MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「その名を信じる信仰」

2018年06月17日 聖書:使徒言行録 3:11~20

今朝の御言葉は、ペトロによる、癒しの奇跡に続くできごとを、伝えています。

エルサレム神殿の入り口に、「美しい門」と呼ばれる門があって、そこに、生まれてから、まだ一度も、自分の足で歩いたことがない、男の人が、人々に運ばれてきて、そこに置かれました。その人は、毎日、そうやって運ばれて来て、そこで、神殿に上る人たちに、施しを乞うて、その日の糧を得ていたのです。

彼は、自分がどんなに惨めで、不幸であるかを、切々と訴えながら、道行く人々に、憐れみを求めていたのです。

丁度そこに、ペトロとヨハネが通りかかり、彼をじっと見つめ、「私たちを見なさい」、と言いました。彼が、何かもらえるのだろうかと期待して、二人を見つめると、ペトロは、意外なことを言いました。

「私たちには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」。

ペトロは、そう言って、その人の右手を取って、立ち上がらせたのです。

すると、その人の足やくるぶしが、しっかりして、踊り上がって立ち上がり、歩き出しました。その人は、40歳くらいであった、と書かれています。

40年間、一度も歩いたことがなかった人が、踊り上がって、歩き出し、神様を賛美しながら、ペトロとヨハネの後について、神殿に入って行ったのです。

「美しい門」は、神殿への入り口の門でしたから、神殿に上る人たちは、皆この門を通って行きました。ですから多くの人が、そこで物乞いをしていた、この人の事を、知っていました。

神様の祝福から漏れた、可哀そうな男。そんな目で、この人のことを見ていました。

ところが、その人が、立ち上がって、踊りながら、神様を賛美している。

それを見て、人々は、本当に驚きました。

「一体、あそこで踊っているのは誰だ。物乞いをしていた、あの足の不自由な男に、よく似ている。いや、確かに、あの男だ。でも、そんなことはあり得ない。

あの男が、踊っているなんて、あり得ない。一体何が起こったのか」。

人々の間に、恐れにも似た、衝撃が走りました。

そもそも、聖なる神殿で、踊っていること自体が、異常なことです。

しかも、その踊っている人が、「美しい門」で物乞いをしていた、あの男だというのです。

そんなこと、とても、信じられない。

さっきまで、あの「美しい門」の傍らに座り込んで、「私は惨めで、憐れな者なのです。神様の祝福から漏れて、神様の恵みに与れない、不幸な者です。どうかお慈悲をください」、と言ってお金を求めていた。まさにその男が、神様を称えながら、踊っている。

今まで、本当に暗い、悲しそうな顔をして、道端に座っていた。その人が、にこにこしながら、満面に笑みをたたえながら、嬉しくて堪らない、という風に、顔を輝かせて、踊っている。

あまりの変わり様に、同じ人だとは、俄かに思えなかった人もいたと思います。

確かに似ているけれど、違う人ではないか、と思った人もいたと思います。

人は、悲しんでいる時と、喜んでいる時では、表情が全く変わります。

「私はずっとあの男を見てきたが、いつも悲しそうな、暗い顔をしていた。あの男が、あんなに喜ぶ顔を、見せる筈がない」。そう思った人もいたと思います。

私は、神様の祝福から漏れている。神様の恵みは、私には届かない。神様は、不公平なお方だ。そういう思いで、40年間も過ごしてきた人が、「神様は素晴らしい、神様の恵みはなんて素晴らしいのだろう。神様に感謝します」、と言って踊っている。

それを見て、人々は、恐れを抱くほどに、驚いたのです。

やがて、ペトロとヨハネは、神殿での祈りを終えて、帰るために、神殿の境内の一番外側にある、「ソロモンの回廊」と呼ばれる、長い渡り廊下へと向かいました。

足を癒された人は、尚もペトロとヨハネに付きまとって、踊りながら、後についていきました。

生まれてから一度も、立ったり、歩いたり、したことのなかった、この人が、自由に立って歩くことができるようになった。その喜びと感謝に満ち溢れて、神様を賛美しながら、ペトロとヨハネの周りを、踊り回っている。それは、とても目立つ光景です。

