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過去の礼拝説教

「混沌からの救い」

2018年02月11日 聖書:創世記 7:10~24

今朝から、3回に亘って、ノアの箱舟の物語から、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

ノアの箱舟は、聖書の中でも、最もよく知られた、物語の一つです。

教会学校でも、頻繁に取り上げられています。恵泉幼稚園の駐車場の壁にも、ノアの箱舟の、大きなモザイクが描かれているので、園児たちは皆、この物語を知っている筈です。

この物語の主題の一つは、ノアの従順です。「従順」という言葉が、堅い印象を与えるのであれば、「素直な信仰」と、言い換えても良いと思います。

ノアは、「その世代の中で、神に従う無垢な人であった」、と6章9節にあります。

この御言葉は、以前の口語訳聖書では、「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」、と訳されていました。

そう聞きますと、私たちは、ノアは完璧な人物であった、と思い込んでしまいがちです。

しかし、この御言葉は、ノアが完璧な人物であった、と言っているのではありません。

聖書のこの先を読みますと、ノアはぶどう酒を飲み過ぎて、裸のまま寝こけてしまって、息子の一人に笑われてしまった、と書かれています。

ノアは、そんな失態をも、演じるような人であったのです。ですから、ノアが正しい人であった、というのは、ノアが完璧な人物であった、ということではありません。

そうではなくて、ノアは、神様との正しい関係に、生きた人であった、ということなのです。

神様との関係が、正しく保たれていた。だから、神様の言葉を、正しく聴くことができていた。ノアは、そういう人であったのです。その時代、神様との正しい関係に生きて、神様の言葉を、正しく聴いていた人は、ノアだけであった、と聖書は言っています。

そのノアに、神様が、巨大な箱舟を作るように、命じられます。

6章15節に、その箱舟のサイズが記されています。それによりますと、その箱舟は、長さが約135m、幅は約23m、高さは約14mで、3階建てであった、とされています。

これは、その当時としては、とてつもなく大きな船です。横長の長方形の四角い船で、絵本で見るような、先がとがっていて、船体が膨らんでいる、いわゆる船の形をしているのではありません。クッキングフォイルの箱のような、細長い四角の箱です。

別に、航海する訳ではなく、ただ浮かんでいるだけですから、それで良いのです。

この巨大な箱舟を、ノアとその3人の息子の家族だけで、作るのですから、気が遠くなるような話です。しかも、それを、周囲に水など全くない、野原のど真ん中で作るのです。

常識では考えられません。この神様の命令は、著しく奇妙で、不可解なものでした。

聖書には書かれていませんが、恐らく、ノア一家の仕事振りを見ていた、周りの人たちは、皆、嘲笑ったと思います。この一家は、気が狂ったのか、と思ったことでしょう。

しかし、何と、ノアの一家は、この無意味とも思われるような、仕事をやり遂げるのです。

一体、どれ程の時間と労力を、費やしたか。聖書には書かれていません。

恐らく、何ヶ月も、いえ何年もかかったと思われます。箱舟を作るために、持ち物全てを費やしたと思います。これは大変なことです。

大雨が降りそうもない土地で、周囲に水もない野原に、巨大な箱舟を作る。

誰が考えても、愚かで、非常識な計画です。でも、ノアは、それを完成させたのです。

なぜでしょうか。神様に命じられたからです。ただそれだけです。神様の命令を聴いたので、それに従っただけなのです。私たちには、信じられないような従順さです。

神様が、なぜ、そんな巨大な箱舟を、野原のど真ん中に、建てなさい、と命じられたのか。

聖書を読みますと、神様が、そのご計画の全容を、明確に告げられたのは、箱舟が完成した後のことです。

「この世代に、あなたの他には、私に従う人はいません。ですから、私は、すべての生き物を、地上から拭い去ることにしました。私は、この地上に、今まで誰も経験したことのない、大洪水を起こします。四十日四十夜に亘って、この地上に大雨を降らせます。

