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柏牧師:過去の礼拝説教

「天使の顔を持つ人」

2018年07月29日 聖書:使徒言行録 6:1~15

先程、読んで頂いた、使徒言行録6章には、初代教会に起こった、ある問題と、教会がその問題に、どのように対処していったかが、語られています。

初代教会の人たちは、すべての財産を共有し、それを必要に応じて分け合っていました。

既に学んだ、4章34節、35節には、このように書かれていました。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」。

教会は、このように、素晴らしい群れとして、人々に尊敬され、驚きをもって、眺められていました。しかし、実は、その教会にも、トラブルが生じていたのです。

私たちは、教会にもトラブルがある、などと聞きますと、そんなことは、あってほしくないと思います。しかし、あの恵みに満ちていた初代教会にも、残念ながら、トラブルは存在したのです。それは、教会といえども、弱い不完全な、人間の集りだからです。

教会は、何の問題も起らない、天国のような所ではありません。

同じ信仰に立っている群れなのですから、対立や争いは起らない筈なのです。でも、残念ながら、現実は、そうではありません。

使徒言行録は決して、理想的な教会の姿を、伝えている訳ではありません。弱い人間の集まりである、教会のありのままの姿を、語っています。

しかし、そのような教会を、神様が、どこまでも愛してくださり、その不完全な教会を通して、聖霊が力強く働かれたことが、書かれているのです。

では、そのもめ事とは、一体何だったのでしょうか。1節に、こう書かれています。

「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」。

教会は、ユダヤ人権力者たちからの、激しい迫害にも拘らず、日々成長し、信徒の数は、急速に増えていきました。

初めは、一部屋に収まるほどの、ほんの一握りの人たちでしたが、今や何千人もの人たちが、教会に加わっていたのです。

そういう群れ中に、背景の異なった、二つのグループが、誕生しました。

「ギリシア語を話すユダヤ人」と、「ヘブライ語を話すユダヤ人」のグループです。

この二つのグループの間で、もめ事が起こったのです。

バビロン捕囚によって、強制移住させられた、ユダヤ人の多くは、捕囚から解放された後も、エルサレムに戻らずに、当時の地中海世界の各地に、散らされて住んでいました。

そういう、離散したユダヤ人は、何世代も経つうちに、当時の世界共通語だった、ギリシア語に慣れ親しみ、それを使うようになっていきました。彼らは、住み着いた町に、ユダヤ教の会堂を建て、毎週安息日を守り、ギリシア語で礼拝をしていました。

このような離散したユダヤ人の中には、先祖の地である、エルサレムに帰って来た人たちもいました。しかし、彼らは、ヘブライ語を、十分に話すことが、できませんでした。

ですから、エルサレムに戻っても、ギリシア語で生活をしていたのです。そして、キリスト教の洗礼を受けて、クリスチャンになった後も、ギリシア語で礼拝を守っていました。

「ギリシア語を話すユダヤ人」とは、そういう人々です。

それに対して「ヘブライ語を話すユダヤ人」とは、ずっとイスラエルの地に住み続けていて、ヘブライ語を話している人たちのことです。

話す言葉が違うために、これら二つのグループの間のコミュニケーションは、必ずしも上手くいっていませんでした。

私は20代の後半、3年間ほど、ニューヨークの日系人教会に、在籍していました。

ですから、このあたりの事情は、少し分るような気がします。

日系人教会には、日本語を話す一世の方と、英語を話す二世、三世の方がいました。

これらの人々が、一緒に礼拝を守っていました。司式や、説教の言葉も、英語で言った後で、同じことを、日本語で言い直します。

英語と日本語で、同時に、主の祈りがささげられ、讃美歌が歌われました。日本語で歌っている人の傍らには、同じ曲を英語で歌っている人がいたのです。

教会総会は、英語が基本でしたが、英語に不自由を覚える人は、日本語で発言し、それを通訳してもらっていました。時間もかかりますし、意志がよく通じ合わないままで、終ってしまうことも、しばしばあったように、記憶しています。

初代教会にも、これと似たような、言葉の違いからくる、コミュニケーションの問題があったのです。そして、更に、その根底には、差別意識もあったようです。

「ヘブライ語を話すユダヤ人」たちは、自分たちは、「生粋のユダヤ人」であると、秘かに誇っていました。そして、外地帰りの、ギリシア語を話す人たちを、民族の伝統を失った人たちとして、軽蔑するきらいがありました。

当時のユダヤ人社会にあった、差別意識や対立が、教会の中にも持ち込まれていたのです。教会は社会の縮図です。社会の様々な問題と、無関係ではいられません。

礼拝を終えて、一歩外へ出れば、社会の一員として、生きている私たちです。

ですから、社会と無関係に、信仰生活を送ることは、できないのです。

それでは、教会は、社会と全く同じかというと、決してそうではありません。

教会には、社会一般にはない、強い基盤があります。皆が、その上に立っています。

では、その基盤とは、何でしょうか。言うまでもなく、それは「信仰」です。

教会は、「信仰」という、強い絆で結ばれた、人たちの群れなのです。

今朝の御言葉は、そのことを、別の言葉で、具体的に言い表しています。

それは、「弟子」という言葉です。「そのころ、弟子の数が増えてきて」と書かれていました。

ここにある「弟子」とは、主イエスの十二弟子、つまり使徒たちのことではありません。

教会に加わった、すべての信徒たちのことです。この「弟子」という言葉は、使徒言行録に特徴的な言葉です。この先も、使徒言行録においては、信徒のことを「弟子」と呼んでいます。

