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過去の礼拝説教

「神の偉大な御業を語る」

2018年05月20日 聖書:使徒言行録 2:1~13

皆さん、教会とは、日曜日ごとに、奇跡が起こっている所です。

突然、私が、このようなことを言い出すと、皆さんは、「エー、一体どこに奇跡が起こっているの。柏牧師も、とうとうおかしくなったのではないか」、と思われるかもしれません。

確かに、今、ここで、目に見える形で、超自然的な現象が、起きている訳ではありません。

しかし、毎週日曜日の朝、皆さんは、礼拝に集まって来られます。暑い日も、寒い日も、雨の日も、風の日も、ここに来られます。先ず、そのこと自体が奇跡です。

なぜなら、教会の礼拝に集っても、この世の利益は、何も得られません。或いは、この世の楽しみが、得られる訳でもありません。

また、この世の法律で、礼拝に集わねばならない、という義務がある訳でもありません。

それにもかかわらず、皆さんが集って来られる。

こんなことは、普通は、あり得ません。ですから、これは、一つの奇跡と言えます。

しかし、実は、もっと大きな奇跡が、起こっています。毎聖日の礼拝の中で、天地万物の創造主である、神の言葉が語られ、それが聞かれるという、奇跡が起こっているのです。

今、ここで、まさにこの礼拝の中で、神の言葉が語られ、神の言葉が聞かれているのです。

しかし、語るのは、罪深い一人の人間に過ぎない牧師です。聞くのもまた、神の御心に従うことのできない、罪深い信徒一人一人です。神の言葉を語るのに、相応しくない者が語り、聞く者も、神の言葉を聞くのに、相応しくない者なのです。

それなのに、どうして礼拝で、神の言葉が語られ、神の言葉を聞くことができるのでしょうか。それは、聖霊なる神ご自身が、汚れた牧師の口を通して、語り掛けてくださり、また同じ聖霊なる神様が、聞く人々の心を、開いてくださるからです。

語る牧師に、聖霊が働き、また聞く会衆一人一人にも、聖霊が働く。それによって、毎週の礼拝が成り立っている。これは、聖霊なる神様が、なしてくださる奇跡なのです。

今朝の御言葉、使徒言行録2章は、天から聖霊が降り、教会が誕生した、ペンテコステの出来事を、記しています。教会が、最初の礼拝を献げた日に起こった、奇跡物語です。

しかし、この奇跡は、2千年前に、ただ一度起こったことではありません。

今も、世界中の教会で、日曜日毎に、起こっているのです。私たちはその奇跡を、毎週、体験しているのです。

復活された主イエスは、弟子たちに、言われました。

「間もなくあなたがたに、父が約束してくださった聖霊が降る。それによって、あなたがたは力を受け、私の証人として、全世界へ派遣されていく。」

この主のお言葉に従って、弟子たちは、共に集まって、心を合わせて祈りながら、聖霊の降るのを待っていました。

「聖霊を待つ」ということ。それが、教会が誕生するために、最も大切な準備だったのです。

今朝の御言葉は、待っていた、その聖霊が、弟子たちに降った出来事を語っています。

1節に、「一同が一つになって集まっていると」、と書かれています。

ここで、「一同」と訳されている言葉の原語は、「すべての人」、という言葉です。

この時点で、主イエスの弟子は、全部で120人でした。

1章15節に、「百二十人ほどの人々が一つになっていた」、と書かれています。

この120人の弟子の、「すべての人たち」に、聖霊が降ったのです。

聖霊は、そこにいた弟子たちすべてに、その一人一人に、洩れなく注がれたのです。

十二使徒であるとか、平信徒であるとか、そういう区別はありませんでした。

男か女か、そんな区別もありませんでした。120人全員が、洩れなく、ペンテコステの出来事を体験したのです。全員に、聖霊が注がれることが、必要であったからです。

主イエスを否んだペテロも、疑い迷ったトマスも、裸で逃げた若者も、恐れて部屋に閉じこもっていた弟子たちも、全員が聖霊に満たされたのです。

そして、彼らは、その後、別人のようになって、主の証し人としての、働きを始めました。

ですから、主イエスは、父が約束された、聖霊を受けるまで、「エルサレムから離れるな」、と命じられたのです。

一方では、全世界に「出て行け」、と命じられた主イエスですが、聖霊を待ち望むために、「出て行くな」とも、命じられたのです。聖霊の注ぎなくして、出掛けて行っても、福音宣教の使命を、果たせる筈がないからです。

