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過去の礼拝説教

「聖霊に押し出されて」

2018年12月16日 聖書:使徒言行録 13:1~12

先週の御言葉は、バルナバとサウロが、エルサレムでの任務を終えて、アンティオキアに帰って行ったところで、終わっていました。

世界宣教の拠点となった、アンティオキア教会は、生まれて間もない、若い教会でした。

しかし、バルナバとサウロの、熱心な活動によって、教会は急速に成長していきました。

そして、バルナバとサウロも含めて、5人の指導者を、擁するほどになりました。

その5人の名前が、1節に記されています。5人の顔ぶれを見ても、様々な出身や経歴の、持ち主であったことが分かります。

また、信徒たちの中にも、ユダヤ人がおり、異邦人もおり、出身も経歴も、それぞれ異なる、多様な人々がいたのです。

しかし、彼らは、そのような、お互いの違いを超えて、一人の主を信じ、一つになって主を礼拝していました。人種や社会的立場を超えて、信仰において一致していたのです。

神様は、このような教会を選ばれ、世界宣教という、尊い使命を託されました。

アンティオキア教会が、世界宣教に踏み出すまでのいきさつから、私たちは、多くのことを教えられます。

世界宣教の幻。それは、バルナバやサウロなどの、教会の指導者たちが思いついたことでは、ありませんでした。また、教会が総会を開いて、決めたことでもなかったのです。

世界宣教の使命。それは、聖霊から、発せられたものだったのです。

2節に、「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた」、とあります。

彼らが一つになって、神様を礼拝し、断食をして、祈っていた時に、聖霊なる神様が、語りかけられたのです。

教会が、一つになって礼拝し、祈っていく時に、主は、ご自身の救いのご計画を、示してくださり、宣教の使命を託してくださるのです。

聖霊なる神様は、このように語り掛けられました。

「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」

「バルナバとサウロを選び出しなさい」。この「選び出しなさい」という言葉は、「聖別しなさい」、とも訳される言葉です。

バルナバとサウロが、世界宣教という、この聖なる務めに、相応しく整えられるように、祈って送り出しなさい、と言われたのです。

あなた方の祈りなくしては、バルナバとサウロの二人は、この聖なる務めを、果たすことができない。だから、あなた方は、二人に任せ切りにするのではなく、二人が聖められるように、祈って送り出しなさい、と言われたのです。

これは、現代の教会にも、当てはまります。聖霊は、今も、教会員に語りかけておられます。

あなた方は、伝道や、教会の色々な業を、牧師に任せ切りにするのではなく、牧師が、聖なる務めを、果たすことが出来るように、まず祈りなさい。

何よりも、牧師が、聖められるように、祈りなさい。あなた方の祈りがなければ、牧師は務めを果たすことが出来ないのです。聖霊は、このように語りかけています。

この聖霊の言葉に従って、アンティオキア教会は、「断食して祈り、二人の上に手を置いて、出発させました」。

祈りをもって、二人をその働きのために聖別し、送り出したのです。

この伝道旅行は、バルナバやサウロの、個人的な決意や意志によって、始まったものではありません。そうではなくて、アンティオキア教会の、礼拝と祈りの中で、聖霊によって押し出されたものなのです。

バルナバやサウロが、自分で計画を立てて、「よし、じゃあやってみよう」と、個人的な思いから、始めたものではないのです。

聖霊によって示され、聖霊に押し出されて、始められたものであったのです。

ところで、5人の指導者の内、中心的な2人を送り出すというのは、アンティオキア教会にとっては、大きな痛手であったと思います。

バルナバとサウロという、優れた指導者が、これからも、自分たちの許に留まってくれて、信仰生活の指導をしてもらいたい。教会員の多くが、そう願っていたと思います。

それに、このアンティオキアの地には、まだキリストを知らない人々が大勢いる。それらの人たちに、先ず伝道していくべきなのではないか。そういう思いがあったかもしれません。

遠い地域に住む、見ず知らずの人々のために、大切な指導者を派遣すれば、自分たちの教会が、大きな痛手をこうむってしまう。そう思ったとしても、不思議ではありません。

でも、アンティオキア教会の人々は、そのような自分たちの思いを超えて、聖霊のご命令に従ったのです。そして、祈りをもって、二人を聖別し、出発させました。

この「出発させた」、という言葉は、「解放する」とか、「解き放つ」という意味です。

アンティオキア教会の人々は、バルナバとサウロを、自分たちの願いや、思いから解放したのです。教会にとっての、痛手を乗り越えて、二人を送り出したのです。

これこそが、教会の伝道の姿ではないかと思います。

自分が、どれほど尊い救いに与ったか。どんなに大きな、主の愛に捕らえられているか。

そのことが、本当に心に迫ってくるならば、私たちは、伝道を、真剣に考えない訳には、いかなくなる筈です。それが、自分にとって、痛手となることであっても、或いは、犠牲を払うことであっても、伝道への思いに、駆り立てられていく筈です。

