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過去の礼拝説教

「母の涙」

2018年05月13日 聖書:創世記 21:9~21

今日は「母の日」です。少し前までは、母の日には、「まぼろしの影を追いて」という讃美歌が、よく歌われました。残念なことに、讃美歌21には含まれていませんが、今でも、多くの人々に愛されている讃美歌です。特に、その折り返しの部分、「母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや」、という歌詞に、心を揺さぶられます。

昔から、母の涙の祈りは、多くの子どもたちを、救い、立ち直らせてきました。

涙の祈りで想い起こされるのは、古代教会の教父、アウグスティヌスの母モニカです。

モニカは、息子のアウグスティヌスが、マニ教という異教の宗教に走り、乱れた生活をしていることを深く悲しみ、アンブロシウスという司教に、涙ながらに相談します。

司教は、「大丈夫ですよ。このような涙の子が滅びる筈はありません」と言って、モニカを励まして帰しました。その言葉の通り、アウグスティヌスは、母の涙の祈りによって、不道徳と、誤った教えから、立ち返ることができたのです。

「涙の子は滅びない」。この言葉は、多くの母親を慰め、励ましてきました。

聖書の中にも、我が子のために、涙ながらに祈る母が、何人も登場します。

今朝の御言葉に出てくるハガルも、その一人です。ハガルも、我が子イシュマエルのために、涙を流して神様に訴えました。

今朝の御言葉、創世記21章は、その出来事を記しています。この21章は、16章と密接に繋がっています。そこで先ず、16章を、ざっと振り返ってみたいと思います。

ハガルは、アブラハムの妻、サラに仕える、エジプト人の女奴隷でした。当時、奴隷は、主人の持ち物と、見做されていました。ハガルは、主人サラの、所有物であったのです。

サラの言う通りに生活し、サラの行く所に、ついて行く。それが、ハガルの人生でした。

主人サラと、その夫アブラハムとの間には、子どもができませんでした。そこで、サラは、子どもをもうける方法を、アブラハムに提案します。

サラは、自分の所有物である、女奴隷ハガルによって、アブラハムの子を得ようとしたのです。そして、ハガルは、アブラハムの子を、宿します。

ところが、ハガルが、アブラハムの子を身ごもると、状況は複雑になります。

身ごもった奴隷のハガルが、子どものできない、女主人を見下すようになったのです。

サラは、自分に倣慢な態度を、見せ始めたハガルに、腹を立てて、夫に文句を言います。

アブラハムが言います。「ハガルはお前の奴隷なのだから、お前の好きにしろ」。

サラの陰湿ないじめが始まります。ハガルは、それに耐え切れずに逃亡し、荒れ野を放浪します。でも、そんなハガルを、神様は、放っておかれませんでした。

神様は、主人のもとから逃亡して、荒れ野をさまようハガルを、追いかけます。

そして、疲れ果てて、泉のほとりにいる彼女に、優しく問い掛けます。「ハガルよ。あなたはどこから来て、どこに行こうとしているのか」。

「どこに行くのか」。その答えを、ハガルは持っていません。ハガルに、行く宛てなど、ないのです。神様は、ハガルに言われました。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」

身重の女性が、荒れ野で逃亡生活を、続けられると思うのか。産まれた子どもは、どうなるのか。家に戻って、主人のもとで、謙遜に仕えなさい。それが、子どもにも、あなたにも、一番良いのだ。

主人のいじめに耐え切れずに、後先も考えずに、飛び出してきた、ハガルでした。そのハガルに、神様は、温かい、そして現実的な、助言を与えられたのです。

更に神様は、彼女に、大きな祝福をも、約束されました。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」

こう言われて、神様は、産まれてくる子に、「イシュマエル」という、名前を与えてくださったのです。イシュマエルという名は、「主があなたの苦しみを聞き入れられた」、という意味です。

