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過去の礼拝説教

「新たな恵みに生かされる日々」

2018年01月01日 聖書:哀歌 3:17~33

皆さん、あけましておめでとうございます。

新しい年、2018年を迎え、その最初の日の朝を、主を礼拝することによって、始められることを、心から感謝いたします。

過ぎ去った年、2017年に、私たちは、主に導かれて、新会堂建築への、大きな一歩を、踏み出しました。この年、2018年には、主がどのような恵みをもって、私たちを導いてくださるか、大きな期待をもって、ご一緒に歩んでまいりたいと思います。

今年は「戌年」です。犬は、ネコと並んで、世界中で、最も愛されているペットです。

日本では昔から、犬は忠義深い動物と、見做されてきました。桃太郎に従った犬も、忠義の象徴として、登場しています。また、忠犬ハチ公のエピソードもあります。

しかし、聖書に出てくる犬は、あまり良いイメージで、捉えられてはいません。

旧約聖書には、犬が多く出て来ますが、そのほとんどが、恐ろしい山犬か野犬です。

そういう犬は、イスラエルに敵対する異邦人や、善良な民を襲う無頼漢を表しています。

一例を挙げれば、詩編22編21節です。「わたしの身を犬どもから救い出してください」。

旧約聖書には、こういう言葉が、他にも、たくさんあります。

新約聖書でも、犬のイメージは、必ずしも、良くありません。

主イエスも、山上の説教の中で、「聖なるものを、犬にはやるな」、と言っておられます。

そんな中で、私たちの心に残る、大切な犬の姿があります。皆さんがよくご存知の、カナンの女と、主イエスの対話の中に出て来る「小犬」です。

主イエスが、ガリラヤを一時離れ、異邦人の地である、ティルスとシドンに立ち寄られた時のことです。この地方に生まれ育った、一人の婦人が、主イエスの前にひれ伏して、娘の病の癒しを願いました。

ところが、主イエスの返事は、意外にも、『子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない』、という拒否のお言葉でした。

しかし、この婦人は、主イエスのお言葉の中に、きらりと光る、愛のしずくを、見逃しませんでした。婦人は、「小犬」という言葉の中に、救いを聞いたのです。

当時、ユダヤでは、山犬とか、野犬のことを言う時には、「キュオーン」という言葉を、用いていました。

この言葉で表現される犬は、野の獣のように、危険視されていました。

しかし、主イエスが、婦人に言われた、「小犬」という言葉は、それとは別の、「キュナリオン」という言葉でした。これは、「家に飼われて、愛されている犬」、のことを意味しています。

婦人は、主イエスの、このお言葉を、聞き逃しませんでした。そこで、婦人は言います。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』