だから、あなたとあなたの家族は、すべての生き物、一つがいと共に、この箱舟に、乗り込みなさい。それ以外には、あなた方の命が守られる道はありません。」

神様が、洪水によって、全ての生き物を、滅ぼされる、というご計画については、箱舟を造る前に、聞いていました。

しかし、その洪水が、人類が未だかつて、経験したことがない、想像を絶する、大洪水である、ということは、この時、初めて、知らされたのです。

それは、高い山に上れば、何とか助かる、というような洪水ではない。四十日四十夜、雨が降り続き、山々のすべてが、沈んでしまう。そのような、大洪水が起きるのだ。

神様からの、このメッセージは、箱舟が完成した後に、初めて与えられています。

ということは、ノアは、神様のご計画の全容も、知らされないままに、巨大な箱舟を作ったのです。明確な理由を、示されないままに、黙々と作り続けたのです。

ご計画の全容を、告げられていたなら、私たちでも、ある程度は頑張れたかもしれません。

しかし、何のために、こんなバカでかい箱舟を作るのか、はっきりと知らされていない。

洪水から逃げるだけなら、高い山の上に、避難所を作れば、よいではないか。

そういう思いに打ち勝ち、そして、皆から馬鹿にされながらも、黙々と作り続けるのは、至難の業であると思います。しかし、ノアは、それをやり遂げたのです。何という従順でしょうか。

今、私たちは、新会堂を建てようとしています。この大事業に対する、私たちなりの目的や理由はあります。祈りの中で、示された新会堂建築への思い。

それを、私たちは、神様の御心と信じて、歩み出しています。

しかし、神様のご計画は、私たちの思いを、遥かに超えているかもしれません。もしかしたら、神様は、私たちが、考えてもいなかったような、ご計画をお持ちかも知れません。

そして、私たちは、完成後に、それを知らされるかも知れません。あぁ、神様は、こういうことを、ここでされたかったのか。そのために、私たちに、新会堂を建てさせたのか。

完成して、実際に、新会堂を用いるに至って、思いがけない御心を、示されることがあるかも知れません。私たちは、完成後に、神様の御声を、聴くことになるかもしれません。

「あなた方は、私の命令に、よく応えてくれた。私の心に、よく従ってくれた。私は、そのようなあなた方と共に、新会堂をこのように用いようと計画している。実は、それが私の、本当の目的であったのだ。」 このように示されるかもしれません。

神様から、箱舟建築の、まことの理由を知らされた時、ノアは、全身が震えるような驚きに、包まれたと思います。

私たちも、新会堂完成後に、驚くような用い方を、示されるかも知れません。そのことを、期待しつつ、今は、ノアのように、主のご命令に、精一杯応えていきたいと思います。

さて、洪水は、どのようにして、起こったのでしょうか。

この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた、と御言葉は語っています。この表現は、この時代の人々が抱いていた、天と地のイメージを、反映しています。

創世記の1章6節に、神様が、「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と言われた、と書かれています。

天地創造の二日目に、神様は、大空を造り、大空の下と、大空の上とに、水を分けられた。大空の下の水が海となり、大空の上にも水がある。

この時代の人々は、天の上にも水がある、と考えていました。その天の上の水が、必要に応じて開かれて、雨が降る。そう考えられていたのです。

神様が、その様に天と地を造られる前は、この世は混沌としていた、と聖書は言っています。しかし、神様は、上の水と下の水とを、分けることによって、その混沌に、一つの秩序を、与えられました。ですから、海の水も、天の水も、神様によって、コントロールをされている。

