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過去の礼拝説教

「十字架を負われた主」

2018年03月11日 聖書:ヨハネによる福音書19章17節~27節

「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。」

今朝の御言葉は、この言葉から始まります。

普通、死刑に処せられる人は、自分の意志に反して、処刑場に連れて行かれるものです。

しかし御言葉は、「イエスは、自ら十字架を背負い、ゴルゴタに向かわれた」と記しています。わざわざ、「自ら」、と書いているのは、このことが、主イエスご自身の意志である、ということを、強調しています。

主イエスは、ご自分の意志で、十字架を背負われて、ゴルゴダへと歩まれました。

この時、主イエスは、徹夜の祈りの後に、捕らえられ、叩かれ、鞭打たれて、弱り果てておられました。立っているのさえも、お辛いような状態でした。

その主イエスが、自ら十字架を背負われ、悲しみの道を、一歩一歩進んで行かれたのです。人々の、嘲りと、罵りを、その背に受けながら、重い足を引きずるようにして、歩んで行かれました。

主のご受難を想い起す、ということは、この主イエスの足音を、私たちが、霊の耳をもって聞いていく、ということです。

引きずるような、主イエスの重たい足音。主イエスの、苦しげで、荒々しい息遣い。

そして、その主イエスを嘲る、人々の罵声。それらを、心の耳で聞いていくのです。

主イエスが、ゴルゴタへ向かわれた、悲しみの道、「ヴィア・ドロローサ」の状景については、四つの福音書が、それぞれの視点から、書き記しています。

マタイ、マルコ、ルカの福音書には、鞭打たれて、弱り果てられた、主イエスに代わって、キレネ人シモンが、途中から十字架を負った、という出来事が記されています。

しかし、ヨハネは、そのことを書いていません。何故なのでしょうか。

ヨハネが、それを知らなかった筈はないと思います。

恐らく、ヨハネは、たとえ途中で、シモンに助けられるような、出来事があったとしても、主イエスが、御自分で、十字架を負って、ゴルゴダに向かって歩かれたことを、曖昧にしたくなかったのだと思います。肉体的には弱り果てて、十字架を担えない程であった。

しかし、そのお心においては、自ら十字架を負われて、ゴルゴタに向って、歩き続けられた。

そのことを、ヨハネは、特に大切なこととして、書き記しているのです。

主イエスが、自ら十字架を背負われて、ゴルゴタに向かわれた歩み。それは、この日に始まったことではありません。

主イエスの、地上における歩みは、最初から最後まで、十字架を目指した歩みでした。

ルカによる福音書は、主イエスが、飼い葉桶にお生まれになった、と書いています。

この飼い葉桶に生まれた主イエスと、十字架に死なれた主イエスとを、切り離すことは出来ません。主イエスは、宿屋が満員だったから、偶然に、家畜小屋で生まれたのでは、ありません。そうではなくて、それは、父なる神様の、御計画であったのです。

主イエスは、その公生涯において、どこにも、安らかに枕する家を持たず、最後は、最愛の弟子にさえ裏切られて、全くの孤独の中を、十字架を負って、歩まれました。

そのような主イエスにとっては、飼い葉桶における誕生も、流浪の生活も、人々の嘲りや罵りも、そして十字架の死も、すべてが同じものであったのです。それらはすべて、神様の御計画という糸で、繋がっていたのです。

この「自ら十字架を背負い」、という言葉で、想い起すキリスト者がいます。

戦前に、蒙古伝道に赴き、そのまま消息を絶った、澤崎堅造さんという方です。

以前、「恵泉」に書かせて頂きましたので、憶えておられる方も、いらっしゃると思います。

澤崎堅造さんは、京都大学の人文科学研究所で、学者として、順調な道を歩んでいました。

しかし、日本軍による、中国や蒙古の人々に対する、虐待を知って、せめてもの償いをしたいと、蒙古の地に赴いたのです。

戦後ではありません、戦いのさなかに、償いの業を始めた人が、既にいたのです。

澤崎先生は、蒙古の人たちの中にあって、蒙古人と同じ服を着て、蒙古語を語り、蒙古の食べ物を食べ、蒙古人になり切って、平和の福音を伝えました。

やがて、ソ連軍の侵入が始まって、軍の上層部を始め、日本人が、雪崩を打って、南へと逃げて行った時に、その流れに逆らうように、危険な地に赴きました。そして、その後、消息を絶った、と伝えられています。

