MENU

過去の礼拝説教

「イエスの焼き印を身に受けて」

2018年01月28日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 6:11~18

私たちが、手紙を書き終わった時に感じる、共通する思い。

それは、書き残したことはないだろうか。伝えたいことが、十分に届くだろうか。

そのような、不安ではないでしょうか。

パウロも、このガラテヤの信徒への手紙を、書き終えるに当たって、恐らく、そのような思いを、持ったと思います。

この手紙の中で、パウロは、十字架の福音から逸れて、律法主義に戻ろうとしている、ガラテヤの教会に対して、激しい言葉を語ってきました。

「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち」。びっくりするような、激しい言葉さえも用いて、彼らの過ちを正そうと、努めてきました。

そして、今ここで、この手紙を、どのように締め括ればよいか、立ち止まって考えています。

パウロが、この手紙の締め括りとして、最後に、もう一度言いたかったこと。

それは、一体、何だったのでしょうか。ご一緒に、御言葉から、聴いていきたいと思います。

12節に、「肉において人からよく思われたがっている者たち」、と書かれています。

「肉において人からよく思われたがっている者」。それは、どのような人なのでしょうか。

この言葉の原語は、「良い外見を見せる」、という意味です。もっと砕けて言えば、「いいかっこをする」、という事です。

人に、かっこよく見られることを、いつも気にしながら生きている。そういう人のことです。

人の評判や、評価ばかりを、気にして生きている。そのような生き方は、望ましい生き方ではない。そんな生き方は、間違っている。私たちは、皆、そう思います。

しかし皆さん、私たちが、自分の姿を、正直に見つめた時、果たしてどうでしょうか。

私たちが、何かを行う時、たとえそれが、愛の行為であっても、或いは、教会における奉仕の業であっても、私たちは、人の評価や評判から、自由になり切れていない。

人にどう見られるか。いつもそれを気にしながら生きている。そんなことはないでしょうか。

しかしパウロが、ここで問題にしているのは、そのような、私たちの生き方のことではありません。パウロが問題としているのは、「かっこよく見せたがる」生き方が、結局は、十字架を、「かっこ悪いもの」、としてしまっている。

十字架の贖いの恵みを、小さくしてしまっている、ということなのです。

ガラテヤの教会の中に、キリスト者になるのに、十字架の贖いを信じて、バプテスマを受けるだけでは足りない。割礼も受けなければならない、と主張した人たちがいました。

その人たちは、キリスト者になろうとする人々に、無理やり割礼を受けさせたのです。

この手紙の中で、パウロは、繰り返して、そのような人たちのことを、批判しています。

誤解しないで頂きたいのですが、この人たちも、主イエスの十字架を、否定していた訳ではありません。キリストの十字架を否定するなら、元々教会には来ていません。

この人たちも、イエス・キリストを、救い主と信じる、信仰を持っていました。

でも、十字架の贖いだけでは、足りない。やはり、割礼を受けて、律法も守らなければならない、と主張したのです。

私は、十字架の救いだけに、自分の全てを懸けている。そう宣言したときに、人から何と言われるか、分からない。それが怖かったのです。それが不安だったのです。

ガリラヤの片田舎から出てきた、一人の男が、死刑囚として、十字架に死んだ。

そんなものに、お前は命を賭けているのか。そのように、言われるのが、怖かったのです。

十字架なんかに、全てをかけるなんて愚かだ、と言われたくなかったのです。

パウロ自身が言っているように、信じない者にとっては、十字架の福音は、愚かです。

一人の男が、死刑囚として死んだ。そこにこそ、私たちの救いがある、と信じる。

信じない人には、それは、愚かです。かっこ悪いことです。

でも、「十字架を信じるなんて、愚かだ、かっこ悪い」などと、正面切って言われると、私たちは、反論したくなります。「いや、そんなことはない。キリストの十字架は、かっこいいのだ」、と言って、取り繕いたくなります。十字架を、見栄えの良いものに、したくなります。

しかし、パウロは、キリストの十字架は、本来、かっこ悪いものなのだ。信じない者には、愚かなものなのだ。なぜそれを、かっこよいものに、しようとするのか、と言うのです。

「天の父よ、私は、このだらしのない人間を、どうしても救いたいのです。ですから、私を、代わりに罰してください。どうか、私を、あの忌まわしい十字架において、極悪人として、処刑してください」。そう言って、十字架に上られた、主イエスのお姿。

それは、信じない者には、かっこ悪いのです。愚かなのです。

しかし、パウロは、そのかっこ悪い十字架に、その命も、その力も、その全てを、注がれたキリストの愛。キリストの恵みを、なぜそのまま、見ようとしないのか、と言っているのです。

そうなのです。キリストの十字架は、本来、かっこ悪いのです。

考えてもみてください。創造主である神が、被造物である人間によって、処刑される。

そんなことは、愚かです。かっこ悪いことです。

しかし、そのかっこ悪さ、その愚かさこそが、私たちの救いなのです。

神様が、なりふり構わず、恥も外聞も、かなぐり捨てて、私たちを救うために、十字架にかかってくださった。そのかっこ悪さ、その愚かさに、無限の愛が、こめられているのです。