古代の人たちは、そのように考えていました。

しかし、11節では、「深淵の源がことごとく裂け」、と書かれています。つまり、コントロールされていた水の栓が、抜かれてしまった、というのです。

ですから、大雨が止めどもなく、降り続いたのです。更に、海の深淵にも、水の源があって、そこの栓も抜かれてしまつた。だから、海からも水が溢れたのです。

神様が、善いものとして造られた、この世の秩序が崩壊して、天地創造以前の混沌状態に、戻って行こうとしているのです。

なぜ、神様は、せっかく善いものとして、お造りになったこの世を、再び混沌状態に、戻してしまおうと、されているのでしょうか。

聖書は、それは、人間の罪の故だと、言っています。人間の罪が、そういう混沌状態を、招いたのだ、というのです。

折角、善いものとして造ったのに、人間は、罪の泥沼に落ち込んで行き、神様の御心に背くことばかりしている。善いものとして造った、この世の秩序を破壊し、神様に敵対し続けている。神様は、そんな人間を、元の状態に戻そうと、何度も呼び掛け、語り掛けた。

でも人間は、立ち帰ることなく、ますます、神様から離れて行こうとしている。

善いものとして、造られたこの世が、人間の罪の故に、神様に背き、反逆している。

神様が望まれている方向とは、逆の方向に突き進んでいる。

神様は、それを、長い間、耐え忍んで来られました。しかし、もはや、黙って見ていることができないほどに、人間の罪は、極まってしまったのです。

そこで、神様は、ご自身の手で造られた、この世界を、ご自身の手で、滅ぼされようと、決心されたのです。生き物のすべてを滅ぼす。

これは、まことに厳しい、神様の裁きです。人間の罪の故に、生き物すべてを滅ぼすなんて、可哀そうだ。私たちは、そう思います。

この神様の裁きは、厳し過ぎるのではないか、と思います。

しかし、ここで、私たちが、見つめるべきは、神様の裁きの厳しさ、ではありません。

その背後にある、神様の、計り知れない、痛みと悲しみ。そこにこそ、私たちは、目を留めなければならないのです。

ご自身が、心を込めて、すべて善いものとして、造られたこの世。ご自身の力と、思いと、愛の全てを注ぎこんで、造られたこの世界。それを、ご自身の手で、滅ぼさなければならない。それは、どれ程、大きな痛み、どれ程深い悲しみであったことでしょうか。

ですから、洪水が去った後、神様は、もう二度と、このように、世界を滅ぼすようなことはしない。生き物を、ことごとく打つことは、二度とすまい、と決心されたのです。

そして、その後は、ひたすらに、人間の罪を、忍耐され、あらゆる手を尽くされて、人間を立ち帰らせようと、されたのです。

しかし、この神様の、愛と忍耐にも拘わらず、その後も人間は、神様に対する反逆を、繰り返しました。神様の呼びかけを、無視し続けました。

ですから、神様の痛み、悲しみは、無くなるどころか、ますます大きくなっていったのです。

しかし、生き物を、この地上から、拭い去ることは、もう二度とすまい。この神様の決意は、変わることはありません。人間の罪の状況は、変わらない。しかし、その人間を、滅ぼすことは、二度としない。では、その時、神様は、何をされるのでしょうか。

遂に、神様は、ご自身の最愛の独り子を、人間の身代わりとして、十字架で滅ぼされることを、決心されるのです。御子の十字架の死によって、人間の罪を赦すことを、決意されるのです。このノアの物語は、神様の厳しい裁きを語っています。しかし、同時に、その背後にある、神様の深い愛をも、語っているのです。