ですから、多くの人々が、彼らのところに、一斉に駆け集まって来ました。

多くの人が、駆け集まって来た。何故でしょうか。驚くべきことが、起こっていたからです。

そこに、神様の御業が、顕されていたからです。

あそこに行けば、神様の素晴らしい御業を、見ることができるらしい。もし、そうなら、何が何でも、見に行かなくてはならない。そう思った人たちが、駆け寄ってきたのです。

11節の「集まってきた」という言葉を、多くの英語の聖書は、走ってきた、と訳しています。

ただ、フラフラと集まってきたのではないのです。走って駆けつけたのです。

私たちは、教会に人々を集めるために、苦心しています。

一人でも多くの人が、教会に来てくださることを祈って、様々なことを、企画します。

何とか、人を集めようとしています。でも、なかなか人は集まりません。

一方、この時、ペトロとヨハネは、人を集めるために、何もしていません。人々の方から、駆け集まってきたのです。

「かき集める」と「駆け集まる」。発音はよく似ていますが、意味は全く異なります。

私たちは、人々を、「かき集める」ことばかりに、心を向けて、人々が、「駆け集まる」教会を、造り上げることを、忘れているのではないでしょうか。

もし、教会で、神の言葉が、活き活きとして語られ、教会の人々が、喜びに満ち溢れて、それこそ満面の笑みを湛えて、神様を称えているなら、人々は、教会を無視することが、できなくなる筈です。

一体、あそこで、何が起こっているのだろう。なぜ、あそこに集まっている人たちは、あんなに嬉しそうに、「神様は素晴らしい」、と口を揃えて、言っているのだろう。

神様の何が、そんなに素晴らしいのだろう。なぜ、あんなに楽しそうな、交わりをしているのだろう。その訳を知りたい。そして、私も、その交わりの輪に、入れてもらいたい。

そう思って、人々は、教会を訪ねてくる筈です。「かき集める」教会から、「駆け集まる」教会に、変えられていく筈です。

今、茅ヶ崎恵泉教会は、そのような喜びの教会に、なっているでしょうか。人々が、不思議だと思うような、神様の御業が、ここに、顕れているでしょうか。

もし、そうなっていないなら、先ず、私たち一人一人が、そのような教会になることを、心を尽くして、祈っていきたい、と思います。「かき集める」教会から、「駆け集まる」教会に、変えられることを、真剣に祈っていきたいと思います。

さて、生まれてから40年間、一度も立ったことがなく、歩いたこともなかった人が、踊りながら、神様を賛美しているのを見て、多くの人が、驚いて集まってきました。

そこでペトロが、この奇跡について、力強く説明します。今朝の御言葉はペトロの説教です。

ペンテコステの日に、聖霊の注ぎを受けたペトロは、今や、あらゆる機会を捉えて、主イエスのことを、証ししたいと願っています。ですから、この機会も、伝道の絶好の機会だと、捉えて、さっそく人々に、伝道メッセージを語り出したのです。

日本を代表する大衆伝道者と言われた、本田弘慈先生も、とにかく、いつでも、どこでも、伝道した方でした。いつもポケットに、トラクトを忍ばせていて、電車でもバスでも、隣に座った人と目が合うと、必ずトラクトを渡したそうです。

本田先生が、地方の教会の、伝道集会に、招かれた時のことです。その教会の配慮で、温泉宿に泊めてもらうことになりました。

温泉に浸かっていると、後から来た客が、お湯に身を沈めながら、「あー、天国だ」、と言ったそうです。すると、本田先生は、すーと、その客に近づいて、「ねぇ、ねぇ、あなた、本当の天国って、どんな所だかご存知ですか」と尋ねて、伝道を始めたそうです。

