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過去の礼拝説教

「重荷を担い合う教会」

2018年01月21日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 6:1~10

私たちの心に、グサッと突き刺さるような言葉、或いは、ハッとさせられるような言葉。

そんな言葉があります。

耳に痛い言葉ですが、私たちの内に、変化を呼び起こすような言葉。そんな言葉の一つに、「何々らしくない」、という言葉があると思います。

「あなたらしくない」、といわれると、ドキッとさせられ、思わず自分を顧みることがあります。

今、相撲界のことが、大きな話題になっています。テレビなどを通して、頻繁に、「横綱らしくない」、という言葉が語られています。これも厳しい言葉です。

言われた人に、厳しく変化を迫るような言葉です。

状況にもよりますが、私も、「牧師らしくない」、と言われたならば、やはり、かなり考え込むことだろうと思います。

今朝の御言葉で、パウロは、ガラテヤの教会の人たちに、あなたらしくないと言っています。

あなた方は、霊に導かれて、生きている筈ではないか。それなのに、今のあなた方は、霊に導かれて、生きている者らしくない、と言っているのです。

具体的に、どういうことを言っているのでしょうか。ここで、パウロが、問題にしているのは、不注意によって、過失を犯した人に対する、教会員の姿勢のことです。

その人の過ちを、正そうとする。その仕方において、あなた方は、霊に導かれて、生きている者らしくない、と言っているのです。

先週も申し上げましたが、ここで言う「霊」とは、聖霊のことです。私たちの内に働き掛けて、私たちに、神様の御心を、分からせてくださる、聖霊なる神様のことです。

パウロは、ガラテヤの教会の人たちのことを、「霊に導かれて生きているあなたがた」、と呼んでいます。これは、とても丁寧な翻訳です。

原文のギリシア語は、もっと簡潔で、「あなたがた、霊の人」、と書いてあるだけです。

ガラテヤの教会は、本来は、この「霊の人」の集まりなのです。

10節でパウロは、この霊の人の集まりのことを、「信仰によって家族になった人々」、と言い換えています。

「信仰によって家族になった人々」という言葉も、とても丁寧な翻訳で、原文は「信仰の家族」という、簡潔な言葉です。

皆さんも、何度も聞かされているように、教会というのは、信仰による家族です。

聖霊の導きによって生きている、信仰の家族。それが教会なのです。

それなのに、ガラテヤの教会の人たちよ、あなたがたは、そのような群れらしくない。

霊によって生かされている、信仰の家族らしくない、とパウロは言っているのです。

1節で、パウロは、「兄弟たち、万一だれかが、不注意にも、何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を、柔和な心で、正しい道に立ち帰らせなさい」、と言っています。

「何かの罪に陥ったなら」、と言っていますが、ここにある「罪」という言葉は、「過失」とか「過ち」という意味の言葉です。

真っ直ぐな道を歩いていた人が、何かの誘惑か、或いは、自らの弱さのために、正しい道を踏み外して、逸れている。そういう状態を表す言葉です。

積極的に悪事を働く、という意味ではありません。キリスト者となっても、過ちを犯したり、誘惑に負たり、してしまうことが、しばしば起こるのです。人間とは、本当に弱い者なのです。

そのような人を、霊によって生きている人は、柔和な心で正しなさい、と勧めています。

「霊に導かれて生きている人」、と聞きますと、何か特別に、霊的に満たされた人のことで、自分のことではない、と思いがちです。

しかし、ここでは、そのような、特別な人のことを、言っているのではありません。

聖霊の導きによって、主イエスを、救い主として受け入れた、すべての人のことを、言っているのです。ですから、ガラテヤの教会の、すべての人が、その対象とされているのです。

その中には、洗礼を受けて、間もない人たちも、含まれています。

ということは、今朝、ここにいる、私たちも、すべて、「聖霊に導かれて生きている人」、なのです。ですから、この御言葉は、ここにいる、私たちに対して、語られていると、聴かなければならないのです。

