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過去の礼拝説教

「この人を見よ」

2018年03月04日 聖書:ヨハネによる福音書 18:39~19:16

暫く、ガラテヤの信徒への手紙と創世記から、御言葉に聴いてきましたが、今朝から、またヨハネによる福音書に戻リます。

主イエスは、ゲツセマネで祈っておられたところを、捕らえられ、大祭司による裁判を、受けられました。

そして大祭司は、十字架につけるために、主イエスを、ローマ総督ピラトに引き渡しました。

大祭司が、訴えた理由。それは、「イエスは自分を王だと言っていた」、というものでした。

しかし、福音書を読む限り、主イエスが、ご自分のことを、「王だ」と、語っておられるところは、どこにもありません。

むしろ群衆が、ご自分を、王に祭り上げようとした時、それを避けて、身を隠されたのです。

しかし、祭司長たちは、主イエスを、何とかして、ローマに対する反逆者として、十字架にかけて殺したかったのです。その方が、完璧に、主イエスを、消し去ることができるからです。

ですから、イエスという男は、ローマ皇帝に背いて、自分を王としている、と訴えたのです。

訴えを受けて、ピラトは、主イエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」、と尋問しました。

それに対して、主イエスは、ご自分の国は、この世に属するものではない。私は、この世の王ではなく、神の国の王なのだ、と答えられました。

人々を、力でもって、支配する王ではなくて、愛をもって人々に仕え、人々を神の国へと、招き入れるための王なのだ、と言われたのです。

そして、更に、「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」、と言われました。

ここで、主イエスが言われた真理とは、「生ける神の言葉」のことです。そして、その神の言葉が、人となってこの世に来た。それが、この私なのだ、と言われたのです。

しかし、ピラトには、そのことが、理解できませんでした。ピラトは、「真理とは何か」、と質問しただけで、尋問を打ち切ってしまいました。

この時、ピラトは、主イエスと、一対一で向き合っています。そして、主イエスから、真理について教えを受ける、絶好の機会を、与えられていたのです。

主イエスは、ピラトに語り掛けておられます。「ピラトよ、私は、あなたをも導きたいのだ。どうか、私が語る真理の中を、生きて行って欲しい」。

しかし、ピラトは、この絶好の機会を生かすことなく、残念なことに、主イエスとの対話を、中途半端に打ち切ってしまいました。

神様は、人々が真理を知るために、様々な機会を、用意してくださっています。

人々が、主イエスと出会う機会を、様々に備えておられます。

けれども、その機会を無視して、通り過ぎてしまう人が、何と多いことでしょうか、

「真理とは何か」。真理とは、どんな時にも、決して変わることなく、立ち続けるものです。

そして、それは、生ける神の言葉以外にありません。

「真理とは何か」。この問いに、真剣に向き合うことが、私たちの人生を、決定づけます。

しかし、この問いに、正面から向き合おうとせず、せっかく神様が備えてくださった、主イエスとの出会いを、逃してしまう人が多いのです。ピラトも、その一人でした。

さて、今朝与えられた御言葉は、ピラトによる、主イエスの裁判の後半部分です。

ピラトは、主イエスには、罪がないことを、知っていました。ユダヤ人たちの訴えは、彼らの妬みから出ていることを、知っていたのです。

ですから、ピラトは、「私はあの男に、何の罪も見いだせない」、と繰り返して言っています。

最初に、18章38節で、そう言いました。同じ言葉を、19章4節と、19章6節でも、繰り返しています。ピラトは、3回も繰り返して、主イエスは無罪だと、はっきりと言っています。

