MENU

過去の礼拝説教

「箱舟に帰って来た」

2018年02月18日 聖書:創世記 8:1~12

水曜日の祈祷会においては、その週に、お誕生日を迎えられる兄弟姉妹の、愛唱讃美歌を歌って、お祝いをしています。愛唱讃美歌には、選んだ方の思いや信仰が、こめられています。その思いや信仰に、私たちの心を重ねつつ、皆で賛美しています。

石川邦夫兄弟、典子姉妹の愛唱讃美歌の一つは、聖歌472番「人生の海の嵐に」です。

その1節は、こう歌っています。

『人生の海の嵐に もまれ来しこの身も/不思議なる神の手により 命拾いしぬ

いと静けき港に着き われは今 安ろう/救い主イエスの手にある 身はいとも安し』

この聖歌を、愛唱讃美歌としている方は、多くおられます。私の妹の夫、つまり私の義理の弟も、この曲を愛唱讃美歌にしています。

この曲は、女性にも愛されていますが、男性に、それも、厳しい職場で働いている、現役の男性に、特に愛されているようです。3節の歌詞は、こう言っています。

『すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに/死を待つは誰ぞ直に 逃げ込め港に』

すさまじいこの世の嵐に、もてあそばれているような自分。その私に、ここに来なさい、この港に逃げ込みなさい、と語り掛けてくれる声が聞こえる。

この歌詞によって、慰めを得る人は、多いことだろうと思います。

この港とは、神様の御手の中のことです。神様が、御手を広げて待っていてくださる。

ここに、逃げ込みなさい。どんな時にも、ここは、静かな港です。ここに、錨を降ろして、安らぎなさい。この聖歌は、そう呼び掛けています。

どんなに激しい嵐が、押し寄せてこようとも、逃げ込むことができる、静かな港がある。

それは、本当に、大きな慰めであり、救いです。

さて、先週から、私たちは、「ノアの箱舟」の物語から、御言葉に聞いています。

今朝の箇所では、箱舟は、洪水の水の上を、漂っています。周りには、全く何もありません。

高い山の頂すらも、水の中に沈んでしまったのです。周囲を見渡しても、ただ、水、水、水。

水ばかりです。全くの孤独です。これからどうなるのかも、全く分かりません。

もし、これが、航海中の船であれば、目指す港があります。逃げ込む港があります。

どんなに激しい嵐に、出遭ったとしても、いつかは、静かな港に着き、安らぐことができます。

しかし、洪水の中に、ただポツンと、浮かんでいる箱舟には、行く先はないのです。

大水の中を、漂っているだけです。どこに行くのか、どこに向かっているのか。

その道筋が、全く見えないのです。そんな状態が、何と150日も続いたのです。

私たちも、人生の中で、様々な困難に、出遭います。厳しい困難に出遭って、進むべき道が、見えなくなってしまうことがあります。

今までは、今日はこれをしよう、明日はあれをしよう、そして、その先はこうなるだろう、と大まかなシナリオを、描いていました。

しかし、そういうものが、全く描けなくなってしまうのです。どこに向かえば良いのか、分からなってしまう。ただ、この困難の中で、漂うしかない。

そういう経験を、することがあります。これは、本当に、辛くて、厳しい試練です。

この時、ノアを取り巻く状況も、そういう厳しいものでした。

しかし、1節に、こう記されています。「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」。

神様は、ノアとその箱舟を、御心に留めていてくださった。御言葉は、そう言っています。

ノアだけではありません。神様は、私たちすべてをも、御心に留めてくださっています。

厳しい困難の中で、何もできずに、漂っている私たち。どこに向かっていいのか、分からずに、漂っている私たち。そんな私たちを、神様は、御心に留めてくださっているのです。

