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過去の礼拝説教

「成し遂げられた」

2018年03月18日 聖書:キリストは死の縄目につながれたり

私たちが、人生の最期に語る言葉。それは、時として、重要な意味を持つことがあります。

なぜなら、それは、その人の生き方を、凝縮した言葉、となることがあるからです。

私たちは、誰もが、いつか、必ず、死ぬことになります。そのことにおいては、例外はありません。ですから、誰もが、最期の言葉を、残すことになります。

皆さんは、ご自身の人生の最期に、どんな言葉を語って死ぬか。そのことを、考えたことが、おありでしょうか。

テレビドラマや映画などでは、登場人物が、最期の言葉を語って、その後、ガクッと首を垂れて息絶える、という場面が良く演じられます。

実際には、そんなに劇的な最期というのは、滅多にある訳ではないと思います。

しかし、最期の瞬間に、その人の生き様を、想い起させるような言葉が、語られたとしたら、その言葉は、聴いた人の心に、長く留まるのではないかと思います。

最期の言葉は、その人の生き様を表す。そのことで、想い起す落語があります。

生粋の江戸っ子を、自認する男の話です。この男は、粋な生き方をすることを、何よりも大切にしていました。

ですから、そばを食べる時には、つゆをほんの少ししか、つけませんでした。

つゆをたっぷりつけると、そばの味が分からなくなる。それは、粋な食べ方ではない。

江戸っ子は、そんな無粋な食べ方はしない、と言われていたからです。

さて、この男が、臨終間近となった時、周りの者が、「最後に何か、言い残すことはないか」、と尋ねました。すると、その男が答えました。

「死ぬ前に、一度でいいから、つゆをたっぷりつけて、そばを食いたかった。」

この最期の言葉は、やせ我慢をしてでも、粋な生き方を貫こうとした、この男の生き様が、よく表れています。さて、落語の話は、これ位にして、聖書の話に戻ります。

聖書の中には、信仰者の最期の言葉が、いくつか記されています。その中で、私たちが、最も感銘を受けるのは、最初の殉教者である、ステファノの言葉ではないかと思います。

ステファノは、ユダヤ人の迫害によって、石を投げつけられて、殺されました。

その時、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」、と言って眠りについた、と使徒言行録は書いています。

純粋な信仰に生きた、ステファノの生き様が、よく表れた、最期の言葉だと思います。

メソジスト教会の創立者の、ジョン・ウェスレーは、最期の時に、弟子たちから、こう聞かれました。「先生、今まで生きて来られて、一番よかったことは、何でしたか。」

ウェスレーは、静かに答えました。「一番良かったことは、神が共におられたことだ。」

この言葉も、生涯を神と共に歩んだ、ウェスレーの生き様を、想い起させます。

このように、最期の言葉というのは、今まで生きて来た人生の、集大成である、ということができると思います。

それまでの人生の、積み重ねの結果、最期の言葉が出てくる、ということになるからです。

それでは、主イエスの、この地上における、人としての最期のお言葉は、どのようなものであったのでしょうか。

福音書に記されている、主イエスの、十字架上でのお言葉は、全部で七つあります。

それらを、順を追って見ていくと、次のようになります。

最初の言葉は、ルカによる福音書23章34節です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

この言葉は、ご自分を、十字架にかけて、嘲り、罵っている人たちを、ご覧になりながら、その人たちのために、執り成しをしてくださった言葉です。何という愛でしょうか。

このような愛は、人間の中にはありません。神であられるお方だけがお持ちです。

続いて、主イエスと、その左右に、十字架につけられた犯罪人との、対話が記されています。その対話の中で、主イエスが言われます。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。これが二番目です。

それから、先週ご一緒に聴いた、言葉になります。

主イエスと、母マリアと、愛する弟子との間でなされた、短い対話です。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。「見なさい。あなたの母です。」 これをセットにして三番目です。