それに、何かを、付け加えたり、それを飾り立てたりして、見えなくしてしまってはいけない。

そのかっこ悪さ、その愚かさこそが、実は限りなく尊いのだ、とパウロは言っているのです。

もともと十字架は、恥辱と、呪いに満ちたものなのです。

しかし、パウロは、この十字架だけを、宣べ伝えました。

この十字架に、何かを加えたり、飾り立てたりして、見栄え良くしようとする者は、神様の力ではなく、人間の力を頼みとして、生きているのです。

パウロ自身も、かつては、人間的な誇りを大切にして、それに頼っていました。

「肉において人からよく思われたい」、「肉について誇りたい」、そのことを大切なこととして、生きていました。フィリピの信徒への手紙3章4節以下に、そのことが語られています。

パウロは、「生まれて八日目に割礼を受け、ベニヤミン族の出身で、律法に関してはファリサイ派の一員、律法の義については非のうちどころのない者」であった、というのです。

当時のユダヤ人から見て、実に、かっこいい誇りに、パウロは生きていました。

しかし、彼は、これら一切のことを、キリストのゆえに、損失と見なすようになったのです。

それは、拠って立つ所が、人間的な誇りから、キリストの十字架に、変わったからです。

パウロは、14節で、そのことを、もっとはっきりと、述べています。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。

十字架を誇る、ということは、十字架につけられた、主イエスを誇る、ということです。

しかし、それは、決して、英雄的な死ではありません。

かっこ悪い死です。一人の男が、犯罪人として処刑された、醜い死です。

しかし、十字架の主が、負ってくださった醜さの中に、私たちは、自分自身の醜さを見るのです。自分自身の悲惨さを見るのです。自分自身の、かっこ悪さを見るのです。

神ご自身が、見栄を捨ててくださり、一切の誉れを捨ててくださった。

見栄を張り、かっこよく生きようと、あくせくしている、私たちを救うために、神ご自身が、かっこよく生きる、ということを、きっぱりと捨ててくださった。

パウロは、そこに、全く新しい誇りに生きる、生き方を知ったのです。それは、十字架だけを、誇りとして生きる、生き方です。

神様の前で、私たちは、一体、何を誇ることが出来るでしょうか。私たちは、神様の前に立った時、何か誇るものを示せるでしょうか。そのようなものは、何も持っていません。

それでは、私たちには、誇りは全くないのでしょうか。人間は、誇りなくしては、生きていかれません。それでは、私たちは、生きていけないのでしょうか。そんなことはありません。

私たちが、神様の前で誇れること。それは、こんな私のために、主イエスが、十字架にかかってくださったということ。ただそのことだけです。その出来事だけです。

この私のために、主イエスが、十字架に死んでくださった。それほどまでに、私は、愛されている。こんな私のために、主イエスが、命を献げてくださった。

私たちは、この主イエスの、十字架の愛を誇るのです。このことだけが、神様の前で、私たちが誇れることなのです。

さて、私たちは、自らを省みて、どうでしょうか。実際に、何を誇りとしているでしょうか。

茅ヶ崎恵泉教会は、何を誇っているでしょうか。今、私たちは、新会堂建築に向かって、歩み出しています。新会堂が完成した暁に、もし、私たちが、その新会堂を誇るようなことがあるなら、新会堂は、私たちにとって、立派過ぎます。

もし、新会堂を誇る気持ちが生まれるなら、新会堂はない方が良いでしょう。

この教会には、パイプオルガンが、与えられています。これは、本当に、大きな恵みです。

しかし、私たちの心に、十字架よりも、このパイプオルガンを誇る気持ちが、少しでもあるなら、私たちにとって、このパイプオルガンは、立派過ぎます。

もし、そういう存在であるなら、パイプオルガンは、ない方が良いのです。

私たちが誇るべきものは、そのような恵みを、与えてくださった、神様のみです。十字架にかかられた、イエス・キリストだけで、あるべきなのです。

十字架に顕わされた、キリストの愛、私たちが誇れるのは、それだけなのです。

パウロは、更に続けて語ります。

「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」

かつては、この世の評判や、他人の評価ばかりを、気にして生きていた。そのことに、一喜一憂してきた。かっこよく見られたいと、見栄を張って生きてきた。

しかし、キリストに出会って、そういう生き方自体が、十字架につけられて、殺されてしまった。見栄を張る生き方が、十字架で殺された、というのです。

「新しく創造される」ということは、古い自分が、十字架につけられて死ぬ、ということが前提となっています。古い自分が、死ななければ、新しく生まれることは、できません。

