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過去の礼拝説教

「人が言葉を失う時」

2018年04月22日 聖書:ヨハネによる福音書 20:24~31

もう二度と起こらないような、劇的な場面に、自分だけがいなかった。皆が、興奮して、感動に打ち震えているのに、自分だけが、取り残されて、感動の輪の中に、入ることができない。そんな時、人は、どのように振舞うでしょうか。

今朝の御言葉には、そのような人が登場します。十二使徒の一人、トマスです。

イースターの夜、復活された主イエスが、弟子たちの所に、来てくださいました。

弟子たちは、大きな喜びに包まれました。しかし、その喜びの場に、なぜか、トマスだけが、いなかったのです。一体、トマスは、どこに行っていたのでしょうか。

もしかしたら、あのゲツセマネから逃げ出した後、ずっと隠れていたのかもしれません。

主イエスの逮捕によって、トマスの希望も夢も、一瞬にして、消え去ってしまいました。

打ちのめされたトマスは、なかなか立ち上がることが出来ず、一人歎き、悲しんでいたのかもしれません。

そのトマスが、漸く、皆のところに戻ってきます。他の弟子たちも、同じように落胆していると思いきや、何と彼らは、復活の主イエスと出会った、と興奮して話していました。

大きな喜びの渦が、湧き起こっていました。しかし、トマスは、素直に、その輪の中に、入っていけません。

こういう時、「それは良かったですね」、と言える人は、あまりいません。

「皆、いいなぁ。なぜ自分だけが…」という、妬みや、無念さに、心が塞がれるものです。

トマスは、他の弟子たちの話を、素直に受け入れて、信じることができません。

弟子たちは、その時の主イエスの、仕草さえも交えて、熱心に話したと思います。

主イエスが、ご自身の手と脇腹の傷を、自ら示されたこと。そして、彼らは、それを見て、確かにその方が、主イエスであると、確認したこと。それらを、興奮気味に話しました。

彼らが、興奮して、熱心に語れば語るほど、トマスの心は、冷えていきました。

遂にトマスは、「見ただけでは十分ではない」、と言い出しました。

見ただけでは、十分な証拠にはならない。このトマスの言い分にも、一理あると思います。

裁判でも、目撃証言だけでは、証拠としては弱い、と言われています。

トマスは「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」、と言ったのです。

「決して信じない」。これは、大変強い否定の言葉です。

恐らくトマスは、マグダラのマリアや、他の弟子たちに、囲まれる中で、たった一人で、懸命になって、反論したのだと思います。

「そんなこと信じられない。あのむごたらしい、十字架にかけられて、死んだ人が、生きている筈がない。命令に忠実なローマ兵が、その死を、しっかりと確認した筈だ。あなた方が見たのは、きっと替え玉だろう。もし替え玉でないなら、その傷跡に、手を入れて確認したい。」

トマスは、ムキになったように、強い調子で、雄弁に反論したと思います。

この言葉のために、教会では、トマスのことを、「疑い深いトマス」と呼ぶようになりました。

この後、讃美歌197番を、ご一緒に賛美いたしますが、その中でも「疑い惑うトマスにも」、と歌われています。

しかし、トマスの偉いところは、その様に疑い迷いながらも、弟子たちの群れから、離れなかったことです。トマスは、反発しながらも、弟子たちの群れの中に、居続けました。

ここには、何かがある。信じられないけれど、無視できない、何かがある。それが何かを、確かめたい。トマスは、そのような思いをもって、そこに居続けました。

そして、そこに居続けたために、復活の主イエスに、出会うことができたのです。

このことは、私たちに大切なことを、教えてくれています。私たちも、教会に来た時に、直ぐに信じられた訳ではありません。初めは、トマスのように、信じることができませんでした。

しかし、教会から離れずに、居続けていく内に、主イエスの方から、近づいて来てくださり、ご自分を示してくださり、信じられるように、導いて下さるのです。

私たちは、そのことを信じて、主イエスとの出会いを、待ち望んでいくのです。

それから八日後、すなわちイースターの次の日曜日に、主イエスが、再び弟子たちに、その御姿を顕されました。この時は、トマス一人のために、わざわざ来てくださったのです。

その主イエスに、出会ったトマスは、言葉を失ってしまいます。それまでは、他の弟子たち全員を、相手に回して、たった一人で、雄弁に語っていたトマスでした。

しかし、十字架に死んだ主イエスが、目の前に現れたのです。そして、「決して信じない」、と言っている自分を、一言も咎めずに、ただ「平和があるように」、と言ってくださったのです。

その主イエスに出会って、何も言えなくなります。懺悔、悔い改め、喜び、感謝。

様々な思いが、一気に込み上げてきて、言葉を発することが、できなくなったのです。

人生を、全く変えてしまうような、衝撃的な出来事に出会った時、人は言葉を失います。

戦争に行った夫が、消息不明になって、数年経っても、帰ってこない。もう諦めていた。

その夫が、ある日突然帰ってきて、目の前に現れた。その時、妻は何と言うでしょうか。

「あなた!」、というだけで、それ以上、言葉を発せないのではないか、と思います

私たちが、洗礼を受けた時も、そうだったのではないでしょうか。

教会の皆が、「おめでとう」と言ってくれるのに、ただ「ありがとうございます」、と答えるのが精一杯だった。そんな経験を、されたことはないでしょうか。

他の弟子たちには、雄弁に語っていたトマスも、主イエスの前に立たされて、言葉を失ってしまいました。私たちも、神様の前に立たされた時、同じように、言葉を失うと思います。

