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過去の礼拝説教

「愛はあなたを自由にする」

2018年01月07日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 5:1~15

新しい年2018年を迎えました。過ぎ去った2017年、私たちは、新会堂建築という幻を、神様から示され、祈りをもってそれを決断し、目標に向かって、一歩を踏み出しました。

この年、主がどのように、私たちを導いてくださり、御心をなしてくださるか、大いなる期待をもって、ご一緒に、歩んでまいりたいと思います。

この年、スポーツ界で、平昌オリンピック・パラリンピックに次いで、大きな注目を集めていることの一つに、プロ野球の大谷翔平選手の、アメリカ・メジャーリーグへの挑戦があります。

大谷選手の、ピッチャーとバッターの「二刀流」が、果たして、野球の本場メジャーリーグでも、通用するのか、大きな注目を、集めています。

大谷選手の二刀流に、多くの人が、期待を寄せています。

しかし、今朝の御言葉は、私たちが、してはならない二刀流、避けなければならない二刀流について、語っています。一体、どのような二刀流なのでしょうか。

それは、キリストも大事、しかし、これもまた大事だ、というような、二刀流のことです。

こちらの足は、キリストの上に乗せておいて、もう一方の足は、別の所に乗せている。

そんな二刀流は、してはならないと、パウロはここで、厳しく言っているのです。

信仰の世界には、二刀流はありません。信仰は、常に「あれか、これか」を問題とします。

信仰は、「あれか、これか」の決断であって、「あれも、これも」ではないのです。

キリストも大事だが、これも同じように大事だ、という生き方は、キリスト者の生き方ではありません。そういう二刀流的な信仰が、今朝の御言葉では、厳しく批判されています。

私たちは、信仰を持っている、と思っています。皆さんも、そう思っていますよね。

けれども、もしかしたら、キリストを半分しか持っていない。キリストを半分、そして、他のものを半分、持っている。そういう、二刀流の信仰に、なってはいないでしょうか。

そして、もし半分しか持っていない、というのであれば、自分にとって、キリストは、本当に大事な時に、役に立たないお方、となってしまう。自分は、キリストとは、縁もゆかりもない者となってしまう。今朝の御言葉は、そう言っているのです。

ジュネーヴの宗教改革者ジャン・カルヴァンは、ガラテヤの信徒への手紙の説教の中で、「キリストを半分しか持とうとしない者は、キリストを完全に失ってしまう」、と述べています。

自分はキリスト者である、と言っているのに、キリストを半分しか、持とうとしない者。

そのような人は、残りの半分に捕らわれ、縛られているうちに、遂にキリストを完全に失ってしまう、というのです。

メソジスト教会の創始者である、ジョン・ウェスレーは、 「Almost Christian (殆どクリスチャン)」 という題の名説教を残しています。

殆どクリスチャンなのですから、99%クリスチャンなのです。でも1%足りないのです。

一般の世界では、99%もクリスチャンなら、立派なものだ、ということになります。

でも、信仰の世界では、そうではないのです。その足りない1%のために、全くクリスチャンではなくなってしまう、というのです。

ただ、誤解しないでください。ここで言っていることは、私たちの救いに、関することです。

私たちは、何によって、救われているか。そのことについての、問い掛けなのです。

私たちの救いの根拠に、十字架の贖い以外のものが、少しでも紛れ込んでいないか。

そのことが問題とされているのです。

100%完璧なキリスト者でなければならない、と言っているのではありません。

そうではなくて、私たちの救いの根拠を、100%主イエスの十字架の贖いに置いているか。そのことにおいて、二刀流になっていないか。そのことが、問われているのです。

パウロも、ガラテヤの人たちに、同じことを言っています。

あなた方は、キリスト者らしく振舞っている。けれども、実は、キリストを完全に失っているではないか、と言っているのです。

あなた方は、半分か、60%か、或いは70%くらい、キリスト者らしくなっている。だから、後は、努力して、100%に近づきなさい、と言っているのではないのです。

2節で「あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」、と述べています。また、4節の終わりでは、「キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」、とも述べています。

十字架の贖いだけではなく、律法の行いによっても、救われようとするなら、「いただいた恵みも失います」、と言っているのです。

十字架だけでは、不十分だから、律法の行いも、それに付け加えよう、とするなら、あなた方は、いただいた恵みをも失い、キリストとは、縁もゆかりもない者となってしまう。

あなた方にとって、キリストは何の役にも立たない方と、なってしまう、というのです。

キリストが、何の役にも立っていない教会。キリストとは、縁もゆかりもない教会。

それほど、惨めなものはありません。それは、惨めというより、滑稽でさえあります。

キリスト無用のキリスト教会、キリストと無縁のキリスト教会。

そんな教会はおかしい、愚かである、と誰もが思います。しかし、それが、パウロが見るガラテヤの教会の姿でした。このことは、私たちにとっても、大きな問い掛けです。

では一体、何が問題だったのでしょうか。

2節に、「もし割礼を受けるなら」、と書かれています。このことなのです。

なぜ、割礼を受けることが、問題なのでしょうか。

割礼を受けたい、と思うことは、律法によって、義とされたい、と思うことです。言い換えれば、自分の行いによって、義とされたい、と思うことです。

そして、それは、キリストによって、義とされることを捨てた、ということです。

ですから、キリストの恵みを失い、キリストとは、縁もゆかりもない者となる、というのです。

割礼を受けるということ、それ自体は、小さなことかも知れません。

しかし、そこから、行いによって義とされたいという、律法主義的な生き方が、始まっていくのだ、とパウロは語っています。

9節に、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」、と書かれているように、それを放置しておくと、全体に悪影響を及ぼすのです。