そして、その愛の故の、神様の痛み・悲しみを、私たちに指し示しています。

その神様の痛み・悲しみは、主イエスの、十字架において、その頂点に達します。

洪水によって、生き物すべてを滅ぼした時の、神様の痛み・悲しみ。

しかし、主イエスが、十字架にかかられた時、父なる神様は、それにまさる痛み・悲しみを、味わっておられたのです。

そして、その痛み・悲しみがあったからこそ、私たちは、救われたのです。

ノアの物語は、主イエスの十字架の救いへと、私たちを導き、招いているのです。

神様は、ノアに、箱舟を用意するように、言われました。

この箱舟は、洪水を避けるための、ものではありません。洪水は、起きるのです。洪水は、避けられないのです。

しかし、この箱舟によって、私たちは、洪水の中でも、尚も、生きることができるのです。

この箱舟は、私たちを、十字架の救いへと導く、信仰を表している、と言うことができます。

この箱舟、つまり信仰とは、私たちを、この世の様々な、嵐や混乱から、逃れさせる、というものではありません。嵐や混乱は、避けられないのです。

しかし、その嵐の中で、尚も生きる生き方。それが、この箱舟に乗り込むこと、つまり、信仰に生きることなのです。

16節は、こう言っています。「神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を開ざされた。」

最後の動物が入った時に、主は、ノアの後ろで、戸を閉ざされた、と書いてあります。

この戸は、外から閉ざす戸です。外からしか、閉めることのできない扉なのです。

でも、ノアは外に出ていって、自分で閉めることはできません。なぜなら、彼は、舟の中に、いなければならないからです。

彼が閉めることのできない、その外の扉を、神様が、閉ざしてくださいました。水が浸入しないように、神様が、きっちりと閉ざしてくださったのです。

よく、私たちの人生は、荒海に漂う小舟に、譬えられます。荒波の中を、小舟で航海していく時、もし、戸が開いていたら、そこから水が入って、あっという間に沈んでしまいます。

でも、信仰という箱舟に乗り込んだ時には、その背後の戸を、神様がきっちりと閉ざしてくださるのです。ですから、水は侵入しません。私たちは、沈まないのです。

私たちは、今、この世の、様々な試練の中にいます。洪水の中を漂っています。

でも、私たちは、この洪水に、いたずらに怯えることはしません。

なぜなら、私たちは、信仰という箱舟に、乗っているからです。その箱舟の、後ろの戸を、神様が、きっちりと閉ざして、守ってくださっているからです。

そうであるなら、この水は、私たちを、殺すための水ではありません。私たちを、生かすための水なのです。洪水がもたらす、地上の混沌から、私たちは、救い出されるのです。

私たちの人生においても、洪水が押し寄せます。しかし、信仰という箱舟の中で、私たちは、洪水を生き抜くことができるのです。

そして、洪水の中で、私たちは、神様と出会うのです。

「あぁ、ここにも、神様はおられた」、「ここにも、神様は、いてくださった」。そのようにして、神様を知っていくのです。

人生の洪水の中で、私たちは、この世の不条理に、悩みます。この世の残酷さや、悲惨さに、打ちひしがれます。しかし、信仰という箱舟に乗っている時、その只中で、神様と出会い、神様の恵みと、慈しみを知ることができます。

神様が、後ろの戸を、きっちりと閉ざして、守ってくださっていることを、知らされるのです。

何千年も前の、ノアの洪水は終わり、今、後ろの戸は、再び開かれています。誰もが、箱舟に、招かれています。神様は、私たちの前に、箱舟の門を、開いていてくださるのです。

ヨハネの黙示録3章8節の御言葉は、こう言っています。「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。」

神様ご自身が、今、私たちに語り掛けてくださっています。「私は、あなたの前に、誰も閉じることのない門を、開いておいたよ。さぁ、ここから、この箱舟に、乗り込みなさい」。

これは、素晴らしい約束だと思います。主イエスは、私たち全てのために、十字架にかかって、罪の贖いを、完全に果たしてくださいました。

ですから、誰の前にも、救いの門は、開かれているのです。「私なんか、とても救われない。私なんか、とても天国になんか行かれない」。

そう思っているあなたに、主イエスは、語り掛けられています。「そんなことはありません。あなたのための門は、開かれているのです。さぁ、どうか、ここから入って来てください。」

私たちの主は、水が押し寄せる時には、戸を閉ざして、私たちを、守ってくださり、水が去った時には、戸を開いて、私たちを、招いてくださるお方なのです。

このお方を、「わが主」と、呼ぶことができる幸いを、心から感謝したいと思います。