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柏牧師:過去の礼拝説教

「私たちはどうすれば良いのか」

2018年05月27日 聖書:使徒言行録 2:36~42

先週は、ご一緒に、ペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝を、主に献げました。

ペンテコステは、教会の誕生日です。この日、約束されていた聖霊が、激しい風のように、また炎のように、弟子たちを覆い包み、120人の弟子たち一人一人に、注がれました。

そして、聖霊を受けた120人が、様々な国の言葉で、神様の偉大な御業、主イエスの十字架と復活の出来事を、語りだしたのです。

この出来事に驚いて、エルサレムに巡礼に来ていた、大勢の人々が集まってきました。

その人々を見て、ペトロは、11人の弟子たちと共に立って、大胆に福音を語りました。

今朝の御言葉の37節は、こう記しています。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』、と言った。」

人々は、ペトロの説教を聞いて、「私たちは、このままではいけない。変わらなければいけない」、という思いに、迫られたのです。そして、この日に、三千人もの人々が、主イエスを信じて、洗礼を受けました。こうして教会が誕生したのです。

一体、ペトロは、どのような説教をしたのでしょうか。この時のペトロの説教が、2章14節から36節に書かれています。

その最後の36節、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

この言葉は、ペトロの説教の要約です。ここには、イスラエルの人々の、重大な罪が、指摘されています。主イエスを十字架につけて、殺した罪です。

主イエスこそ、神様が、私たちのために遣わされた、かけがえのない救い主であったのに、あなたがたは、その救い主を受け入れずに、何と十字架につけて、殺してしまったのです。ペトロは、そう語ったのです。この言葉は、人々の心を激しく揺り動かしました。

しかし皆さん、これは、イスラエルの人たちだけの罪でしょうか。救い主を、十字架につけて、殺してしまったのは、イスラエルの人たちだけなのでしょうか。

主イエスは、私たち全ての者の罪を、代って負ってくださり、私たち一人一人の身代わりとして、十字架にかかってくださったのではないでしょうか。主イエスを、十字架に追いやったのは、私たち一人一人ではなかったでしょうか。

そうであれば、もし、ペトロが、今、ここに顕れたなら、きっと、こう言うと思います。

「だから、茅ヶ崎恵泉教会の全会員は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

この時、ペトロの説教を聞いた、エルサレムの人たちは、自分たちが、そのように大きな罪を犯してしまった、ということを示され、愕然として尋ねました。

「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。

あぁ、どうしよう。取り返しのつかないことをしてしまった。でも、今からでも、何とかして、少しでも、償いたい。そのためには、どうすれば良いのか。

人々は、そのような思いに、迫られたのです。「わたしたちはどうしたらよいのですか」。

これは、私たち一人一人も、尋ねなければならない、問いだと思います。

聖霊が、私たちの心の奥底を、深く探る時、私たちは、自分の罪を示されて、愕然とします。

その時、「私はどうしたらよいのか」、という真剣な問いが生まれます。

私の恩師であった原登先生は、17歳の時に、突然のように、神様の恵みに覆われ、救いの喜びが、大波のように、心に押し寄せる体験をされたそうです。

そして、自分の汚れを、徹底的に示され、このままではいけない、変わらなければならない、と迫られたそうです。献身を決意した先生は、その前に、自分の罪の総決算をしようと思いました。想い起してみると、一度だけ、不正乗車をしたことがあったそうです。

その時は、バレなくて良かった、儲かった、と思ったのですが、そのことが、心に重くのしかかってきました。17歳の原登青年は、不正をした電車賃を握り締めて、駅に行き、駅員さんに謝罪し、お金を返そうとしました。

駅員さんは、その姿を見て、微笑んで、一旦お金を受け取り、「これは正直に告白したご褒美」と言って、そのお金を、原青年に渡してくれたそうです。

その時、原青年は、罪から解放された、という大きな喜びと平安に、覆い包まれたそうです。

この体験は、原先生の信仰の、原点となりました。

罪の自覚と、そこからの解き放ち。これが、信仰者原登が、誕生した瞬間でした。

ペンテコステは、教会の誕生日ですが、教会の誕生も、罪の自覚から始まりました。

「わたしたちはどうしたらよいのですか」。この真剣な問いから、教会がスタートしました。

人々は、ペトロの説教を聞いて、大いに心を打たれた、とあります。

「大いに心を打たれた」。この訳は、少し弱いと思います。原語は「刺す」という意味です。

以前の聖書は、「強く心を刺された」と訳していました。この方が、原文に近いのです。

人々は、心に刃物を、グサッと差し込まれたような、鋭い痛みを感じたのです。

「私たちはどうしたらよいのですか」。 この問いは、その痛みの中から、発せられたのです。ペトロの説教は、人々の心を刺し貫き、今のままではいけない、変わらなくてはいけない、という思いに、駆り立てたのです。