もし、教会が、自分たちの交わりに安住し、その居心地の良さを、守ることばかりを考えているなら、そこには、主はおられません。

もし教会が、伝道に対する主の呼びかけに、真摯に耳を傾けることがないなら、それは、聖霊の働きを失った、抜け殻のような教会となってしまいます。

その時、そこにあるのは、ただ居心地の良さを求める、人間の思いだけであって、神様の御心は、どこかへ行ってしまっているのです。

自分たちの心地良さを、犠牲にしてでも、福音を宣べ伝えていこうとする、アンティオキア教会の姿勢を、私たちも、受け継いでいきたい、と思わされます。

主イエスは、天に帰られる前に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、 と言われました。

これは、ある地域の伝道が完了したら、次に進みなさい、という意味ではありません。

世界宣教は、その地域の伝道が、まだ完了していない中で、進められていくのです。

ある地域が、全部塗りつぶされてから、初めて次に進む、ということではないのです。

ですから、日本にも福音が伝えられたのです。

もし、アメリカやヨーロッパの、全ての人が救われてから、他の地域に伝道する、ということであったなら、日本に福音が伝えられるのは、一体いつになるか、想像もつきません。

恐らく、永遠に、そんな時は、来ないのではないか、と思います。

でも宣教師の方々は、自分の国の伝道は、まだ完成していなくても、聖霊の示しを受けて、海を超えて、命懸けで、日本宣教へと、旅立ってくださったのです。

ですから、私たち日本の教会も、日本における伝道と並行して、世界宣教に参加しているのです。私たちが坐間先生を、バンクーバーに送り出したのも、同じことなのです。

まだ茅ケ崎に、伝道すべき人たちが、大勢いる。だから、そっちが先だ、というのであれば、日本からの海外宣教はあり得ません。

しかし、主は、坐間先生に、バンクーバーに行くように示されました。そして、私たちは、それを御心と捉えて、坐間先生を送り出したのです。

福音は、そのように、私たちの思いや計画を超えて、聖霊なる神様の示しによって、伝えられていくのです。教会は、それに応えて、伝道者を送り出すのです。

ところで、この時の、バルナバとサウロの状況を、想像してみてください。

私たちは、この伝道旅行の結果を、知らされています。ですから、それほど緊張しないで、この箇所を読むことができます。

しかし、この時の、バルナバとサウロの立場に、自分を置いて、状況を想像して見てください。これは、大海原に、海図も、羅針盤も持たずに、小さな船で、船出するようなものです。

聖霊から、伝道の旅に出るように、示されました。でも、二人には、一体どこに行けば良いのか、見当もつきません。初めてのことですから、前例などないのです。

どこに行けばよいのか。誰に語ればよいのか。果たして、受け入れてくれる人はいるのか。

この先、何が、二人を、待ち受けているのか、全く分かりません。

まさに、暗闇の中を手探りで、進むような思いであったと思います。でも、実は、そうではなかったのです。二人を導いてくれる人がいたのです。

それは、聖霊なる神様でした。聖霊は、二人を、選び出し、派遣しました。しかし、その後は、二人で勝手にやって来い、と放り出したのではないのです。

聖霊が、手を取って、導いてくれたのです。二人は、聖霊に導かれて、港町セレウキアに下り、そこから船で、キプロス島に渡りました。

勿論、この時、バルナバもサウロも、この伝道旅行の全容を、知らされていません。

それどころか、この旅の、重要性や意義についても、十分に理解していませんでした。

神様が、私たちを、用いられる時も、同じです。そのご計画を、すべて示される訳では、ありません。でも、私たちは、十分理解できていなくても、出発するのです。

主が計画され、主が私たちを、用いようとされているなら、全容が分からなくても、出発するのです。 アブラハムが、行く先を知らずして、旅立ったように、出発するのです。

それは、今年の主題聖句にある通りです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

ご計画を、示してくださり、導いて下さるお方は、善いお方で、善いことを為してくださる。

私たちには、その全容は、今は、分からない。けれども、善いことをなされる主は、その御業を必ず成し遂げてくださる。この信仰をもって、私たちは、踏み出すのです。

今進めている、会堂建築の御業も、まさしく、そのような、主のご計画なのです。

ご計画の全てが、分からなくても、成し遂げてくださる、主を信頼し、歩んで行くのです。

キプロス島は、バルナバの出身地です。ですから、バルナバが、先ず示されたのは、故郷のキプロス島でした。

彼らは、ユダヤ人の諸会堂で、神の言葉を告げ知らせながら、キプロス島を、東から西へと、横断するように、伝道していきました。そして、西海岸の町パフォスに着きました。

パフォスのユダヤ人会堂で語っていた、彼らのことを、ローマ帝国のキプロス総督だった、セルギウス・パウルスという人が聞き付け、彼らを招いて神の言葉を聞こうとしました。