ですからピラトは、どうにかして、イエスを釈放しようと、努めました。

その最初の試みは、過越の祭りに行われる、恩赦を利用することでした。

ピラトは、ユダヤ人たちに、こう語り掛けました。「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」

すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返したのです。

ここでは、「バラバは強盗であった」、と書かれています。けれども、実際は、民族主義者のテロリストであった、と思われます。

ピラトは、群集に、「あのユダヤ人の王を、釈放してほしいか」、と尋ねました。

恐らく、民衆は、「釈放して欲しい」と答え、ピラトの好意を喜ぶだろうと、思ったのです。

ところが、祭司長たちに扇動された民衆は、「その男ではない。バラバを」、と叫びました。

マタイによる福音書によれば、このバラバというのは、あだ名であって、この男の本名は、イエスである、と書かれています。

つまり、この時、民衆は、キリスト・イエスか、バラバ・イエスか、どちらを選ぶのか、と問われたのです。そして彼らは、キリスト・イエスではなくて、バラバ・イエスを選びます、と答えたのです。

どこまでも、ひたすらに愛の業に、徹していかれた、キリスト・イエスではなくて、民衆の不満を利用して、暴力行為に走った民族主義者、バラバ・イエスを選んだのです。

人間は、いつもそうです。目立たない、愛の業よりも、力による行動に、心を惹かれてしまうのです。隠れたところで、小さな愛の業を、ひたむきに行っている人よりも、力に頼って、行動を起こす人の方を、大切にしてしまうのです。

この民衆の姿の中にも、私たちは、自分自身の姿を、見るのではないかと思います。

ピラトの予想に反して、民衆は、キリスト・イエスではなくて、バラバ・イエスを選択しました。

思惑が外れたピラトが、主イエスを釈放するために取った、第二の方法は、主イエスを、鞭打つことでした。

19章1節~3節です。「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』 と言って、平手で打った」。

なぜピラトは、罪がないことが、分かっている人に対して、鞭打ちを命じたのでしょうか。

このときの鞭は、皮の鞭の先に、金属が付けられていました。その金具が、鞭を当てるたびに、肉に突き刺さり、鞭を引くたびに、肉を剥ぐという、残酷な刑でした。

中には、鞭打ちだけで、命を落とすこともあった、と言われています。

10数年前に上映された、パッションという映画を、ご覧になった方はおられるでしょうか。

私は、あの映画の中の、主イエスが鞭打たれる場面を、忘れることができません。

あまりにもむごたらしくて、とても見ていられませんでした。涙を流しながら、「もう結構です。もう止めてください。見るに耐えられません」、と心の中で何度も叫びました。

しかし、そう叫んでいる私に、声が聞こえて来ました。

「お前は、もう止めてください、と言うのか。見るのが辛いから、もうよしてくださいと言うのか。お前は分かっていない。もし私が、ここで、鞭打たれるのを止めたなら、どうなると思うのか。その時は、お前が鞭打たれることになるのだ。お前は、私が、お前に代わって、鞭打たれていることが、未だ本当に分かっていない」。

その時、私は、本当に分かりました。主イエスは、私たちに代わって、鞭打たれたのです。

主イエスが、鞭打たれてくださったから、私たちは、鞭打たれずに、済んでいるのです。

そのことが分り、主イエスの愛が、激しく胸に迫ってきました。

更に、ここには、主イエスに対する、兵士たちの、あざけりの様子も、描かれています。

兵士たちは、主イエスの頭に、いばらで編んだ冠を、載せました。そして、紫色の着物を着せて、王服に見せかけました。

鞭打たれ、血だらけになった、憐れな王を、主イエスに演じさせたのです。そのような、苦痛と、恥辱の極みにまで、主イエスは、降りて行かれました。

4節でピラトは言っています。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」。

私は、このイエスという男には、何の罪も見出せない。この姿を見れば、あなたがたも、それが分かる筈だと、ピラトは言っています。

お前たちは、このイエスという男が、ローマに対する、反乱を起こそうとしている、と訴えて来ている。だが今、お前たちの前に立っている、この男に、そんなことが出来ると思うか。