周りは洪水の水だけです。どこを見ても、水、水、水の現実です。島影一つ、見えません。

そんな絶望的な状況が、延々と続くのです。でも、御言葉は言うのです。

そんな中でも、神様が、この私たちを、御心に留めていてくださる。私たちの知らない所で、私たちには見えない形で、神様は、私たちのことを、御心に留めていてくださる。

目に見える現実は、ただ水だけです。どこにも、希望が見えないような、現実です。

しかし、御言葉は、実は、もう一つの現実があるのだ、と言っています。

「神様が、御心に留めてくださっている」という、もう一つの現実がある。私たちの目には見えないけれども、もう一つの現実がある。御言葉は、その希望を、指し示しています。

私たちは、困難の中にいる兄弟・姉妹に、「祈っています」、と言います。

そして、祈ります。心を込めて祈ります。

「主よ、私たちには、何もできません。しかし、主よ、あなたは、おできになられます。

あなたは、この困難の中から、愛する兄弟・姉妹を、救ってくださることが、おできになります。どうか、御心に留めてください。」私たちは、そう祈ります。

私たちができることは、ただ、神様の憐れみを、祈り求めるだけです。それしかできません。

しかし、神様が「御心に留めていてくださる」、ということは、それとは違います。

神様は、私たちと、同じではありません。神様は、何もできないお方ではありません。

私たちのことを、御心に掛けてくださる神様は、私たちの知らないところで、着々と、御業を進めてくださる、お方なのです。

私たちは、祈る以外に、何もできません。しかし、神様は、私たちの見えない所で、私たちには見えない形で、その御業を、進めていてくださるのです。

1節には、「地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」、と書かれています。

2節には、「深淵の源と天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、水は地上からひいて行った」、と書かれています。神様は、着々と御業を、進められていたのです。

一方、聖書には、ノアが、この洪水の中で、何かをした、とは書かれていません。

水を減らすために、一生懸命に頑張った、とは書かれていません。

ノアは、何もしていないのです。神様が、全ての業を、なしてくださったのです。

大きな困難の中で、私たちは、何もできません。無力です。

でも、神様が、御心に留めていてくださる。そのことを、私たちは信じるのです。そのことを信じて、舟に踏み止まるのです。

ノアがした、ただ一つのこと。それは、神様が、御心に留めていてくださることを信じて、舟に踏み止まった、ということです。じっと、箱舟の中に、留まり続けた、ということです。

そして、それこそが、最も大切なことであったのです。

この世に苦難がある、ということは、神様がおられない、という印ではありません。

この世に苦難はあるのです。しかし、その苦難の中にも、神様は、確かにおられるのです。

そして、私たちの、見えない所で、神様にしか、お出来にならないことを、なしていてくださるのです。私たちは、それを信じるのです。

周りを見れば、相変わらず、水だけです。何も、状況は変わっていません。

しかし、苦難の中でも、私たちのことを、御心に留めていてくださる、お方がおられる。

見えないところで、御業を進めていてくださる、神様がおられる。そのことを信じて、私たちは、舟の中に、踏み止まるのです。それが、信仰に生きる、ということです。

4節に、こう書いてあります。「第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。」

次第に水は引いて、箱舟は、アララト山の頂に止まりました。

結局、ノアは、何もしませんでした。いえ、何もできなかったのです。ノアは、ただ神様を信じただけです。洪水の中でも、この箱舟を、見ていてくださるお方を、信じたのです。

