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過去の礼拝説教

「ここから再スタート」

2018年04月29日 聖書:ヨハネによる福音書 21:1~14

皆さんは、道に迷われたことがおありでしょうか。道に迷った時、最も善い解決方法は、もと来た道に、引き返してみることです。

焦って、勝手に動き回るのを止めて、原点に戻って、そこからやり直せばよいのです。

今朝の御言葉には、道に迷った弟子たちが、原点に引き返し、そこから再スタートした、出来事が、記されています。

主イエスは、復活された後、更に40日の間、この地上に留まられました。

なぜ主イエスは、直ぐに天に戻られずに、40日間も、地上に留まられたのでしょうか。

一体、この40日の間に、主イエスは、何をされたのでしょうか。

それは、出会いです。復活の主イエスと、弟子たちとの出会いです。

この出会いがなければ、弟子たちは、主イエスが昇天された後、与えられた使命を、果たして行くことができなかったのです。父なる神様は、主イエスを、復活させられただけでなく、復活の主イエスと、弟子たちとの出会いをも、整えてくださったのです。

なぜなら、それが、弟子たちにとって、なくてはならないことであったからです。

14節には、復活の主イエスと、弟子たちとの出会いは、三回に及んだと、記されています。

弟子たちは、エルサレムで、復活の主イエスと、二度も出会いました。

しかし、その後、弟子たちは、どうしたでしょうか。主イエスの宣教命令に従って、力強く伝道活動を、開始したのでしょうか。或いは、喜々として、そのための準備をしたのでしょうか。

復活の主イエスに、二度もお会いし、聖霊の息を吹き掛けていただき、尊い福音宣教の業を、託されたのです。ですから、きっとそうだろう、と思うのが当然です。

ところが、実際は、そうではありませんでした。弟子たちは、故郷のガリラヤに帰って、以前の漁師の仕事に、戻ろうとしたのです。

3節に、ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも、「わたしたちも一緒に行こう」と言った、と書かれています。「わたしは漁に行く」、と言ったペトロを見て、他の弟子たちも、「それなら、私たちも」と言って、ついて行ったのです。

弟子たちは、主イエスという、指導者を失ったために、何をして良いか、分からなくなっていたのです。今までは、どこに行くにも、主イエスに、従っていれば良かった。主イエスに命じられたことを、していれば良かった。自分で、決める必要はなかったのです。

でも、今、その主イエスはいないのです。彼らは、目標を失ってしまいました。

そんな彼らは、以前の生活の場である、ガリラヤに戻ってきました。振り出しに戻って、再スタートしよう、と思ったのです。しかしこれは、はき違えた再スタートでした。

復活の主に出会った弟子たちでしたが、一直線に伝道の道を、突き進んで行ったのではないのです。このような、「後戻り」があったのです。

そして、そのような「後戻り」は、その後の教会の歴史にも、しばしばありました。

教会の歴史だけではありません。私たちの信仰生活にも、そのような「後戻り」はあります。

私たちの信仰生活も、決していつも、順風満帆である訳ではありません。前進もあれば、後戻りもあるのです。

しかし、主イエスは、そのような私たちを、本当に忍耐強く導いて下さるのです。

私たちが、道に迷って、どこに行くべきか、分からなくなって、疲れ切って、迷った地点まで戻ってみると、そこには、主イエスが、待っておられるのです。

主イエスは、私たちが、戻って来るのを、じっと待っていてくださるのです。私たちは、その主イエスに出会い、力を与えられて、再び歩み始めるのです。

弟子たちは、舟に乗り込み、ティベリアス湖で、漁を始めます。ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖のことです。

「しかし、その夜は何もとれなかった」と書かれています。一晩中網を打っても、何も取れなかったのです。主イエス不在の業は、実を結ばないのです。

そんな弟子たちを、岸から、じっと見つめている人がいました。他ならぬ主イエスです。

恐らく、主イエスは、弟子たちが、暗い湖の上で、悪戦苦闘しているのを、夜を徹して、じっと見守っておられたのだと思います。

それだけではありません。主イエスは、何も獲れなくて、空しい思いに、打ちひしがれている、弟子たちのために、火を起こして、朝食を準備してくださっていたのです。

私たちも、信仰の戦いの中で、大きな困難にぶつかり、途方に暮れることがあります。

空しい思いに捕らわれ、疲れ果ててしまうことがあります。

でも、そんな時も、私たちのことを、じっと見守っていてくださる方がおられる。

私たちが知らない内に、食べ物を用意して、待っていてくださる方がおられる。

教会も、そして、私たちも、信仰の戦いにおいて、疲れ果ててしまうことがあるのです。

それでも尚、伝道にいそしむことが出来るのは、復活の主イエスが、見守っていてくださり、私たちの知らない間に、食べ物を用意してくださり、養ってくださるからなのです。

教会は、そのような、主のもてなしによって、養われてきました。

そして、主イエスは、今も、私たちが夜寝ている間に、準備をしてくださり、毎朝、恵みの食卓を整えて、待っていてくださっているのです。

私たちが、疲れ果てて寝ている間に、火を起こし、パンを揃え、魚を焼いて、待っていてくださるのです。私たちは、その食卓に、何も持たずに、ただ行けば良いのです。

朝毎のディボーションの時は、そのような、主イエスが用意された、朝食の時です。

毎朝、主は、御言葉という、命の糧を用意されて、待っておられるのです。御言葉を通して、また祈りを通して、私たちを、養ってくださるのです。

もし、私たちが、その朝食抜きで、一日を始めるなら、折角用意してくださった、養いの糧は、無駄になってしまいます。そんなに、もったいないことはありません。

「さあ、私が心を込めて作った朝ごはんを、ここに来てお食べなさい」、と言ってくださる主イエスのお心を、悲しませることが、ないようにしたいと思います。

夜が明けるころ、弟子たちにも、岸辺に誰かが立っているのが、見えました。

主イエスは、弟子たちに声を掛けられます。「子たちよ、何か食べる物があるか」。

空しさと、疲れの中にいる弟子たちに、主イエスは「子たちよ」と、親しく呼び掛けています。

主イエスは、私たちにも、同じように、呼び掛けてくださっています。

私たちが、空しい生活に明け暮れている時、失意の中にある時、疲れて希望を見失っている時、主イエスは、私たちを見詰められて、「子たちよ」と、呼びかけてくださいます。

今朝、私たちが、ここに集ったのは、その主の呼び掛けの声を、聞くためなのです。

「何か食べる物があるか」。この主イエスのお言葉は、「食べるものは何もないだろうね」、という意味を含んだ言葉です。

私の子たちよ、何も獲れなかっただろうね。私に食べさせてくれる物は、何もないだろうね、と尋ねておられるのです。責めておられるのではありません。これから、弟子たちが為そうとしている、宣教の業の厳しさを、ここで示しておられるのです。

あなたたちが、これからしようとしている仕事は厳しい。何日、何ヶ月、何年働いても、何の成果もない。そのような、空しい思いに捕らわれるかもしれない。

ただ、挫折感と疲れだけが残るような、生活が待っているかもしれない。

しかし、あなたがたは、決して一人ではない。私が、この私が、見守っている。

そして、あなた方のために、毎朝、食事を整えてあげる。あなたがたは、私のもてなしによって、養われなさい。主イエスは、そのように言われているのです。

私たちが、伝道の業に遣わされていく時、同じような思いに、捕らわれることがあると思います。いくら努力しても、伝道の実りが与えられない。与えられるのは、ただ挫折感と疲れだけだ。そのような思いの中に、沈み込んでいくことがあるかもしれません。