ここで、婦人が言っていることは、こういうことです。

「主よ、今あなたは、小犬と仰いましたね。家で飼われて愛されている犬、と言われました。

それなら、子どもが食べ飽きた後に、その食事の余り物で、小犬は養われる筈です。

犬のことまで考えて、あなたは、子どもの食事を、作られるのではありませんか。

私たちは、豊かな祝福の余り物を、ほんの少し頂くことさえも、許されないのでしょうか。

そのようなことさえ許さない、あなたではない筈です。私は、あなたが、そのようお方ではないことを、信じています。」

この婦人は、主イエスの、拒否のお言葉に遭っても、なおも失望することなく、主イエスの前にひれ伏して、その愛に信頼して、願い続けました。

そして、その婦人に、主イエスは言われたのです。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』

ここで語られている「小犬」は、ユダヤ人に対する、異邦人のことを、表しています。

私たちも、ユダヤ人ではありません。異邦人です。ですから、私たちも「小犬」なのです。

主の食卓からこぼれ落ちる、パン屑によって、養われる小犬なのです。

でも、主イエスの恵みは、限りなく大きいのです。パン屑一切れでも、私たちには、あり余るほど豊かな恵みなのです。

戌年の2018年、私たちは、日々主イエスの食卓から、溢れ落ちるパン屑を、ひたすら求めていきたいと思います。

主イエスによって、愛される小犬として、主イエスの家で飼われ、主イエスの家に留まり、主イエスがくださるパン屑によって、日々養われる者でありたいと思います。

このカナンの女は、主イエスの拒否にであっても、尚も諦めずに、御前にひれ伏して、懇願し続けました。その結果、主イエスの慈しみに、出会うことができたのです。

主イエスに見捨てられた、と思うような現実から、恵みの世界へと、導かれたのです。

先程、読んで頂きました、哀歌3章も、同じような状況の中で、語られています。

あぁ、私は、神様に見捨てられた。神様によって苦しめられた。

そのような絶望の中にいた、イスラエルの民が、その苦難の只中で、主の憐れみに、目を向けていく姿。絶望と嘆きが、希望と信頼へと変わっていく過程。

その恵みの出来事が、ここには記されているのです。

1節で、哀歌の詩人は、自己紹介をもって、詠い始めています。

「わたしは/主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。」

「苦しみを知った者」、という言葉を、もう少し詳しく、訳しますと、「苦しみを何もかも見てしまった者」とか、「苦しみを知りつくしてしまった者」、となります。

この詩人は、自らの苦悩の体験を、語りだしています。

彼は、愛する祖国が、当時の超大国の、バビロニアによって、徹底的に滅ぼされた現実を、自分の目で見てきたのです。

国土も、王も、軍隊も、神殿も、財宝も、一切奪い取られ、多くの同胞が、命を失った現実。

その悲惨な状況を、つぶさに見てきたのです。

更に、捕囚となって、バビロンに連れて来られた後も、苦難の連続であったのです。

2節、3節で、詩人は言っています。

「闇の中に追い立てられ、光なく歩く。そのわたしを、御手がさまざまに責め続ける。」

信頼していた神様に、見捨てられ、苦しめられている。そして、あろうことか、神様の御手が、自分を苦しめる。そんなことは、あり得ない筈なのに、そうとしか、思えないような現実。

そのような現実の中で、詩人は、助けを求めて、叫び声を上げます。

しかし、その叫びも、聞かれていないのではないか。祈りも、退けられたままなのではないか。目の前の現実は、そう思わざるを得ない。

絶望した詩人は、とうとう、魂の平安をも、失うにいたります。

17節で、詩人は、「わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた」、と語っています。

私の魂は、平和を失ってしまった。幸福とは、一体、どういうものであったのか。もうすっかり忘れてしまった。詩人は、そう嘆くほどに、追い込まれていったのです。

そして、18節、「わたしは言う/「わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう」と。

彼は、遂に、「わたしの生きる力は絶えた」と、絶望の叫びを、上げるまでに至ります。

しかし、その絶望の叫びの後で、彼は、「ただ主を待ち望もう」と、尚も、必死になって、希望に生きようとしています。主にあって、何とか、転換を図ろうとしています。

そして、その転換は、意外なことから、もたらされました。

その転換は、神様に見捨てられたという、絶望的な自分の姿を、しっかりと見つめることによって、与えられたのです。19節から20節です。

「苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを、決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても、再び心を励まし、なお待ち望む。」

「わたしの魂は沈み込んでいても」、とあります。

詩人の魂は、沈み込んで、低く、低くされました。しかし、その低くされた魂が、生きる力を失った人の、心を励まし、なお待ち望むという方向へと、転換させたのです。

最も低い所まで、落とされた魂が、絶望を希望へ、空しさを喜びに、転換させたのです。

苦汁と欠乏と貧しさを、想い起す時、人は、そのような苦難を与えた神様に、抗議したくなります。

でも、その時、この詩人は、その苦難のどん底で、もう一度、自分を見つめてみたのです。

自分は正しくて、悪いのは神様なのか。果たして、そうなのだろうか。

そう思って、自分を見つめた時、この苦難の原因は、神にあるのではなく、自分にあるのではないか、と示された。この苦難は、自分が、神に背いた、結果ではないだろうか、と示されたのです。