この澤崎先生が残した文章の中に、こういう言葉があります。

「私は、復活後のキリストのことを思った。復活のキリストは自由に歩きたもうた。

しかし、それは、十字架から離れたという意味ではないと思う。十字架のみ傷を持ったまま歩みたもうたのである。今も尚、十字架の木を、背負いたもうている、ということである。

十字架の木は、いつもキリストの背に、負わされているのである。

そして、その十字架こそが、私の姿ではないだろうか。キリストは、私を、聖霊の釘によって、ご自身と一つとなして、どこへでも歩きたもうたのではないか。私はいつも、復活の主の肩に負わされて、主が行きたもうところに、ついていく身となったのである」。

澤崎先生は、主イエスが、今も尚、十字架を背負って、歩まれている御姿を、霊の目で見ていたのです。そして、その十字架とは、実は、この自分の姿である、と示されたのです。

主イエスが、今も、いつも、この私という十字架を、背負って、歩んでおられる。

澤崎先生は、そのように示されたのです。

そうなのです。主イエスは、今も、私の罪という十字架を、負い続けてくださっているのです。その苦しみに、耐えてくださっているのです。そのことを、心の内に、覚えたいと思います。

ところで、ヨハネによる福音書だけでなく、すべての福音書は、主イエスが、十字架につけられたことを、非常に簡潔に記しています。

ここでも18節で、「そこで、彼らはイエスを十字架につけた」、と書かれているだけです。

主イエスの十字架は、人類の歴史上、最も重大な出来事です。それにも拘らず、実に、淡々とした記述だけです。

全人類の、救いの出来事が、今、まさに起こったのです。でも、そのことを言い表わすには、簡潔すぎるような、書き方です。

どのようにして、主イエスの手足に、釘が打ちこまれたのか。主イエスが十字架の上で、どれ程ひどい血を、流されたのか。どんな苦しみを、訴えられたのか。

聖書は、そのようなことを、一切書いていません。私たちの、同情を引くようなことを、書いてはいないのです。何故でしょうか。

私たちが、ここで、御言葉から受け取るべきことは、主イエスに、同情することではないからです。「あぁ、何と、お可哀そうに」、というような、同情からは、主イエスの十字架の、まことの意味は、見えてこないのです。

聖書が、ここで求めているのは、主イエスの憐れなお姿に、同情することではありません。

そうではなくて、罪なき神の御子が、なぜ、何のために、十字架にかけられて、ここまで苦しまなければならなかったのか。

そのことを、正しく受け止めて欲しいと、御言葉は言っているのです。ですから、十字架につけられた様子については、語られていないのです。

しかし、とても丁寧に、書いていることがあります。

それは、この主イエスは、どのような罪状書きで、殺されたのか、ということです。

主イエスは、どんな罪で罰せられたのか。そのことについては、かなり詳しく書いています。

罪状書きには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった、と記されています。

ピラトが、そう書くように、命じたのです。それに対して、祭司長たちは、文句を言いました。

「ユダヤ人の王と、自称した」、と書き直して欲しい、と頼んだのです。

事実関係から言えば、祭司長たちの要求の方が、正しいと思います。

しかし、ピラトは、そのままにしろ、と言いました。ピラトには、ピラトなりの思いが、あったのだと思います。しかし、ピラトは、これによって、意図せずして、イエス・キリストとは誰であるかを語る、証人となりました。