弟子たちがしたこと。それは、ただひたすら、聖霊を待ち望んで、祈ることでした。

彼らは、エルサレム市内の、ある家に集まって、心を合わせて、ひたすらに祈りました。

そこでの祈りの課題は、ただ一つ。聖霊が注がれますように、ということでした。

どうか、聖霊を注いでください。ただそのことだけを、祈り求めたのです。

それがなければ、彼らは、自分たちだけでは、何もできないことを、知っていたからです。

熱心な祈りが、10日間に亘って、祈り続けられました。

その祈りの中で、当然、悔い改めが、起きたと思います。

主イエスを否んだペテロは、皆の前で、懺悔の祈りを、献げたと思います。

主が栄光を受けられる時、上席を求めたヤコブとヨハネの兄弟も、悔い改めと謝罪の祈りを、献げたと思います。

また、一人一人が、自己中点的な思いを悔い改めて、御心がなりますようにと、心を明け渡して、祈ったと思います。

10日間の祈りの後、ペンテコステの日に、遂に、弟子たちに、聖霊が降りました。

ペンテコステとは、ギリシア語で五十日という意味です。それはこの日が、過越の祭の日から、五十日目であったからです。

五十日目ということで、この日は「五旬祭」とも呼ばれます。この五旬祭は、ユダヤ人が、エルサレム神殿に、巡礼に来なければならない、という三大巡礼祭の一つでもありました。

ですから、この日は、パレスチナだけでなく、地中海沿岸の各地から、離散した大勢のユダヤ人たちが、エルサレムに集まっていました。

では、その日に、そこで、一体何が起ったのでしょうか。

2節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」、とあります。

「激しい風が吹いて来るような音」。それは、聖霊の働きを、表しています。

聖霊が、激しい風のように吹きつけ、弟子たちを立ち上がらせて、前に押し出したのです。

ペンテコステ、聖霊降臨とは、「激しい風」の出来事です。

激しい風が吹く時、向かい風を受けていては、なかなか前に進めません。でも、追い風を受けるなら、楽に前に進めます。

聖霊の追い風を受けたなら、その歩みは、風に運ばれて、大きく前進します。

私たちも、神様と同じ方向を向いているなら、聖霊の追い風に押し出されて、大きく前進できます。でも、神様と逆の方向を向いているなら、風に逆らって進むことになります。

その時は、なかなか進めません。いたずらに力を浪費して、疲れるだけです。

私たちは、神様の指し示す方向に向かって、聖霊の追い風を、体いっぱいに受けて、歩んで行きたいと思います。

3節には、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。

炎は、神様が、人間と関わりを持とうとされる時に、現れるものです。

神様と出会って、関わりを持つ。それは、人間の内面に、心理的変化が起こる、というような、小さなことではありません。炎によって焼き尽くされるような、衝撃的な体験なのです。

神様と真実に出会ったなら、鉄が火で精錬されるように、造り替えられるのです。

モーセは、ホレブの山で、燃える柴の中から、神様の御声を聞きました。

神様は炎の中から、彼に語りかけ、「ここに近づいてはならない」、と言われたのです。

汚れた存在である自分が、これ以上近づいたら、焼き尽くされてしまう。

モーセは、そういう体験の中で、神様と出会い、造り替えられていったのです。

聖霊が降った時に、炎のような舌が、弟子たち一人一人の上に、留まった。この出来事は、神様ご自身が、彼ら一人一人に出会い、働きかけてくださったことを、表しているのです。

そして、同時にそれは、その聖霊の働きが、彼らの内側から生じたのではなく、外から与えられたものであることをも、表しています。

聖霊の風も、そして炎も、私たちの外から働きかけて、私たちを新しくするのです。

では、聖霊の風と、炎によって、新しくされた者は、一体、何をするのでしょうか。

4節には「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」、と書かれています。聖霊に満たされた弟子たちは、「話しだした」、というのです。

聖霊に押し出されての歩みとは、言葉を語る歩みであったのです。

言い換えれば、それは、証しの歩み、伝道の歩み、であったのです。

「舌」という言葉が、用いられていることにも、意味があります。弟子たちに降った聖霊は、彼らに新しい舌、つまり語る力を与えたのです。

「話しだした」とありますが、単に「話しだした」のではありません。

「”霊”が語らせるままに…話しだした」、と書かれています。

自分の力によって、語り出したのではないのです。「霊が語らせるままに」語り出したのです。どこまでも、受け身なのです。聖霊によって、用いられていったのです。

せっかく風が吹いても、自分の力に頼って、何かをやろうとすれば、風に逆らって、向い風を受けてしまう恐れがあります。

私たちは、聖霊の力強い風を、追い風として、受けていけば良いのです。その風が、私たちを、行くべき方向へと、運んでくれます。

弟子たちは、「ほかの国々の言葉」を、語ったと書かれています。

この時、エルサレムには、様々な国から帰って来た、ユダヤ人たちがいました。

その人々が、「自分の故郷の言葉で、使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」、と書かれています。人々は、自分の生まれ故郷の、言葉を聞いたのです。

