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過去の礼拝説教

「三度目の正直、三度目の召し」

2018年05月06日 聖書:ヨハネによる福音書 21:15~25

この聖日礼拝で、ヨハネによる福音書を読み出してから、かれこれもう4年になろうとしていますが、今朝は、いよいよその最後の御言葉です。

先週は、復活の主イエスと、7人の弟子たちとの、ガリラヤ湖畔における、喜びの朝食の箇所から、ご一緒に御言葉に聴きました。

朝もやの立ち込める、静かなガリラヤ湖畔で、弟子たちは、復活の主イエスが用意してくださった、恵みの朝食を、大きな喜びと、感動をもって頂きました。

今朝の御言葉は、それに続く出来事を記しています。ただ、登場人物は、主イエスとペトロだけです。この二人の会話が、中心になっています。

20節に、「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」、と書かれています。ですから、もう一人、主イエスの愛しておられた弟子も、登場することはします。しかし、何も語っていません。ただそこにいるだけです。

ですから、実質的な登場人物は、主イエスとペトロだけです。

ヨハネによる福音書は、なぜ主イエスとペトロの対話を、その最後に記したのでしょうか。

今日、殆どの聖書学者は、ヨハネによる福音書の元々の本文は、20章で終っていて、21章は、後になって付け加えられたものである、と解釈しています。

そうであるとしたら、なぜ21章を書き足したのでしょうか。

今朝の御言葉を読むときに、私たちは、この福音書の18章に書いてある、ペトロによる主イエスの否認の出来事を、どうしても想い起こします。

主イエスが逮捕された後、大祭司の家の中庭で裁判が行われ、そこでペトロは、ご丁寧に三度も、主イエスのことを知らない、と言ってしまったのです。

その僅か数時間前には、ペトロは、主イエスに対して、「主よ、あなたがどこに行かれようとも、私はついていきます。あなたのためなら命を捨てます」、と豪語していました。

でも、その舌の根も乾かない内に、ペトロは三度も、主イエスを否んだのです。

この裏切りの行為は、その後のペトロにとって、決定的な出来事となりました。

伝説によりますと、晩年のペトロは、いつも泣いていたそうです。その涙は、主イエスを裏切ってしまった、という懺悔の涙と、そのような自分を、主イエスが赦してくださって、福音宣教の御業のために、用いてくださっていることへの、感謝の涙であった、と言われています。

裁判の場で、ペトロが、恐ろしさのあまり、思わず口走ってしまった言葉、「私は、あの人を知らない。あの人の弟子などではない」。

この言葉は、私はあの人を愛していない、ということに等しい言葉です。

もし20章までで、ヨハネによる福音書が終ってしまうならば、主イエスを裏切ってしまった、ペトロの罪の問題は、解決されないまま残ってしまいます。

ですから、主イエスは、ペトロのために、どうしても、もう一度、ペトロに会わなければならなかったのです。ご自分の愛する弟子の、取り返しのつかない失敗を、修復するために、もう一度、向き合おうとされたのです。

イースターの次の日曜日、主イエスは、「復活が信じられない」と言って、悩んでいたトマスのためだけに、わざわざ会いに来てくださいました。

そして、今朝の箇所では、主イエスを裏切ってしまった、という罪の意識から、ペトロを解放するために、ペトロとの対話の時を、用意してくださったのです。

主イエスというお方は、そのような、愛と配慮のお方なのです。主イエスは、私たち一人一人のためにも、それぞれに必要な出会いを、用意してくださるのです。

主イエスは、ガリラヤ湖の岸辺で、弟子たちのために、火を起こして、待っていてくださいました。陸に上がったペトロは、その火の前で、何も言えずに、ただうずくまっています。