しかし、それは、ただ単に、人々の罪を、指摘しただけでは、ありませんでした。

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

あなた方は、イエスを十字架につけて殺した。しかし、父なる神様は、そのイエスを復活させられて、私たちに、救いの道を、開いてくださったのだ。ペトロは、そう語ったのです。

この言葉には、人々の罪さえも用いられて、救いの御業を成し遂げてくださった、神様の恵みが示されています。

ここでは、罪が指摘されています。しかし同時に、その罪からの救いと赦しも、語られているのです。だからこそ、聞いた人々は、深く心を打たれたのです。

「お前は、ダメだ、ダメだ」、とばかり言われたなら、「どうせ私はダメな人間だよ。ほっといてくれ」、と反抗したくなります。

神様の御言葉は、人間の罪を暴きたて、打ちのめすために、語られるのではありません。

確かに、罪は厳しく指摘されています。しかし、その罪は、主イエスが、代わって負ってくださり、十字架に死んでくださったことによって、既に贖われ、赦されているのです。

神様の恵みが、人間の罪に、勝利しているのです。御言葉は、そのことを告げるのです。

この恵みが、人々の心を刺し貫き、揺さぶったのです。

そして、自分は、このままでいてはいけない、変わらなければならない、いえ、何とかして変えられたい、と切に願うように、導かれたのです。

ですから、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いは、前向きな生き方を、探し求める問いなのです。

この問いに対してペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と答えました。

ペトロは、まず、「悔い改めなさい」、と言っています。

神様が遣わされた、救い主イエス様を、十字架につけて殺してしまった。そのとんでもない罪を、まず悔い改めることが、求められているのです。

しかし、大切なことは、そのように悔い改めることによって、罪が赦される、とは語られていないことです。「悔い改めなさい」に続いて、「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」、と語られています。

この言葉は、罪の赦しとは、自分で獲得するものではなく、外から与えられるものだ、ということを言っています。悔い改めることで、罪の問題が、解決するのではないのです。

私たちの努力や、行いによって、罪の赦しが、得られる訳ではないのです。罪の赦しは、外から与えられるものなのです。自分の努力で、獲得できるものではありません。

罪は、相手が「赦す」と言わない限り、いくらこちら側が、罪を悔いても、解決しません。

私たちが犯す罪は、究極的には、すべて神様に対する罪です。

ですから、神様が、「赦す」と言ってくださらない限り、罪は赦されることはないのです。

罪の赦し。それを与えることができるのは、神様のみです。

主イエスの名によって、洗礼を受けることは、この神様による、罪の赦しを頂くことです。

主イエスは、私たちの罪を背負って、十字架にかかって、死んでくださいました。

この主イエスの十字架において、私たちの罪の赦しが、実現しています。

主イエスの名による洗礼は、私たちが、十字架による罪の赦しと、復活による新しい命を、いただくためのものなのです。古い罪の体が死んで、新しい自分が誕生するのです。

ただ、間違って頂きたくないのですが、洗礼という儀式、そのものが、罪の赦しを実現する訳ではありません。

罪の赦しは、主イエスの十字架の贖いによって、与えられるのです。そのことを、確かなものとして握り締める、霊的な出来事、それが洗礼なのです。

ペトロは更に続けて言っています。「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。

洗礼を受け、罪の赦しの霊的な確証を頂いた者は、聖霊を賜物として受けるというのです。

それは、何か特別な霊的な力を、得ることではありません。教会に加えられることです。

「悔い改めて、イエス・キリストの名による洗礼を受けなさい」、という勧めは、教会への招きなのです。洗礼を受け、罪を赦していただくことによって、私たちは、キリストの体である、教会の一員となるのです。

御言葉に心を打たれた者は、悔い改めて、洗礼を受け、教会に加えられて歩むのです。

ペトロの言葉は、まだ続きます。「この救いの約束は、あなた方にも、あなた方の子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が、招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。

主が招いてくださる者には、誰にでも、救いの約束が与えられる。私たちも、その主に招かれている、というのです。

私たちは、エルサレムから遠く離れた、日本という異教の地にいます。

私たちが、生きている時代は、主イエスの時代から、二千年も経っています。

まさに私たちは、「遠くにいるすべての人」、に当たります。しかし、主は、その私たちをも、救いの恵みへと、招いてくださっているのです。救いの根拠とは、この主の招きです。