それは、当時の地中海世界の人々が知っていた、あらゆる国の言葉でした。

それら諸国の、様々な言葉が、弟子たちによって語られたのです。

弟子たちは、特に、語学の素養のある、人たちではありません。皆、ガリラヤの田舎から出て来た、ごく普通の人たちです。

そういう弟子たちが、学んだこともない外国語を、突然しゃべり出すという、奇跡が起ったのです。120人の弟子たちが、様々な国の言葉で、一斉に語り出したのです。

語った言語は、様々に異なっていました。でも、語った内容は、異なっていませんでした。

皆、同じことを、ただ一つのことを、様々な言語で、語ったのです。

彼らが語った、ただ一つのこと。それは、「神の偉大な御業」でした。

神様の救いの御業が、語られたのです。主イエスの十字架と復活が語られたのです。

そこにいた人々は、自分たちの故郷の言葉で、皆、同じことを聞いたのです。神の偉大な御業、主イエスの救いの御業を聞いたのです。

そして、それによって、言葉や文化が違う人々が、一つになりました。

聖霊が降ることによって、人々が、一つとされたのです。主イエスの救いの御業のもとに、一つとされたのです。それが、教会の誕生です。それが、教会のまことの姿なのです。

自己中心的な思いの故に、共に生きることが、できなくなってしまった人間が、神様の救いの御業を聞くときに、様々な違いを越えて、一つにされるのです。

私たちは、先輩たちの語る言葉を聞いて、主イエスを信じて、信仰者になりました。

そして今、私たちが、後に続く人々に、主イエスのことを、証ししています。それを聞いた人々が、更に、その次の世代に、信仰を伝えていきます。

それらの業のすべてに、聖霊が働いてくださっています。聖霊は、語る者にも、聞く者にも、働き掛けるのです。

聖霊が働きかけてくださらなければ、どんなに多くの言葉が語られても、福音は伝わっていきません。信仰は生まれません。

しかし、聖霊が働いてくださるなら、どんな違いも、問題ではありません。

言葉や文化や生活習慣が、どんなに違っていても、その違いを乗り越えて、神様の偉大な御業が、伝わっていきます。教会は、この聖霊の働きによって生まれ、今も歩んでいます。

大切なことは、私たちが、この聖霊の働きが、自分自身の身に起きるようにと、祈り求めていくことです。

私たち自身に、聖霊の風が吹き寄せてくれることを、聖霊の炎が現れてくれることを、真剣に祈り求めていくことです。

私たち一人一人が、それを願い求めて、祈りを合わせていくところに、生き生きとした、教会の交わりが実現します。

私たちは、教会を生み出した、ペンテコステの出来事を、今一度、しっかりと見つめ直したいと思います。そして、その出来事を起こしてくださった聖霊が、私たちにも、豊かに働いてくださることを、もっと真剣に、祈り求めていきたいと思います。

もう一度、1節の御言葉に、心を向けてみたいと思います。「一同が一つになって、集まっていると」、とあります。

これは、1章14節の、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」、という言葉と繋がっています。

また、この後の、4章31節の、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」、という言葉と、重なります。

心を合わせて、熱心に祈る群れが、そこにあったのです。そして、そのような群れに、突然、激しい風が吹き付け、炎が現れ、聖霊に満たされるという、出来事が起ったのです。

その結果、教会が誕生し、教会の業が、世界中に広まっていったのです。

聖霊による教会の一致。それは、祈っている群れに、与えられます。

祈りのある所に、聖霊が降り、教会の一致が、実現するのです。祈りなくして、教会が一つとなることは、ありません。

よく、教会が一つとなれない。教会が、一つとなっていない、という嘆きや、批判を聞きます。

当たり前です。祈っていないからです。

「教会が一つになりますように」と、他人事のように、祈ることはあるでしょう。しかし、それを、自分自身の課題として、真剣に祈っているでしょうか。他人が、変えられることを、祈るのではなく、自分が何をすべきかを、祈りの中で、真剣に尋ねているでしょうか。

そのような、真剣な祈りを、献げることなしに、教会が、自然に一つになる、などと思っていたら、大間違いです。祈りのない所に、一致はありません。

茅ケ崎恵泉教会が、主の前に、一つの群れとして立つか、それとも、バラバラになって崩れるか。それは、実に、私たち、一人一人の祈りに、かかっているのです。

一つになるということは、皆が同じ考えになる、ということではありません。

何を言うにも、何をするにも、皆が同じにならなくてはいけない、ということではありません。

どこかの新興宗教のように、どこを切っても、同じ顔が出てくる、金太郎飴のような教会に、ならなくてはいけない、ということではないのです。

それぞれの個性や、意見の相違が、あっても良いのです。

しかし、皆が、同じ聖霊の注ぎを受け、同じ信仰に立ち、お互いに祈り合うことによって、一つとなる。そのことが、求められているのです。

人間である限り、意見の違いはあるでしょう。しかし、意見の違う人を、排除しようとするのではなく、理解することができるようにと、祈っていくのです。

意見の違う人の存在を、愛をもって、認めることができるようにと、祈っていくのです。

愛せない人を、愛せるように、許せない人を、許せるように、聖霊の助けを、祈り求めていくのです。皆が、そのように、心を合わせて、祈り合っていくなら、この茅ケ崎恵泉教会は、一つとなることができます。

そのように、祈る群れでありたいと思います。その群れに、お一人、お一人が必要なのです。お一人、お一人の祈りが、必要なのです。

お互いに、聖霊の助けと、導きを、心を込めて、祈り求めてまいりましょう。