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」。この罪状書きは、ヘブライ語で書かれただけではなくて、ラテン語、ギリシア語でも書かれました。

ヘブライ語はユダヤ人のため、ラテン語はローマ人のため、そして当時の世界共通語であったギリシア語は、その他の人たちのためでした。

ユダヤ人だけが、読めればいい、というのではなくて、すべての人が、その言葉を読むべきである、という神様の御心が、ピラトの行為を通して、実現したのです。

何故なら、主イエスは、すべての人にとっての、まことの王であるからです。

このことは、私たちに、一つの問いを、投げ掛けます。果たして、私たちは、主イエスのことを、まことの王として、仰ぎ見ているであろうか、という問いです。

私は、王である主イエスに、僕としてお従いします、という思いを、本当に、持っているだろうか。澤崎先生のように、「主よ、あなたが行かれるところならば、どこへでも、ついて行きます」、という歩みをしているだろうか。

イエス様、私は、ここまでは、あなたについて行きます。でも、この先は、どうぞお一人で行ってください。そのように、立ち止まっているのではないだろうか。そういう問いです。

私たちが、主イエスを、自分たちの王とする、ということは、この方の仰ることに、どこまでも従っていきます、と言って生きることです。

私たちは、クリスマスとイースターの礼拝において、「ハレルヤ」コーラスを、歌います。

そこで、主イエスのことを、「King of kings」と賛美しています。主イエスこそ、まことの王の王、主の主です、と歌っています。でも、本当に心から、そう思っているでしょうか。

そう思ってもいないのに、ただ声を高く上げて、「King of kings」と賛美しても、それは空しい歌声になってしまいます。

ですから、もし、主イエスのことを、まことの王として、受け入れていないのであれば、そのことに、痛みを覚えつつ、歌って頂きたいのです。

主よ、どうか、あなたのことを、まことの王として、受け入れ、あなたの僕として、従って行けますように。そのような願いを込めて、歌って頂きたい、と思うのです。

ピラトが書かせた、主イエスの罪状書きは、そのことを、教えてくれています。

私たちの心の中に、十字架の主イエスが、はっきりと見える時、私たちは、生きる力を与えられます。どんなに苦しい時でも、どんなに深い悲しみ中でも、十字架の主イエスは、私たちの心に、希望を与えてくれます。

アメリカにジョニー・エレクソン・タダさんという方がおられます。彼女は十七歳の時、海でダイビング中に、首の骨を折り、手も足も動かせない、四肢麻痺に陥りました。

奇跡的に、命は取り留めましたが、医者は無情にも、「あなたの脊椎の損傷は永久的で、四肢麻痺は治ることはありません」、と告知しました。

それを知って、彼女は意気消沈し、死んだほうがましだ、と思い始めました。

しかし、そんな彼女に、ある時友人が、「十字架のイエス様も、あなたと同じように四肢麻痺だったのよ」と言いました。

その言葉によって、彼女は、それほどまでに、この自分を愛してくださっている、主イエスの十字架の愛に、気付かされたのです。

そして、彼女は、ベッドに固定されて、ただ天井を見続けている、という絶望のどん底で、この十字架の主イエスの愛に、希望と喜びを見いだしたのです。

彼女は、よき指導者に巡り合い、口に筆をくわえて、絵を描く訓練を始めました。

やがて彼女は、素晴らしい画家となりました。今、彼女は車椅子で全世界を回り、主イエスの愛を伝えています。

十字架の愛に、真実に出会った時、人はどのような境遇にあっても、希望に生きることができるのです。

先日、ある姉妹と、お話する機会が、与えられました。彼女は、数年前に、交通事故を起こされました。事故直後なので、動転していたこともあって、一方的に責めて来る、相手の人の勢いに押されて、相手の人の言う通りに、自分の非を認めてしまいました。