神様は、ハガルの苦しみの祈りを聞かれ、その証として、イシュマエルという名前を、与えてくださったのです。イシュマエル、「主があなたの苦しみを聞き入れられた」。

ハガルは、これまで何度も、苦しみの祈りを、神様に献げてきたと思います。

自分が、サラから受けているいじめを、祈りの中で、神様に、何度も訴えたと思います。

でも、現実は変わりませんでした。祈りは、聞かれなかった。ハガルは、空しい思いに覆われていました。でも実は、ハガルの祈りを、神様は、聞いておられたのです。

そして、そのしるしとして、「息子の名は、イシュマエルだ」と、宣言されたのです。「主があなたの苦しみを聞き入れられた」。このことを、忘れないように、と言われたのです。

神様の勧めに従って、ハガルは、主人サラのもとに帰って、謙遜に仕えます。

自分のことを、気にかけてくれる人など、一人もいない。そう思っていたハガルでした。

でも、そのハガルを、神様は見守り、語りかけ、慰めと祝福を、与えてくださったのです。

一人でも良い。一人でも良いから、誰かに顧みられていたら、人は生きていけるのです。

いじめに関する本を読んでいたとき、ある中学生の告白が、心に留まりました。

クラスのリーダー格の女の子に、目をつけられて、皆から、無視され続けてきました。

ある日、自分のペンケースに、紙切れが入っていました。小さな紙に、こう書いてありました。「何もしてあげられなくて、ごめん。でも私は味方だから」。

名前はありませんでした。でも彼女は発見したのです。温かい目で、自分を見ていてくれる人が、一人いる。そのことを知って、彼女は、クラスに留まり続けることが、出来たのです。

この中学生のように、誰も自分のことなど、見てくれていない、と思っていたハガルでした。

でも、神様は見ておられたのです。神様は、私たちのことを、いつも見ておられるのです。

そして、私たちの祈りを、聞いてくださっています。

ハガルは、主人のもとに、戻っていきます。彼女を取り巻く、状況は変わりません。主人たちの態度が、急に変わった訳ではありません。

しかし、彼女は変わりました。勇気を得ました。なぜなら、神様が見ておられるからです。

以上が、16章の大筋です。今朝の御言葉の21章は、その続きです。

ハガルは、神様に諭されて、アブラハムとサラの許へと帰りました。それから彼女は、身を低くして、主人に仕えました。

やがてイシュマエルが生まれ、アブラハムの跡継ぎとして、育てられます。奴隷としての身分は、変わらないながらも、ハガルは、平和で、安らかな日々を、送っていました。

ところが、それから14年経ったとき、何と、100歳になったアブラハムと、90歳のサラとの間に、男の子イサクが生まれたのです。正統な跡継ぎの誕生です

イサクが生まれると、状況は再び悪化していきます。それが、この21章の背景です。

イサクが乳離れをした時、アブラハムは盛大にお祝いをしました。

ところが、その時、サラは、ハガルが産んだ子イシュマエルが、自分の息子イサクを、からかっているのを見たのです。

サラは怒りました。そして、ハガルとイシュマエルを、追い出すようにと、アブラハムに求めたのです。からかった位で、大げさとも思われます。でも、この「からかった」、と訳されている言葉は、あざ笑うとか、馬鹿にして笑う、という意味の言葉です。

サラは、息子が侮辱されたから、怒ったのでしょうか。サラが怒った原因は、もっと根深いものでした。イシュマエルは、確かにアブラハムの子ですが、奴隷が産んだ子です。

イサクは、正妻サラの息子であり、正統な跡取りです。ですから、やがては、イサクが一家の長となります。その時に、イシュマエルは、イサクの僕と、ならなければなりません。

ですからイシュマエルの行為は、僕として、あってはならないものなのです。

ハガルも、そのように教え、しつけるべきなのです。でも、それをしなかった。

ということは、ハガルが、自分の子も、アブラハムの跡取りの筈だ、と考えているからです。

そうであるなら、イサクの将来にとって、ハガル親子が、大きな問題となる。

サラは、そう感じたのです。ですから、アブラハムに、ハガルとイシュマエルを、追い出すように求めたのです。

サラから、二人を追い出すように、と言われて、アブラハムは「非情に苦しんだ」、と書かれています。アブラハムにとっては、イシュマエルも自分の息子です。しかも、イサクが誕生するまでは、イシュマエルを、跡取りとするつもりでした。ですから、当然、可愛がっていた筈です。そんなイシュマエルを、追い出すのは、本当に辛かったと思います。

