MENU

過去の礼拝説教

「人ではなく神に従うべき」

2018年07月15日 聖書:使徒言行録 5:33~42

私は、小学校時代は、先生をてこずらせる、クラスで一番の悪ガキでした。

授業中におしゃべりばかりしているので、しょっちゅう立たされました。立たされても、おしゃべりを止めないので、ある時、廊下に立たされました。

その時は冬で、とても寒かったので、「こんな寒い所に立っているのは健康に良くない」、と自分なりに判断し、家に帰ってしまいました。

当時、我が家は、学校の隣でしたので、直ぐ帰れました。家で炬燵に当たっていると、母が私を見て、「あれ明史、学校どうしたの」、と尋ねたので、私は正直に、「先生が、廊下に立っていろ、と言ったけど、こんなに寒い日に、廊下に立たせるなんてひどいと思って、帰って来た」、と答えました。

すると母は、烈火のごとく怒って、「今すぐ、学校に戻って、先生に謝りなさい」、と言いました。仕方なく学校に戻ると、先生は私を探している所でした。

寒い廊下に、長く立たせておくのは可哀そうだから、許してやろうと思って、廊下に出たら、私はいません。心配になって、トイレに探しに行きましたが、そこにもいません。

どうしたものか、と当惑している所に、私がひょっこりと帰って来たのです。

家に帰っていた、と聞いて先生は、物凄く怒って、廊下にチョークで丸を書いて、「この輪から出てはいかん」、と厳しく言われました。

休み時間になって、他のクラスの子たちが、面白がって見に来ました。かなり恥ずかしかったことを、憶えています。

今になって思うと、あの時、先生は、廊下にも、トイレにも、私がいないので、かなり慌てたのではないかと思います。

いる筈の人が、そこにいない。その時、人は当惑します。どうしようかと思います。

状況は全く異なりますが、今朝の御言葉には、牢に閉じ込めた、使徒たちが、突然いなくなったので、当惑したユダヤ人指導者たちのことが語れています。

ペンテコステの日に誕生した初代教会は、急速に成長していきました。

使徒たちの語る救いの言葉を聞いて、また、不思議な癒しの業を見て、大勢の人たちが、その群れに加わったのです。ところが、教会が、そのように人々から尊敬を受け、称賛されているのを見て、妬む人々がいました。

今朝の御言葉の冒頭には、「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は、皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕えて公の牢に入れた」、とあります。