主イエスが起こしてくださった火を見ながら、ペトロは、ある場面を、思い起していました。

それは、他でもない、大祭司の庭での、あの夜の出来事でした。

私は、あの時も、焚火を見ながら、うずくまっていた。これから、主イエスは、どうなるのだろうか。そんなことを、考えながら、呆然として、焚火に当たっていた。

その時、不意を突かれたように、「お前もあの男と一緒にいた。お前もあの男の一味だろう」、と言われた。だから、私は、とっさに、言ってしまったのだ。

「いや、私は、あんな男、知らない。あんな男とは、何の関係もない」と。

焚火の火は、否応なしに、ペトロの裏切りの姿を、想い起させます。

しかし、今は、どうでしょうか。今は、同じように、火を見つめながら、ペトロの心は、平安と喜びに、満たされています。同じ火でも、大祭司の中庭の火と、主イエスが用意してくださった火とでは、何という大きな違いがあるのでしょうか。

あぁ、あの裏切りの焚火は、最後の火ではなかったのだ。主イエスは、私の回復のために、もう一つの火を用意して、待っていてくださったのだ。私が、立ち直るための火を起こして、待っていてくださったのだ。

あの時と同じように、火を見つめて、うずくまっているペトロ。しかし、その心は、全く違っていました。

裏切りの火のまま終わらせずに、立ち直りの火を、用意して下さった、主イエスの愛。

その愛に触れて、今、ペトロの心は、暗闇から光へ、失意から希望へ、不安から平安へと、導かれています。何という深い、主イエスの愛と配慮なのでしょうか。

静かな、恵みに満ちた食事を終えて、ガリラヤ湖畔を歩きながら、主イエスは、ペトロに語り掛けられました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。

「あなたは、私を愛しているか」。極めて単純な問いです。しかし、これは、決して、ごまかしたり、曖昧にしたりすることが、できない問いでもあります。

ペトロは、主イエスを愛していました。自分なりに、精一杯の思いで、愛していました。でも、この数週間の歩みは、それを証言していないのです。

皆さんは、どうでしょうか。主イエスから、「あなたは、私を愛していますか」、と問われたなら、何と答えられるでしょうか。

主イエスの問い掛けにペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。

主よ、私は、あなたを心から愛しています。でも、私が、どのようにあなたを愛しているか。それは、あなたが、一番よくご存知の筈です。あなたが、知っておられる愛で、私はあなたを愛しています。ペトロは、そう答えたのです。

この時、主イエスは、同じ問いを、三回も繰り返されました。そのことで、ペトロは「悲しくなった」と書かれています。

一度目に問われた時、ペトロの心は、ズシリと重いものを、感じた筈です。

自分の弱さや、愛の足りなさを、いやというほど味わった筈です。

二度目に問われた時、今度は、不思議に思いました。主イエスは、自分の答えを、聞き落とされたのだろうか。或いは、伝わらなかったのだろうか。そんな思いに、覆われました。

しかし、三度目に問われた時には、さすがに、主イエスが、この問いを、明確な意図をもって、繰り返しておられることに、気づきます。そして、そのことが、ペトロの心を、刺し貫きます。

主イエスは、ペトロが、ご自身のことを、精一杯の思いをもって、愛していることを、ご存知でした。ペトロの心の内を、すべて知っておられました。

では、ご存知の上で、なぜ、三度も問われたのでしょか。

それは、ペトロが、あの大祭司の庭で、主イエスを、三度も否んだことと、関わっています。

ペトロは三度も、「あんな人知らない」、と主イエスを否みました。それを帳消しにするために、「私はあなたを愛しています」、という言葉が、三度告白される必要があったのです。

一度、二度、三度と、「私はあなたを愛します」、と告白する度に、ペトロは、赦しを経験していきました。過ちを犯した唇が、聖められていくのを、感じ取ることができたのです。