神様に抗議し、神様のことを、非難していた時には、神様のことが、分からなかった。

でも、自分が、沈み込んで、最も低くなった時、神様のことが、初めて分かった。

神様は正しかったのだ。間違っていたのは、自分だったのだ。

そのことが、分かったのです。それ故、私は、再び心を、励まし、神を待ち望む。尚も、耐えて、神に望みをいだく。

詩人は、こう言っているのです。私たちが、最も低くなった時に、神様が分かる。そして、そこから、再び神様を待ち望む、希望が生まれる。これは、私たちの、心に迫る言葉です。

ところが、ところが、なのです。実は、この20節の、「わたしの魂」という言葉は、本当は、詩人のへりくだりを、語っているのではない、という見方があるのです。

元旦早々から、こんなことを言うと、皆さんはびっくりしてしまうかもしれませんが、「わたしの魂」という言葉は、聖書の写本家が、後の時代に訂正したもので、元々の聖書には、「あなたの魂は」と書いてあった。そういう説が有力なのです。私も、この説に心惹かれます。

「あなたの魂」とは、神様の魂のことです。つまり、この御言葉は、元々は、神様の魂が、沈み込んでいる、と語っているのだ、というのです。

神様が、うなだれて、低く、低くなってくださった。そして、生きる力が絶えた、私の上に、沈み込んでくださった。神様が、身をよじって、私のために、嘆いてくださった。

「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを、決して忘れず覚えているのは」、実は、「わたしの魂」ではなく、「あなた魂、神様の魂」であった、というのです。

神様が、「私は、あなたの苦しみのすべてを、見て来た。そして、それを決して忘れない」、と言っておられる、というのです。

神様ご自身が、わたしの上に、覆い被さってくださっている、というのです。

詩人が、絶望と嘆きから、希望と信頼へと、転換したのは、自分が低くされた、というよりは、神様が低く降って来てくださって、私のことを、覆い包んで下さったからだ、というのです。

最も高い所におられるお方が、最も低くなられ、私の苦しみのために、身をよじって、嘆いてくださっている。私の上に、その尊い御体を、投げ打って、私を覆い包んでくださっている。

神様が、私たちの所にまで、降りて来てくださり、私たちと共に、苦しみ、共に涙を流してくださっている。そのことを知った時、私たちの、全ての苦しみは、絶望ではなくなります。

苦しみの時は、暗闇の先にある、光を見つめる時となります。

神様が、低く、低く、降られるお方であることを、宗教改革者のマルティン・ルターは、こう表現しています。

「神様は最も高い所におられる。最も高い所だから、その上には何もない。だから、上を見る訳にはゆかない。

また、神様と比べられるものは、何もない。だから、横を見る訳にもゆかない。

だから、神様は、ご自身と、下を見るより外に、仕方がないのだ。そして、人間が、神様の、遥か下にいればいるほど、神様は、一層これを、顧みられるのだ。」

面白い表現ですが、その通りだと思います。神様は、遥か下で、苦しみもだえて、うごめいている私たちしか、ご覧にならないのです。他のものには、関心を持たれていないのです。

私たちを見ることに、全力を注がれているのです。

そして、私たちの所にまで、沈み込んできてくださり、身をよじって、私たちの上に、覆い被さってくださるのです。

最も高いお方が、最も低くなってくださった。全ての、誇りも、権威も、栄誉も、投げ捨てて、下って来てくださった。ここに、本当の救い、本当の愛があります。

私は、神様に背を向けて、神様を非難していた。その私を覆って、その上に、「かがんで伏し」て、くださっている神様。

この神様に心を向け、この神様のへりくだりを経験して、詩人は、絶望から希望へ生きる人間へと、変わりました。

そして、一時は、生きる望みが絶えた、と言っていた人間が、21~24節で、「主を待ち望む」人間へと変貌していきます。

「御手が、私を様々に責め続ける」と嘆いていた者が、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」、と告白する者へと変えられました。