主イエスの十字架によって、新たな神の家族が、生まれたことが、示されています。

これらが、いわば十字架の場面の、前半です。

主イエスは、午前9時に十字架につけられ、午後3時に、息を引き取られた、と聖書に書いてあります。そのちょうど真ん中の、12時頃に、全地は暗闇に覆われて、それが午後3時頃まで続きました。後半は、その暗闇の中での、出来事でした。

暗闇の中で、主イエスが叫ばれます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。本来、私たちが叫ぶべき、絶望の叫びを、主イエスが、代って叫んでくださった。

これが四番目です。

そして、いよいよ、主イエスが、息を引き取られる、直前になります。

そこで、主イエスが言われたのが、今朝の御言葉にある「渇く」という、大変短い言葉です。

この時、主イエスは、父なる神様に、敵対する罪人として、神様から呪われ、見捨てられる、という苦しみを、私たちに代って、味わっておられました。

枝が樹から切り離され、捨てられて、枯れ木となる。そういう、霊的な渇きを、心の奥底で、味わっておられたのです。ですから、「渇く」と言われたのです。これが五番目。

そして、六番目の言葉が、「成し遂げられた」です。

この直後に、主イエスは、息を引き取られました。ヨハネによる福音書では、この言葉が、主イエスの、最期のお言葉です。

しかし、ルカによる福音書には、更に、もう一つの言葉が、記されています。

それは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、という言葉です。これが七番目です。

「渇く」、「成し遂げられた」、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。これらの三つの言葉は、主イエスが、その最期の時に、相前後して、語られています。

従って、今朝は、ヨハネによる福音書に従って、この「成し遂げられた」という言葉を、主イエスの最期の言葉として、聴いてまいりたいと思います。

先に申し上げた通り、最期の言葉とは、その人の生き様を、凝縮して言い表しています。

そうであるなら、この「成し遂げられた」という言葉は、主イエスのご生涯の、まことの意味を、表していることになります。では、それは、どういう意味なのでしょうか。

この言葉は、以前の口語訳聖書では、「すべてが終わった」、と訳されていました。更に、その前の、文語訳聖書では、「事終わりぬ」、となっていました。

どの訳も、それぞれに、深い意味を持っている、と思います。

しかし、「成し遂げる」と、「終わる」とでは、受ける印象が、大きく異なります。

「終わった」というと、「あぁ、もう何もかも終わりだ」、という絶望の言葉のように、受け取られてしまうかもしれません。しかし、ここでの言葉は、そういう意味ではありません。

この「成し遂げられた」、と訳されている言葉の原語は、「完了した」、という意味の言葉です。元々の意味は、「目的」とか、「ゴール」を、意味する言葉なのです。

ですから、死によって、万事休す。すべてが終わってしまって、やるべきことを、やらないまま死んでしまう、というような、ことではありません。

やるべきことを、きちっと成し遂げての、終わりを意味しています。その意味では、「成し遂げられた」、或いは「完了した」というのは、正確な訳であると思います。

まだやるべきことが、残されていたのに、志半ばで、十字架につけられて、死んでしまう、というのではないのです。

十字架の死は、やるべきことを、すべて成し遂げた、死であったのです。

しかも、ここでは、「成し遂げられた」、と語られています。「成し遂げた」、ではないのです。受け身の形で、語られています。

「成し遂げた」と、「成し遂げられた」とでは、意味合いが違ってきます。

「成し遂げた」と言って、人生を終わるのと、「成し遂げられた」と言って、人生を閉じるのでは、大きく異なります。自分の力で、成し遂げた人生と、他の人からの力によって、成し遂げられた人生とでは、大きな違いです。

「成し遂げた」。そのように言って、人生を終える人は、あまり多くないと思います。

「私は、精一杯生きた。自分の力を出し切って、頑張って生き貫いた」。そう言って、死んでいく人は、いると思います。でも、「私は、為すべきことを、すべて成し遂げた」、と言って、死んでいった人の話は、あまり聞いたことがありません。