伝道の門戸が、大きく開かれたのです。しかし、このように、伝道の門戸が開かれる時には、必ず、それに対する、妨害が起きます。

彼らが直面したのは、ユダヤ人の魔術師バルイエス、別名エリマという、偽預言者による妨害でした。彼は、総督セルギウス・パウルスと交際していた、と7節にあります。

バルイエスは、ローマの総督に取り入って、彼に重用されていたのだと思います。

ところが、賢明な総督の心は、自然にバルナバとサウロの方に、傾いていきました。

焦りを感じたバルイエスは、何とかして総督の心を、二人から遠ざけ、自分の影響力を保とうとします。彼は、あの手この手を使って、バルナバとサウロの伝道を、妨害しました。

9節に、「パウロとも呼ばれていたサウロ」、と書かれています。

ここに、初めて、パウロという名前が出て来ます。これ以降、使徒言行録では、ユダヤ名のサウロではなく、ローマ名のパウロという名前で、呼ばれるようになっていきます。

サウロという名前は、イスラエルの最初の王サウルに、あやかって付けられた名前です。

一方のパウロという名前は、「いと小さき者」、という意味の名前です。

王様から、いと小さき者へと、名前が変わったのです。しかし、それは、名前だけではありませんでした。

かつての自信満々のサウロは、怖いもの知らずで、まるで王の様に、振舞っていました。

しかし、主イエスに出会って、自分の罪深さを知らされた彼は、その後は、最も小さな者として、生きていきました。

もはや、自分の栄光を求めず、ひたすらに、キリストの栄光のために、生きる者となったのです。生き方自体も、王様から、いと小さき者へと、変えられたのです。

そのパウロは、バルイエスをにらみつけて、厳しく糾弾しました。

パウロは、「お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」、とバルイエスに言いました。すると、たちまち、その通りになったのです。

「時が来るまで日の光を見ないだろう」。パウロは、どんな思いで、この言葉を告げたのでしょうか。私たちは、この言葉から、ある場面を、想い起します。

それは、教会の迫害者であったパウロが、ダマスコ途上で、復活の主イエスと出会って、強い光を受けて、目が見えなくなった。あの場面です。

パウロ自身が、「時が来るまで日の光を見ない」、という体験をしているのです。

しかし、その後、アナニアに祈ってもらったパウロは、再び、見えるようになりました。

パウロにとって、目が見えなくなったことは、彼が、悔い改めて、キリスト者として生まれ変わるために、必要な出来事であったのです。

彼は、本当に見るべきものが、見えていなかったのです。しかし、復活の主イエスに出会って、信仰の目が開かれた時に、主の恵みの世界を、見ることができるようになったのです。

ですから、バルイエスに対する、パウロの言葉は、裁きの言葉ではなく、悔い改めを勧める言葉なのです。

バルイエスという名前は、「イエスの子」、という意味の名前です。一方、エリマという名前は、魔術師という意味です。

パウロは、こう言っているのです。どうか悔い改めて、主イエスに出会ってください。

私は、主イエスに出会って、王の様になりたい、という傲慢なサウロから、いと小さき者、パウロへと、変えられました。

どうかあなたも、魔術師エリマではなく、バルイエス、イエスの子と、変えられてください。

あなたは、時が来るまで、目が見えなくなります。でも、再び、日の光をみることができるようになった時には、どうか主イエスを、見上げることができますように。

この私が、そうであったように、あなたも、主イエスに出会って、生まれ変わってください。

一見すると、厳しく聞こえる、パウロの言葉には、このような、悔い改めへの、切なる促しが、込められているのです。

「時が来るまで」、とパウロは、語りました。この「時」とは、「神の時」を意味しています。

ギリシア語には、二つの「時」があります。一つは、時計の針が刻んでいく「時」です。

生まれて、成長して、結婚して家庭を持ち、年を取って、やがて天に帰る。

そういう、私たちの人生における、時の流れを意味する「時」。これを「クロノス」と言います。

クロノスの「時」は、過去から、現在、そして未来へと、淡々と、横に流れていきます。

これに対して、まさにこの時、という「時」があります。横に流れていくクロノスに対して、縦に介入して来る、その「時」。これをカイロスと言います。

私たちの人生の流れ、クロノスに対して、神様の時、カイロスが、突然の様に、介入して来ることがあるのです。

パウロにとっては、あのダマスコ途上での、主イエスとの出会いの時が、カイロスでした。

パウロは、バルイエスに言いました。あなたは神の時、カイロスが来るまで、目が見えなくなる。しかし、神の時は、必ず来ます。

その時、あなたが、それにどのように、応えていくかで、あなたの人生が、決まります。

パウロは、自分の救いの体験を、想い起しながら、そう言いました。

バルイエスだけではありません。私たち、一人一人の人生にも、神の時は、訪れます。

クリスマス主日礼拝において、川崎道雄兄弟と千恵姉が、バプテスマを受けられます。

川崎さんご夫妻にとっては、今年のクリスマスが、神の時、カイロスなのです。

私たちにも、そういう神様の介入の時が、ありました。これからもあると思います。

その時、私たちが、どのように応えるかで、その後の人生が、変わります。

パウロは、その時、主の声をしっかりと聴き、生まれ変わることができました。

私たちも、その神の時、語り掛けられる、神の声を聴き、しっかりと応えていきたいと思います。自分中心の生き方から、主を見上げて生きる、生き方へと、変えられていきたいと思います。