トマスは、感極まって、ただ一言叫びました。「わたしの主、わたしの神よ」。

これは、トマスの、心からの信仰告白です。これが、トマスが言い得た、すべてでした。

また、トマスが言うべき言葉の、すべてでもありました。トマスは、これしか言えなかったのです。でも、これさえを言えば、十分だったのです。

「わたしの主、わたしの神よ」。この言葉は、ヨハネによる福音書のクライマックスです。

この福音書は、この言葉を証しするために、書かれたのです。

神学者であり、牧師でもあった、竹森満佐一先生は、この言葉について、このように述べています。「一番疑い深い、一番弱かったトマスが、『わたしの主、わたしの神よ』、と口にした。この言葉が、それから後、二千年の間、代々の教会の、本当の信仰告白になった。

私たちはここに、神様の驚くべき奇蹟を見る思いがする」。

疑い深く、弱かったトマス。そのトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」、と言い表すことが出来る者とされた。そして、そこから、教会の信仰告白の、歴史が始まった。これこそ神様の奇蹟だ。竹森先生は、そのように語っているのです。

私たちは、誰もが、トマスのような疑い深さ、弱さを持っています。ですから、このトマスの言葉は、私たち自身の、信仰告白の言葉でもあります。

私たちが、生ける神様に出会った時に、発することができる言葉は、この言葉だけです。

「わたしの主、わたしの神よ」。この言葉しかありません。この言葉がすべてです。

24節に、「ディディモと呼ばれるトマス」、と書かれています。

ディディモという言葉は、ギリシア語の、「双子」を意味する言葉で、トマスのニックネームであったようです。トマスという名前の人が、たくさんいたので、どのトマスかを、区別するために、ニックネームを付けて、「双子のトマス」、と呼んでいたのです。

そのことに関連して、ある牧師は、このように語っています。「双子のトマスというからには、双子の片割れがいる筈である。では、双子のもう一人はどこへ行ったのか。

実は、私たちの誰もが、その片割れなのだ。私たちの誰もが、もう一人のトマスなのだ。

トマスの兄弟を、どこかに探しに行く必要は無い。それは、私たち自身なのだ。

トマスは、ここで、主イエスに会って頂いている。それは、私たちの代表として、会って頂いているのだ」。私は、この言葉を読んで、本当にそうだなと思い、深く慰められました。

トマスは、主イエスが復活された日、そこにいませんでした。私たちもそうです。

私たちも、主イエスの復活を、後から知らされた者です。その意味でも、トマスは、私たちの代表である、と言えると思います。

トマスは、私たちの代表として、疑い、迷い、苦しんでいました。そのトマスを目指して、主イエスは、会いに来てくださったのです。

恐らくトマスは、この時、主イエスを見捨てて、逃げてしまった自分を、許すことが出来ないでいたと思います。そして、そんな自分の所に、十字架に死なれた主イエスが、来てくださって、「平和があるように」、と祝福してくださる筈がない、と思っていたのです。

でも、そのトマスの所に、主イエスは、会いに来てくださいました。

主イエスは、疑い迷いやすい、トマスの性格を、十分に御存知でした。主イエスは、そんなトマスのために、心を込めて、祈られたに、違いありません。

トマスは、あのイースターの夜、復活の主イエスに、会えませんでした。

でも、主イエスは、トマスのことを、ずっと見ておられたのです。主イエスは、トマスと、ずっと共におられたのです。そのことに、トマスは、気づいていませんでした。

主イエスは、トマスの心の中にある、「私は決して信じない」、という呟きも、疑いも、頑なさも、すべてご存じでした。そして、そんなトマスのためだけに、再び来てくださったのです。

その主は、慈しむようにして、言われました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

皆さんどうでしょうか。こんなことをされたら、私たちはもう、何もできないのではないでしょうか。もう何も、言えないのではないでしょうか。

ただ、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、ひざまずくしか、できません。

私たちの主は、私たち一人一人のことを、本当に良くご存知なのです。そして、一人一人に、最も適した方法と、お姿をもって、会いに来てくださるのです。

トマスのために祈られ、トマスのためだけに、わざわざ顕れてくださった主イエス。

その主は、私たち一人一人のためにも祈られ、私たち一人一人にとって、最も受け容れ易い仕方で、来てくださいます。

信仰が弱い、私のために祈られ、疑い深い、私を目指して、来てくださるのです。

私たちは、そのことに、気がつきません。しかし、主はいつも、共におられ、私たちのことを、見ていてくださるのです。

そして、「信じない者でなく、信じる者になって欲しい」、と言っておられるのです。

主イエスにとっては、他のことはどうでも良いのです。ご自分が、どんなに痛い目に会おうと、どんな辱めを受けようと、そんなことはどうでも良いのです。

「あなたが、信じない者にならないで、信じる者になって欲しい」。主イエスが、心から望んでおられることは、ただこのことだけなのです。

主イエスのお働きのすべては、ただこの一点に、集中しているのです。

主イエスは、トマスに、「信じる者になりなさい」、と優しく語られました。その主イエスに対して、トマスは、ただ「わたしの主、わたしの神よ」と叫び、心からの信仰告白をしました。