こんなに傷つき、無力で、憐れな男が、ローマに対して、反乱を起すことができると思うのか。こんなに情けない、みっともない者が、皇帝に反逆できる筈が、ないではないか。

ピラトは、この姿を見せれば、民衆を説得して、主イエスを、釈放できると考えたのです。

或いは、また、肉が裂かれ、血だらけにされた、この男の姿を見れば、民衆は、恐らく、もうそれ以上の罰を、求めないだろう。そういう期待も、あったと思います。

ここまですれば、ユダヤ人たちの妬みも、収まるに違いない、と考えたのです。

そして、まさにそこで、ピラトは言います。「見よ、この男だ」。

皆さんは、「エッケ・ホモ」という言葉を、聞かれたことがあるでしょうか。ラテン語で、「この人を見よ」という意味です。

十字架のキリストを描いた、多くの聖画に、この「エッケ・ホモ」という題が、よく付けられています。日本では、踏み絵にも、描かれたそうです。

18世紀のドイツに生きた、ツィンツェンドルフ伯爵は、若い時に、ドレスデンの美術館で、「エッケ・ホモ」という題がつけられた、十字架の主イエスの絵を見て、深い感銘を受けました。

その絵を、涙を流しながら、何時間も見つめていた、と言われています。

その絵の下には、「わたしはあなたのために、このことを為した。あなたはわたしに、何をしたか」、と書かれていました。

ツィンツェンドルフ伯爵は、その絵を通して、主イエスが、自分を救うために死んでくださったことを、改めて深く、心に留めました。

そして、自分の領地内に、「ヘルンフート(主の御守り)」、という信徒たちの共同体をつくり、生涯かけて、祈りと伝道と奉仕に、励みました。

聖書は今も、私たちに、「この人を見よ」と、主イエスを、指し示しています。そして、この人と共に歩むようにと、招いています。

私たちの伝道も、「エッケ・ホモ、この人を見よ」、に尽きると思います。

私たちは、主イエスのことを伝えようと、様々な言葉を語ります。しかし、伝道する者が誰であろうとも、そして何を語ろうとも、その言わんとすることは、「どうぞ、この人を見てください、この人こそが、人となられた神です」、ということに尽きると思います。

「どうぞ、この人を見てください。この人こそが、私たちに代わって、十字架についてくださった、救い主です」。私たちは、このことを、ひたすらに、伝えていくのです。

蔑まれ、傷つき、無力で、憐れな主イエスを、群衆の前に連れ出して、「見よ、この男だ」、とピラトは叫びました。

そうすれば、群衆は満足して、主イエスを釈放することに、同意すると思ったのです。

主イエスの無残な姿が、祭司長たちの、妬みや憎悪の心を、変えるだろうと思ったのです。

この時の、主イエスのお姿は、まさに、あのイザヤ書53章において預言された、「苦難の僕」のお姿、そのものでした。

彼には、見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もなく、人々に軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、悲しみと病を知っている。そう書かれた、苦難の僕の姿でした。

ユダヤ人たちは、このイザヤの預言を、よく知っていた筈です。暗記するほど、慣れ親しんでいた筈です。ですから、彼らは、ここで、気づくべきであったのです。

イザヤの預言にあったように、この主イエスのようなお方こそが、救い主ではないだろうか。まことの救いは、力強い王ではなく、私たちの苦しみや悲しみを、知っておられ、私たちの弱さを担ってくれる、この苦難の僕のような方によって、もたらされるのではないだろうか。

彼らは、主イエスのお姿を見て、このイザヤ書の御言葉に、立ち帰るべきであったのです。

ここでも、神様は、人々が、主イエスと出会う機会を、備えてくださっていたのです。

しかし、ユダヤ人たちは、そんな主イエスを見ても、御言葉に立ち帰ることをしませんでした。それどころか、ますます激しく、イエスを十字架につけよ、と叫び続けたのです。

そして、主イエスの無罪を主張するピラトに、「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」、と訴えました。