この律法主義は、二千年前のユダヤ人に、限ったことではありません。今でも、私たちは、知らず知らずの内に、そのような律法主義に、陥ってしまう危険性を持っています。

毎日聖書を読み、毎日祈り、毎日黙想する、そして、力を尽くして教会に奉仕する。

これは、本当に大切なことです。私たちの信仰生活の要です。このことは、いくら強調しても、し過ぎることがないほど、重要なことです。

でも、そこで、もう一つ大切なことは、そのような尊い業が、神様の愛に対する、感謝の応答として、なされるということです。

恵みに対する、感謝の応答としての業、でなければならないのです。

しかし、その業を果たすことに、熱心になるあまり、いつの間にか、それが、形式的な義務となってしまう。そうなった時、それは、私たちを縛り付ける、律法となってしまいます。

立派なキリスト者は、こうであらねばならない。こうしなければ、救われない。これを怠ったら、救いから遠ざかってしまう。

そのような義務感と、恐れから、それらを形式的に守ろうとする時、それは、恵みではなく、重荷になってしまいます。そこには、活き活きとした、自由な喜びが、なくなってしまいます。

そのような行い主義に陥ってしまうと、私たちは、いつも自分で、自分の行いを、チェックしていなければ、安心して、生きていけないように、なってしまいます。

更に、自分をチェックするだけではなく、他人をもチェックしなければ、気が済まないようになってしまいます。そして、他人を批判するようになってしまいます。

それは、主イエスが、鋭く批判した、ファリサイ派の人々の、律法主義的な生き方です。

自分の行いに、頼れば頼るほど、主イエスの十字架は、小さく、小さくされていきます。

自分の思いが、大きくなればなるほど、主イエスは、小さくなっていくのです。

十字架の救いは、私たちが、何かをなして、獲得するものではありません。それは、恵みとして、賜物として、頂くものなのです。救いにおいて、私たちは、受け身なのです。

神様が、この弱い、汚れた私を、受け入れてくださった。十字架の故に、受け入れてくださった。信仰とは、この恵みの出来事を、感謝して、受け入れることです。

ある人が、それを「受容の受容」、と言いました。「受容の受容」、つまり、受け入れられていることを、受け入れることです。これが、信仰の世界なのです。

二千年前のエルサレムで、十字架刑によって殺された、一人の男の死。

それは、歴史の片隅にも、記録されず、忘れ去られてしまうような、小さな出来事でした。

しかし、その出来事によって、私たちが赦され、罪あるままに受け入れられ、救いに入れられた。その恵みの出来事を、受け入れて、信じる。

それ以外のどこにも、救いはないと信じる。ここに救いがある、と信じていく。

これが、キリスト者の生き方です。主イエスによって、救われたものの姿です。

キリストの十字架を、信じ抜くということは、そのことだけの上に立つ、という事です。

二股を掛けない、ということです。信仰には、二刀流はないのです。

13節で、パウロは、「救われる」ということを、少し違った角度から、言い表しています。

ここでは、「救われる」、とは言わずに、「召される」、という言葉を使っています。

罪から救いへと召し出される。闇から光へと召し出される。滅びから命へと召し出される。

8節でもパウロは、「このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」、と述べています。

「このような誘い」とは、ガラテヤの人々を、再び律法主義に引き戻そうとする、誘いのことです。それに対して、パウロは、「割礼を受け、律法主義に戻ることは、あなた方を召し出してくださった方、あなた方を救い出してくださった方の、御心ではない」、と言っているのです。

それでは、あなた方は、何のために、召し出されたのか。何のために、救われたのか。

パウロは言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」。召しだされた目的。救われた目的。それは、自由を得るためなのだ、というのです。