そのアブラハムに、神様が言葉を掛けられました。

サラの言う通りにしなさい。しかし私は、イシュマエルをも祝福する。私は、ずっとイシュマエルのことを、見守ってきた。そして、これからも、彼に目を留めていく。だから、心配するな。神様は、そう言われたのです。

「翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した」、と書かれています。アブラハムは、必要最小限の、パンと水だけを持たせて、ハガルとイシュマエルを送り出します。

イシュマエルは、この時まだ十四歳の少年でした。二人は行く当てもなく、荒れ野をさまよいます。とうとうパンも水も、尽きてしまった時、小さな木陰に、イシュマエルは座り込みました。イシュマエルは、渇きのために、死にそうになっていたのです。

ある人はこの箇所を、次のように表現しています。

「最も恐れていたことが起こります。皮袋の水が尽きたのです。喉の渇きを、しきりに訴えていたイシュマエルが、遂にぐったりしてしまっています。

母は子を、潅木の下に寝かせ、矢の届くほどの距離のところに、子どもに向って座ります。

目の前で、我が子が死ぬのを、見るのは到底耐えられない。さりとて子どもを見捨てて、どこに行けよう。狂乱の母の姿、その哀れな心情を、これほど簡潔に、これほど的確に描ける作家が何人あるでしょうか。」

ハガルは、うずくまって、声をあげて泣きました。

涙を流さない人生はありません。人間として、生きている限り、私たちは、涙を流します。

言い尽くせない思いは、涙となって、溢れざるを得ないのです。

人は涙一粒で、さまざまな思いを、表現することができます。

週報の【牧師室より】のコラムでも、涙の重みについて、書かせていただきました。口では語りきれない感情を、涙は表現できるのです。

そして、この涙を、神様は、見ておられました。詩編56編9節で、詩人はこう詠っています。

「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」主は、蓄えていてくださいました。

ハガルが、何度も流した、涙の一粒一粒を、蓄えていてくださいました。

武信正子姉が詠まれた句、「流れ星 神持ち給う 涙壺」。この俳句の通りです。

神様が、涙壺をもって、私たちの涙の一粒一粒を、蓄えていてくださる。武信さんは、その神様のお姿を、信仰の目で、見ておられたのだと思います。

主イエスご自身も、涙を流されました。聖書の中で、主イエスは、少なくとも、三回は泣いておられます。

主は、愛する友ラザロの墓の前で、涙を流されました。愛する友を思う涙が、内からこみ上げてきたのです。

また主は、オリーブ山から、エルサレムを眺めながら、涙を流されました。悔い改めることをしないために、滅びに向っているエルサレム。その姿を見て、悲しみの涙を流されました。

雌鳥が、そのひなを、幾度翼の下に集めようとしたことか、と嘆かれつつ、エルサレムのために、泣かれました。

更に主は、ゲツセマネの園でも、涙しておられます。それは、十字架の苦しみを、受け入れるための涙でした。

「父よ。どうか、この杯を私から取りのけてください」と、涙と共に訴えられました。

このように、泣くことを知っておられた主は、涙するハガルの傍らに、そして私たちの傍らに、立っておられます。ですから、私たちは、このお方に、言葉で表現できない祈りを、涙で訴えることができるのです。主イエスは、その涙を、しっかりと受け止めて、くださいます。