つまり、信仰を持つとは、主イエスの弟子になることだ、と言っているのです。

教会は、主イエスの弟子たちの群れなのです。教会員は、皆、主イエスの弟子なのです。

皆さん、私たちには、その自覚があるでしょうか。「私は、クリスチャンです」、と自己紹介することはあるでしょう。でも、「私は、主イエスの弟子です」、と言うことができるでしょうか。

「私は、主イエスの弟子です」。この言葉には、自分は、主イエスに弟子入りした者として、師匠である主イエスを見習い、主イエスに仕え、主イエスに従って歩んでいきます、という思いが、含まれています。そう聞きますと、「私は、主イエスの弟子です」、と宣言することを、ためらってしまうかも知れません。

しかし、御言葉は、「信徒となったあなたは、もう主イエスの弟子なのですよ」、と言っているのです。皆さん、私たちは、すべて、主イエスという、同じ師匠を仰ぐ、弟子なのです。

教会員は、「主イエスの弟子である」という、ただこの一点において、共通しています。

私たちを結び合わせている、強い絆。それは、主イエスの弟子である、という絆です。

あの人とは、どうも気が合わない、考え方が違う、生活習慣が異なる、だから親しくなれない。そう思う人であっても、共に主イエスの弟子として、教会に連なっているお互いなのです。

教会においても、もめ事は起ります。

しかし、それは、主イエスの弟子である者たちの間での、もめ事なのです。

同じ主人を信じ、同じ主人に従っている、者たちの間でのことなのです。

その共通の土台の上に、しっかりと立つことができるならば、それを乗り越えていく道が、必ず開かれる筈です。私たちは、そのことを信じて、歩みたいと思います。

さて、初代教会に起こったもめ事ですが、それは、ギリシア語を話すユダヤ人たちから、「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられている」、という苦情が寄せられたことでした。

初代教会においては、信者たちが、互いに支え合い、持ち物を分かち合って、生活していました。それは素晴らしい信仰の実りです。周囲は、そのことを尊敬の目で見ていたのです。

ところが、よりにもよって、その分かち合いのことで、もめ事が生じたのです。

多くの場合、教会におけるもめ事は、所謂、善いことをしようとしている時に生じます。

何故なら、自分は善いことをしている、と思っている時に、人は、しばしば独善的になり、傲慢になり易いからです。これは私たちも、常に心に留めておかなくては、いけないことです。

では、このもめ事に、教会は、どのように対処したのでしょうか。使徒たちは、弟子たち、つまり信徒全員を集めて、一つの提案をしました。

その提案とは、日々の分配の業を担う、7人の奉仕者を、新たに選び出すことでした。

一同はこれに賛成して、ステファノを始めとする7人を選び、奉仕者として立てました。

弟子の数が増えてきた、という状況の変化に対応して、教会が、新しい組織と体制を整えたのです。もめ事が起きたから、分かち合いを、もう止めてしまおう、というのではなくて、善い働きを、更に成長させるための、積極的な対応がなされたのです。

使徒たちは、言いました。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」。「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。

