は、私たちは皆、エンジェルであると言っています。私たちは、罪の赦しを告げる、エンジェルとなる務めを、委ねられているのです。

皆さん、私たちは皆、エンジェルなのです。「エー、私がエンジェルだなんて」、と言って、恥ずかしがることはありません。

神様は、こんな私たちをも、福音を伝えるための、エンジェルとして、用いて下さるのです。

ですから、私たちは、お互いを、エンジェルとして、敬い合い、尊び合いたいと思います。

さて、復活された主イエスは、弟子たちに、息を吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」、と言われました。

「聖霊を受けなさい」。この主イエスの約束が、実現したのは、ペンテコステの日です。

しかし、主イエスは、この時、ペンテコステの出来事に先立って、弟子たちに、その備えのための霊を、注いでくださったのです。

主イエスは、息を吹きかけてくださいました。主イエスご自身の息です。復活された主の、命の息です。それを、弟子たちに、吹き込んでくださいました。

弟子たちが、主イエスから、託された御業を、成し遂げられるように、聖霊の息を、吹きかけてくださったのです。

今年度の主題聖句にもあるように、主の御業を成し遂げる力は、私たちの内にあるのではなく、聖霊によって、与えられるものなのです。

主イエスは、今この時も、私たちに、聖霊の息を、吹きかけてくださっています。

私たちが、エンジェルとしての、務めを果たしていけるように、聖霊の息を、吹きかけてくださっています。教会は、主の命の息である、聖霊に満ち満ちている場所です。

この礼拝は、聖霊の爽やかな風が、吹きわたっている場所です。

ですから、礼拝において、私たち一人ひとりは、主の命の息である聖霊を、胸いっぱいに吸い込み、それに満たされることが大切です。

皆さん、どうか、礼拝において、聖霊を胸いっぱいに、吸い込んでください。

心の扉に鍵を掛けておられる方は、主イエスに対して、心を大きく開いてください。

そして、「あなた方に平和があるように」、という主イエスのお言葉によって、恐れや不安から解き放たれてください。主イエスは、そのことを、ひたすらに願っておられるのです。

どうか、目を開いて、私を見て欲しい。私は、いつもあなたと共にいる。どうか、心を開いて、私の、命の息を、思い切り吸い込んで欲しい。主イエスは、今も、私たちにそう語り掛けておられます。その御言葉に応えて、ご一緒に、歩んで行きたいと思います。