この時、ペトロに必要だったのは、裏切りの思いから解放されて、まことの回復へと、導かれることでした。主イエスは、そのために、三度も、同じ問い掛けをされたのです。

ペトロは、「悲しくなった」、と書かれています。この回復の過程を辿ることには、痛みが伴うのです。自分の愛の足りなさや、信仰の弱さが、暴かれるからです。

私たちも同じです。私たちも、何度も主イエスを裏切ります。とても、主イエスの御顔を、正面から見つめることなど、できない者です。

しかし、その辛い、悲しい過程を、辿りながら、私たちは、主の問い掛けの、真実の意味を、知らされるのです。主イエスは、私たちに、こう問い掛けられています。

「私は既に、お前を赦している。お前は、赦された者として、私を愛しているか」。

私たちは、愛の足りなさや、信仰の弱さを、悲しみつつも、答えます。

「はい主よ、私が、精一杯の思いで、あなたを愛していることは、あなたがご存知です」。

私たちが、このように答えることができるのは、本当に大きな喜び、大きな恵みです。

さて、この箇所で、しばしば議論されることがあります。

それは、「私を愛しているか」という、主イエスの問いと、「はい、愛しています」という、ペトロの答えの中で使われている、「愛する」という言葉についての議論です。

ギリシア語の原文では、使われている言葉が、違っているのです。ギリシア語では、愛を表現するのに、いくつかの言葉があります。神様が人間を愛する愛。どんなに裏切られても、尚も愛する絶対的な愛。それを「アガペー」と言います。

それに対して、人間相互の友情に見られる愛。それを「フィリア」と呼んでいます。

主イエスが、ペトロに問われた、「私を愛しているか」という質問の内、一回目と二回目は、「アガペー」の愛の動詞形である、アガパオーという言葉が使われています。

主イエスは、「ペトロよ、あなたは、神である私が、あなたを愛するような愛をもって、私を愛しているか」、と問われたのです。

それに対するペトロの答え、「はい、愛しています」は、いずれも「フィリア」の愛の動詞形の、フィレオーという言葉です。ですから、ペトロは、こう答えているのです。

「はい、主よ、私はあなたを愛します。しかし、私は、あなたが私を愛してくださったようには愛せません。しかし、人間としての限界の中で、精一杯あなたを愛します。あなたはそのことを、ご存知の筈です」。

この問い掛けと答えが、2回繰り返されました。そして、3回目には、主イエスが、ペトロの所にまで降りて来られました。そして、問われました。

「よろしい、それでは、あなたはフィリアの愛、友としての愛をもって、私を愛しているか」。

そしてペトロは、「はい主よ、私はフィリアの愛をもって、あなたを愛しています」、と答えたのです。

主イエスは、ペトロが、アガペーの愛をもって、愛することが出来ないことを、ご存知でした。

それで三回目には、「よろしい、あなたは、人間としての限界の中で、精一杯私を愛しなさい。私は、あなたの、その不完全な愛を、喜んで受け入れよう」、と言ってくださったのです。

ここにも、主イエスの、ペトロに対する、愛の配慮が見られます。主イエスは、ペトロの所まで降りて来てくださって、人間としての限界をもった、ペトロの愛を受け入れてくださいました。同じように、主イエスは、私たちの不完全な愛をも、受け入れてくださいます。

そして、それを喜んでくださるのです。何と、感謝なことでしょうか。

少し横道に逸れますが、今、私たちが、読んでいる新共同訳聖書は、今年の末に、新しい翻訳に変わる予定です。新しい聖書では、いくつかの大切な、翻訳の変更があります。

例えば、モーセがホレブの山で、燃える柴の中から告げられた、神様の名前。

今の聖書では、「私はある」という名前だ、と訳されています。

それが、新しい聖書では、「私はいる」という名前だ、と訳し直される予定です。神様の名前が、「私はある」から、「わたしはいる」に、変わる予定なのです。

新しい聖書では、今朝の御言葉も、変更される予定です。今の新共同訳聖書では、アガペーの愛も、フィリアの愛も、同じように、「愛しているか」、と訳されています。

しかし、新しい聖書では、フィリアの愛は、「慕っているか」、と訳される予定です。

主イエスは、最初の二回は、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」、と問われ、ペトロは「はい、主よ、私はあなたを慕っています」、と答えた。