ある婦人牧師が、地方の教会に、遣わされた時の事です。

その先生は、必死の努力をされました。しかし、信徒が増えるどころか、一人また一人と減って行き、遂に4人になってしまったそうです。

先生は主に訴えて叫びました。「主よ、あなたの御計画は一体何なのですか?これが、あなたが私に、期待されることなのですか?」

先生が、このような嘆きを、神様にぶつけていた時、突然のように、このガリラヤ湖畔の朝の出来事が、心に思い浮かび、その光景が胸に迫ってきたそうです。

「私はあなたを、ずっと見つめていたよ。あなたは決して一人ではない。さぁ、私が用意した朝ごはんをお食べ。これを食べて、元気を取り戻しておくれ。私の恵みは、今、この時も、あなたに、注がれているのだよ。」

その時、先生は、主の期待に応えられない、こんなダメな自分のために、毎朝、朝ごはんを用意して、養ってくださる主の愛に、ハッと気付かされたそうです。

そして、残された4人の信徒の方々を、本当に欠け替えのない存在として、素晴らしい恵みとして、受け止めることが出来たそうです。

そして、その4人の方々を、心から愛することが出来たそうです。

その先生は、口癖のように、言われます。「神様のご計画、神様の御心を、自分の思いで評価してはいけません」。

私が、茅ヶ崎恵泉教会に招かれた5年前。聖日礼拝には、約70名の方が、出席されておられました。しかし、次第に礼拝出席者が減っていき、最近は、50名を下回ることも、珍しくなくなりました。私は、本当に、苦しみ悩みました。

自分の力のなさ、愛と信仰の足りなさを、ただただ神様に、お詫びする日々が続きました。

そんな時、このガリラヤ湖畔の朝食の出来事は、私に大きな慰めと、力を与えてくれます。

主が、暗い夜の間も、ずっと私を、見詰めていてくださる。私は一人ではない。

そして、主は、朝毎に、あたたかい食事を用意して、私を養ってくださっている。

御言葉という、かけがえのない食事を、朝毎に用意して、私を満たしてくださっている。

この事実を知らされた時、私は、励まされ、新たな力を、与えられました。そして、失ったものではなく、今、与えられている恵みに、目を留める者へと、変えられていきました。

勿論、今でも私は、一人でも多くの方が、礼拝に出席されることを、心から願っています。

しかし、礼拝出席者の減少を嘆くよりも、礼拝に来てくださる、お一人お一人を、神様から与えられた、欠け替えのない宝として、感謝する思いの方が、強くなりました。

主の憐れみと、慈しみが、どんな時にも、変わらずに、豊かに注がれているからです。

そのことを信じ、主に委ね、感謝をもって、務めに当たらせて、頂いています。

「子たちよ、何か食べる物があるか」と、主イエスは、尋ねられました。それに対する、弟子たちの答えは、ただ一言です。「ありません」。

原語では、この言葉は、もっと、ぶっきらぼうな言葉です。「ないよ」、「あるわけないだろう」、というような意味合いの言葉です。

しかし、このような弟子たちの言葉に対して、主イエスは、愛に満ちた指示をなさいます。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

弟子たちが、舟の右側に網を降ろすと、網を引き上げられないほどの、魚が獲れました。

主イエスなしでは、上手くいかなかったことが、主イエスのお言葉に従った時に、驚くような成果を、上げることができたのです。

この時、ある記憶が、弟子たちに、強く迫ってきました。それは、ルカによる福音書5章に記されている、弟子たちの召命の出来事です。

その時も、ペトロたちは、一晩中漁をしたのに、一匹の魚も取れず、疲れ切って網の手入れをしていました。そのペトロたちに、主イエスが、「沖へ漕ぎ出して、網を降ろしてみなさい」と言われたのです。

ペトロたちは、無駄なことなのに、という戸惑いを覚えつつも、「お言葉ですから」と言って、沖に漕ぎ出したところ、かつてないような、大漁を体験しました。

その時、彼らは、主イエスから、「これからは魚を取る漁師ではなく、人間を取る漁師になりなさい」と、招かれたのです。彼らは、その時のことを、はっきりと想い起こしたのです。