人懐っこい本田先生のお人柄だから、受け入れられたのでしょうが、私たちが、下手に真似をすると、逆に怒りを買ってしまいそうです。

それにしても、いつでも、どこでも、伝道しようとする、熱心さには、頭が下がります。

ペトロも、そうでした。この時、大勢の人が、駆け寄って来ました。ペトロは、この機会を逃すことなく、力強く、伝道メッセージを、語り出したのです。

ペトロは、こう言いました。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」。

あなた方は、どうして、こんな不思議な出来事が、起こったのかと、驚き、怪しんでいます。

しかし、驚くには当たりません。「イエスの名」が、彼を強くしたのです。「イエスの名を信じる信仰」によって、この人は、完全に癒されたのです。確信に満ちた、大胆な宣言です。

「エルサレムの皆さん。もし、私たちの力や信心によって、この人が癒された、と思っているなら、それは大きな間違いです。私たちの力ではないのです。

この人が、こうして癒されて、今、あなた方の前に立っているのは、あなた方が、十字架に掛けて殺した、あのナザレの人、イエス・キリストの名によるのです。

イエスの名を信じる、信仰によるのです。あなた方は、こんなにも力あるお方を、命への導き手であるお方を、殺してしまいました。でも神様は、このお方を、復活させられたのです。

私たちは、そのことの証人なのです。」

これは、心の底から、絞り出されたような、ペトロの証言です。いえ、ペトロの叫びです。

この癒しの業は、イエス・キリストの力によって、なされたのだ、とペトロは宣言しています。

人々は、この男の人を立ち上がらせたのは、ペトロとヨハネの力だと誤解して、二人を偉大な人物として、祭り上げようとしていました。

しかし、そのような誤解は、ペトロにとって、最も避けたいことでした。断じて、そのままにしておくことは、出来ませんでした。

ですから、ペトロは言いました。「神は、その僕イエスに、栄光をお与えになりました」。

栄光をお受けになるのは、主イエスただお一人なのです。この私ではありません。どうか誤解しないでください。これは、ペトロの切実な願いです。

私たちは、神様から、それぞれ賜物を頂いています。その賜物が用いられて、思わぬ成果を上げることが、あるかも知れません。でも、そんな時は、このペトロのように、自分に栄光を帰すのではなく、どこまでも、主に栄光を帰していく者とされたい、と思います。

賜物を与えてくださり、そして用いてくださった主に、栄光を帰していくのです。

なぜなら、すべての救いと恵みは、主イエスから来るからです。

大切なことは、その救いと恵みの源である、主イエスを、どこまでも信じることです。

主イエスには、私たちを救う力がある。主イエスの恵みは、私たちの思いを超えて、働かれる。そのことを信じ切ることです。

生まれてから40年間、一度も歩いたことがなかった人が、立ち上がって、躍りだす。

誰が、そんなことを、想像できたでしょうか。しかし、主イエスは、その男の手を取って、立ち上がらせ、歩かせたのです。そのことを信じるかどうか。それが問われています。

主イエスには、力がある。それを、本当に信じるかどうか。

主イエスは、力を持っておられ、私たちを、救うことがおできになる。私たちに力を与え、私たちを立ち上がらせ、私たちを慰めることが、おできになる。

それを、信仰をもって、受け止めるかどうか。それが問われているのです。

目の前にある問題が、どんなに大きくても、どんなに難しくても、このお方は、そこから、私たちを救うことがおできになる。その信仰に立つことが、大切なのです。

しかし、そういう言葉を聞くと、私たちは、ひるんでしまいます。私には、とても、そんな立派な信仰はない。どうしたらよいのだろうか。そう思って、落ち込んでしまいます。

16節に、「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前で、この人を完全に癒したのです」、とあります。