宗教改革者ルターは、「私は死んだ。どこで。あのゴルゴダの丘で」、と言いました。

ルターも十字架の上に、古い自分の死を見た、と言っているのです。

17節で、パウロは言います。「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」。

パウロは、このガラテヤの信徒への手紙を、閉じるに当たって、最後にそう記しました。

ガラテヤの人々は、キリストの十字架の福音を離れて、「律法」の行いと、「割礼」の習慣に、戻って行こうとしました。

それでは、キリストが十字架にかかったのは、何のためだったのか。キリストの十字架のみによって救われる、と信じる信仰は、どうなるのか。私が、命懸けで伝えてきた福音。

それは、無駄になってしまったのか、とパウロは言っているのです。

どうか、これ以上、私を煩わさずに、「ほかの福音」でなく、キリストの恵みの福音に、立ち帰って欲しい。キリストを信じる信仰のみに、しっかりと立って欲しい。

これは、この手紙に於ける、パウロの、最後のお願いの言葉です。

続けてパウロは、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」と言いました。

「イエスの焼き印」、という言葉は、聖書のここだけに出てくる、特別な言葉です。

これはどういう意味でしょうか。「焼き印」というのは、当時、羊や、時として、奴隷の身体にもつけた「しるし」です。

羊には、焼きごてで、持ち主の「しるし」をつけました。それによって、他人の羊が、入り混じった場合にも、誰のものかが、分かるようにしていたのです。

ですから「焼き印」には、その所有者を示す、という意味がありました。

パウロは、「わたしは、イエスの焼き印を、身に受けている」、と言いました。

自分の身体についた「しるし」で、自分が、「主イエスのもの」とされている、ということが、はっきり示されている、と言ったのです。

では、その「しるし」とは、どのようなもので、あったのでしょうか。パウロは、刺青でもしていたのでしょうか。そうではありません。

彼の身体には、「苦しみの傷跡」がついていて、それが「イエスの焼き印」に、なっていたのです。パウロの身体には、数多くの「伝道の労苦の痕」が、傷跡として、刻まれていました。

そして、それらの傷跡は皆、「イエスの焼き印」である、というのです。

それらは、自分が、自分のものではなく、主イエスのものであることを、表わしている。

迫害のために、自分の体に付けられた、数々の傷跡は、自分が、主イエスの所有物であることを、示しているのだ。パウロは、そう言っているのです。

「イエスの焼き印」、それは、使徒パウロが受けた、個人的な「しるし」です。

しかし、それは、パウロに限ったことでは、ありません。キリスト者の誰もが、そのような、個人的な「しるし」を、受けている筈です。

全てのキリスト者が、そのような「しるし」を、持っているのではないでしょうか。

「この人は、主イエスのものだ」、という「しるし」は、私たち、すべてのキリスト者の心に、焼き付けられているのではないでしょうか。私たちの、全存在が、主イエスのものとなっている。キリスト者とは、そういう者である筈です。

でも、皆さん、実際には、どうでしょうか。御言葉は、キリストの十字架のみを、誇る者には、キリストの焼き印が、押されている、と言っています。

では、私たちには、キリストの焼き印が、しっかりと押されているでしょうか。

キリストの十字架ではなく、自分の頭の良さを、誇っている人には、「学歴」という焼き印が、押されているかもしれません。

自分の財産を、誇っている人には、お金の焼き印が、押されているかもしれません。

自分の名誉を、誇っている人には、勲章の焼き印が、押されているかもしれません。

勲章で、想い起す人がいます。香港日本語教会で、永年議長を務められた、藤田一郎さんという人です。

藤田さんは、三井物産香港支店の、戦後の初代支店長でした。退職後も、条件の良い、再就職口をすべて断って、香港日本人学校や、香港日本商工会議所の設立に尽力されました。

「私は雑巾になる」、というのが藤田さんの、口癖でした。

そのような、永年の働きを称えて、日本政府から、藤田さんに、勲章が授与されました。

そこで、その御祝いの会を、開きました。しかし、藤田さんは、お祝いの言葉を、受けるのを、喜ばれませんでした。そして、讃美歌の歌詞を、その席上で、紹介されました。

「キリストにはかえられません。いかに有名な人に、なることも。人のほめる言葉も、この心を引きません。世の楽しみよ、去れ。世のほまれよ、行け。キリストにはかえられません。世の何ものも。」

キリストの焼き印を、身に受けた生き方とは、この藤田さんのような、生き方なのではないかと思います。

それは、「勲章など要りません、十字架のキリストの愛が、全てです」、という生き方です。

実に、かっこ悪い、キリストの十字架。しかし、そのかっこ悪い、キリストの十字架は、かっこ悪い私たちを、神様のものとするための、神様ご自身の、命を懸けた戦いであったのです。

そうであるならば、私たちは、もはや、「かっこ良い」とか、「かっこ悪い」とか、言うことからも、自由にされている筈です。

かっこ悪い自分が、かっこ悪い十字架の愛の、対象とされている。そのことだけを誇る者とされている筈です。

そして、そのような自分に、主イエスの焼き印が、刻み込まれていることを、喜ぶ者とされている筈です。私たちは、すべて、主イエスの、サイン入りの存在となったのです。

そうであるなら、主イエスは、絶えず、私たちを、その恵みの中に、置いてくださる筈です。

私たちを、ご自分のものとされた以上、命懸けで、ご自身の所有物を、愛してくださり、守ってくださる筈です。

その希望に、共に生きていく、お互いでありたいと思います。