初代教会に働く神様の力が、人々の心を、捉えたのを見て、ユダヤの権力者たちは、再び激しい妬みを起こし、使徒たちに対する迫害を開始したのです。

大祭司やサドカイ派は、かつてペトロとヨハネが、主イエスの復活について、説教しているのを見て、怒りを覚え、二人を捕らえて牢に入れた人々でした。

そして、彼らは、最高法院の場で、今後は決して、イエスの名によって、話したり、教えたりしてはならない、と厳しく命じました。

ところが、使徒たちは、彼らの伝道禁止命令にも拘らず、ますます熱心に、主イエスの十字架と復活を、宣べ伝えました。それを知って、彼らは以前よりも、更に怒りました。

そして今度は、ベトロとヨハネだけではなく、使徒たち全員を捕らえて、「公の牢」に入れてしまいました。留置場ではなく、正式な牢に入れたのです。

ところが、二度目の投獄の時には、一回目にはなかった、不思議な出来事が起こりました。

「夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し」た、と書かれています。

何と、神様が、天使を用いて、使徒たちを解放したのです。

では神様は、何のために、使徒たちを解放されたのでしょうか。どこか遠くの地に、使徒たちを逃がすためでしょうか。

そうではありません。更に大胆に、キリストの福音を宣べ伝えるためです。

天使は、使徒たちに、このように命じました。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」

牢から出て、どこかに身を隠すのではなく、神殿の境内に立って、命の言葉を、残らず民衆に告げなさい、というのです。そのために、彼らは解放されたのです。

捕らえられていた牢から出る、というのは脱獄です。それが見つかれば、命を危険にさらすこととなります。

しかし、命を危険にさらしてでも、「命の言葉」である、主イエスの十字架と復活の福音を、宣べ伝えなさいと、天使は命じたのです。

使徒たちは、この天使の言葉に従って、夜明けごろ境内に入って、教え始めました。

それは命懸けの行為でした。

命を懸けるということは、そう簡単に出来ることではありません。でも、使徒たちは、ためらわずに、神殿の境内に入って、教え始めたのです。

夜明けです。まだ人も少ない時です。しかし、使徒たちは、少しの時間も惜しんで、一人でも多くの人に、命の言葉を告げるために、夜が明けるや否や、教え始めたのです。

わざわざ神殿の境内で教える。これは、最も目立つ行為です。

そういうことをすれば、また、捕らえられることは、分かり切っていました。でも、使徒たちには、一点の迷いも、曇りもありませんでした。

主イエスを見捨てて逃げた、不信仰で弱い私たちが、このように赦され、生かされ、用いられている。そして、神様の不思議な御力によって、牢からも助け出された。

神様が、こんな私たちのために、その尊い御力を用いてくださっている。そこまでして、私たちを守ってくださり、こんな私たちに、尚も期待してくださっている。

この恵みに迫られた時、じっとしてはいられなかったのです。語らざるを得なかったのです。恵みの迫り。これこそが、使徒たちを動かした、伝道の原動力です。

そして、その恵みの迫りは、今も、私たちを動かしている、原動力なのです。

伝道とは、教理を語ることではありません。或いは、主イエスに関する情報を、提供することでもありません。語る者自身が、主イエスの十字架と復活の恵みに与り、それによって生かされている現実を、証ししていくことなのです。

使徒たちは、その恵みに押し出されて、夜が明けるのを待ち切れずに、伝道へと向かったのです。この時、使徒たちには、権力者を刺激しないように、うまく教会を守っていこう、というような、保身的な考えは、全くありませんでした。

一方、大祭司たちは、最高法院を召集して、使徒たちを、裁判にかける準備を整えました。

ところが、いざ裁判を始めようとして、使徒たちを牢から引き出そうとしたところ、使徒たちは牢の中にいませんでした。牢には、しっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中には誰もいなかったのです。

この知らせを聞いた、祭司長たちは、「どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った」、と書かれています。

彼らは、神様ご自身が、天使を用いて、使徒たちを解放したなどとは、思ってもいません。

きっと、使徒たちの仲間が、彼らを助け出したのだろう、と思ったのです。それなら、一体、あの者たちは、これから何をするつもりなのだろう。

民衆の支持をバックにして、暴動でも起こすかもしれない。もし、そんなことが起これば、一体、どうなることになるのか。祭司長たちは、困惑の極みにありました。

ところが、そこにもう一つ、彼らを驚かせるようなニュースが、飛び込んできました。

「ご覧なさい。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆を教えています」。

この知らせに、彼らは、内心ほっとしたかもしれません。まだ、神殿の境内にいるのか。

それなら、また、彼らを捕えればよい。そこで神殿の守衛長が、下役たちと一緒に行って、使徒たちを再び捕らえ、最高法院に、引き立てました。

大祭司たちは、宣教禁止命令が、守られなかったことに、怒りを覚えて、詰問しました。

「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」。

厳しく命じておいた、宣教禁止命令に逆らうとは、一体何事であるか、と怒ったのです。

「それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」。これは、大祭司たちの、怒りの言葉です。

これに対して、使徒たちは、最高法院の前で、思い切って、大胆に語りました。

29~32節に、その言葉が記されています。「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます』」。

ペトロたちは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」、と明確に答えました。

以前、ペテロとヨハネが捕らえられて、「今後、イエスの名によって誰にも話すな」、と命じられました。その時、彼らは、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」、と力強く宣言しました。今回も、この言葉を、繰り返したのです。

度重なる脅しに遭っても、使徒たちの姿勢は、いささかも変っていません。

「命の言葉を残らず民衆に告げなさい」。使徒たちは、この神様の命令のみに、従いました。

この世の権力に、どんなに脅されようとも、使徒たちは、この神様の言葉に従うことに、命を懸けました。それが、聖霊に満たされた、使徒たちの生き方でした。

翻って、私たちは、この使徒たちのような、強い思いをもって、伝道に取り組んでいるだろうか、と考えさせられます。

使徒パウロは、次のように言っています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。

この御言葉を鏡として、自分自身を映してみる時、都合の良い時にしか伝道しない、といった自分勝手なやり方が、何と多いことだろうかと、思わされます。

使徒たちにとって、「命の言葉を語る」ことは、自分の生き方そのものでした。これを止めてしまったら、自分が自分で、なくなってしまうのです。ですから、語ることを止めることはできなかったのです。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。

この使徒たちの言葉と、28節の大祭司の言葉は、対照的です。

大祭司は使徒たちに、「お前たちは、イエスの血を流した責任を我々に負わせようとしている」、と言っています。

この言葉の中にあるのは、自分の身を守ろうとする、保身的な思いのみです。

でも使徒たちは、主イエスの死について、彼らの責任を、追求しようとしているのではありません。

「あなた方が、十字架につけて殺した主イエスを、神様は復活させられたのです。」

この言葉は、神様の救いのご計画が、成し遂げられたことを、語っているのです。

ですから、それを信じて、悔い改めて、罪の赦しを受けなさい、と勧めているのです。使徒たちの言葉は、悔い改めへの、招きなのです。

もともと使徒たちは、主イエスの十字架の責任を、権力者たちだけに、負わせようなどとは、考えていません。それは、民衆全体の責任なのです。そして、その民衆の中には、使徒たち自身も、含まれているのです。自分たちも、悔い改めて、赦された者なのです。