普通は、為すべきことが、多くあったにも拘らず、成し遂げたことの、少なさに思いを馳せつつ、人生を閉じるのではないでしょうか。

フランク・シナトラが歌った名曲、「マイ・ウェイ」。今でも、多くの人々に愛されていて、カラオケでも頻繁に歌われています。

その歌詞は、こう歌っています。「私は、なすべきことを、残らずやり通してきた」。

この部分だけを、聞きますと、この歌は、「成し遂げた」、と豪語している人の、歌のように、聞こえます。

しかし、同時に、この歌は、こうも言っています。「後悔もあった、敗北もあった、痛い目にも遭った。でも、今は、もう涙もおさまり、そういうこともあるのが、面白い人生だと分かった。私は、ただ、自分の道を生きてきたんだ。」

ですから、この歌は、「成し遂げた」と、豪語しているのではないのです。失敗も挫折もあって、なすべきことを、成し遂げることはできなかった。

でも、それが人生なのだ。だから人生は、面白いのだ。そういう人生を、私は、自分なりのやり方で、マイ・ウェイで、生き貫いてきたのだ、と言っているのです。

ですから、本当の意味で、「成し遂げた」人生を、生きた人なんか、いないと思います。

では、私たち、キリスト者の歩みは、どうでしょうか。キリスト者とは、自分が、何かを成し遂げた、ということよりも、成し遂げられたことを、知っている人である、と思います。

受け身であることを、学んでいくのが、キリスト者としての歩みなのです。

自分が「成し遂げる」、のではなくて、「成し遂げられる」のです。

キリスト者になることも、自分で選んだのはなくて、選ばれたのです。生きているのではなくて、生かされているのです。

何かを、成し遂げようと、頑張るのではなくて、この身を通して、神様の御心が、成し遂げられることを、願っていくのです。自分で「成し遂げる」ための人生ではなく、神様の御心に導かれて、「成し遂げられた」人生を、目指していくのです。

もし、そのように歩んでいくなら、私たちも、人生の最期に、「成し遂げられた」という、主イエスの御言葉に、自分の言葉を、重ねていくことが、できるのではないか、と思います。

ここで是非、思い出したい、言葉があります。それは、13章1節の御言葉です。

「さて過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。

この御言葉は、一度聞いたら、忘れられなくなる御言葉です。

主イエスが、この私を愛して、この上なく愛し抜いてくださった、と言っているのです。

何という恵みに満ちた言葉でしょうか。

ここで、「この世から父のもとへ移る」、というのは、十字架につけられる、ということです。

主イエスは、その時が、遂に来たことを、知られました。そして「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。

「この上なく」、と訳されている言葉は、口語訳では、「最後まで愛し通された」、と訳されていました。文語訳では、「極みまで」、となっていました。

実は、この「極みまで」とか、「最後まで」とか、「この上なく」と訳されている言葉も、「成し遂げられた」という言葉と、同じ語源から出た言葉なのです。

同じように、目的、或いはゴールを、意味する言葉が、元になっているのです。

その目的を達成するまで、主イエスは、愛を貫かれた、ということなのです。

では、その目的とは、何であったのでしょうか。言うまでもなく、十字架の贖いによって、人間を救い出す、ということです。

主イエスは、十字架の死によって、完成される愛を、私たちのために、愛し貫いてくださったのです。何のためでしょうか。私たちが、永遠の命に生きるためです。

あの有名な、3章16節の御言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

この御言葉のように、神様の愛が、主イエスの十字架となって、示されたのです。

主イエスが、成し遂げられた御業とは、私たちすべてに、命を与える愛を、十字架の死に至るまで、愛し抜かれた、ということなのです。

そして、その時、何としてでも、人間を救いたいと願われる、神様の御心が、十字架において、まさに成し遂げられたのです。神様の願いが、完了したのです。

主イエスの十字架は、聖書が一貫して語っている、神様の救いのご計画の、完成なのです。ですから、この「成し遂げられた」、という言葉は、聖書全体の、頂点であると言えます。