私たちが、救いに与ることができるのは、神様が、招いてくださっているからです。

ですから、「わたしたちはどうしたらよいのですか」、という問いへの答え。

それは、「神様の招きに応えて、それを受けなさい」、ということなのです。

神様の招きに応えて、それを受けること。そこから、新しい歩みが、始まるのです。

41節には、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」とあります。

ペトロの言葉を、受け入れた人々は、主の招きに応えて、洗礼を受けたのです。

自分は招かれるのに、相応しいと、思った訳ではありません。

救い主を、十字架につけて、殺してしまった。とりかえしのつかない罪を、指摘されて、愕然とした人たちなのです。

しかし神様が、そんな自分をも、赦してくださり、新しい命の恵みへと、招いてくださっている。その招きの言葉を受け入れ、感謝して、それに応えたのです。

洗礼を受けるとは、そういうことです。

ところで、以前、教会で、こういう女性に、出会ったことがあります。

その方は、ずっと教会に通っているけれど、洗礼は受ける必要がない、と言っていました。

「私は、心の中で、神様はいると信じているし、イエス様が救ってくださったと信じている。

だから、わざわざ洗礼を受ける意味が、分からない。そういう儀式をしなくても、ちゃんと信じているから、それでいいと思っている」。その方は、そう言われたのです。

しかし、「心の中で信じている」、ということに、どれだけの確かさが、あるのでしょうか。

心の状態が変化したら、信じられなくなって、しまうかも知れません。試練の嵐に遭う時、それでも、心の中で、神様の恵みを、信じ続けることが、出来るでしょうか。

信仰とは、自分の力で、「私はこの神様を信じよう」、と心の内に決めることではありません。

救いは、私たちの、外から来るものなのです。救いを信じる、ということは、心の中の決意ではなく、外からの恵みを、受け取るということなのです。

そして、主イエスに、すべてを委ねる、ということです。洗礼を受けるということは、自分が一大決心をする、ということではなくて、神様の招きを、受け入れる、ということなのです。

救いの確証は、一度与えられたら、永遠に消えることはありません。

宗教改革者のマルティン・ルターは、疑いにさいなまれ、暗闇に飲み込まれそうになった時、額に手を当てて、自分に言い聞かせたそうです。

「静まれ、マルティン。お前は洗礼を受けているではないか。」

神様から与えられた、洗礼という、確かな救いのしるしが、自分に刻まれている。

その恵みの事実は、決して消えない。ルターは、 そこに、望みを繋いだのです。

皆さん、私たちも、試練に遭って、不安と疑いの闇に、落ち込んだ時には、自分に言い聞かせたいと思います。「静まれ。お前は洗礼を受けているではないか。」

どのような試練の時も、どんなに弱ってしまった時も、キリストを信じる者は、いつもこの洗礼の恵みに、立ち帰ることが出来ます。自分は、罪赦されて、神様のものとされている。

このことに、固く立つことができるのです。

ペンテコステの日に、そのようにして、洗礼を受け、教会の仲間に加わった人は、三千人ほどであったと、書かれています。奇跡のような出来事です。

今、日本のキリスト教界、特に、日本キリスト教団には、重苦しい閉塞感が漂っています。

教勢は衰退の一途を辿り、信徒の高齢化が進む一方で、若い人たちは、教会に来てくれません。クリスチャン人口1%。この厚い壁を、どうしても破れずにいます。

そういう状況を思う時、このペンテコステの日のように、一度に三千人の人が救われる、という出来事が起これば、どんなに素晴らしいか、と思わされます。

一度に、多くの人が救われることを、リバイバルと言います。

かなり前から、「日本にリバイバルを」、という叫びが、各地で上げられ続けてきました。

しかし、リバイバルは、未だに起こっていません。

どうしてでしょうか。リバイバルが、いつか、どこかで、突然起こることを、他人事のように、期待しているだけだからです。

ペンテコステの日に、一度に三千人の人が洗礼を受けた。それと同じことを、漠然と期待しているだけだからです。しかし、実は、この日のリバイバルは、一度に三千人の人が洗礼を受けた、ということではありません。

そうではなくて、120人の弟子たちに、聖霊が注がれて、立ち上がったことなのです。

それが、リバイバルなのです。三千人は、その結果に過ぎません。

本当のリバイバルとは、120人が本物になったことです。

120人が本物になって、立ち上がった。その結果、三千人が救われたのです。

そうであれば、日本のリバイバルも、1%が本物になることで、なし遂げられます。

まず1%が、本物になること。それが、求められているのです。

今、この教会の礼拝には、120人の半分くらいの人が、集まっています。もし、私たちが、本物になるなら、三千人の半分の1500人の人たちが、集まる教会になります。

ペンテコステの日に生まれた教会は、激しい風のような、そして炎のような聖霊の取り扱いを受けて、力強く立ち上がり、御言葉を語りました。

そして、その声を聞いた人たち、三千人が洗礼を受けました。

皆さんは、この教会を、愛しておられるでしょうか。勿論、愛しておられると思います。

この教会の将来のことを、祈っておられるでしょうか。勿論、祈っておられると思います。

そうであるなら、立ち上がりましょう。120人が本物になって立ち上がったように、私たちも本物とされて、立ち上がりましょう。

この教会が、私たちにも、私たちの子供たちにも、孫たちにも、遠くにいるすべての人にも、神様の招きの場となるように、心を合わせて祈って、立ち上がりましょう。

神様は、必ず、私たちの祈りに、応えてくださいます。