あの、最初の召命の場面と、まったく同じ出来事が、ここで繰り返されました。

「あなたたちは、私の弟子ではないか。それなら、魚を取る漁師ではなく、人間を取る漁師として歩みなさい」。主のお言葉が、弟子たちの耳に、響いてきました。

弟子たちは、漸く、岸辺に立っておられる方が、主イエスであることが、分かりました。

弟子の一人がペトロに、「主だ」、と言いました。

「主がおられる」と聞いて、ペトロは、上着をまとって、湖に飛び込みました。裸同然だったので、このままでは、失礼だと思ったのでしょう。

しかし考えてみれば、裸同然で漁をしているところは、以前にも、主イエスに、何度も見られていたと思います。

主イエスは、そういうペトロに、「わたしに従って来なさい」、と呼び掛けられたのです。

正装してかしこまっている、ペトロを招かれたのではなく、日常の生活の現場で、声を掛けられたのです。でも、その時は、裸でも恥ずかしいとは、思わなかったのです。

では、なぜ、この時は、恥ずかしい、と思ったのでしょうか。ここでのペトロの姿は、創世記3章の、アダムとエバの物語を、想い起こさせます。

アダムとエバは、罪を犯した後に、初めて、裸を恥ずかしい、と思うようになりました。

ペトロは3度も、主イエスを否定し、自分の罪深さを、いやと言う程、知らされました。

その罪の意識が、裸を覆う行動に、出たのではないでしょうか。そうであれば、このペトロの気持ちは、良く理解できます。これは、私たちの中にもある思いだからです。

しかし主イエスは、そんなペトロを、幼な子を見るような、慈しみの目で見ていらしたのです。「ぺトロよ、私は、お前以上に、お前のすべてを知っているよ。私の前で、そんなに繕わなくても、良いのだよ」、と主は言っておられるのです。

私たちは、どんなに立派な上着を着ても、主の御前に出るには、相応しくない者なのです。

しかし、主は、「良いのだよ。そのままのお前で良いのだ」と言って、私たちを受け入れてくださいます。本当に感謝です。

陸に上がってみると、炭火が起こしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもありました。

主イエスが言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。

何と、愛と、優しさに満ちたお言葉でしょうか。

勝手に、元の生活に戻ろうとして、漁に出た弟子たち。一晩中、悪戦苦闘し、何の成果もなく、疲れ果てた弟子たちを、憐れみの目で、じっと見守っておられた主イエス。

その主イエスが、寒くて、疲れ果てて、空腹の弟子たちのために、火を起こし、パンを用意し、魚を焼いて、待っていてくださる。

弟子たちのために、魚を、ひっくり返しながら、焼いている主イエスのお姿を、想像してみてください。心に暖かいものが、込み上げて来ないでしょうか。

その、主イエスが、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」、と招いてくださる。

この時、弟子たちの心は、言葉に表せないほどの、喜びと、慰めと、平安に、満たされていたと思います。そこでの朝食は、決して豪華な食事では、ありませんでした。

しかし、この上もない恵みの食卓でした。

立派な宮殿で出される、贅を尽くした料理も、足元にも及ばない、素晴らしい食卓でした。

それは、再スタートの意味を、思い違いしていた弟子たちを、まことの再スタートに、導くための食卓でした。

朝もやの立ち込めるガリラヤ湖畔に、静かな、清らかな時が過ぎていきます。

豊かな恵みに満たされている時、人は言葉を発しません。薄っぺらな人の言葉では、その幸いを言い表すことは出来ません。心の底から、主との交わりを、喜んでいる時に、人の言葉は要らないのです。

弟子たちは、再スタートの意味を、はき違えていました。しかし、主イエスは、それを咎めることをせず、恵みの食卓で、彼らを養うことによって、その思い違いに気づかせ、そこから新たなスタートへと、導かれたのです。

主イエスは今も、私たちたちに、語りかけておられます。「どうか、私のまことの弟子としての、新たなスタートを切って欲しい。私は、あなたを、毎朝、恵みの食卓で養うから。」

この主イエスの、愛の言葉に応えて、ここから、再スタートの一歩を、共に踏み出してまいりたいと思います。