主イエスは、このようにして、息を引き取られました。

「息を引き取られた」。この言葉は、直訳すれば、「霊を渡す」、となります。

因みに、「息」と、「霊」と、「風」。これら三つの言葉は、聖書が書かれている、ギリシア語では、全く同じ言葉なのです。同じ言葉を、「息」とも、「霊」とも、「風」とも、訳すことが、出来るのです。

ですから、この「息を引き取られた」、という言葉は、「霊を渡す」とも、訳せるのです。

それでは、「霊を渡す」として、主イエスは、一体誰に、霊を渡されたのでしょうか。

一つには、神様に対してです。主イエスは、ここで、本当に死なれて、その霊を、父なる神様に、お返しになったのです。

しかし、それだけではなく、主イエスは、その霊を、十字架の周りにいた人たちにも、渡されたのです。そして、十字架の周りにいた人たちから、教会が始まっていきます。

今朝、この教会にいる私たちも、また、主イエスの霊を、主イエスの息を、そして、聖霊の風を、受けているのです。

この主イエスの霊、主イエスの息、聖霊の風は、主イエスの十字架から、吹いてくるのです。ここに、教会の土台があるのです。

主イエスが、私たちの罪を背負い、死んでくださった十字架。それが、教会の土台です。

ここで、私たちの罪との、命懸けの戦いが、戦われました。

そして、主イエスは、その戦いを、成し遂げて、くださいました。完了してくださいました。

その戦いに、勝利してくださいました。

ですから、その十字架の贖いによって、生かされている私たちは、この身を通して、神様の御心が、成し遂げられますように、と願いつつ、歩んで行くのです。

ある神学者が、この「成し遂げられた」主イエスのお姿を、印象深い譬えで、示しています。

第一次世界大戦の時、最前線にいた部隊に、前進命令が出ました。敵が前から、一斉射撃をしてくる中を、兵士たちは、伏せの態勢で、じりじりと前に、進んで行きました。

最前線の部隊と、後続部隊との連絡は、一本の電線によって、辛うじて保たれていました。

ところが、その頼みの綱の電線が、敵の弾に撃ち抜かれて、切断されてしまったのです。

これでは、前後の二つの部隊が、連絡を取って、一つとなって、戦う態勢を作ることができません。誰かが、修理に行かなければなりません。

しかし、敵の射撃は、雨あられと激しくて、そうした中を、出て行くのは、非常に危険でした。

ところがその時、一人の通信兵が、塑壕から飛び出して、腹ばいで前進し始めました。

当然、敵は、彼を目掛けて、激しい射撃を浴びせます。

彼はたちまち、銃弾を受けて、傷つきますが、それでも止まりません。

漸く、電線の切られた所に、辿りついて、切れた両方の電線を、重ね合わせ、自分の手の中に、しっかりと握り締め、そこで息を引き取ります。

しかし、それによって、通信線が繋がったので、前後の部隊は連絡を取り合い、一つとなって戦って、勝利を収めることができたのです。

自分の命を捨てて、前後の部隊の、連絡線を繋いだ、この兵士の姿こそが、十字架の上で死んで、神様と人間との、繋がりを回復した、主イエスの姿を象徴しています。

この譬えのように、主イエスは、十字架にかかって、人間の罪を、御自分の身に、引き受けてくださいました。そして、それによって、天から地へ、また地から天への道を、開いてくださったのです。そのようにして、私たちが、神の国に生きる道が、開けたのです。

主イエスが、十字架の上で、神様の御心を、成し遂げてくださったから、私たちは、汚れた者であるにも拘らず、神の民として、生きることができるのです。

この恵みを、心から感謝しつつ、共に歩んでまいりたいと、思います。