聖霊に導かれて、生きている人、というのは、過ちを犯した人を、柔和な心をもって、正しい道に立ち帰らせる人なのだ、とパウロは言っています。

ここにある「正しい道に立ち帰らせなさい」、という言葉は、元々は「回復しなさい」、という意味の言葉です。

この言葉は、マルコによる福音書1章においても、用いられています。

主イエスが、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネを、弟子として、お招きになった場面です。

その時、ヤコブとヨハネは、破れた網を、繕っていた、と書かれています。この「網を繕う」という言葉が、ここで、「正しい道に立ち帰らせなさい」、と訳されているのです。

ですから、「正す」ということは、その人の過失を、激しい言葉で、非難したり、叱りつけたり、することではないのです。それは、網の破れを繕う、ということなのです。

一緒に、そこに座って、丹念にその網を、繕うことなのです。網が、元の状態に戻るまで、忍耐強く、手を貸していくことなのです。

3節はこう言っています。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。」

自分が、ひとかどの者だと思う。何か偉い者であるかのように思う。正しい者であると思う。

そう思っている自分が、過失を犯している人を、正そうとする時、一体、どういう言葉を発するでしょうか。恐らく、その人を非難し、その人を裁く、言葉になると思います。

なぜ、あんなことをしたのか。なんて弱い人間なのだ、と言って非難し、裁くのではないか、と思います。

更には、自分は、あのような、愚かなことはしない、と優越感を抱く、かも知れません。

そのような、非難の言葉、裁きの言葉は、決して、その人の過失を、癒すことはありません。その人を、生かすことには、ならないのです。むしろ、その傷を、一層深くしてしまいます。

勿論、状況によっては、過ちを犯した人を、厳しく戒めることが、必要な場合もあります。

しかし、そのような時、私たちは、愛をもって、立ち直らせようとするよりも、非難することの方に、熱心になりがちです。

この時、ガラテヤの教会の人たちは、律法主義に戻ろうとしていました。これをしなければ、救われない。これをしたら、救いには与れない。

そんな思いに、捕らわれている人は、人の過ちを、厳しく非難し、一方的に裁きがちです。

しかし、パウロは、そのような仕方は、あなた方らしくない、と言うのです。

聖霊に導かれて、生きている人らしくない、と言うのです。

それでは、聖霊に導かれて、生きている人は、どのように、人の過ちを正すのでしょうか。

パウロは、「“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で、正しい道に立ち帰らせなさい」、と言っています。

柔和な心こそが、過ちの中にある人を、もう一度正しい所に、連れ戻すことができる。

柔和な心で、その人の傍らに寄り添う時、破れた網を、一緒に繕うことができる。

パウロは、そう言っているのです。

その時、大切なことは、自分も罪ある者として、そこに立つ、ということです。

私たち自身も、同じ弱さを持っていることを、認めていくことです。

柔和になるということは、「自分も、過ちを犯すことがあり得る。自分も、誘惑に陥ることがあり得る」、と認めていくことでもあるのです。

もしかしたら、この私も、誘惑に陥ることが、あるのではないか。自分も、その人と同じ過ちに、陥ってはいないだろうか。そのように問いつつ、その人に寄り添っていくことです。

その事を忘れて、自分は何か、ひとかどの者で、あるかのように思って、その人を非難し、裁いてしまうなら、私たち自身が、神様の前で、罪を犯すことになります。

パウロは、そのことを戒めて、1節の後半で、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」、と言っています。

古代教会の教父、アウグスティヌスは、彼の同僚の一人が、姦淫の罪に陥ったことを、知らされた時、「彼は、昨日、罪に落ちた。私は、今日、罪に落ち得る」、と語ったそうです。

人に対して柔和であるとは、自分の弱さを、勇気をもって、認めていくことでもあるのです。

ノルウェー語で、「柔和」とは、「静かな勇気」、という意味の、言葉だそうです。

それは、自分の弱さを認める、「静かな勇気」、ということです。その静かな勇気をもって、相手の過ちに、手を差し伸べていくのです。そのことが、ここで勧められているのです。