復活の主イエスと出会って、その喜びを経験した弟子たちのように、朝毎に、新たにされる命を、喜ぶ者へと変えられました。

だからといって、彼を取り巻く状況に、昨日と今日と、大きな転換があったのでしょうか。

そんなことはありませんでした。外的状況は、変わらなかったのです。

しかし、詩人はもはや、主ご自身を、自分の宝物として、しっかりと握り締めています。

ですから、たとえ、自分を取り囲む状況は、苦難の連続であっても、尚も、主を待ち望むことが、出来る者とされているのです。

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」

この御言葉は、私たちの、生涯の支えとなる、御言葉です。私たちが、いつも口ずさんでいるべき御言葉です。棺桶の中にまで、持っていくべき御言葉です。

主の慈しみは決して絶えないのです。私たちが、主を忘れていようが、主に背いていようが、決して絶えないのです。

主イエスは、この世を去られる時、最後に言われました。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」これは、主イエスの遺言とも言える、お言葉です。

これだけは、忘れないで欲しい。そのようなお気持ちをもって、語られたお言葉です。

主は言われました。「私はいつも共にいる」。主の慈しみは決して絶えないのです。なぜなら、主は、いつも共にいてくださるからです。いつもなのです。どんな時も、なのです。

そして、主の憐れみは、決して尽きないのです。主イエスという、命の泉は、決して枯れることがないのです。それは、尽きることなく湧き出る、恵みの泉なのです。

私たちは、朝ごとに、新たな恵みを、頂けるのです。主イエスが、朝ごとに、新たな恵みを、用意してくださるからです。私たちが、目覚めるよりも先に、主イエスは、その恵みを用意して、待っていて下さり、「おはよう」という挨拶と共に、その恵みを示してくださるのです。

あなたの真実はそれほど深い、と語られています。旧約聖書においては、「真実」という言葉は、しばしば「愛」という言葉と、置き換えられます。

詩人は、「主よ、あなたの愛はそれほど深い」、と言っているのです。

そのような、主の愛を知らされた詩人は、25節で、「主に望みをおき、尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる」、と語っています。

主は、苦渋と欠乏の中、貧しくさすらっていた私の上に、かがみ込んで下さり、私を覆い包んで下さり、くじける心を励まし、立ち上がらせてくださった。

だから私は、主に望みを置いて、立ち上がることができた。どんな時も、主の救いを、沈黙の内に、待ち望む者とされた。必ず、主は、幸いを与えてくださる。

詩人は、この確信を持つに至るまでに、主により頼むことが、出来る者とされたのです。

彼は、もはや苦難を、徒に恐れることはしません。苦難は、主に見捨てられた故に、起こるのではない。苦難の中でも、主は、確かにいてくださる。苦難があるということは、主がおられない、ということではなく、主も、共に、苦難を担っていてくださるのだ。

愛の主は、決して、無意味に人を苦しめたり、悲しめたりするお方ではない。苦難の後に、必ず恵みと憐みを、用意していてくださる。

私たちを苦しめることが、御心なのではなく、私たちを救うことこそが、御心なのだ。

詩人は、この信仰へと導かれました。

新しい年、私たちにも、思いがけない困難が、待ち受けているかもしれません。

しかし、忘れないでください。主の御心は、私たちを、苦しめることではなく、私たちに、幸いを与えることなのです。なぜなら、主は、愛なるお方だからです。

主は、泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に、朝を迎えさせてくださいます。

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」 ここに、私たちの希望があります。この確信に、立ちたいと思います。

新しい年、主に愛される小犬として、主の慈しみのパン屑を、主の憐れみのパン屑を、朝ごとにいただき、主に養われて、ご一緒に、歩んで行きたいと思います。