この箱舟は、ただ浮かんでいる、だけではない。ただ漂っているのではない。

見守っていてくださるお方がいる。洪水という苦難は、神様が、始められた。だから、神様が、いつか、終わらせてくださる。ノアは、そう信じたのです。

その信仰をもって、この洪水の中を、生きたのです。ですから、何もない水の上を、150日間も漂いながらも、ノアは、舟の中に、留まっていることができたのです。

そして、気がついたら、舟はアララト山の頂に、着いていました。

信仰とは、何か偉大なことを、成し遂げることではありません。

ただ、苦難の中でも、自分のことを、見守っていてくださる、お方がおられる。そのことを、信じることです。信じて、待つことです。

このまま、洪水のままで、終わることはない。今は見えない。今は分からない。

しかし、神様は、この苦難の中にもおられ、御業をなしていてくださる。そのことを信じて、その御業を待つことです。

そして、気がついたら、舟は、いつの間にか、高い頂に、着いているのです。

今まで、経験したことがなかったような、高い世界に、引き上げられているのです。

これが、信仰に生きる者が経験する、恵みの出来事なのです。

6節以下のところに、ノアが箱舟の窓を開いて、何回か、鳥を放つ記事が出ています。

初めに、ノアは、烏を放ちました。古代社会では、海を航海する時、烏を放って、陸地のある方向を、推し測ったそうです。烏が、羅針盤のような、役目を果たしていたのです。

でも烏は、陸地を見つけることが、できませんでした。ですから、ただ、出たり、入ったり、しただけでした。

次に、ノアは、鳩を放って、水が引いたかどうかを、確かめようとしました。

9節の御言葉は、こう語っています。「しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。」

ここにある、「止まる所」、という言葉は、直訳しますと、「足の裏を休ませる所」、という意味の言葉です。まだ水が、全地を覆っていて、足の裏を休ませる所がなかったのです。

ですから、鳩は、飛び回っただけで、何もせずに、箱舟に帰って来ました。そして、ノアは、手を差し伸ばして、その鳩を捕らえて、自分の許に、迎え入れたのです。

この鳩の姿は、私たちに、大切なことを、教えてくれています。

もし、私たちが、この鳩を、箱舟の外側から、眺めていたら、私たちは、どう思うでしょうか。

鳩が一羽放たれた。その鳩は、箱舟の周りを飛んで、何もせずに、箱舟に帰って行った。

一体あの鳩は、何のために、外に出たのか、何もしなかったではないか。全く無駄に、飛び回っただけではないか。何と、無意味なことをしたのか。恐らく、私たちはそう思うでしょう。