その静かな勇気が、共に網を繕う、という業を、生んでいくのです。

ただ、ここで、心に留めなくてはならないことは、この柔和という、静かな勇気は、私たちが、自分の力で、造り出すものではない、ということです。

先週、ご一緒に聴きました、5章22節、23節に、書かれていたように、それは、聖霊なる神様が、私たちの内に、結んでくださる実なのです。

先週の御言葉は、こう語っていました。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

もし、私たちの中に、過ちを犯した人に対する、柔和な思いが、少しでもあるなら、その柔和さとは、私たちが、自分で造り出したものではなくて、聖霊が結んでくださった実なのです。

私たちの内に、聖霊が結んでくださった、柔和という実。

その柔和さによって、その人の過失に、寄り添っていく時、私たちは、初めて、その人と共に、網の破れを、繕うことができるのです。

ある教会で牧師と二人の兄弟が、会堂清掃をすることになっていました。

しかし、時間になっても、一人の兄弟が来ません。それで、牧師と、もう一人の兄弟だけで、会堂清掃を始めました。終了後に、もう一人が、大幅に遅れてやってきました。

すると、それを見た牧師は、黙ってまた清掃を始めました。時刻通りに来た兄弟も、牧師が、何も言わずに、再び清掃を始めたのを見て、黙って、2回目の清掃に加わりました。

2回目の清掃が終わってから、その人は、「なぜ。もう掃除は済んだよ」、と言わなかったのかを、牧師に尋ねました。

すると、その牧師は、たった一言、「せっかく来てくれたのだからねぇ」、と答えたそうです。

後日、遅刻した兄弟は、事の次第を全て聞いて、本当に深く、悔い改めたそうです。

もし、その時、遅刻したことを、厳しく非難されたなら、その人は、悔い改めることをせずに、逆に、「そんなに言われるなら、もう会堂清掃の奉仕は止める」、と言ったかもしれません。

これが、柔和な心で、過ちを正す、ということではないかと思います。

続いて、パウロは、「互いに重荷を担いなさい」、と勧めています。

その人の重荷を担う、という思いがなければ、過ちを正すことも、また不可能だからです。

どんなに立派な言葉でも、自分の重荷を、担おうとしてくれない人の言葉は、空しく響きます。でも、自分の重荷を、真剣に担おうと、してくれる人の言葉は、たとえ小さな言葉でも、その人を、過ちから立ち直らせる、力となります。

パウロは、「互いに重荷を担いなさい」、と言いました。

互いに重荷を担い合う、ということは、自分が、人の重荷を負うだけではなく、自分の重荷が、他人によって、担われている、ということでもあります。

「互いに」ということは、そういうことです。それが、教会の本来の姿なのです。

自分だけが、人の重荷を、担っているのではないのです。自分もまた、どんなに多くの人たちに、重荷を担って頂いているか。そのことに気付くのが、教会なのです。

ヨーロッパの教会では、この「重荷を担いなさい」、という言葉は、よく結婚式で、読まれるそうです。結婚生活も、お互いに、重荷を担い合う生活だからです。

しかし、クリスチャンは、教会生活において、そのことを既に、学んでいる筈です。

ですから、パートナーが、重荷を負って、苦しんでいる時に、その傍らに、静かに寄り添って、「あなたの重荷を、私にも担わせてください」と、手を差し出すことが、できる筈なのです。

人の重荷を担おうとする時、自分が手に、荷物を抱えていては、担うことは出来ません。

ですから、その時は、自分の荷物を、手放さなくてはなりません。そして、自分が手放した、その荷物は、他の人が担ってくれるのです。それが教会なのです。

私たちは、自分の荷物は、ことさら重たく感じるものです。ですから、負いにくいのです。

しかし、他人の荷物は、負い易いのです。特に、愛をもって、互いに担い合うとき、他人の重荷は、担い易くなります。なぜなら、愛は、重さを感じさせないものだからです。

母親は、自分の愛する赤ちゃんが、体重が増えて、重くなるのを喜びます。背負うのが大変だから、成長しないで欲しい、などと願う母親はいません。愛は重さを感じさせないのです。

5節には、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」、と書かれています。

ここで、私たちは、おやっと思います。お互いに重荷を、担い合いなさい、と2節で教えながら、ここでは、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」、と書いているからです。