しかし、三回目は、主イエスも、「ヨハネの子シモン、私を慕っているか」、と問われた。

そのように、翻訳が変わる予定です。分かり易くなる、ともいえます。

しかし、反面では、意味深さが薄れて、重みが無くなったと、感じられる方も、おられるかもしれません。皆さんは、どう思われるでしょうか。

「私は、人間としての限界の中で、精一杯、あなたを愛しています。あなたを慕っています。」

ペトロは、三回とも、そう答えました。それを受けて、主イエスは、三回とも、「私の羊を飼いなさい」、と言われました。

この二つの言葉、「あなたはわたしを愛しているか」と、「わたしの羊を飼いなさい」とは、深く結びついています。もっと言えば、実はそれは、同じことなのです。

主イエスを愛することは、主イエスの羊を飼うことなのです。

今の私たちにとって、「主イエスの羊を飼う」ということは、「教会に仕える」ということです。

ですから、「主イエスを愛すること」と、「教会に仕えること」。この二つは、同じことなのです。

皆さん、私たちを、教会の奉仕へと向かわせるもの。その動機は一体何でしょうか。

「与えられた仕事や、教会の人々が、好きだから」でしょうか。或いは、「他にやる人がいないから、私がやらねば」、という使命感からでしょうか。

そういう気持ちも、大変尊いものであると思います。しかし、それらの根底には、「主イエスを愛しているから」、という動機が、なくてはいけないと思います。

なぜなら、「教会に仕えること」とは、「主イエスを愛すること」に、他ならないからです。

奉仕をしてくださる時には、この思いを忘れないで、いただきたいと思います。

それ以外の思いから、教会に仕えようとするなら、やがて疲れ果ててしまいます。

しかし、「主イエスを愛しているから」。この思いに立ち続ける限り、疲れません。

呟きも出ません。喜びを持って奉仕することが出来ます。

もし誰かから、「あなたは、なぜそこまでして、教会に仕えるのですか」、と質問されたなら、「それは、主イエスを愛しているからです」、と答えるお互いでありたいと思います。

ペトロは、フィリアの愛をもって、主イエスを愛します、と答えました。フィリアの愛とは、友を愛する愛です。ですから、人間としての、限界の範囲内での愛です。

しかし、主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」、と言われました。まことのフィリアの愛は、友のために命を捨てる愛なのです。

ペトロは、その愛を、告白しました。そして、その告白の通り、ペトロは殉教の死を遂げます。そのペトロの殉教の死を、主イエスは18節で予告しておられます。

「はっきり言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。

しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

ここで主イエスは、ペトロが、他の人に捕えられ、両手を伸ばして、十字架につけられる、ということを、予告されておられます。

ペトロの殉教の死は、紀元62年頃、ネロ皇帝の迫害の時である、と伝えられています。

主の愛によって立ち直ったペトロは、主イエスのために命を捨てる愛に、生き抜きました。

そして、教会の礎を築きました。「私の羊を飼いなさい」、という主イエスの御命令に、最後まで従いました。その教会の歴史が、今も続いています。

私たちも、主イエスを愛しています。私たちは、ペトロのように、殉教することはありません。けれども「私の羊を飼いなさい」という、主イエスの御命令に従って、教会に仕えています。

「あなたは、私を愛しているか」、という主イエスの問い掛けに、「はい主よ、不完全な愛ですが、精一杯の思いをもって、愛しています」、と答えさせて頂いています。

今も主は、言われています。私を愛しているなら、私の羊を飼いなさい。教会に仕えなさい。

このような欠け多き者が、主の御体なる教会に、仕えることを許されています。

その幸いを、改めて感謝しつつ、共に歩んでまいりたいと思います。

 

 

『愛する主よ、あなたは、ペトロを、裏切りの罪から、解放するために、「あなたは私を愛しているか」と、問い掛けられました。

三度も、あなたを否んだペトロに、三度も、愛の告白を求められました。

そして、ペトロは、それによって、罪の赦しを得て、暗闇から光へと導き入れられました。

あなたは、私たちにも、同じように、「あなたは私を愛するか」と、問われています。

私たちは、「はい主よ、私は、あなたを愛しています」、と答えます。

それによって、私たちは、罪赦され、あなたの後を、従っていくことができます。

しかし、私たちの愛は、あなたの愛とは違って、不完全で、欠け多き愛です。

でも主よ、あなたは、そのような私たちの不完全な愛を、ご存知の上で、

尚も、それを受け入れ、喜んでくださいます。

そして、あなたの御体なる教会に、仕えることを、許して下さいます。

主よ、感謝をいたします。

どうか、私たちが、あなたを愛する思いを、唯一の動機として、教会に仕えていくことができますように、弱い私たちを、導いて下さい。』