ですから、使徒たちは、民衆だけでなく、権力者たちも、悔い改めて、救われるように、願っていたのです。

使徒たちは、主イエスの復活と昇天は、「イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すためであった」、と言っています。

ということは、悔い改めさえも、神様から与えられる、賜物である、と言っているのです。

ともすれば、私たちは、悔い改めとは、自分の力でなすべきことで、罪の赦しは、その悔い改めの、見返りとして、与えられるものだ、と考えがちです。

しかし、ここでペトロが教えていることは、その悔い改め自体が、神様によって与えられるものである、ということなのです。

自分の力で頑張って、悔い改めるのではなく、聖霊が、私たちの心に、働いてくださる時に、私たちの心に、悔い改めが起こされるのです。そして、その聖霊が、この時、、使徒たちの心の中で、主イエスの十字架と復活を、証言し続けているのです。

聖霊なる神様ご自身が、使徒たちに、主イエスの十字架と復活を、証言させているのです。

ペトロが答えた、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」、という言葉。

この言葉も、自分の意思の力で、「人間ではなく、神に従うのだ」、と聞こえるかもしれません。しかし、そうではありません。この言葉を語ったのが、あのペトロである、ということを、想い起こしてください。

「主よ、御一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」、と豪語したペトロでした。でも、それにも拘らず、それから僅か数時間後に、三度も、「イエスなんて男は知らない。自分とは関係ない」、と言ってしまった、あのペトロなのです。

彼は、人間の意思や決意が、どんなに弱いものであるかを、思い知らされていました。

そのペトロが、「人間に従うよりも神に従う」、と言っているのです。

ですから、それは、自分の意思の力で、それを成し遂げようとしているのでは、ありません。

「人間ではなく神に従う」、ということは、私たち自身の力ではなく、私たちの内に働かれる、聖霊の御力によるのです。

聖霊が、私たちに働かれる時、私たちは「してやろう」ではなく、「させていただく」という思いに導かれます。その時、私たちは、「人ではなく神に従う者」に、造り替えられていくのです。

そのように、造り替えられ、神に従う生き方を、全うした人がいます。

2世紀の中頃、スミルナの教会の監督であった、ポリュカルポスという人です。

当時、既に、クリスチャンに対する、ローマ帝国の迫害は、厳しさを加えていました。

ポリュカルポスの許にも、彼を捕らえるように命じられた、兵士がやってきました。教会の人たちはポリュカルポス隠そうとしましたが、彼は進んで兵士たちの前に出て、兵士たちに、食事を振る舞い、福音を語り、彼らのために、祈りを献げました。この時、既に、86歳の老人の、この毅然とした、愛に満ちた行為に、兵士たちは感動し、彼を見逃そうとしました。

しかし、兵士たちが、手ぶらで帰れば、彼らが困ることが分っていた、ポリュカルポスは、敢えて捕らえられました。

ポリュカルポスを尋問したローマの役人も、彼の高潔な人柄と、立派な態度を見て、何とかして、彼を放免したいと思いました。

もう既に、86歳の老人です。ここで敢えて殺すこともない。この人が、悪い人ではないことは、誰の目にも明らかだ。彼に死刑宣告を告げることは、何とか避けたい。役人はそう思って、ポリュカルポスに言いました。

「形だけで良いから、今だけで良いから、『私はイエスを信じていない』、と言ってくれ。

この後、私の知らない所で、『やはり信じている』、と言っても良い。だから、私の前で、一言でいいから、『イエスを信じていない』、と言ってくれ」、と役人は頼みました。

しかし、ポリュカルポスこう答えました。「私は、80年以上に亘って、主イエスを信じて来ましたが、その間、主イエスは、ただの一度も、私を裏切ったことはありません。私は不忠実でしたが、主は常に真実で、ただ恵みのみを、与え続けてくださいました。その主を信じないなどと、どうして言えましょうか」。彼は、そう言って、役人の申し出を断り、殉教したそうです。

ペトロや他の使徒たちも、同じ思いであったのです。彼らは、主イエスの弟子であったのに、肝心な時に、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまった、不信仰で、弱い人たちです。

ですから、本来は、使徒と呼ばれる資格など、ない人たちなのです。

でも、神様は、彼らに、悔い改めを与え、主イエスの十字架の贖いによって、罪を赦してくださり、新しい命に生かし、使徒として用いてくださったのです。

彼らは、この神様の恵みに押し出され、その神様の御心に、従って歩んでいるのです。

ですから、権力者から、どんなに脅されても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、大胆に言い切ることができたのです。

私たちも、聖霊の力をいただき、キリストの「証人」として、用いられたいと願います。

「人に従うよりも、神に従うべきです」、と力強く宣言し、神に従って、歩んで行く者でありたいと願います。