しかし、箱舟の中にいた、ノアにとっては、この鳩の飛行は、決して無意味ではありませんでした。

まだ水が引いていない。足の裏を休める所は、どこにもなかった。鳩は、その貴重な情報を、ノアに伝えたのです。

外にいる人には、分かりませんが、鳩は、立派に、役目を果たしていたのです。

ですから、ノアは、手を差し伸べて、鳩を大事に、迎え入れたのです。

ある牧師に、待望の赤ちゃんが、与えられました。待ちに待った、我が子の誕生です。

その牧師の喜びようと言ったら、それはもう、大変なものでした。

ところが、その赤ちゃんは、生まれて、僅か三日で、天に召されてしまったのです。

一転して、その牧師は、奈落の底に、突き落とされました。

神様は、何という残酷なことをされるのか。神様は、本当に、愛のお方なのだろうか。

とうとう、その牧師の、信仰すらも、揺らいでしまったのです。心配して訪ねて来た、先輩牧師に、彼は心の中の思いを、ぶつけるように、問い掛けました。

「たった三日で、お召しになるなら、神様は、なぜあの子を、生まれさせたのか。一体あの子は、何のために生まれ来たのか。先生、教えてください。」

その先輩牧師は、じっとうつむいて、沈黙していましたが、やがて静かに語り出しました。

その時、この先輩牧師は、ノアの箱舟の、鳩の話をしました。

「君の赤ちゃんは、生まれて、わずか三日で、天国に召されてしまったね。

何のために、生まれてきたのか、分からない。その短い人生に、どんな意味があったのか、分からない。そのことで、君の悲しみと、苦しみは、いや増しているのですね。

箱舟から放たれて、ほんの少しの時間だけ、外を飛び回って、また箱舟に帰って行った鳩。

外から見ている限り、この鳩は、無意味なことを、していたように、見えるだろう。

でも箱舟の中にいる、ノアに対しては、この鳩は、大切な役目を、きちんと果たしたのだよ。

私たち人間は、外から、神様のなさることを、見ている。だから、神様のなさることが分らずに、無意味だと思うことが、あるかも知れない。

でも内側にいる神様にとっては、無意味なことは、一つもないのだよ。全ては、意味があるのだ。君の赤ちゃんも、託された役目を、立派に果たして、神様の許に帰ったのだよ。

ノアは手を差し伸べて、鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した、と書いてあるね。

神様は、御手を伸ばして、君の赤ちゃんを、しっかりと抱き締めて、ご苦労さま、と言って迎えてくださったのだよ。私は、そう信じている。」

この言葉によって、その牧師は、信仰を失わないで、済みました。

悲しみが、消えた訳ではありません。苦しみが、癒えた訳ではありません。

でも、たった三日の人生だったけれど、赤ちゃんが、神様から託された役目を果たして、天に帰って行った。今は、私たちには、分からないけれど、赤ちゃんの誕生には、意味があったのだ。そのことを信じることがでたのです。

よく言われることですが、私たちは、刺繍の裏側を見ているのです。刺繍の裏側には、様々な色の糸が、無造作にぶら下がっていて、全く美しくありません。

しかし、表を見ると、そこには、見事な絵が描かれているのです。神様が、描いておられる刺繍を、私たちは、表から見ることは、出来ません。私たちは、裏側だけを見ています。

裏側は、きれいではありません。でも、神様が、描かれている、表側は、きっと限りなく、美しい筈だ。私たちは、そのことを、信じていくのです。

箱舟から放たれた鳩は、そのことを、私たちに、教えてくれています。

さて、初めの二回は、烏も鳩も、休むところがなくて、帰ってきました。まだ水が、引いていなかったからです。

七日の後に、ノアは、再び鳩を放ちました。11節はこう言っています。

「鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。」

七日の後に、放たれた鳩は、オリーブの葉をくわえて、帰ってきました。

鳩がくわえてきた、オリーブの葉。それは、一つのメッセージです。水が引いている、というメッセージです。本当に、祈って、祈って、待ち続けた、メッセージです。

神様に祈った人は、神様からメッセージを、受け取るのです。

小さなオリーブの葉です。けれども、この小さな葉には、喜びが込められています。

希望が込められています。平安が込められています。

「見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた」、とあります。この言葉の原文は、「見ると、葉をくわえていた」、という意味の、普通の言葉です。

でも、鳩の口にくわえられた、オリーブの葉を見た時の、ノアの喜びが、聖書翻訳者の胸に迫って、思わず「見よ」、と訳したのだと思います。「見よ、オリーブの葉を、くわえているではないか」。この言葉には、ノアの喜びが、込められています。

オリーブの葉をくわえた鳩は、平和のシンボルと言われています。しかし、この場面を想像すると、それは、平和だけでなく、喜びのシンボル、希望のシンボル、でもあると思います。

そして、ノアたちが、箱舟に乗り込んでから、一年後に、漸く船の覆いが、取り外されます。

一年に亘る苦難の末に、船のハッチを上げて、ノアは、外を眺めました。

すると、目の前には、乾いた地が、広がっていたのです。

13節にも、「見よ、地の面は乾いていた」、と書かれています。ここでも、ノアの喜びが、「見よ」、という言葉に、込められています。

神様の約束を信じて、祈って待ち続けた者は、「見よ、鳩がオリーブの葉を、くわえて来たではないか」、「見よ、地の面は乾いているではないか」と、喜びの声を、上げることが、出来るのです。

来る日も来る日も、水の上を漂っていて、いつになったら、地の上に立てるだろうか、と思うような現実の中で、尚も、神様が、御業をなしていてくださることを信じて、祈り待ち続けた者は、「見よ」、と思わず叫ぶような、喜びに与れるのです。

ノアの物語は、私たちに、そのような希望を、教えてくれています。

その希望に生かされて、喜びを分かち合いつつ、共に歩んでまいりたいと、思います。