13節の御言葉を直訳すると、「兄弟たち、あなたがたは、実に、自由に向って召されています」、となります。あなた方は、「自由に向って召された」。

救われるとは、「自由に向かって生きる」ということなのだ。パウロはそう言っているのです。

では、「自由に向かって生きる」とは、どういうことでしょうか。したいことをして、勝手気ままに生きることでしょうか。そうではありません。

本当の自由とは、外部の環境に拘わらず、いつでも、どこでも、本来の自分らしく、喜びをもって生きる、ということです。

それは、必要であれば、自分の自由を、喜んで、他者のために、また神様のために、差し出すことさえできる自由です。自分の自由を、自ら制限することの、できる自由です。

なぜ、そんなことが、できるようになるのでしょか。

それは、最高の宝を、手に入れているからです。

十字架の救い、十字架の愛。この最高の恵みを頂いた者は、他のものに捕らわれなくても、済むようにされるのです。これさえ握り締めていれば、他のものは、手放しても良い。

これさえ握り締めていれば、他のものに、しがみ付かなくても良い。

そのような自由に、生きる者とされるのです。それこそが、本当の自由です。

十字架の愛を、握り締めた時、私たちは、他のすべてのしがらみから、解放されるのです。

主イエスの、十字架の愛は、私たちを、自由にしてくれるのです。

このことを、パウロは1節で、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」、と言っています。これは、私たちの信仰生活において、忘れてはならない、大切な御言葉です。

「兄弟たち、あなたがたは、実に、自由に向って召されています」。

あなた方は、召された時、確かに、自由の中に、置かれた筈ではないか。それまで、あなた方を縛り付けていた、律法や、人々の言い伝えから、自由にされた筈ではないか。

その自由を、今、あなた方は、本当に喜んでいるか。その自由に、生きているか。

パウロは、そのように、ガラテヤの教会の人たちに、語りかけています。

さて、私たちはどうでしょうか。私たちは、日常生活において、様々な決断をします。

その時、この世の様々なしがらみ、例えば、世間体とか、評判とか、見栄とか、更には、自分の欲望から、自由にされて、決断することが、出来ているでしょうか。

神様に召された者として、神様の御心のみを尋ね、自由な思いで、生きているでしょうか。

私たちは、救われている、と言いつつ、その点が、今一つ、はっきりしていないのではないか、と思うのです。このことは、実社会で生きていると、しばしば痛感します。

例えば、会社で、自分が責任をもっている部署が、大きなミスをしたとします。

その時、そのミスの責任を、部下になすり付ける自由と、自分がすべて負うという自由を、私たちは持っています。自分の責任として、すべて負い、部下にお咎めがないように計らう。

キリスト者として、この自由に生きたい、と心の中で願います。

しかし、私たちは、そこで、様々なことを考えます。出世への影響、ボーナスが減らされる、周りの人々から非難される、嘲りの目で見られる。様々なことが、自由を妨げます。

そして、部下に責任をなすりつけて、自分は何とか、無傷で生き残ろうとする。

そのような時、私たちは、本来の自由に向かって、生きているとは言えません。

召された者が、向かうべき自由とは、この世のどのような力によっても、脅かされることのない自由です。

パウロは、13節の後半で、「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」、と言っています。

「互いに仕えなさい」、という言葉は、「互いに奴隷となりなさい」、という意味です。

「奴隷となる」。そのような徹底した意味で、「互いに仕えなさい」、と言っているのです。

奴隷になることさえできる自由。そのような自由に、神様は、召してくださったというのです。

この言葉を聴く時、私たちが、想い起こす場面があります。

最後の晩餐の席で、主イエスが、最も卑しい、奴隷の仕事をされた、あの出来事です。

主イエスが、弟子たちの足を洗われ、あなた方も、仕え合う自由に生きなさい、と教えられた、あの場面です。

「愛をもって、互いに仕え合う」。それが、主イエスの教えの、最も大切なことでした。

パウロは、そのことを思いつつ、14節で、「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」、と語っています。

ここでパウロは、律法のとりこになっている人たちに、語り掛けています。

律法の、最も中心的なことは、神様の愛に応えて、隣人を愛することなのだ。

だから、与えられた自由を、神様を愛し、隣人を愛すること以外には、使わないようにしなさい。神様を愛し、隣人を愛する。それが、自由の具体的な内容なのだ。

救われるということは、この自由を得る、ということなのです。

私たちが、罪赦され、受け入れられて、神様との愛の交わりを喜び、また隣人とも愛し合えるようにされる。そういう自由を得る。それが、救われるということなのです。

それは、明るい、自由な世界です。楽しく、喜びに満ちた世界です。

それが、キリスト者の生きる世界なのです。

新しく与えられた2018年、そういう自由へと、大胆に歩み出したいと思います。

あるカトリックの司祭の祈りに、このような言葉があります。

『主よ、愛には二つしかありません/私だけを愛する愛と、/あなたと他者(ひと)を愛する愛と/わたしが自分だけを愛するたびごとに/あなたと他者(ひと)への愛が少なくなっていくのです/それは愛の水もれなのです/それは愛のロスなのです/愛はわたしをとびたって、他者(ひと)へと向かうように作られました/だからそれがわたしだけにむけられるときに/それはしぼみ、くさり、枯れてゆきます』

自分だけを見つめ、自分だけを愛そうとする時、私たちは、見栄や世間体や自分の欲望などの、様々なしがらみに捕らわれ、自由を失います。

しかし、神様を愛し、隣人を愛する時、その愛は、私たちを、世のしがらみから解放し、自由にします。

この愛に生かされる自由を、分かち合いつつ、共に歩んでまいりたいと願います。