主イエスは、私たちの悲しみ、苦しみを、共に担ってくださり、共に泣いてくださるお方です。

悲しみの人、涙の人ですから、私たちの涙を、拭ってくださることが、できるのです。

少年イシュマエルは、泣いている母を見ました。彼も母と共に、泣きながら祈りました。

そして神様は、その少年の泣き声を聞かれました。

泣いている、母と息子の間に、神様が入って来られました。二人の間に、主イエスが立たれたのです。神様は決して、私たちを、見捨てたりはしません。

神様は、言われます。「恐れなくて良い。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」

この言葉に励まされ、神様に涙を拭って頂いて、ハガルはイシュマエルを抱き締めました。

その時、ハガルの目が開かれ、水のある井戸を、見つけることができました。

そして、二人は、命を取り留め、新しい世界へと、歩み出すことができたのです。

神様は、その後も、イシュマエルと共にいてくださり、その成長を、導いてくださいました。

泣く母がいて、共に涙する子がいる。祈る母がいて、祈られる子がいる。

その間に神様が、主イエスが、立っていてくださるのです。そこに、信仰と希望と愛が、満ちていきます。これが家族なのです。それが、教会という家族なのです。

皆さんは、神様から、見捨てられた、という思いを持ったことが、おありでしょうか。

誰にも、覚えられていない、と感じたことがおありでしょうか。

でも、信じてください。神様は、どんな時にも、私たちを、見守っていてくださいます。

『こころのチキンスープ』 という本に、こんな実話が載っています。

「34歳のスーザンは、突然、視覚を失うという、不幸に見舞われました。スーザンは、一瞬にして、闇と怒りと苛立ちの世界に、突き落とされてしまいます。

夫は、なんとか彼女に、もう一度、力と自信を、取り戻させようと決意します。そして、仕事に復帰できるように、取り計らいます。初めは、夫が彼女を、職場に車で送っていました。

ところが暫くすると、夫はこのままではいけない、と気づいたのです。スーザンは、一人でバスに乗ることを、覚えなければいけない。

でもそのことを、スーザンに伝えると、一人でバスに乗ると考えただけで、スーザンは怒りました。「私は目が見えないのよ!」

そこで、夫は、毎日、朝晩いっしょに、バスに乗ってあげると約束しました。

彼女が、一人で大丈夫と思うまで、必ず一緒に行くと、約束しました。毎朝、二人は一緒にバスで出かけ、それから夫はタクシーで、自分のオフィスに向かいます。

そして二週間後に、スーザンは一人でバスに乗る、と言いました。月曜日、火曜日、水曜日、木曜日……。金曜日の朝、スーザンはいつものように、バスに乗りました。

料金を払って、バスを降りようとしたとき、運転手が言います。「あんたはいいねぇ」。

スーザンは、まさか、自分に言われたのでは、ないだろうと思います。一体誰が、目の見えない女性を、羨むというのでしょう。彼女は、運転手に尋ねます。

「どうして、いいねぇなんて言うんですか」。運転手はこう言いました。「だって、あんたみたいに大切にされて、守られていたら、さぞかし気分がいいだろうと思ってさ」。

「どういう意味なの?」 答えが返ってきました。「ほら、今週ずっと、ハンサムな軍人が、通りの向こうに立って、あんたがバスを降りるのを、見守っていたんだよ。

あんたが無事に、通りを渡って、オフィスの建物に、入っていくのを確かめているんだよ。

それから、彼はあんたにキスを投げ、小さく敬礼をして去っていく。あんたはほんとうにラッキーな女性だよ」

この夫の愛は、感動的です。しかし、私たちは、それに優る愛によって、見守られているのです。神様の愛です。

私たちは、それに気付いていませんが、実は、私たちは、本当にラッキーなのです。

「あんたみたいに、神様に、大切に守られていたら、さぞかし気分がいいだろうね。あんたは本当にラッキーだね」。そう言われて、私たちは、初めて気が付くのです。

皆さん、私たちは、本当にラッキーな存在なのです。「あんたはいいねえ」、と羨ましがれる存在なのです。どうか、そのことに、気付いていただきたいと思います。

ハガルも、気付かされたのです。どんなに孤独な境遇にあっても、神様は見守っていてくださる。私の涙の祈りを、聞いていてくださる。

ハガルは、見守っていてくださる神様に、祈ることのできる幸いを、知らされたのです。

皆さん、私たちも、神様に、祈っていきましょう。悲しい時も、苦しい時も、涙の祈りを、献げていきましょう。

その時、私たちは、主ご自身も、共に涙を流しながら、私たちを、抱きしめていてくださることを、知らされるのです。その主を見上げながら、共に、歩んで行きましょう。