この時、果たしてトマスは、自分の指を、主イエスの手の釘跡に、差し入れたでしょうか。

それは、書かれていないので、分かりません。しかし、ただ一つ明らかなことは、「触って信じた」。とは書かれていない、ということです。

触ることは、もう問題ではなくなったのです。そんなことは、もう、どうでもよかったのです。

トマスは、自分の手の確かさや、自分の目の確かさを信じることよりも、主イエスご自身を信じることの方が、どれだけ確かであるか、ということを知ったのです。

復活の主イエスには、十字架の傷跡が、はっきりと残っていました。それは、人間の罪が刻んだ、忌まわしい傷跡です。

何故、復活の主イエスの御体には、そのような、十字架の傷が、残っていたのでしょうか。

栄光に包まれた、復活の御体なのですから、そのような傷跡は、消え去っていても良かった筈です。

それなのに、十字架の傷跡は、ありありと、復活の主イエスの、御体についていました。

一体何のために、復活の主イエスの御体に、十字架の傷跡が残っていたのでしょうか。

それは、私たちの罪深い手や指を、ご自身の傷の中に、包み込んでくださるためであった、のではないでしょうか。

あなたの罪を、いや罪深いあなた自身を、この十字架の傷の中に入れなさい。私は、それを包み込んで、あなたと共に生きて行く。復活の主イエスは、そう言われているのです。

主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい」、と言われました。

しかし、私たちは、生れながらに、そのまま主イエスに、繋がっている枝ではありません。

もともとは、罪という木に、繋がっていた枝なのです。

その枝が、主イエスによって、罪の木から切り取られ、主イエスという木に、接ぎ木されたのです。接ぎ木する時には、親木に傷を付けて、枝を指し込まなければなりません。

主イエスの御体に、今も残されている、十字架の傷跡。それこそが、私たちを、主イエスの御体に接ぎ木するための、救いの入り口なのです。私たちを生かす、救いの扉なのです。

この傷跡があるからこそ、私たちは、主イエスに、繋がっていることが、できるのです。

主イエスは、「見ないで信じる者になりなさい」、とトマスに言われました。

「見ないで信じる」と聞くと、何かとても、難しいことのように思われます。しかし、私たちは毎日、数え切れないくらい、見ないで信じる、ということを、平然と行なっています。

例えば、バスやタクシーに乗った時、運転手の免許証を、いちいち見て、確認しなくても、誰も疑わずに、信じています。見ないで信じて、命を預けています。

エレベーターに乗る時も、専門家による保守点検が、適切になされている、と信じて乗っています。いちいち、自分の目で点検して、確かめることはしません。

見ないで信じることを、私たちは日常生活の中で、ごく自然に実行して、命を託しています。

それなのに、世界の始まる前からおられ、すべての物の造り主である、神様のことになると、目に見えないから信じられない、と人々は言います。

しかし、もし人が、本当に神様に出会ったなら、「見える、見えない。触れる、触れない」、などという拘りを超えて、ただ神様を礼拝したい、という思いに、導かれると思います。

トマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」、と告白する者とされる筈です。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

この言葉は、トマスを叱っておられるのではありません。

そうではなくて、見ないで信じる幸いへと、招いていてくださる言葉です。

主イエスは、見ないで信じる人を、祝福しようとしておられるのです。

「見ないのに信じる人は、幸いである」。この御言葉は、「心の貧しい人々は、幸いである」、「悲しむ人々は、幸いである」、という山上の説教の御言葉と、全く同じ形を取っています。

山上の説教では、「幸いである」、という言葉が、初めに来て、「心の貧しい人々は」、「悲しむ人々は」、と続いています。全く同じように、ここでも「幸いである」、と先ず語られ、「見ないのに信じる人は」、と続いているのです。

四つの福音書で、主イエスが語られた、最初の説教である、山上の説教。

そして、最後の勧めである、ヨハネによる福音書20章29節。この二つは、同じように、祝福への招きの言葉なのです。

主イエスの御心は、私たちを、祝福することなのです。主イエスの願いは、私たちが、幸いな人生を、歩むことなのです。

心の貧しい者、悲しむ者に対して、主イエスは、幸いを約束されました。

同じように、主イエスは、見ないのに信じる者に、幸いを約束されています。

それが、主イエスの御心なのです。主イエスの切なる願いなのです。

主イエスは、今日も、戸の外に立って、私たちの心の扉を叩いていてくださいます。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、と語り掛けてくださっています。

私たちが、扉を開けて、「わたしの主、わたしの神よ」、と言って、主を礼拝することを願っておられます。

喜んで、感謝しつつ、「見ないで信じる者となる幸いに」、共に与るお互いでありたいと願います。