ピラトは、この言葉を聞くと、ますます恐れた、と聖書は言っています。

そして、主イエスについて、もっと詳しく知りたいと思って、主イエスに、「お前はどこから来たのか」、と尋ねました。

「お前はどこから来たのか」。この問いは、「真理とは何か」、という先の問いにも増して、重要なものでした。しかし、主イエスは、この時も、一言もお答えになりませんでした。

「真理とは何か」。「お前はどこから来たのか」。このピラトの二つの問いに、主イエスは沈黙を守られました。このことは、とても大切なことを、私たちに教えています。

今朝の箇所で、ピラトは裁判官です。主イエスは被告です。しかし、被告である主イエスが、一言も答えられていないのです。なぜでしょうか。

それは、本来、被告席に立つべきは、主イエスではなくて、ピラトの方であるからです。

以前にも申し上げましたが、ピラトは、私たちの代表です。そうであるなら、本来、被告席に着くべきは、ピラトであり、また、私たちなのです。裁判官である主イエスが、私たちに問われ、被告である私たちが、主イエスに応えていく。それが、本来の姿なのです。

主イエスが、問われます。

「あなたにとって真理とは何ですか。あなたは、本当に真理を握り締めていますか」。

「あなたは、どこから来て、どこに行くのですか。あなたは、一体何者なのですか」。

主イエスの、このような問いに、私たちが、応えていく。それが信仰なのです。

それなのに、私たちは、主イエスを、被告席に立たせて、答えさせようと、してしまうのです。

いつしか、自分が、裁判官となって、主イエスに答えさせ、その答えに満足するなら、信じよう。そうでなければ、信じない。そのような思いに、捉われてしまうのです。

しかし、それは、信仰ではありません。自分が、裁判官となっている限り、主イエスは、答えられません。私たちが、なすべきことは、まことの裁判官であるお方の前に、へりくだって、その問いに答えていく、ということです。

その時、主イエスは、沈黙を破って、語ってくださいます。そして、私たちは、その御声に、耳を傾けていくのです。

さて最後に、もう一度、バラバに、目を留めてみたいと思います。

この時バラバは、ローマに対する反逆罪で、捕らえられていました。ローマに対する反逆罪の囚人は、殆どが十字架刑に、処せられました。ですから、バラバは、十字架刑の執行を、今日か、明日かと、恐れつつ、牢獄での日々を送っていたのです。死の恐怖に怯えつつ、暗黒の日々を、過ごしていたのです。

ところが、突然、牢屋の扉が開けられ、無罪放免となって、釈放されました。そして、自分の代わりに、イエスという男が、十字架にかかることになった、と知らされました。

バラバの、その後について、聖書は何も語っていません。しかし、古い伝承によれば、バラバは、その後回心し、キリスト者となって、殉教の死を遂げた、と伝えられています。

私は、バラバは、ゴルゴダの丘に、行ったのではないかと推測しています。

そして、十字架にかかられた主イエスを、間近に見たのではないか、と思うのです。

そこには、3本の十字架が、立っていました。

そして、その真ん中に、主イエスが、つけられていました。

本来は、自分がつけられる筈だった、その十字架に、イエスという男が、ついている。

その時、バラバの耳に、こんな声が、聞こえたのではないかと思うのです。

「この人を見よ。この人が、お前の代わりに、十字架についたのだ。この人は、お前に、代ってくださったのだ。この人を見よ。」

「この人を見よ」。この言葉は、今、私たちにも、語り掛けられています。

「この人を見よ」。私たちは、その声に応えて、茨の冠をかぶせられ、肉を裂き、血潮を流されている、主イエスの御顔を、仰ぎ見たいと思います。

そして、私たちの愛する人たちに、「どうかこの人を見てください」と、招きの言葉を、語り掛けていきたいと思います。

「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたり。この人を見よ、この人こそ、人となりたる、生ける神なれ」、と心から賛美していきたいと思います。