しかし原文を見ますと、2節の「重荷」と、5節の「重荷」とでは、違う言葉が使われています。

5節にある、「自分の重荷」とは、自分が負うべき、責任のことです。自分が抱えている、思い煩いや、弱さのことでは、ないのです。

自分が果たすべき責任を、きちんとわきまえている人。そういう人が、他の人の重荷を負うために、手を差し伸べることができるのだ、と言っているのです。

更に、パウロは、互いに重荷を担い合うことが、キリストの律法を、全うすることになるのだ、と語っています。

なぜなら、互いに重荷を負い合う、ということは、互いに愛し合う、ということだからです。

そして、それこそが、主イエスが、私たちに示された、新しい戒めでした。

「互いに重荷を、担い合う」、ということは、主イエスが、与えてくださった、「互いに愛し合う」という、新しい律法の中に、私たちが招かれている、ということです。

そして、何よりも、主イエスご自身が、先ず、私たちの重荷を、担ってくださいました。

主イエスの生き方そのものが、他人の重荷を負う生き方でした。主イエスは、十字架において、私たちの罪の重荷を、負ってくださいました。私たちは、その恵みに、支えられてきたのです。そして、その生き方に、主イエスは、私たちを、招いてくださっているのです。

互いに重荷を担い合い、互いに愛し合う、という生き方の中に、私たちを召してくださっているのです。

マタイによる福音書11章28節~30節は、こう記しています。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

主イエスは、私たちが、お互いに、重荷を担い合うことができるようにと、ご自身が先ず、私たちの重荷を負ってくださいました。

ですから、私たちは、身軽になって、お互いに、重荷を担い合うことができるのです。

私たち、すべての者の、重荷とは、一体、どれほどの重さなのでしょうか。主イエスは、そのすべてを、ご自身の肩に、担ってくださったのです。

ゴルゴダに向かわれた、主イエスが、担われたもの。それは、十字架の木の重荷だけではありませんでした。

私たちの罪、私たちの過失、私たちの弱さ、私たちの汚れ。それらすべての重荷を、主イエスは、その肩に、担ってくださったのです。

私たちの重荷は、主イエスによって、担われているのです。私たちは皆、重荷を負って、この世を生きています。しかし、その重荷を、主イエスに委ねることが、許されているのです。

ですから、私たちは、悲壮感を漂わせて、歯を食いしばって、他人の重荷を負うのではなく、重荷を主イエスに担われた者として、互いに励まし合い、助け合いつつ、歩むことができるのです。

そのような生き方へと、招かれていることを、心から感謝したいと思います。

まことの柔和、ということを黙想していた時、想い起したエピソードがあります。

今から60年ほど前、一人の大学生が、したたか酒に酔って、立教大学の宣教師宅に侵入し、何の恨みもない、チャールズ・ペリー教授を、空手で殴り殺しました。

警官がかけつけ、狂気のごとく荒れ狂う、その大学生を取り押さえ、教授を助け出しました。しかし、教授は、もう虫の息でした。

ペリー教授は、最後に、苦しい息の下から、こう言いました。「あの青年を赦してやって欲しい。酔いがさめたら、その過失をよく教えてやってください」。そう言って亡くなりました。

ペリー教授の告別式に、加害者の学生の母親が、ペリー夫人に、お詫びに来ました。

その悲痛な挨拶を聞いて、夫人はこう言いました。「私は、今、この地上に、夫を殺された私以上に、苦しみ悲しむ人のいることを、知らされました。あなたのために、主イエスにお祈りさせて頂きます。」

最期に、「あの青年を赦してやって欲しい。その過失をよく教えてやってください」、と言って亡くなったペリー教授。そして、加害者と、その母親のために祈ったペリー夫人。

この二人こそ、聖霊の実が結ぶ柔和、静かな勇気を、生きた人たちであったともいます。

このような柔和は、十字架の主イエスを見上げる時に、私たちの心に、生まれます。

茅ヶ崎恵泉教会が、そのような柔和に生きることができますように、聖霊の助けを、共に祈り求めてまいたいと思います。