この人を歩かせたのは、確かに、主イエスの御力であり、また、その呼びかけに応えて、手を差し伸ばした、この人の信仰でした。

しかし、ここに、もう一つのことが、書かれています。それは、「イエスによる信仰が、この人を完全に癒した」、という言葉です。

「イエスによる信仰」。この言葉は、ある聖書では、「イエスによって与えられる信仰」、と訳されています。主イエスによって、与えられる信仰。この男の人が癒されたのは、主イエスを信じる信仰と共に、主イエスによって与えられる信仰にも、よるのだと言っているのです。

この人の信仰は、藁にもすがるような、信仰です。この人が、堅い決心をして、揺るがない信仰を、持つに至った訳ではありません。

ペトロの言葉に促されて、手を差し伸べた。それだけの、まことに心もとない信仰です。

でも、御言葉は、信仰そのものも、主イエスによって、与えられるものだ、というのです。

主イエスご自身が、惹き起こしてくださり、育ててくださるものなのだ、というのです。

私たちは、信仰を持つことの大切さを、繰り返して教えられています。信仰を強めることの、重要性を、嫌というほど聞かされています。

でも、それがどれほど難しいこと。それも、痛いほど経験しています。

大きな困難に出会った時、難しい選択を迫られた時、信仰による決断をするよりも、自分の経験や知識に基づいて、決断してしまう。そういうことが多い。いえ、殆どそうしてしまう。

どうしていいか分からないような、大きな苦難の中で、尚も、そこで、神様が、必ず御業をなしてくださる、と信じていくことは、簡単な事ではありません。

「主よ、目の前の現実を見るとき、とても、あなたの御業を信じます。あなたのご計画に、委ねます」、と祈れません。そう告白せざるを得ない時が、あるかも知れません。

でも、主イエスによって与えられる信仰が、この人を立ち上がらせたのです。

自分の力によって、自分の中から、生まれた信仰ではなくて、主イエスによって、与えられた信仰。それが、この人を立ち上がらせたのだ、と御言葉は、言っているのです。

主イエスには、力がある。主イエスなら、お出来になる。苦難の時にも、神様は、必ず働いてくださる。

真正面から、そういうことを、聞かされる時、私たちは思うのです。そうか、やはり、私たちの信仰の強さが、鍵なのか。そうであるなら、私など、とても、信仰者とは言えない。

でもペトロは、そうは言わないのです。主イエスによって与えられる信仰が、この人を生かしたのだよ。そして同じように、主イエスによって与えられる信仰が、あなたを生かすのだよ。

だから、あなたは、信仰が与えられるように、祈りなさい。

自分には、強い、確かな信仰がありません。どうか、確かな信仰を、授けてください。

どうか主イエスの御力を信じることができますように、信仰を強めてください。

そのように、祈りなさい、とペトロは勧めているのです。

御言葉は、言っています。確かな信仰がないと、嘆いているあなた。そんなあなたに、主イエスによって、信仰が与えられるのです。信仰そのものも、神様からの賜物なのです。

神様が、私たちの内に、働いてくださって、信仰を惹き起こしてくださるのです。

私たちの内に働いてくださる、主イエスが、信仰を惹き起こし、育ててくださるのです。

信じるのではなく、信じさせていただくのです。信仰さえも、神様からの賜物なのです。

ですから、今、洗礼を受ける決断ができずに、ためらっている方がおられるなら、どうか自分の足らなさに、目を向けるのではなく、信仰を惹き起こし、育ててくださる、主イエスに目を向けてください。自分の力ではなく、主イエスの力に、より頼んでください。

そして、「主よ、私に信仰を授け、育ててください」と、どうか祈ってください。

主は、必ず、必要な助けを与えてくださいます。そして、あなたを立ち上がらせ、躍り上る喜びに、満たしてくださいます。

主イエスは、言われています。「信仰生活に不安を覚えているあなた。大丈夫ですよ。十字架で命をささげるほどに、私はあなたを愛しています。私が、その愛をもって、あなたを守り、あなたを支えていきます。だから、私から、目を逸らさずに、私の愛の中に留まりなさい」。

この主イエスの呼び掛けに応じて、共に歩んでまいりたいと思います。