その結果、10対0で、彼女が悪いとされ、様々な要求を突き付けられることになりました。

そして、そのことで、心が深く傷つき、その後も、トラウマとなって、彼女を苦しめました。

全部自分が悪くて、相手には、悪いところは全くない。

そんな不公平なことが、あって良いのだろうか。

残念というか、悔しいというか、悲しいというか、様々な思いが、彼女を、苦しめました。

不公平な取り扱いを受けて、苦しみ、悩んでいる、その姉妹のお話を聞きながら、私は、心の中で、神様に文句を言っていました。

「神様、なぜ、あなたは、このような不公平を、許しておられるのですか。あなたは、愛と正義のお方ではなかったのですか。そのあなたが、このようなことを、許しておかれるなんて、私には分かりません。」

心の中で、そう訴えていた時、ある思いが、激しく心に迫ってきました。

神様が、一番不公平だったのは、いつ、どこであったか、想い起してみなさい。

それは、2千年前の、あのゴルゴダの丘において、ではなかっただろうか。

罪なき神の子が、罪にまみれた私たちを、救うために、代って十字架についてくださった。

しかもその時、人間は、それを感謝するどころか、嘲り、罵り、唾を吐きかけたではないか。

そこまでしても、人間が、神様に立ち帰るという、保証は何もなかったではないか。

これ以上の、不公平があるだろうか。不公平というなら、この時の、主イエスほど、不公平な目に遭った方は、ないのではないか。

私は、その姉妹と、この思いを、分かち合い、そして、共に祈りました。

最も不公平な目に遭われたお方が、共にいてくださり、共に苦しみ、悩みを、分かち合ってくださる。共に泣いていてくださる。

そのことに思いを馳せた時、その姉妹の心にも、平安が注がれたようでした。

私たちが、主イエスによって、慰められるのは、主イエスが、最も不公平で、最も理不尽な苦しみを、経験されたお方だからです。そのような、主イエスだから、私たちの、どんな苦しみも、どんな悩みも、分かってくださるからです。

このようなお方が、私たちの救い主でいてくださり、私たちの神でいてくださることを、心から感謝したいと思います。

さて、主イエスは、ご自身の霊を、父なる神様に返される時が、近づいたことを知ると、十字架の下に立つ、二人の人に、語り掛けられました。

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』」。

この主イエスのお言葉は、当時の養子縁組みをする時の、決まり文句だそうです。

これからは、この人があなたの子です、この人があなたの母です、と夫々に言うのです。

愛する弟子に対して、主イエスはご自分の母を、あなた自身の母のように迎えて欲しい、と言われました。

その後、教会は、自分たちのことを、「神の家族」と呼ぶようになります。主イエスは、そのような神の家族を、ここでお造りになられたのです。

つまり、この時、教会を、お造りになっておられるのです。十字架のもとで、既に教会が造られているのです。十字架の愛によって、教会の愛の絆が、造られているのです。

十字架のもとでは、新しい人間関係が、生まれます。

キリストにある者は、血縁関係によらず、新しい人間関係で、結び合わされているのです。教会が、神の家族である、ということ。教会が一つである、ということ。それは、皆の意見が、全て同じである、ということではありません。意見は様々であっても良いのです。

どこかの新興宗教のように、誰に聞いても、同じ答えが帰って来る。それが、教会が目指している一致ではありません。

それぞれが、個性を持った人格として、それぞれの意見があって、良いのです。

しかし、皆が、同じ救いに与っている。皆が、同じ十字架の主を見上げている。皆が、同じ十字架の愛によって、生かされている。そのことにおいては、揺らぎがない。

それが、教会の一致、教会が一つである、ということです。

皆が、十字架から溢れ流れる愛の絆によって、結び合わされている、ということです。

皆が、十字架の下に等しく立ち、同じ主の御顔を仰ぎ、同じ愛に生かされていることを、喜び合う。

私たちは、そのような群れを目指して、共に歩んでまいりたいと思います。