使徒たちが、7人の奉仕者を立てることを提案した、本当の目的。それは、そうした方が、分配が問題なく行われるから、ということではありませんでした。

そうではなくて、神の言葉が、ないがしろにされないように、ということであったのです。

祈りと御言葉の奉仕が、しっかりとなされるためであったのです。

残念ながら、教会にも、いろいろな問題や、もめ事が起ります。それは、教会にとって、一つの危機である、と言えるかもしれません。

しかし、教会にとって、最も大きな危機は、神様の御言葉が、ないがしろにされることです。

御言葉が、大切にされず、御言葉に聞き従おうという、姿勢がなくなってしまうことです。

それは、どんなもめ事にもまさって、教会にとっては、致命的な危機です。

なぜなら。御言葉は、教会を生かす命だからです。

御言葉が、大切にされていないなら、どんなに活発な活動がなされていても、その教会は、命に生かされているとは、言えません。

御言葉が正しく語られ、それが真剣に聞かれる。そこに、教会の命があるのです。

そのためには、「祈りと御言葉の奉仕」が、しっかりとなされなければなりません。

ここでの「祈り」とは、個人的な祈りというよりも、礼拝における公同の祈りのことです。

礼拝において、御言葉が正しく語られ、教会のための、真剣な祈りがささげられる。

そのことによって、教会の命は守られるのです。

使徒たちの提案は、教会運営のために、新しい奉仕者を立てよう、ということでした。

しかし、本当の目的は、祈りと御言葉の奉仕を、しっかりと確立することにあったのです。

礼拝において、御言葉が正しく語られ、それが真剣に聞かれ、心からの祈りが献げられる。

このことこそが、もめ事を解決する対応の、中心だったのです。

教会におけるすべての問題は、御言葉と祈りによって、真実の解決へと、導かれるのです。

そのために、変えるべきことは変え、捨てるべきものは捨て、新しい奉仕者が必要なら、それを立てていったのです。

そして、それによって、教会は、更に力強く成長していったのです。

7節にそのことが語られています。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」。

祭司も大勢、信仰に入ったというのは、驚きですが、教会員一人一人が、御言葉と祈りによって、豊かに養われ、伝道する力を、与えられたことの実りが、そのように表れたのです。

さて、教会員の世話をするために、選ばれた7人の中でも、とりわけ「信仰と聖霊に満ちている人」、として紹介されているのが、ステファノでした。

ステファノは、ギリシア語を話すユダヤ人で、奉仕者として、よい働きをしただけでなく、十二使徒と同じように、説教をしたり、癒しの奇跡を行ったりもしていました。

8節に、「さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」、と書かれている通りです。

ところが、このステファノの活躍が、教会に対する新たな迫害を、引き起こすこととなりました。それは、ステファノが、クリスチャンになる前に属していた、ギリシア語を話すユダヤ人のグループからの迫害でした。

ステファノの働きが、活発になるにつれて、かつての仲間であった、ギリシア語を話すユダヤ人の中から、彼に敵意を抱く人々が出てきました。

9節に記されている、「キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々など」、がそういう人たちであったのです。

エルサレムの都には、神殿以外にも、ユダヤ教の会堂があって、それらのなかには、ギリシア語を話すユダヤ人のための会堂もありました。

その一つが、「解放された奴隷の会堂」、と呼ばれるものでした。

ローマ帝国がユダヤを征服した時に、多くのユダヤ人が、奴隷として連れて行かれました。

そして、ローマ帝国の各地に散らされて、苦難の生活を送りました。

やがて奴隷の身分から、解放された人々が、エルサレムに戻って、礼拝のために建てたのが、「解放された奴隷の会堂」であったのです。

この会堂に属していたのは、北アフリカのキレネとアレクサンドリアの出身者でした。

またエルサレムには、その他にも、ギリシア語で礼拝をしていた、ユダヤ教の会堂があって、その一つが、今のトルコにあるキリキア州と、アジア州の出身者のための会堂でした。

使徒パウロも、キリキア州の出身ですから、この会堂に出席していた、可能性があります。

これらの会堂に属する人たちが、ステファノを激しく攻撃してきたのです。

ところが、10節にあるように、ステファノが、「知恵と〝霊″とによって語るので、歯が立たなかった」、というのです。

聖霊に満たされたステファノを通して、主イエス御自身が、語っておられたからです。

かつて、ユダヤ人たちは、主イエスと何度も議論をしましたが、一度も勝つことができませんでした。それと同じことが、この時も起こったのです。

議論では勝てないと分かった彼らは、民衆を扇動して、また長老や律法学者たちをも巻き込んで、ステファノを捕えて、最高法院に引き立てていきました。

そして、主イエスの裁判の時と同じように、嘘の証言をする人が立てられました。

しかし、ステファノは、それらの理不尽な行為にも、まったく動じる気配を見せませんでした。

それどころか、ステファノの顔は、「さながら天使の顔のように見えた」のです。

これは、驚くべきことです。人間は、普段穏やかな人でも、不当な中傷を受けたりすると、激高するものです。それなのに、ステパノは、憎しみと嘘の訴えに、囲まれていながら、心が乱されることもなく、その表情は天使のようであったというのです。

天使の顔とは、どのような顔でしょうか。有名な画家によって、様々な天使の顔が描かれていますが、誰も、実際に見たことがないので、どんな顔か分かりません。

でも私たちは、よく赤ちゃんの顔を見て、「天使のようだね」、と言うことがあります。

全く無力で小さな赤ちゃんが、母親に抱かれて、安心しきった表情を示している時に、よくそう言います。それは、絶対に自分を守ってくれる人に抱かれた、平安に満ちた顔です。

ステファノは、そのような天使の顔を、していたのかもしれません。

不利な立場に立たされ、死を目前にしているにも関わらず、主イエスを信じ切って、その大きな救いの中に、自分を全く委ねた、安らぎに満ちた顔であったのだと思います。

心から主に信頼し、聖霊に満たされていたのだと思います。

翻って、私たちは、どのような顔をしているでしょうか。 ステファノには、とても及ばないとしても、主にある平安が、その顔から、滲み出てくるような者でありたい、と願います。

その人の傍にいるだけで、心が安らぐ。そのような者とさせて頂きたいと思います。

とても高いゴールですが、それを目指して、お互いに助け合い、励まし合いつつ、歩んで行きたいと思います。

御言葉と祈りによって、養われつつ、聖霊の満たしを、願い求めていきたいと思います。